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2022年1月22日土曜日

過去の政治理論を理解するには、その理論を支えている基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題を、想像的洞察力によって解明する必要がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論の理解

過去の政治理論を理解するには、その理論を支えている基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題を、想像的洞察力によって解明する必要がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題
 想像的洞察力によって、以下を理解しなければ、政治理論を理解できない。
 (a)意識的あるいは無意識的に諸種の見解を支配しているモデル、範例、概念構成を理解すること。
 (b)いかなる人間観が織り込まれているか理解すること。あるいは、特定の要素が人間観から欠如しているかを理解すること。
 (c)人間の思想や行動を理解することは、人間がどんな問題、難問題と取り組んでいる かを理解することだ。
 (i)これらの諸問題が、古くから今日まで広く認められ た問題なら、その支配的なカテゴ リーにはっきりと言及しなくとも、理解することができるだろう。
 (ii)政治理論ではよくあるように、そうでない場合には、人間観、モデルの理解が必要となる。
 (iii)今日では廃棄され、すたれてしまったモデルに支配されていたひとびとの精神状態にわが身を置いてみる だけの想像力と知識がなければ、それを中心にしていた思想と行動とはわれわれには不分明な ままにとどまるだろう。

(2)道徳理論、社会理論、政治理論
 個人の問題だけに局限すれば道徳理論、集団の問題に限定すれば社会理論、あるいは政治的と分類される特別の人間配置の諸類型の問題に限定すれば政治理論である。

(3)例として国家とは何か
 (i)国家は我々の罪のためにのみ与えられたものだ。
 (ii)国家は我々が大人 になり自由になってそれなしで済ませるようになるために通過しなければならない学校のようなものだ。
 (iii)国家は一箇の芸術作品だ。
 (iv)功利的に考案された装置だ。
 (v)自然法の具体的現実化である。
 (vi)支配階級の委員会である。
 (vii)自己展開する人類の精神の最高の段階である。
 (viii)ひとつの犯罪的な愚行である。
 (ix)国家は神聖なものだ。

「意識的あるいは無意識的にそれら諸種の見解を支配しているモデル、範例、概念構成を検 討し、そこに含まれているさまざまな概念やカテゴリーを、たとえばその内的首尾一貫性とか 説明能力といった点について比較するならば、そこでやっていることは心理学でも、社会学で も、論理学でも、認識論でもなく、われわれが個人の問題だけに局限するか、あるいは集団の 問題に限定するか、あるいは政治的と分類される特別の人間配置の諸類型の問題に限定する か、またはそれら全部を同時に取り扱うかによって、道徳理論、あるいは社会理論、あるいは 政治理論、または同時にその全部であるわけである。いかに多くの綿密な経験的観察や大胆で 実り豊かな仮説を以てしても、国家を神聖な制度だとするひとびとがなにを見ているのか、か れらの言葉がなにを意味し、現実とどのように関係するのかを説明してはくれないだろう。ま た、国家はわれわれの罪のためにのみ与えられたのだというひとたち、国家はわれわれが大人 になり自由になって、それなしですませるようになるために通過しなければならない学校のよ うなものだというひとたち、あるいは国家は一箇の芸術作品だといい、いやそれは功利的に考 案された装置だといい、また自然法の具体的現実化であるといい、さらに支配階級の委員会で ある、自己展開する人類の精神の最高の段階である、ひとつの犯罪的な愚行である、等々というひとたちが、いったいそれでなにを考えているのかを説明してはくれないであろう。もしわ れわれが、これらの政治的見解のうちにいかなる人間観(あるいはその欠如)が織り込まれて いるか、またそれぞれにおいて支配的なモデルはなんであるかということを理解する(ふつう 小説家たちが論理学者たちよりも高度にもっているような想像的洞察力によって)のでなけれ ば、われわれは自分たちの社会、いやおよそいかなる人間社会をも理解することはないであろ う。またストア派やトマス主義者たちを支配していた、あるいは今日のヨーロッパのキリスト 教的民主主義者たちを支配している理性観や自然観、またアジア・アフリカにおける国家的・ マルクス主義的運動を前進させつつある、あるいはやがて前進せしめるであろうところの神聖 なる戦いの核心にあるまるきりちがったイメージ、また西洋の自由主義的・民主主義的妥協に 生命を吹きこんでいるこれまたちがったイメージ、そのいずれをも理解することはないであろ う。  人間の思想や行動を理解することは、大部分、人間がどんな問題、難問題と取り組んでいる かを理解することだとは、今日ではもう言うまでもないような陳腐な言である。経験的であれ 形式的であれ、これらの諸問題が、今日まで用いられているほどに、古くから、広く認められ た、安定した現実のモデルによって考えられているならば、われわれはその支配的なカテゴ リーにはっきりと言及しなくとも、その問題、難点、解決の試みを理解することができる。と いうのは、これらのカテゴリーはわれわれおよび過去の諸文化に共通のものであって、表面に 出しゃばってこず、いわば見えないところにひそんでいるからである。そうでない場合(そし てこれが政治についてとくに当てはまるのだが)、モデルはおとなしく引っ込んでいない。そ れを構成するいくつかの概念はもはやなじみのものではないからである。しかし、今日では廃 棄され、すたれてしまったモデルに支配されていたひとびとの精神状態にわが身を置いてみる だけの想像力と知識がなければ、それを中心にしていた思想と行動とはわれわれには不分明な ままにとどまるだろう。この困難な操作を行わないことが、多くの思想史の特色となってお り、思想史を表面的な文献的訓練か、あるいは奇妙な、時としてはほとんど理解しがたい誤謬 や混乱の死せるカタログか、のいずれかにしてしまっているのである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.503-505,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)







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