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2019年8月20日火曜日

「善には善を」は、正義の原理である。なぜなら、恩恵に対する返礼は、自然で合理的な期待であり、それを裏切ることは、救済が正当化されるような重大な危害を与えるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

善には善を

【「善には善を」は、正義の原理である。なぜなら、恩恵に対する返礼は、自然で合理的な期待であり、それを裏切ることは、救済が正当化されるような重大な危害を与えるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.3)へ追記。

 (2.4)正義と便宜や機略の間には、本質的な違いがある。
   正義と、便宜や機略との違い。(a)強い拘束性、(b)互いに危害を与えることの禁止、(c)危害を受けることへの恐れ、(d)規則を互いに認識することの利益、(e)違反の影響の大きさ、(f)報復の感情を伴う(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)強い拘束性
  「全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則」という性格が、正義に、便宜や機略を超える神聖性と強い拘束力を与えている。従って、正義が満足されてからはじめて、便宜や機略は傾聴されるべきである。
  (b)互いに危害を与えることの禁止
   正義は、人類が互いに危害を与えることを禁じる規則を含んでいるが、この規則は、人生の指針となる他のあらゆる規則よりも、人間の福利にとって不可欠なものである。
   (b.1)直接的で不当な侵害行為
   (b.2)自由への不当な干渉
   (b.3)自然的あるいは社会的に理にかなった根拠に基づいて、人が見込んでいる何らかの善を、その人に与えないこと。
    (b.3.1)恩恵を受けた人は、その恩恵に対して返礼することが、自然で合理的なこととして期待されている。すなわち「善には善を」は習慣的に、十分に確信され信頼されている原理である。
    (b.3.2)相手が必要としているときに、恩恵に対する返礼を拒否することは、合理的な期待を裏切ることであり、相手に重大な危害を与える。
    (b.3.3)事例として、友情に背いたり、約束を破ったりすることは、重大な危害を与える。
  (c)危害を受けることへの恐れ
   人は、他者から恩恵を受けることは必ずしも必要としないかもしれないが、他者が自分に危害を及ぼさないことはつねに必要としている。
  (d)規則を互いに認識することの利益
   正義の規則は、他の人に互いに教えあい、認識させることが必要で、明白な利益がある規則であると、最も強く感じられている規則である。
  (e)違反の影響の大きさ
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、もし正義の規則が遵守されることがないならば、各人が他の全ての人を敵とみなして、絶え間なく自分の身を守り続けなければならなくなるだろう。
  (f)報復の感情を伴う
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、悪には悪をという報復の感情が、正義の感情と結びつくようになる。この感情は、自己を守るという衝動、他の人を守るという衝動、復讐の衝動を基礎に持つと思われる。

 「善には善をというのも正義の命じていることである。そして、その社会的功利性は明らかであり、それは自然な人間の感情を伴っているが、これは一見したところ、正義・不正義のもっとも基本的な事例において存在し、正義の感情に特有の激しさの源泉となっている、危害や侵害とのはっきりとした結びつきをもっていない。しかし、この結びつきは明白でないけれども実在していないわけではない。恩恵を受けながら、必要とされているときにその恩恵に対して返礼をすることを拒否する人は、もっとも自然で理にかなっている期待のうちの一つを裏切ることによって、そしてその人が少なくとも暗黙的には抱くように仕向け、それがなければ恩恵がもたらされることはまずなかったと思われるような期待を裏切ることによって、実際に危害を与えている。人による害悪や不正のなかで期待を裏切ることが重要な地位を占めていることは、それが友情に背いたり約束を破ったりするという二つのきわめて不道徳な行為の主要な違反要件になっているという事実に示されている。習慣的に、また十分に確信して信頼しているものに必要としているときに裏切られることほど、人が受けうる危害が重大なものはほとんどないし、これ以上の大きな危害を受けるものはない。このように善を与えないだけのことであるが、これ以上に重大な不正はほとんどないし、これ以上に被害を受けた人や共感を抱いている傍観者に憤りを感じさせるものはない。したがって、各人にふさわしいものを与える、つまり悪には悪を与えるとともに善には善を与えるという原則は、私たちが定義した正義の観念に含まれているだけでなく、人を評価する際に正義を単なる便宜性よりも重視させる、あの激しい感情の適切な対象にもなる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.340-343,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:善には善を,正義の原理,合理的な期待,恩恵に対する返礼)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月18日日曜日

正義と、便宜や機略との違い。(a)強い拘束性、(b)互いに危害を与えることの禁止、(c)危害を受けることへの恐れ、(d)規則を互いに認識することの利益、(e)違反の影響の大きさ、(f)報復の感情を伴う(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

正義と、便宜や機略

【正義と、便宜や機略との違い。(a)強い拘束性、(b)互いに危害を与えることの禁止、(c)危害を受けることへの恐れ、(d)規則を互いに認識することの利益、(e)違反の影響の大きさ、(f)報復の感情を伴う(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2)正義の原理
  「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (2.1)行為の規則
  (a)行為の規則は、全ての人に共通である。
   カントの道徳の根本原理「その行為の規則が、すべての理性的存在によって法として採用されるように行為せよ」も、同じことを主張している。
  (b)行為の規則は、全ての人にとっての善を目的としたものである。
   仮に、規則が「行為者の善のみを目的とせよ」という完全に利己的なものであったとしたら、この規則は、すべての理性的存在によって採用されるという要請とは矛盾するだろう。
  (c)自分自身や、自分が共感している人びとに限定されることなく、全ての人びとに広げられている。
 (2.2)行為の規則を是認する感情
  (a)行為の規則を犯した人に、処罰を与えてよいという欲求がある。
  (b)行為の規則に違反することによって、被害を被る特定の人がいるという認識を伴う。
  (c)仮に、自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害であっても、まず、全ての人にとっての善という目的に適っているかどうかが判断される。
  (d)逆、自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害がない場合でも、社会全体に対する危害に対して憤慨の感情が生じる。
 (2.3)「権利」とは何か。
  (a)自分か他者かは問わず、自分が共感している人びとか否かを問わず、行為の規則を犯した人によって加えられた被害に対して、規則を犯した人を処罰し、被害者を救済することが、社会に対して正当に請求できるとき、被害者は「権利」を保持しており、その権利を侵害されていると表現する。
  (b)仮に、何らかの原因により特定の人が被害を被っていても、社会がその人に何の措置も講じる必要はなく、彼を運命や自らの努力に委ねるべきであるということが認められれば、彼に「権利」はない。

 (2.4)正義と便宜や機略の間には、本質的な違いがある。
   「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)強い拘束性
  「全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則」という性格が、正義に、便宜や機略を超える神聖性と強い拘束力を与えている。従って、正義が満足されてからはじめて、便宜や機略は傾聴されるべきである。
  (b)互いに危害を与えることの禁止
   正義は、人類が互いに危害を与えることを禁じる規則を含んでいるが、この規則は、人生の指針となる他のあらゆる規則よりも、人間の福利にとって不可欠なものである。
   (b.1)直接的で不当な侵害行為
   (b.2)自由への不当な干渉
   (b.3)自然的あるいは社会的に理にかなった根拠に基づいて人が見込んでいる何らかの善を、その人に与えないこと
  (c)危害を受けることへの恐れ
   人は、他者から恩恵を受けることは必ずしも必要としないかもしれないが、他者が自分に危害を及ぼさないことはつねに必要としている。
  (d)規則を互いに認識することの利益
   正義の規則は、他の人に互いに教えあい、認識させることが必要で、明白な利益がある規則であると、最も強く感じられている規則である。
  (e)違反の影響の大きさ
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、もし正義の規則が遵守されることがないならば、各人が他の全ての人を敵とみなして、絶え間なく自分の身を守り続けなければならなくなるだろう。
  (f)報復の感情を伴う
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、悪には悪をという報復の感情が、正義の感情と結びつくようになる。この感情は、自己を守るという衝動、他の人を守るという衝動、復讐の衝動を基礎に持つと思われる。

 「正義と便宜の間の違いは想像上の区別にすぎないのだろうか。正義は機略(policy)よりも神聖なものであり、正義が満足されてからはじめて機略は傾聴されるべきであると考えたのは、妄想にとりつかれていたということなのだろうか。

けっしてそうではない。私たちが正義の感情の性質や起源についておこなった説明によって真の区別がはっきりと示されている。

行為の帰結をその道徳性の一要素とすることにひどい軽蔑を示す人のなかに、私以上にこの区別を重要視している人はいない。

私は功利性に基礎づけられていない空想的な正義の基準を打ち立てているあらゆる理論の主張に対して異議を唱えるが、功利性に基礎づけられた正義があらゆる道徳の主要部分であり、飛びぬけて神聖で拘束力の強い部分であるとみなしている。

正義とはある種の道徳規則に対する名称であり、それは人生の指針となる他のあらゆる規則よりも人間の福利にとって不可欠なものにより緊密に関わるものであり、それゆえにより絶対的な拘束力をもっている。

私たちが正義の観念にとって本質的であるとみなした考え、つまり個人に属している権利という観念は、このより強い拘束力をもった責務を含意し、それを立証しているのである。

 人類が互いに危害を与えることを禁じている道徳規則(互いの自由への不当な干渉を禁じることがこのなかに含まれていることを忘れてはいけない)は、人間の福利にとって他のあらゆる格率よりも重要であり、他の格率はどれほど大切だとしても、人間事象のいくつかの部門をうまく扱うための最良の方法を明らかにしているにすぎない。

これらの道徳規則は人類の社会的感情の全体を左右する主要な要因であるという特性ももっている。

人類がこれらの規則を遵守することによってのみ、人々の間で平和が保たれる。もしこれらを遵守することが決まりごとではなく、遵守違反が例外的ではないとしたら、各人が他のすべての人を敵とみなし、絶え間なく自分の身を守り続けなければならなくなるだろう。

同じように重要なのは、これらの規則は、人類が他の人に対してこれらを認識させることにもっとも強く直接的な誘因をもった指針であるということである。

人々は慎重に指針や勧告を互いに与え合うだけでは、何も得ないか、何も得ないだろうと考える。人々は積極的な善行の務めを互いに教えあうことに明白な利益を持っているが、その程度はきわめて小さい。

人は他者から恩恵を受けることは必ずしも必要としないかもしれないが、他者が自分に危害を及ぼさないことはつねに必要としている。

このように、他者から直接的に危害を被るにせよ、自らの善を追求する自由を妨げられることによって被る危害にせよ、他者から危害を受けないように個々人を保護している道徳は、人がもっとも心から気にかけているものであると同時に、言葉や行動によって示し実行することにもっとも強い関心を抱いているものでもある。

この道徳を遵守するかどうかによって、人は人類という共同体の一員として生きていくのがふさわしいかどうかが試され判断される。というのは、人が関係をもつ人にとって厄介者になるかそうならないかはこのこと次第だからである。

だから、正義の責務を構成しているのは主としてこれらの道徳である。

もっとも際立った不正義の事例であり、この感情を特徴づけている反感の論調を決めている事例は、人に対する不当な侵害行為や不当な権力の行使である。これに続く事例は、人が受け取るべきものをその人に不当に与えないでおくことである。

どちらの事例においても、直接的な苦痛という形によるか、自然的あるいは社会的に理にかなった根拠に基づいて人が見込んでいる何らかの善をその人に与えないという形によるかして、積極的な危害が人に対して加えられている。

 これらの主要な道徳を指令するのと同じような強い動機が、これらに違反した人を処罰することを要求する。

そして、それらの動機はすべて、自己を守るという衝動や他の人を守るという衝動、復讐の衝動として違反者に向けて呼びおこされるので、悪には悪をという報復は正義の感情と強く結びつくようになり、正義の観念のなかに一般的に含まれるようになる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.337-340,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:正義,便宜や機略,正義の拘束性,危害,報復の感情)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月10日土曜日

妥当な報酬額を決めるために、(a)社会に対する貢献度、(b)偶然的な出来事の影響、(c)人の有能さの由来、(d)社会の果たすべき役割の諸原理があるが、さらに(e)全ての人の幸福を目的とした正義の原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

個人の才能や技能と、妥当な報酬

【妥当な報酬額を決めるために、(a)社会に対する貢献度、(b)偶然的な出来事の影響、(c)人の有能さの由来、(d)社会の果たすべき役割の諸原理があるが、さらに(e)全ての人の幸福を目的とした正義の原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 (3.5)個人の才能や技能と、妥当な報酬
  (a)社会に対する貢献度
   (a.1)社会は、より有能な労働者から多くを得ている。共同の成果のうち大きな割合は、実際には有能な人の労力によるものである。
   (a.2)しかし、共同の成果のうち、性質の異なる様々な労力の成果を、どのようにすれば正当に評価することができるだろうか。
  (b)偶然的な出来事の影響
   (b.1)偶然的な出来事や幸運から、ある人は大きな成果を上げ、他の人は、自らは何の過ちも犯していないのに、成果が上げられなかったとしたら、どうだろう。全力を尽くす人は、誰であっても同じ報酬を受けるに値するのではないだろうか。
   (b.2)生まれながらに、様々な資質を持った人びとがいる。ある人は、生まれ落ちた時代と社会において大きく評価される資質を持っており、他の人はそのようなものを持っていない。また、ある人は特定の能力を欠いて生まれてくる場合もある。
  (c)人の有能さの由来
   そもそも有能な人も、その有能さを社会から与えられたというのが事実である。生まれ落ちた家庭の環境、与えられた教育と社会的環境が、その人の有能さを育んだ。この意味で、個人の有能さは個人の努力の成果というだけではなく、同時に社会的環境の成果物でもある。
  (d)社会の果たすべき役割
   (d.1)有能な人の貢献が社会にとって有用だとしたら、社会はその人に対してより多くの報酬を与える義務を負っているのではないか。
   (d.2)優れた能力をもっている人は、賞賛されたり、個人的影響力を行使したり、それに伴う内的な満足感の源泉を持っていることによって、すでに十分すぎるほどに利益を得ている。社会がするべきなのは、このような不相応な不平等をより悪化させることではなく、才能に恵まれていない人に対してこの不平等について補償してあげることである。
  (e)個別原理を超える妥当性は、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「共同体的な産業アソシエーションにおいて、才能や技能をもつ人はより多くの報酬を得る権利があるというのは正義なのだろうか、そうでないのだろうか。

この問題を否定的に考える側は、全力を尽くす人は誰であっても同じ報酬を受けるに値するし、自らは何の過ちを犯していないのに低い立場におかれることは正義ではないと論じている。

そして、優れた能力をもっている人は、世俗的な財貨についてより多くの分け前を受け取ることはなくても、賞賛されたり、個人的影響力を行使したり、それに伴う内的な満足感の源泉をもっていることによってすでに十分すぎるほどに利益を得ているし、正義のために社会がするべきなのは、このような不相応な不平等をより悪化させることではなく、才能に恵まれていない人に対してこの不平等について補償してあげることであると論じている。

これに反対する側は次のように強く主張している。社会はより有能な労働者から多くを得ている。そのような人の貢献が有用だとしたら社会はその人に対してより多くの報酬を与える義務を負っている。

共同の成果のうち大きな割合は実際にはその人の労力によるものであって、それに対するその人の権利を認めないのは一種の略奪である。

その人が他の人と同じ報酬を受け取れないとしたら、その人は他の人と同じくらいの生産を行うことしか求められず、その人の優れた能力に比べてみればわずかの時間と労力を割くことしか求められないことになる。

誰がこれらの相反する正義の原理への訴えの間で評決を下せるだろうか。この事例では正義は二つの側面をもっていて、それは調和させることのできないものである。

双方の論者はそれぞれ相対する側を選び取っており、一方は個人が何を受け取ることが正義なのかに関心を向け、他方は共同体が何を与えることが正義なのかに関心を向けている。

いずれもそれぞれの視点からは反論の余地はない。正義を考慮しながらそれらのうちいずれかを選んだとしても、それはまったく恣意的なものにならざるをえない。社会的功利性だけが優劣を決めることができる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.335-336,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))

(索引:妥当な報酬,個人の才能や技能,社会に対する貢献度,偶然的な出来事)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月9日金曜日

犯罪行為の処罰の程度を決めるには、(a)処罰と道徳的罪悪との釣り合いを取るという原理と、(b)犯罪抑止の原理があるが、さらに(c)犯罪者、被害者を含めた全ての人の幸福を目的とした正義の原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

量刑の原理、犯罪抑止の原理

【犯罪行為の処罰の程度を決めるには、(a)処罰と道徳的罪悪との釣り合いを取るという原理と、(b)犯罪抑止の原理があるが、さらに(c)犯罪者、被害者を含めた全ての人の幸福を目的とした正義の原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.4)追加。

(3)事例。
  正義の原理が、個別に主張される時には、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれている。全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則という原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)個人の自由と正当防衛
  (a)個人の自由
   問題になっているのが、その人自身の善だけだとしたら、善についてのその人の判断を支配する権利は誰も持っていない。したがって、たとえその人の「ためになる」と思われることでも、介入することは不正義ではないか。
  (b)正当防衛
   個人の自由があるといっても、他の人に害悪が及ぶ場合には、それを防止するために介入することは、正義である。なぜなら、自分自身に害悪が及ぶ場合に、いかなる人も自分自身を守ることは、正当なことだからである。
  (c)個人の自由の限界は、どこにあるのか。ある人の自由な行為の結果が社会に及ぶ場合、影響のうちどの範囲のものが、他の人に及ぼされる害悪と言えるのか。さらに、害悪があるとしても、その害悪を防止するために自由を制限する限界はどこにあるのか。これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)責任の原理、決定論と意志の自由
  (a)責任の原理
   本人がどうしようもできないことに関して、その人を罰することは不正義である。
  (b)決定論
   教育や環境によって性格が作り出されたとしたら、犯罪者にはどこまで責任があるのだろうか。
  (c)意志の自由
   人には意志の自由がある。したがって、徹底的に憎むべきような意志を持った人は、仮に教育や環境の影響があるにしても、自らの意志に責任を負わなければならない。
  (d)これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.3)同意あれば危害無しか、社会契約か
  (a)同意あれば危害無しの原則
   他の人の利益になるからといって、ある一個人を選び出して、本人の同意を得ることなしに犠牲にするということは、不正義である。
  (b)社会契約の擬制
   人間というものは、社会の構成員全員が、自分たちの利益や社会全体の利益のために、法律に従うことを約束し、法律に違反したら罰せられるという契約をしているものだと考える。
  (c)本人の意志、同意によって決め得る正義の範囲の限界は、どこにあるのか。本人の意志に関わらず、正当なものとされる正義の限界は、どこにあるのか。これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 (3.4)量刑の原理、犯罪抑止の原理
  (a)量刑の原理
   処罰は犯罪行為と釣り合っているべきである。道徳的罪悪を測る基準がどのようなものであるとしても、犯罪者の道徳的罪悪によって、処罰は測られなければならない。
  (b)犯罪抑止の原理
   本人が非行を繰り返さないように、そして他の人がそれを真似しないようにするのに十分な、最低限度の処罰が必要である。これを超える苦痛を同胞に負わせることは、その非行がどのようなものであったとしても、正義ではない。
  (c)個別原理を超える妥当性は、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「罰を与えることの正当性が認められるときでも、犯罪者に対して割り当てられる適切な処罰について議論がなされると、なんと多くの相反する正義の概念が明るみになることであろう。

この問題については、目には目を歯には歯をという報復律ほど、原初的で自然発生的な正義の感情に強く訴えかける規則は他には存在しない。

このユダヤ的でマホメット的な法の原理はヨーロッパにおいては実践的格率としては徐々に放棄されてきているが、多くの人は心のなかでは密かに望んでいるように思われ、そのために、報復がこのような厳格な形で犯罪者に偶然に降りかかると一般的に満足感が表明されることになるし、このことは同じやり方で報復することを受け入れる感情がいかに自然なものであるかを示している。

多くの人にとって、刑罰における正義を判断する試金石は、処罰は犯罪行為と釣り合っているべきであるというものである。つまり、(道徳的罪悪を測る基準がどのようなものであるとしても)犯罪者の道徳的罪悪によって処罰は測られなければならないという意味である。

彼らの見方では、犯罪を抑止するためにはどの程度の処罰が必要かという考慮は正義に関する問題とは関係ない。

一方で、この考慮こそすべてとみなす人もおり、彼らは、本人が非行を繰り返さないように、そして他の人がそれを真似しないようにするのに十分な最低限度を超えた苦痛を同胞に負わせることは、その非行がどのようなものであったとしても、少なくとも人間にとっては正義ではないと主張している。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.334-335,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:量刑の原理,犯罪抑止の原理)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月8日木曜日

25.正義の原理が、個別に主張される時には、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれている。全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則という原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

正義の原理

【正義の原理が、個別に主張される時には、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれている。全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則という原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】


(3)事例。
 (3.1)個人の自由と正当防衛
  (a)個人の自由
   問題になっているのが、その人自身の善だけだとしたら、善についてのその人の判断を支配する権利は誰も持っていない。したがって、たとえその人の「ためになる」と思われることでも、介入することは不正義ではないか。
  (b)正当防衛
   個人の自由があるといっても、他の人に害悪が及ぶ場合には、それを防止するために介入することは、正義である。なぜなら、自分自身に害悪が及ぶ場合に、いかなる人も自分自身を守ることは、正当なことだからである。
  (c)個人の自由の限界は、どこにあるのか。ある人の自由な行為の結果が社会に及ぶ場合、影響のうちどの範囲のものが、他の人に及ぼされる害悪と言えるのか。さらに、害悪があるとしても、その害悪を防止するために自由を制限する限界はどこにあるのか。これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)責任の原理、決定論と意志の自由
  (a)責任の原理
   本人がどうしようもできないことに関して、その人を罰することは不正義である。
  (b)決定論
   教育や環境によって性格が作り出されたとしたら、犯罪者にはどこまで責任があるのだろうか。
  (c)意志の自由
   人には意志の自由がある。したがって、徹底的に憎むべきような意志を持った人は、仮に教育や環境の影響があるにしても、自らの意志に責任を負わなければならない。
  (d)これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.3)同意あれば危害無しか、社会契約か
  (a)同意あれば危害無しの原則
   他の人の利益になるからといって、ある一個人を選び出して、本人の同意を得ることなしに犠牲にするということは、不正義である。
  (b)社会契約の擬制
   人間というものは、社会の構成員全員が、自分たちの利益や社会全体の利益のために、法律に従うことを約束し、法律に違反したら罰せられるという契約をしているものだと考える。
  (c)本人の意志、同意によって決め得る正義の範囲の限界は、どこにあるのか。本人の意志に関わらず、正当なものとされる正義の限界は、どこにあるのか。これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「私たちは、功利性は不確実な基準であって、すべての人が異なった仕方でそれを解釈しているし、それ自体が根拠をもっていて世論の揺らぎとは無関係な正義による不変で不滅で明白な指令以外に確実なものはないと絶えず告げられる。

ここから、正義に関する問題については論争の余地がなく、正義を規則とみなせば、どのような事例に適用しても数学の証明のようにほとんど疑問の余地がなくなると思うかもしれない。

このことは事実から遠く離れており、何が正しいのかについては、何が社会にとって有用なのかについてと同じように、多くの見解の相違や多くの議論がある。

異なった国民や個人は異なった正義の観念をもっているだけでなく、同一の個人の心のなかでさえ、正義は何らかの単一の規則、原理、格率ではなく、多くのものからなっており、それらの指令はつねに一致するとはかぎらないし、それらの中から選び取るときには、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれるのである。

 たとえば、他の人への見せしめのために人を処罰することは不正義であり、処罰はそれを受ける人の善を目的としているときにのみ正義にかなっていると言う人がいる。

まったく反対のことを言って、その人の利益のためといって分別ある年齢に達している人を罰するのは、問題になっているのがその人自身の善だけだとしたら、善についてのその人の判断を支配する権利は誰ももっていないのだから、横暴で不正義であるが、他の人に害悪が及ぶのを防止するためには、これは自己防衛という正当な権利の行使であるから、正当に罰を与えることができると主張する人もいる。

また、オウエン氏は、犯罪者が自らの性格を作り出したのではなく、教育や取り囲んでいた環境が人を犯罪者にしたのであり、それらについてその人は責任がないのだから、処罰はとにかく不正義であると主張している。

これらの見解はすべて非常にもっともらしいし、この問題が単に正義に関するものの一つとして論じられ、正義の根底にありその権威の源泉となっている原理にまで掘り下げられることがないならば、どのようにしてこれらの論者を論破することができるかは私にはわからない。

というのは、実際にこれらの三つの主張はいずれも明らかに真の正義の規則に立脚しているからである。

第一のものは、一個人を選び出して、本人の同意を得ることなしに他の人の利益のためにその人を犠牲にするという広く認められている不正義に訴えている。

第二のものは、自己防衛という広く認められている正義と、人が自分の善は何であるかということについて他の人に従うように強要されるという一般に認められた不正義に訴えている。

オウエン主義者は、本人がどうしようもできないことに関して人を罰することは不正義であるという一般に認められた原理を持ち出している。

自らが選んだもの以外の正義の格率も考慮しなければならないようにならないかぎりは、いずれの論者も得意げにしている。しかし、それらの複数の格率がつき合わされると、それぞれの論者は、他の論者とまったく同じ程度の自己弁護論を並べ立てるだけのように思われる。

彼らのうち誰も、同じような拘束力をもっている他の正義の観念を踏みにじることなく、自らの正義の観念を押し通すことはできない。これらが難点であり、これまでずっとそのように思われてきた。

そして、それらを克服するというより避けるために多くの工夫が考案されてきた。

三つのうち最後のものからの逃げ込み場として、人々は意志の自由と呼ぶものを考え出し、徹底的に憎むべきような意志をもった人を罰することは、そのような状態になったのはそれまでの環境の影響によるものではないと思われないかぎり、正当化することはできないと考えている。

その他の難問から逃れるために都合のよい工夫は契約という擬制であり、それによって、いつのことか分かっていないある時代に社会の全構成員が法律に従うことを約束し、法律に違反したら罰せられることに同意し、その結果として、彼らを自分たちの利益あるいは社会の利益のために罰するという、このようなことをしなければ手にすることができなかったような権利を彼らの立法者に与えたとされる。

この巧妙な考えは難点を全面的に取り除くものと考えられ、危害を被ると思われる人の同意を得てなされることは不正義ではないということを意味する「同意あれば危害なし(Volenti non fit injuria)」という、もう一つの一般に認められている正義の格率に基づいて処罰を与えることを正当化するものと考えられた。

この同意が単なる擬制ではないとしても、この格率はそれが取って代ろうとした他の格率よりも優越した権威をもっていないということを指摘する必要はほとんどない。

むしろ、この格率は正義の原理というものがいい加減でいびつな仕方でできあがってくることを示している教訓的な実例である。

この特殊な格率は法廷での急場しのぎの一助として使われるようになったものであり、法廷は、詳細に検討しようとするとより大きな害悪がしばしば生じてくるだろうという理由から、時にはきわめて不確実な推論で納得せざるをえない。

しかし、法廷でさえこの格率をつねに遵守できてはいない。というのは、詐欺を理由として、あるいは時にはほんの些細な誤解や誤認を理由として、法廷は自発的な契約を無効にすることを認めているからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.331-334,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))

(索引:正義の原理,個人の自由,正当防衛,責任の原理,決定論,意志の自由,同意あれば危害無し,社会契約)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年8月4日日曜日

24.「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

正義の原理と権利

【「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)報復の原理
 (1.1)行為の規則
  (a)行為の規則は、自分自身や、自分が共感している人びとのものである。
  (b)行為の規則は、自分が共感している人びとにとっての善を目的としたものである。
 (1.2)行為の規則を是認する感情
   憤慨の感情、報復や復讐の感情
   自分自身や、自分が共感している人に対する危害や損害にたいして、反撃したり報復したりしたいという動物的欲求に由来する。
(2)正義の原理
 (2.1)行為の規則
  (a)行為の規則は、全ての人に共通である。
   カントの道徳の根本原理「その行為の規則が、すべての理性的存在によって法として採用されるように行為せよ」も、同じことを主張している。
  (b)行為の規則は、全ての人にとっての善を目的としたものである。
   仮に、規則が「行為者の善のみを目的とせよ」という完全に利己的なものであったとしたら、この規則は、すべての理性的存在によって採用されるという要請とは矛盾するだろう。
  (c)自分自身や、自分が共感している人びとに限定されることなく、全ての人びとに広げられている。
 (2.2)行為の規則を是認する感情
  (a)行為の規則を犯した人に、処罰を与えてよいという欲求がある。
  (b)行為の規則に違反することによって、被害を被る特定の人がいるという認識を伴う。
  (c)仮に、自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害であっても、まず、全ての人にとっての善という目的に適っているかどうかが判断される。
  (d)逆、自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害がない場合でも、社会全体に対する危害に対して憤慨の感情が生じる。
 (2.3)「権利」とは何か。
  (a)自分か他者かは問わず、自分が共感している人びとか否かを問わず、行為の規則を犯した人によって加えられた被害に対して、規則を犯した人を処罰し、被害者を救済することが、社会に対して正当に請求できるとき、被害者は「権利」を保持しており、その権利を侵害されていると表現する。
  (b)仮に、何らかの原因により特定の人が被害を被っていても、社会がその人に何の措置も講じる必要はなく、彼を運命や自らの努力に委ねるべきであるということが認められれば、彼に「権利」はない。

 「正義の感情は処罰したいという欲求を作り上げている要素の一つであるという点からして、そのような被害、つまり社会を通じて、あるいは社会全体とともに、私たちを傷つけるような危害に対して適用される、知性と共感によって起こる報復や復讐という自然な感情であるように思われる。

この感情はそれ自体としては道徳的なものを一切含んではいない。

道徳的なのは、この感情が社会的共感の求めるところに付随し従うようになるくらい完全にその下位に置かれることである。

というのは、私たちは誰かに不愉快なことをされると、それがどのようなことであっても、自然な感情によって見境なく憤慨するだろうが、社会的感情によって道徳化されている場合には、自然な感情は全体の善と一致するような方向にしか作用しないからである。

正義にかなっている人々は自らに対するものではなくても社会に対する危害に憤慨するが、自らに対する危害に対しては、それを制圧することが社会の共通の利益になるようなものでないかぎりは、それがどれほど苦痛なものであっても憤慨しない。

 私たちの正義の感情が踏みにじられたと感じるとき、私たちは社会全体のことや社会全体の集合的利益のことを考えていないし、個人的なことしか考えていないと述べても、この理論に対する反論にはならない。

たしかに、自分が苦痛を被るという理由だけから憤慨の感情を抱くことはまったく一般的なことである。

しかし、憤慨が本当に道徳的感情であるような人、つまりある行為に憤慨する前にそれが非難されるべきものなのかを考える人――このような人は、自分が社会の利益のために行動しているとははっきりとは自認していないかもしれないが、自分自身の利益のためだけでなく他者の利益のためにもなる規則を主張しているということをたしかに感じている。

もしその人がこのことを感じていないとしたら――その行為が自分一人にだけ影響を与えるものと考えているとしたら――彼は自覚的に正義にかなおうとしていないことになる。その人は自らの行為が正義にかなっているかに関心を持っていないのである。

このことは反功利主義的道徳論者によっても認められている。

カントは(先に指摘したように)道徳の根本原理として「その行為の規則がすべての理性的存在によって法として採用されるように行為せよ」というものを提案したとき、行為の道徳性を入念に確定するためには、人類の利益が集合的に、あるいは少なくとも人々の利益が差別されることなく、行為者の念頭におかれていなければならないということを事実上認めていた。

そうでなければ、彼は無意味な言葉を用いていたことになる。というのは、完全に利己的な規則がすべての理性的存在によっては《おそらく》採用されえないということ――これを採用することを阻む超えることのできない障壁が事物の本性には存在しているということ――を説得力をもって主張できないからである。

カントの原理に何らかの意味をもたせるには、次のような意味が与えられなければならない。すなわち、私たちはすべての理性的存在が採用するであろう規則と《それらの存在の集合的利益への便益》を勘案して自らの行為を決定しなければならない。

 要約すると、正義の観念は行為の規則とその規則を是認する感情という二つのことを想定している。

前者は全人類に共通し全人類の善を目的としていると思われるものでなければならない。後者(感情)は規則を犯した人に処罰を与えてよいという欲求である。

さらに、規則を違反することによって被害を被る特定の人、規則を違反することによって権利を(この場合に適切な表現を使えば)侵害される人がいるという考えも含まれている。

自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害にたいして反撃したり報復したりしたいという動物的欲求が、深められた共感能力と理にかなった自己利益という人間にふさわしい考え方によってすべての人間を対象とするように広げられているものが正義の感情であるように私には思える。

 私はここまでずっと、危害を受けた人に属している危害によって侵害された権利という観念を、正義の観念や感情を構成している個別の要素としてではなく、他の二つの要素が形を取って現れるときの一つの形態として扱ってきた。

二つの要素とは、一つは特定可能な一人あるいは複数の人に対する危害というものであり、もう一つは処罰の要求である。

自分たち自身の精神を吟味してみると、私たちが権利の侵害について語るときに意味しているのはこれら二つのことに尽きるということが分かると思う。

私たちが何らかのものを人の権利と呼ぶとき、私たちが意味しているのは、人がその所有しているものを法律の力あるいは教育や世論の力によって保護してもらうことを社会に対して正当に請求できるということである。

どのような理由であっても、社会によって保護されるべきものをもっているということに関して、その人が十分な主張だと私たちがみなすものをもっているとしたら、私たちはその人はそれに対する権利をもっていると述べる。

あるものが権利として人に属していないことを明らかにしたいと望むなら、社会がそれをその人に保障するために何の措置も講じる必要はなく、彼を運命や自らの努力に委ねるべきであるということが認められさえすればよい。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.326-329,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))

(索引:正義の原理,権利,憤慨の感情,報復や復讐の感情)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月3日土曜日

23.意志とは、目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用である。意志は善のための手段であり、目的を実現する傾向があるが、目的が習慣化し、快・不快、欲求、真の善から乖離する場合もある。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

意志

【意志とは、目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用である。意志は善のための手段であり、目的を実現する傾向があるが、目的が習慣化し、快・不快、欲求、真の善から乖離する場合もある。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.2)(3.3)追記。
(4.2)~(4.4)追記。


(1)善とは何か。
 (1.1)それ自体が快楽であるものか、快楽を得たり苦痛を避けるための手段であるものを別にすれば、人間にとって善であるものはない。
 (1.2)例えば、音楽のような何らかの快楽や、健康のように苦痛を回避することは、それ自体として、それ自体のために望まれており、望ましいのである。
 (1.3)上の原理を基礎として、行為として何が「正しい」のかが解明できる。
(2)欲求とは何か。
 (2.1)それ自体が快楽であるものを得ようとする情念、苦痛から逃れようとする情念である。
 (2.2)それ自体が快楽であるものを得るための手段も、それ自体として望まれるようになり、そして、当初の目的以上に、強く望まれるようになる場合がある。次の例がある。
  (a)金銭欲:金銭を所有したいという欲求は、しばしばそれを使用したいという欲求よりも強い。
  (b)権力欲、名誉欲:もともとは、私たちの他の願望を実現するために、計り知れないほど助けとなる手段となるために、強く望まれるようになった。
 (2.3)すべての欲求は、善の源泉である。しかし、欲求の中には、個人を彼の属している社会の他の構成員にとって有害にしかねない場合もあり、「全体の幸福を促進する」という原理から、それらの欲求を制御する必要性が要請される。

(3)目的と意志とは何か。
 当初に欲求された、それ自体が快楽であるものを得ること、または苦痛から逃れることを「目的」として、その手段を熟慮する。「意志」とは、目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用である。
 (3.1)意志は、善のための手段である。
  意志は、習慣化された作用である。意志は、善のための手段であって、それ自体が善であるわけではない。習慣化によって、人間の感情と行為に確実性がもたらされ、ある人の感情と行為が、他の人にとって信頼のできるものとなる。
 (3.2)目的は、習慣化する場合がある。
  習慣化された場合には、何かを望んでいるからそれを意志するようになるのではなく、しばしば何かを意志するからそれを望むようになる。
 (3.3)目的は、欲求と乖離する場合がある。
  当初に欲求された目的が、自分の性格や感受性が変わって快楽が減退したり、目的を追求しているうちに、苦痛が快楽を大幅に上回ってくるような場合もある。

(4)欲求、意志と行為の関係
 (4.1)徳とは何か。
  「正しい」目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用、すなわち正しい「意志」を持つこと。
  参照:利害関心を離れた徳への欲求は、金銭欲や権力欲、名誉欲と同様に、快楽を追求し苦痛から逃れるという究極目的のための手段が、それ自体として望まれるようになった習慣化された欲求である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)徳は、善のための手段である。
   意志が、善のための手段であるとすれば、徳も善のための手段である。しかも、最も重要な手段である。徳は、個人を社会の他の構成員にとって好ましいものにする。
  (b)利害関心を離れた徳への欲求
   徳それ自体を望む人は、徳を意識することが快楽であるか、徳がないことを意識することが苦痛であるかのいずれか、あるいは両方の理由から、徳を望んでいるのである。仮に、徳が生み出す傾向にあり、それがあるから有徳とされるような望ましい結果を生み出さないとしても、それ自体が望ましいと感じる。
  (c)利害関心から欲求された徳
   徳を快楽、徳の欠如を苦痛と感じない人が、それでも徳を望むとすれば、利害関心から、すなわち自分や大切に思っている人にとって、別の利益があるかもしれないという理由を持っていることも、あり得るだろう。
 (4.2)無意識な行為
  欲求や目的を意識することなく為される行為。行為が終わった後に、はじめて意識されることもある。
 (4.3)意志による悪い習慣的行為
  目的が習慣化しており、欲求からも乖離してしまっている行為。例として、悪質で有害な耽溺という悪弊に陥っている人の例。
 (4.4)意志による善い習慣的行為
  目的は欲求と適合しており、目的を追求するために、熟慮された手段が継続的に遂行されている。

 「ありうる反論は、欲求は究極的には快楽や苦痛の除去以外にも向けられることがあるかというものではなく、意志は欲求とは別のものであるというものだろう。

つまり、確固とした徳をもった人間、あるいはその他の目的がしっかりと定められている人は、目的をもくろんでいるときに得られたり目的が成就したときに得られたりするであろう快楽について考えたりすることなく目的を達成するし、性格が変わったり受動的感受性が弱まっていくことによってそれらの快楽が大幅に減退していったり、目的を追求しているうちに苦痛が快楽を大幅に上回るようになっていったりしたとしても、目的に向かって努力を重ねるだろう。

これらすべてのことは私は完全に認めているし、このことについて他のところで他の誰にも劣らずはっきりと強く述べている。

能動的な現象である意志は受動的な感性の状態である欲求とは別のものであり、もともとは欲求から派生したものであったが、やがて根を生やし、親株から分かれることもある。

したがって、習慣となっている目的の場合、何かを望んでいるからそれを意志するようになるのではなく、しばしば何かを意志するからそれを望むようになる。

 しかし、これは習慣の力というよく知られた事実の一例にすぎず、けっして道徳的な行為の場合に限定されるものではない。

人はもともとは何らかの動機から始めた多くのどうでもよいことを習慣で続けている。これは無意識になされ行為が終わった後になってはじめて意識されることもあれば、自覚的な意欲によって始められたが、その意欲が習慣となっていて、悪質で有害な耽溺という悪弊に陥っている人によくあるように、熟慮した上での選好に反しているかもしれないような習慣の力でなされている場合もある。

第三の、最後の場合として、確固とした徳をもっている人や熟慮した上で堅実にはっきりした目的を追求しているすべての人々の場合のように、個別事例における意志による習慣的行為が、別の場合に優勢な一般的意図と矛盾することなく、それを実現している場合がある。

このように理解される意志と欲求の区別はれっきとしたきわめて重要な心理的事実である。

しかし、この事実が意味しているのは、私たちの身体の他のあらゆる器官と同じく、意志は習慣の影響を受けやすいということと、それ自体としてもはや望んでいないことを習慣から意志したり、意志するがゆえにそれを望んだりする場合があるということのみである。

とはいえ、意志は当初は完全に欲求によって生み出されたものであるということも真実であり、この欲求という言葉には、快楽を引きつける作用とともに苦痛に抵抗する作用も含まれている。

正しいことをしようとする確固とした意志をもっている人についてはこれくらいにして、有徳であろうとする意志がまだ弱く、誘惑に負けがちで、十分に信頼のおけないような人について考察することにしよう。

このような意志はどのような手段によって強くすることができるだろうか。

有徳でありたいという意志が十分に強くないときに、それはどのようにして教え込んだり呼びおこしたりすることができるだろうか。

人に徳を《望ませる》こと――徳について快楽と結びつけて、あるいは徳がないことを苦痛と結びつけて考えさせること――によるしかない。

正しいことをおこなうことを快楽と結びつけたり不正なことをおこなうことを苦痛と結びつけることによって、あるいは快楽が一方に、苦痛が他方に自然に伴うということを明らかにして印象づけ、人の経験に刻みこむことによって、有徳でありたいという意志を呼びおこすことが可能になるし、この意志は確立されれば、快楽や苦痛について考えることがなくても働くようになる。

意志は欲求の子であるが、親の支配から抜け出ると習慣の支配下に入る。習慣の結果であるものを本質的に善であると推定することはできない。

徳が習慣によって支えられるようになるまでは、徳に駆り立てるような快楽や苦痛との連想による作用が的確で一貫した行為にとって十分に頼りにならないというわけではないとしたら、徳という目的が快苦とは独立すべきであると望むことには何の理由もないだろう。

感情にとっても行為にとっても習慣こそが確実性をもたらすものであり、正しいことをしようとする意志がこのように習慣的に独立なものになるくらいまで涵養されるべきなのは、ある人の感情や行動を完全に信頼できるということが他の人にとって重要だからである。

言い換えれば、意志のこのような状態は善のための手段であって、それ自体は本質的に善ではない。そして、これは、それ自体が快楽であるものか快楽を得たり苦痛を避けるための手段であるものを別にすれば、人間にとって善であるものはないという理論とも矛盾しない。

 この理論が正しいとすれば、功利性の原理は証明されたことになる。そうなのかどうかは、良識ある読者の判定に委ねなければならない。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第4章 功利性の原理についてのどのような証明が受け入れ可能か,集録本:『功利主義論集』,pp.309-311,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:意志,目的,手段,欲求,快・不快,善)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月2日金曜日

22.利害関心を離れた徳への欲求は、金銭欲や権力欲、名誉欲と同様に、快楽を追求し苦痛から逃れるという究極目的のための手段が、それ自体として望まれるようになった習慣化された欲求である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

徳への欲求

【利害関心を離れた徳への欲求は、金銭欲や権力欲、名誉欲と同様に、快楽を追求し苦痛から逃れるという究極目的のための手段が、それ自体として望まれるようになった習慣化された欲求である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)善とは何か。
 (1.1)それ自体が快楽であるものか、快楽を得たり苦痛を避けるための手段であるものを別にすれば、人間にとって善であるものはない。
 (1.2)例えば、音楽のような何らかの快楽や、健康のように苦痛を回避することは、それ自体として、それ自体のために望まれており、望ましいのである。
 (1.3)上の原理を基礎として、行為として何が「正しい」のかが解明できる。
(2)欲求とは何か。
 (2.1)それ自体が快楽であるものを得ようとする情念、苦痛から逃れようとする情念である。
 (2.2)それ自体が快楽であるものを得るための手段も、それ自体として望まれるようになり、そして、当初の目的以上に、強く望まれるようになる場合がある。次の例がある。
  (a)金銭欲:金銭を所有したいという欲求は、しばしばそれを使用したいという欲求よりも強い。
  (b)権力欲、名誉欲:もともとは、私たちの他の願望を実現するために、計り知れないほど助けとなる手段となるために、強く望まれるようになった。
 (2.3)すべての欲求は、善の源泉である。しかし、欲求の中には、個人を彼の属している社会の他の構成員にとって有害にしかねない場合もあり、「全体の幸福を促進する」という原理から、それらの欲求を制御する必要性が要請される。
(3)目的と意志とは何か。
 当初に欲求された、それ自体が快楽であるものを得ること、または苦痛から逃れることを「目的」として、その手段を熟慮する。「意志」とは、目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用である。
 (3.1)意志は、善のための手段である。
  意志は、習慣化された作用である。意志は、善のための手段であって、それ自体が善であるわけではない。習慣化によって、人間の感情と行為に確実性がもたらされ、ある人の感情と行為が、他の人にとって信頼のできるものとなる。
(4)欲求、意志と行為の関係
 (4.1)徳とは何か。
  「正しい」目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用、すなわち正しい「意志」を持つこと。
  (a)徳は、善のための手段である。
   意志が、善のための手段であるとすれば、徳も善のための手段である。しかも、最も重要な手段である。徳は、個人を社会の他の構成員にとって好ましいものにする。
  (b)利害関心を離れた徳への欲求
   徳それ自体を望む人は、徳を意識することが快楽であるか、徳がないことを意識することが苦痛であるかのいずれか、あるいは両方の理由から、徳を望んでいるのである。仮に、徳が生み出す傾向にあり、それがあるから有徳とされるような望ましい結果を生み出さないとしても、それ自体が望ましいと感じる。
  (c)利害関心から欲求された徳
   徳を快楽、徳の欠如を苦痛と感じない人が、それでも徳を望むとすれば、利害関心から、すなわち自分や大切に思っている人にとって、別の利益があるかもしれないという理由を持っていることも、あり得るだろう。

 「功利主義理論は人々が徳を望むことを否定したり、徳は望まれるべきものではないと主張しているのだろうか。

まったく反対である。それは、徳は望まれるべきだけでなく、利害関心を離れてそれ自体として望まれるべきであるとも主張している。

何らかの徳を徳たらしめた当初の条件についての功利主義道徳論者の見解がどのようなものであったとしても、そして、行為や性向は徳以外の別の目的を促進するからこそ有徳であるということをどれほど信じていようとも(彼らは実際にそうしているのだが)、このことが認められ、この説明に基づいて何が《有徳》なのか決定されたならば、

功利主義道徳論者は、究極目的のための手段として善であるものの筆頭に徳を位置づけるだけでなく、徳以外の目的に注意を向けることがなくても個人にとって徳がそれ自体として善になりうることを心理的事実として認めるだろう。

そして、精神がこのように――個々の事例においては、徳が生み出す傾向にあり、それがあるから有徳とされるような望ましい結果を生み出さないとしても、それ自体が望ましいものとして――徳を大事にしていないならば、精神は正しい状態にも、功利性に適合した状態にも、全体の幸福にもっとも資する状態にもないと考えている

この見解は幸福原理から少しも逸脱していない。幸福を構成する要素はきわめて多様であり、それぞれの要素は[幸福の]総量を増すと考えられるときにのみ望ましいのではなく、それ自体として望ましいものである。

功利性の原理は、たとえば音楽のような何らかの快楽や、たとえば健康のように苦痛を回避することが、幸福と名づけられた何らかの集合的なもののための手段と見なされるべきだとか、そのような理由によって望まれるべきだとは言っていない。それらはそれ自体として、それ自体のために望まれており、望ましいのである。それらは手段であるだけでなく目的の一部である。

功利主義理論にしたがえば、徳は自然的にも本来的にも目的の一部ではないけれども、そうなりうるものである。そして、利害関心を離れてそれを大事にする人にとっては徳はそうなっているのであり、幸福のための手段としてではなく自らの幸福の一部として望まれ大切にされているのである。
 このことをさらに明らかにするためには、他の何かにとっての手段でなかったなら関心をもたれることはなかったが、それを手段とする何かに結びつけられることによって、もともとは手段であったものがそれ自体として望まれるようになり、そしてこの上なく強く望まれるようになるのは徳だけではないということを思い起こすのがよいかもしれない。

たとえば、金銭欲についてはどう言えばよいだろうか。金銭はもともとは輝く水晶の塊のように望まれるようなものではなかった。その価値はそれによって買うものの価値しかなく、[金銭欲は]別のものにたいする欲求であり、それ自体はその欲求を満足させる手段である。にもかかわらず、金銭欲は人生においてもっとも強い原動力の一つであるだけでなく、多くの場合、金銭はそれ自体として、そしてそれ自体のために望まれている。

金銭を所有したいという欲求はしばしばそれを使用したいという欲求よりも強い。金銭以上の、金銭によって達成される目的に向けられていたあらゆる欲求が減退しても、金銭を所有したいという欲求はさらに強くなっていく。それゆえ、金銭は何らかの目的のために望まれているのではなく目的の一部として望まれているというのが正しいように思われる。

幸福のための手段であったものが、それ自体が個々人の幸福についての考えの重要な要素となっているのである。

権力や名誉のような人生における重大な目的の大部分についても同じことが言えるだろう。これが言えるのは、直接的な快楽がある程度は付随していて、少なくとも表面的にはそれが内在的なものであると自然に思えるものを別にすればであるが、金銭についてはこれは当てはまらない。

とはいえ、権力や名誉の本来的な魅力のうちもっとも強いものは、私たちの他の願望を実現するために計り知れないほど助けとなるということであり、これが権力や名誉とその他のあらゆる欲求の対象との間に生み出された強い連想であり、この連想によって、権力や名誉に対する直接的欲求はしばしば見られるように強いものになり、一部の人々にとっては他のあらゆる欲求をしのぐくらい強いものとなる。

この場合には、手段が目的の一部となっており、それが手段であったような他のどの目的よりも重要な目的の一部となっているのである。

以前は幸福を獲得するための手段として望まれていたものがそれ自体として望まれるようになったのである。

けれども、それ自体として望まれているときには、それは幸福の《一部》として望まれていたのである。人はそれを手に入れるだけで幸福になる、あるいは幸福になれると考えている。そして、それを手に入れることができないと不幸になる。

それを望むことは、音楽を愛好したり健康を望むことがそうであるように、幸福を望むことと異なるものではない。それらは幸福に含まれている。それらは幸福への欲求を構成している要素の一部である。幸福は抽象的な観念ではなく具体的なものの集まりであり、これらはその一部なのである。

功利主義的基準はこのことを認め同意している。このような自然の配列がなかったとしたら、人生は貧相なものであり、幸福の源泉としてきわめて不十分なものしかもたらさないだろう。

自然の配列によって、もともとは私たちの基礎的な欲求を満足させることとは関係なかったけれども、その助けとなったり、そうでなければ関連づけられていたものが、それ自体として、永続性という点でも、それが及びうる人間のあり方の領域という点でも、強さという点ですらも、基礎的な快楽以上に大きな価値をもった快楽の源泉となったりするのである。

 功利主義的な考えにしたがえば、徳はこのような種類の善である。

快楽にとって役立つことや、とりわけ苦痛を防ぐことを除けば、それにたいする本来的な欲求や動機はない。しかし、上述のようにしてできた連想によって、それ自体が善であるように思われるようになり、そのようなものとして、他の善と同じように強く望まれるようになる。

ただし、徳への欲求と金銭・権力・名誉への欲求の間には、利害関心をはなれた徳への欲求を涵養することほど個人を社会の他の構成員にとって好ましいものにするものはないのに対して、後者の欲求はすべて個人を彼の属している社会の他の構成員にとって有害にしかねないことがあり、しばしばそうしているという違いがある。

したがって、功利主義的基準は、全体の幸福を促進するよりも侵害するようにならない程度までそれらの後天的欲求を許容し是認しつつ、徳への欲求を全体の幸福にとって他の何よりも重要なものとして、可能なかぎり涵養することを命じ要求している。


 これまでの考察から、幸福以外に実際に望まれているものはないという結論が引き出される。

それ自体ではなく何らかの目的のための手段として、究極的には幸福のための手段として望まれているものは何であっても、それ自体が幸福の一部として望まれており、そうならないかぎり、それ自体が望まれることはない。

徳をそれ自体として望む人は、徳を意識することが快楽であるか徳がないことを意識することが苦痛であるかのいずれか、あるいは両方の理由から、徳を望んでいる。実際に快楽と苦痛は別々に存在していることはほとんどなく、ほとんどいつも一緒に存在しているから、同一人物が徳を身につけている程度に応じて快楽を感じながら、徳をそれ以上身につけていないことによって苦痛を感じる。

徳を身につけていることが何ら快楽をもたらさず、徳を身につけていないことが何ら苦痛をもたらさないとしたら、人は徳を大事にしたり望んだりしなくなったり、自分や大切に思っている人にとって別の利益があるかもしれないという理由だけから徳を望むようになったりするだろう。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第4章 功利性の原理についてのどのような証明が受け入れ可能か,集録本:『功利主義論集』,pp.304-308,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:徳への欲求,金銭欲,権力欲,名誉欲,善,欲求,目的,意志,徳)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
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2019年8月1日木曜日

21.人間の行為規則の基礎にある、全ての人の最大限幸福という究極的目的は、どんな人であっても、自分自身の幸福を望んでいることを示すあらゆる証拠によって、事実の問題として根拠づけられる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

道徳の基準の根拠

【人間の行為規則の基礎にある、全ての人の最大限幸福という究極的目的は、どんな人であっても、自分自身の幸福を望んでいることを示すあらゆる証拠によって、事実の問題として根拠づけられる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.1)追記。

(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則
 (2.1)道徳の基準は、最大限可能な限り人類全てに、幸福をもたらすことである。
  ところで、何が事実であるかは、最終的には私たちの感覚や内的意識によって、直接検証することができる問題である。では目的、すなわち望ましいものは何なのかという問題も、事実の問題として検証することができるのだろうか。
  (2.1.1)たとえば、「望ましいものは幸福であり、これが唯一の望ましいものである」という命題は、事実として検証することができるのだろうか。
   解答:人が、実際に幸福を望んでいるのか、望んでいないのかで検証可能である。
  (2.1.2)また、「望ましいものは、すべての人が幸福になることである」という命題は、事実として検証することができるのだろうか。
   解答:どんな人であっても各人は、達成可能であると信じている限りで自分自身の幸福を望んでいるものなのか、あるいは自分自身の幸福を望んでいる人は、少数の人しかいないのかで検証可能である。
   事実:どんな人であっても、自分自身の幸福を望んでいるという、あらゆる証拠が存在する。
   結論:したがって、すべての個人にとって幸福は望ましいものであるが故に、人間の行為の規則や準則として人類全体にとって望ましいことは、すべての個人の幸福である。
 (2.2)道徳の基準は、苦痛と快楽の質を判断する基準や、質と量を比較するための規則を含むこと。
 (2.3)道徳の基準は、事物の本性が許す限り、人類以外の感覚を持った生物全てに対して考慮されること。
 (2.4)道徳の基準は、自分自身の善と、他の人の善は区別しないこと。
   人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)基本的な考え方。
   (a.1)あたかも、自分自身が利害関係にない善意ある観察者のように判断すること。
   (a.2)人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい。
   (a.3)自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。
  (b)次のような法や社会制度を設計すること。
   (b.1)あらゆる個人の幸福や利害と、全体の幸福や利害が最大限一致している。
  (c)人間の性格に対して大きな力を持っている教育や世論の力を、次のような目的に用いる。
   (c.1)自らの幸福と全体の幸福の間には、密接な結びつきがあることを、正しく理解すること。
   (c.2)従って、全体の幸福のための行為を消極的にでも積極的にでも実行することが、自らの幸福のために必要であることを、正しく理解すること。
   (c.3)全体の幸福に反するような行為は、自らの幸福のためも好ましくないことを、正しく理解すること。

 「すでに述べてきたように、究極目的についての問題には一般に受け入れられている意味での証明の余地はない。推論による証明ができないことはあらゆる第一原理に共通していることであり、行為の第一の前提だけでなく知識の第一の前提にも共通していることである。

しかし、知識の第一前提は事実に関する問題であり、事実を判定する能力、すなわち私たちの感覚や内的意識に直接訴えることのできる主題である。

実践的目的についても同じような能力に訴えることができるだろうか。あるいは、他のどのような能力によってそれを認識するのだろうか。

 目的に関する問題とは、別の言い方をすれば、望ましいものとは何なのかという問題である。

功利主義理論は、幸福が目的として望ましいもの、しかも唯一の望ましいものであり、他のあらゆるものはこの目的のいための手段としてのみ望ましいものであるという理論である。この理論が主張していることを信頼するに足るようにするには、この理論には何が求められなければならないだろうか。あるいはこの理論はどのような条件を満たさなければならないだろうか。


 ある物体が見えるということについての唯一可能な証明は、人々が実際にそれを見ているということである。ある音が聞こえるということの唯一の証明は、人々がそれを聞いているということである。私たちの経験のその他の源泉についても同様である。

同様に、何かが望ましいということについて示すことのできる唯一の証拠は、人々が実際にそれを望んでいるということであるように私には思える。

功利主義理論が理論上も実際上も目的とみなしているものが目的として認められないとしたら、目的として人を納得させることができるものはなくなってしまうだろう。全体の幸福が望ましいのはどうしてかということについて、各人が達成可能であると信じているかぎりで自分自身の幸福を望んでいるということ以外の理由をあげることはできない。

しかし、これは事実であるから、幸福が善であるということについて、各人の幸福が各人にとって善であり、それゆえ全体の幸福はすべての人の総体にとって善であるということについて、事例に当てはまるあらゆる証拠があるだけでなく、要求しうるあらゆる証拠もある。幸福は行為の目的の《ひとつ》であり、したがって道徳の基準のひとつであるといえる。

 しかしこれだけでは、それが唯一の基準であるということを証明したことにはならない。そうするためには、人々が幸福を望んでいることだけでなく、それ以外のことは望んでいないことを同じやり方で示すことが必要に思われる。

ところで、人々が一般的な言い方では幸福とはっきりと区別されるものを望んでいることは明らかである。たとえば、彼らは、快楽を望み苦痛のないことを望んでいるのと同じように徳を望み悪徳のないことを望んでいる。

徳を望むことは幸福を望むことほど普遍的ではないが、同じくらい確かな事実である。それゆえ、功利主義的基準に反対する人々は、幸福以外に人間の行為の目的があり、幸福は是認や否認の基準ではないと推察するのは当然だと考えている。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第4章 功利性の原理についてのどのような証明が受け入れ可能か,集録本:『功利主義論集』,pp.302-304,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳の基準の根拠,最大幸福原理,行為の規則)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年7月31日水曜日

20.義務の感情の客観的基盤:(a)他者の快苦や状態に配慮する感情、(b)為すべき行為に関して、情念や感情の限界を超えて、経験や理論に基づく理性による判断をする能力、(c)教育や統治により自らを変える能力。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

義務の感情の客観的基盤

【義務の感情の客観的基盤:(a)他者の快苦や状態に配慮する感情、(b)為すべき行為に関して、情念や感情の限界を超えて、経験や理論に基づく理性による判断をする能力、(c)教育や統治により自らを変える能力。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
(4)義務の感情には、客観的な根拠があるのか。
 (4.1)義務の感情は、主観的なものであって人間の意識の中にある。
 (4.2)義務の感情は、人間の行為を不十分にしか拘束しない。大きな選択の余地が残されている。
  (4.2.1)義務の感情がなくなったら、義務ではなくなるのだろうか。実際に、感じない人もいる。
  (4.2.2)義務の感情が自分にとって不都合だと感じたら、それを無視してもよいのだろうか。実際、多くの人の心のなかで、良心が簡単に沈黙させられたり、抑圧させられている。
 (4.3)しかし、人間に義務の感情が存在しうるということは、この宇宙、自然、生命体に関する、客観的実在の何らかの諸法則に根拠があるに違いない。
  (4.3.1)配慮の感情:人間には、他者の快や苦痛を感じ、それに配慮するという感情が存在する。(種々の共感や、一般的博愛、他者の状態の認識に起因する諸感情など。)
  (4.3.2)道徳感情は、人間によって作り上げられるものである。しかし、そうだからといって、この感情が自然なものでなくなるわけではない。話したり、推論したり、都市を建設したり、土地を耕したりすることは後天的能力だけれども、人間にとって自然なことである。
   参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に対して開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   参照: 義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情は、慣習、教育、世論により制約されており、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))


◆説明図◆

┌──────────────────┐
│ この宇宙、自然、生命体に関する、 │
│ 客観的実在の何らかの諸法則    │
└──────────────────┘
    ↓
┌───────────────────────┐
│┌─────┐                │
││統治体制 │ 配慮の感情          │
││教育、慣習│ 種々の共感、一般的博愛    │
││世論   │ 他者の状態の         │
│└──┬──┘ 認識に起因する諸感情     │
│   ↓      ↓            │
│┌─────────────────────┐│
││経験や理論に基づく理性による判断……(a) ││
││(道徳論:例えば、全体の幸福の増進)   ││
││ ↓                   ││
││ある道徳の基準……(b)          ││
││(例:泥棒、殺人、裏切り、詐欺の禁止)  ││
│└─────────────────────┘│
│   ↓                   │
│┌─────────────────────┐│
││特定の個人                ││
││(a)…義務の感情が呼び起こされるか、否か?││
││(b)…義務の感情が呼び起こされるか、否か?││
││ 人間には、大きな選択の余地が残されている││
││                     ││
││その他の強制力              ││
││(c)…苦痛と損害を避け、快と幸福を求める ││
││   欲求によって作用する利害の力    ││
││(d)…法律に基づく賞罰によって作用する力 ││
││(e)…宗教的な強制力           ││
│└─────────────────────┘│
└───────────────────────┘

 「道徳的義務のなかに先験的事実、つまり「物自体」の領域に属する客観的実在性を見いだす人の方が、それをまったく主観的なものであって人間の意識のなかにあるものと考えている人よりも、道徳的義務に従いやすいと信じる傾向があることを私は承知している。

しかし、人がこのような存在論に関する論点についてどのような見解をもっているとしても、人を本当に駆り立てる力はその人自身の主観的感情であり、この力はまさにその強さによって評価されるものである。

義務が客観的実在であるという信念は誰のものであっても、神が客観的実在であるという信念ほど強くはない。

とはいえ、現実に賞罰を期待することを別にすれば、神への信仰であっても、主観的な宗教的感情を通じて、そしてそれに比例して、行為に作用を及ぼすにすぎない。

強制力は、無私なものであれば、つねに心のなかに存在している。

こう言うと、先験的道徳論者は、心の外にこの強制力の根拠があると信じられなければ、これは心の《なかには》存在しないだろうと考えたり、人は「自分を拘束していて良心と呼ばれているものは、自分の心のなかにある感情にすぎない」と自分で考えてみたら、この感情がなくなったら義務もなくなるだろうという結論を引き出すだろうと考えたり、人がこの感情が不都合なものだと感じたら、それを無視したり頭のなかから追い払おうと努めようとするだろうと考えたりするに違いない。

しかし、この危険は功利主義道徳論にかぎられたものだろうか。道徳的義務の根拠は心の外にあるという信念を持つことによって、義務の感情は頭のなかから追い払えないほどに強くなるのだろうか。

事実はまったく異なっており、大多数の心のなかで良心が簡単に沈黙させられ抑圧させられていることをすべての道徳論者が認めて嘆いている。

「自分の良心に従う必要があるのだろうか」という疑問は、功利性の原理の支持者によるのと同じくらい頻繁に、その原理について耳にしたことのない人によって抱かれている。

良心が弱いためにこのような疑問を問いかける人々がこの疑問に肯定的に答えたとしても、それは先験的な理論を信じているからではなく、外的強制力のためである。


 当座の目的のためには、義務の感情が生得的なものなのか教え込まれるものなのかについて判断を下す必要はない。

それを生得的なものと想定するならば、それは本来どのようなものに付随していたのかということが問題になる。というのは、その理論を哲学的に支持する人々は、直感的に認識されるのは道徳の原理についてであってその細部ではないという点について今では一致しているからである。

 この問題に関して先験的なものがあるとすれば、どうして生得的な感情が他者の快苦に配慮するという感情であってはならないのか私にはわからない。

強制力を直感的にもっているような道徳の原理があるとすれば、それはこの配慮という感情に違いない。

そうだとすれば、功利主義倫理は直感主義倫理と一致し、両者の間で反目はもうなくなるだろう。

現在でも、直感主義道徳論者はその他にも直感的な道徳的義務があると考えているけれども、この感情がそのような義務の一つであると実際に考えているのである。というのは、彼らは一致して道徳の大部分が同胞の利害について考慮することに関わっていると考えているからである。

したがって、道徳的義務に先験的な源泉があると信じることによって内的強制力の効果がさらに高められるとするならば、功利主義的原理はその恩恵を受けているように思われる。

 他方で、私がそう考えているように、道徳感情が生得的ではなく後天的なものであるとしても、そうだからといってこの感情が自然なものでなくなるわけではない。話したり、推論したり、都市を建設したり、土地を耕したりすることは後天的能力だけれども、人間にとって自然なことである。

たしかに、道徳感情は私たちすべてにはっきりとした形で存在しているわけではないという意味では私たちの本性の一部ではない。しかし、あいにくこのことはそのような感情が先験的起源をもっていることをきわめて強く信じている人々によって認められている事実である。

先に言及した他のさまざまな後天的能力と同じように、道徳能力も、私たちの能力の一部ではないとしても、本性から自然に生み出されるものである。

そして、他の能力と同じように、わずかではあっても自然発生的に生じてくることができるものであり、涵養することによって大いに伸ばすことができるものである。

あいにく、この能力は外的強制力と幼少期に与えられる影響を十分に用いることによって、ほとんどあらゆる方向に涵養していくことができるものでもある。したがって、その影響力が良心のあらゆる権威に基づいて人間の精神に作用されないならば、これほど不合理で有害なものはほとんどないだろう。

同じような手段によって功利性の原理にも同じような効果が与えられているということに疑問を抱くのは、それが人間本性に基礎をもっていないとしても、経験をまったく無視していることになるだろう。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第3章 功利性の原理の究極的強制力について,集録本:『功利主義論集』,pp.295-297,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:義務の感情の客観的基盤,配慮する感情)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年7月30日火曜日

19道徳基準の強制力の源泉は、是認したり非難したりする良心の感情である。それは、純粋な義務の観念と結びついており、物質的、精神的な賞罰による強制や、快と苦痛による利害による強制とは、別のものである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

良心の感情

【道徳基準の強制力の源泉は、是認したり非難したりする良心の感情である。それは、純粋な義務の観念と結びついており、物質的、精神的な賞罰による強制や、快と苦痛による利害による強制とは、別のものである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追加。


(1)道徳の基準の強制力は何であるのか。義務の源泉は、何なのか。
 (1.1)それ自体が、義務的なものであるという感情を心に呼びおこす基準がある。例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺をしてはいけないという基準を考えてみよう。
 (1.2)では、感情が義務の源泉なのか。感情が呼び起こされなければ、それは義務ではないのか。義務である。すなわち、感情が義務の源泉なのではない。
 参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.3)そこで例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺を、「全体の幸福を増進しなければならない」という一般原理によって基礎づけてみよう。これは、強制力を持ちうるだろうか。なぜ、全体の幸福を増進しなければいけないのだろうか。自分自身の幸福が他の何かにあるときに、どうしてそちらを選び取ってはいけないのだろうか。

(2)道徳の基準に関して、実際に生じている事実。
 (2.1)人間の情念や感情は、個別の道徳の基準を直接に把握することができる。しかし、それは正しいこともあれば、誤っていることもある。なぜなら、情念や感情は慣習、教育、世論により形作られるからである。
 (2.2)何が正しく、何が誤っているのか。それは、道徳の基準が何らかの一般原理から、首尾一貫した論理により基礎づけられるかどうかにかかっている。
 参照: 義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情には、慣習、教育、世論の制約があり、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (2.3)一般原理そのものが、強い情念や感情を呼び起こさない場合もあるかもしれない。しかしこれも、慣習、教育、世論による制約を受けているという事実を、知らなければならない。もし、その一般原理が真実を捉えているのならば、いつしか、教育が進歩し慣習と世論が変わっていくことによって、情念と感情が直接に原理を把握できるようになるに違いない。

◆説明図◆

経験や理論に基づく理性による判断……(a)
(道徳論:例えば、全体の幸福の増進)
 ↓
ある道徳の基準……(b)
(例:泥棒、殺人、裏切り、詐欺の禁止)
┌─────┐
│統治体制 │
│教育、慣習│
│世論   │
└──┬──┘
   ↓影響
┌────────────────────┐
│特定の個人               │
│(a)…義務の感情が呼び起こされるか、否か?│
│(b)…義務の感情が呼び起こされるか、否か?│
└────────────────────┘

(3)良心の感情:是認したり非難したりする感情
 (3.1)良心の感情は、純粋な義務の観念と結びついており、あらゆる道徳の究極的な強制力である。
 (3.2)良心の感情は、義務に反した際に起きてくる強い苦痛、自責の念を伴う。
 (3.3)現実に存在するような複雑な状況下にあっては、他の様々な感情や連想によって覆いつくされることもあって、これらが良心の感情に、ある種の神秘的な性格を与えていると考えられやすい。しかし、良心の感情の本質を見誤ってはならない。
  (3.3.1)良心の感情は、内的な強制力であり、賞罰による外的な強制力によるものではない。
   例えば、ベンサムの主張するような、次のような強制力によるものとは異なる。
   参照:ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (a)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (b)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
   (c)民衆的強制力(道徳的強制力)
    有害なものを避け、幸福を願う欲求によって作用する。
    (c.1)自然な満足感、嫌悪感
     自分たちの幸福(快)を生み出す傾向性がある行為が促され、不幸(苦痛)を生み出す傾向性がある行為は減らす方向に促される。
    (c.2)好意、感謝、憤慨、怒りの感情
     他者の行為が、自分たちの幸福(快)を生み出す傾向性があると認識されると、「好意」や「感謝」の感情が生じ、不幸(苦痛)を生み出す傾向性があると認識されると、「憤慨」や「怒り」の感情が生じる。
    (c.3)好意、感謝、憤慨、怒りの感情の表出に対する、喜びの感情、苦痛の感情
     自らの行為によって他者が好意、感謝を表出するとき、喜びの感情が生じて当該行為は促される。逆に、自らの行為によって他者が憤慨、怒りの表出をするとき、苦痛の感情が生じて当該行為は、減らす方向に促される。

 「功利性の原理は他の道徳体系がもっているあらゆる強制力をもっているし、もっていないという理由はない。これらの強制力は外的なものか内的なものかのいずれかである。

外的強制力については長々と述べる必要はない。それらは、どのようなものであれ私たちが同胞に対してもっているであろう共感や愛情や、利己的な結果に関係なく神が望んでいることをおこなう気持ちにさせる神への愛と畏敬の念であり、さらに同胞や万物の支配者からよく思われたいという希望や彼らの不興を買うことを恐れる気持ちである。

義務にしたがうこれらの動機すべてが、他の道徳論に結びつけられているのと同じくらい完全に強く功利主義道徳論に結びつけられない理由はまったくない。

実際に、これらのうち同胞に対するものは、全般的に知性が向上するのに比例して、固く結びつけられるようになっている。というのは、全体の幸福以外の何らかの道徳的義務の根拠があろうとなかろうと、人々は現実に幸福を望んでいるからであり、自分自身の実践は不十分であるかもしれないが、人々は自分に関わる他者の行為については、自らの幸福を増進すると思われるようなあらゆる行為がなされることを望み推奨しているからである。

宗教的動機については、もし、多くの人が公言しているように、人々が神の善性を信じているとするならば、全体の幸福に資するということが善の要諦であると考えている人々、そして唯一の基準でさえあると考えている人々は、それは神によって承認されていることでもあると信じているに違いない。

それゆえ、身体的なものであろうと精神的なものであろうと、神からのものであろうと同胞からのものであろうと、外的な賞罰の全般的な力は、人間本性の能力が許容するかぎりでの神や同胞に対する私欲のない献身の全般的な力とともに、功利主義道徳論が認められるようになるのに比例して、その道徳を実践するために利用することができるようになる。

功利主義道徳論が影響力を増すにつれて、教育や一般教養のための制度がその目的にますます沿ったものとなる。

 外的強制力についてはここまでにしよう。義務の基準が何であったとしても、義務の内的強制力はただ一つのもの、つまり私たち自身の心のなかにある感情である。

それは義務に反した際に起きてくる、程度の差はあっても強い苦痛であり、徳性が適切に涵養されている人にとっては、より重大な事例の場合には、義務に反することを不可能なものとして躊躇させるようなものである。

この感情は、無私なものとなり、ある特定の義務の観念や単なる付随的な状況にではなく純粋な義務の観念に結びつけられるとき、良心の本質的要素となる。

現実に存在するような複雑な状況下にあっては、この単純な事実は、共感や愛情、さらには恐怖などに、あらゆる形態の宗教的感情に、少年期やあらゆる過去の生活の思い出に、そして自尊心や他者の評価を得たいという希望や、時には謙遜の気持ちにさえ由来する付帯的な連想によって一般にはまったく覆いつくされているとしてもである。

私が懸念しているのは、このような極端な複雑さが、他の多くの事例においてもみられるような人間精神の性向によって、ある種の神秘的な性格が道徳的義務の観念に帰せられやすいことの原因となっているということであり、このような神秘的な性格のせいで、想像上の神秘的な法則によってその観念を刺激するという私たちの現実の経験に見出されるようなこと以外には道徳的義務の観念を結びつけることができないと人々が信じるようになるということである。

しかし、道徳的義務の拘束力は、正義の基準を犯すためには打ち破らなければならず、それでいてその基準を実際に犯せば、後に自責の念という形で現れてくるに違いないような一群の感情が存在していることに起因している。

良心の性質や起源についての理論がどのようなものであっても、これが本質的に良心を構成しているのである。

 したがって、あらゆる道徳の究極的強制力は(外的動機を別にすれば)私たちの心のなかの主観的感情であるのだから、功利性を基準としている人々にとって、その基準の強制力は何であるのかという問題について何ら頭を悩ませるようなものはない。

私たちは他の道徳的基準と同じもの、つまり人類の良心という感情であると答えることができるだろう。

たしかに、この強制力はそれが訴えかける感情をもっていない人々を拘束する力をもっていない。しかし、そのような人々が功利主義的原理以外の道徳原理によりよく従うということはないだろう。そのような人々にとっては、外的強制力によらなければ、どのような道徳論も効果がない。

しかし、そのような感情は存在するし、それは人間本性に関する事実である。それが実在するということ、そして十分に涵養されてきた人にとってそれが大きな力を発揮できるということは、経験から明らかである。

この感情が功利主義的道徳規則と関連づけられたときには、他の道徳規則に関連づけられたときと同じようには大幅に涵養されないという理由はこれまで示されていない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第3章 功利性の原理の究極的強制力について,集録本:『功利主義論集』,pp.292-295,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:良心の感情,道徳基準の強制力,義務の観念,賞罰による強制,利害による強制)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年7月19日金曜日

18.義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情には、慣習、教育、世論の制約があり、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

道徳の基準の強制力の源泉

【義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情には、慣習、教育、世論の制約があり、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)道徳の基準の強制力は何であるのか。義務の源泉は、何なのか。
 (1.1)それ自体が、義務的なものであるという感情を心に呼びおこす基準がある。例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺をしてはいけないという基準を考えてみよう。
 (1.2)では、感情が義務の源泉なのか。感情が呼び起こされなければ、それは義務ではないのか。義務である。すなわち、感情が義務の源泉なのではない。
 参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.3)そこで例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺を、「全体の幸福を増進しなければならない」という一般原理によって基礎づけてみよう。これは、強制力を持ちうるだろうか。なぜ、全体の幸福を増進しなければいけないのだろうか。自分自身の幸福が他の何かにあるときに、どうしてそちらを選び取ってはいけないのだろうか。

(2)道徳の基準に関して、実際に生じている事実。
 (2.1)人間の情念や感情は、個別の道徳の基準を直接に把握することができる。しかし、それは正しいこともあれば、誤っていることもある。なぜなら、情念や感情は慣習、教育、世論により形作られるからである。
 (2.2)何が正しく、何が誤っているのか。それは、道徳の基準が何らかの一般原理から、首尾一貫した論理により基礎づけられるかどうかにかかっている。
 (2.3)一般原理そのものが、強い情念や感情を呼び起こさない場合もあるかもしれない。しかしこれも、慣習、教育、世論による制約を受けているという事実を、知らなければならない。もし、その一般原理が真実を捉えているのならば、いつしか、教育が進歩し慣習と世論が変わっていくことによって、情念と感情が直接に原理を把握できるようになるに違いない。

 「何らかの道徳の基準とみなされているものについては、次のような質問がしばしばなされるし、それは適切なことである。

その強制力は何であるか。それにしたがう動機は何か。よりはっきりと言えば、その義務の源泉は何か。どこからその拘束力をひきだすのか。

この問題にたいする答えを提示することは道徳哲学の必須の一部である。

これは、他の道徳論よりも功利主義道徳論にとりわけ当てはまるかのように、功利主義道徳論に対する反対論という形をしばしばとっているが、実際にはあらゆる基準について生じる問題である。

つまり、この問題は、人がある基準を《採用する》必要に迫られたり、習慣的に頼っていなかった何らかの根拠によって道徳論を論じるときにはいつでも生じている。

というのは、慣習的道徳論、つまり教育と世論が神聖なものとした道徳論のみが、《それ自体として》義務的なものであるという感情を心に呼びおこす唯一の道徳論だからである。

人がこの道徳論が慣習の後光のない何らかの一般原理からその義務力を《引き出している》ことを信じるように言われたとしても、このような主張は彼にとっては逆説的である。

もとの定理よりも、その系とされるものの方がより強い拘束力を持っているように思われ、土台とされるものがあるときよりもないときの方が上部構造がしっかりとしているように思われるのである。

人は次のように自問する。私は泥棒、殺人、裏切り、詐欺をしてはいけないと考えているが、どうして全体の幸福を増進しなければいけないのだろうか。自分自身の幸福が他の何かにあるときに、どうしてそちらを選び取ってはいけないのだろうか。

 功利主義哲学が道徳感覚の性質について採用している見解が正しいとすれば、道徳的性格を作り上げてきた力が原理からの帰結を把握したのと同じように原理[自体]を把握するまで、つまり、教育の進歩によって、普通によく育てられた若者にとって悪事を恐れる気持ちがそうであるように、同胞との一体感が完全に本性の一部となるくらいまで私たちの性格に深く根を下ろし、そのように意識されるまで(キリストがそうすることを意図していたことは否定できない)、この難問はつねにおこってくるだろう。

しかし、そうするまでの間、この難問は功利性の理論にのみ特有のものではなく、道徳を分析しそれを原理に還元しようとするあらゆる試みに内在するものである。

原理がそれが応用されたものと同じくらいの神聖さをもって人の心に抱かれていないかぎり、この難問はつねに原理の神聖さをいくらかは損なうように思われる。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第3章 功利性の原理の究極的強制力について,集録本:『功利主義論集』,pp.291-292,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳の基準の強制力の源泉)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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