2022年2月8日火曜日

ある人の自由の範囲を決定するのは現実に開かれている扉であり、その当人の好みではない。主人が鎖を愛するように奴隷に教え込めば、それによって奴隷の満足が大きくなり、少なくとも悲 惨さが少なくなるとしても、主人がそれ自体で奴隷の自由を大きくしたわけではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

鎖を愛する奴隷の自由

ある人の自由の範囲を決定するのは現実に開かれている扉であり、その当人の好みではない。主人が鎖を愛するように奴隷に教え込めば、それによって奴隷の満足が大きくなり、少なくとも悲 惨さが少なくなるとしても、主人がそれ自体で奴隷の自由を大きくしたわけではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



「ある人の自由の範囲を決定するのは現実に開かれている扉であり、その当人の好みではな いということに、注目しておく必要がある。好きなように行動できるとして、願望の途上に心 理的ないしその他の障害がないというだけで、自由になるわけではない。この場合、行動の可 能性を変えずに欲望と意向を変えることによって、自由になることもできるからである。主人 が鎖を愛するように奴隷に教え込めば、それによって奴隷の満足が大きくなり、少なくとも悲 惨さが少なくなるとしても、主人がそれ自体で奴隷の自由を大きくしたわけではない。歴史 上、良心に欠けた人間の管理者たちが宗教教育を利用して、野蛮で不法な扱いを人々に甘受させたことがあった。このような政策が成功するとすれば――そしてこれら人間の管理者がそのよ うな手段にしばしば訴えると考えてよい理由もある――、そしてその政策の犠牲者たちが(例え ばもと奴隷の哲学者エピクテートスのように)苦痛と侮辱を気にとめないことを学んだとすれ ば、いくつかの専制体制は自由の創造者と呼んでよいことになるであろう。そのような体制は よそに気を引くような誘惑を排除し、願望と情熱を「奴隷化」することによって、個人の選択 ないし民主的選択の領域を拡大する政治制度よりも(仮定からして)一層大きな自由を作り出 しているからである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,p.290,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和(訳)) 

バーリン選集2 時代と回想 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




たとえ満足なものでも「合理的なもの」でも、選択肢が制限されれば不自由である。特に、困難で障害のある選択肢を閉ざす場合も同じだ。また、精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和は自由の行使に必要だが、また別問題である。自由行使に必要な知識もまた同じ。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

保護主義的不自由、自由と知識

たとえ満足なものでも「合理的なもの」でも、選択肢が制限されれば不自由である。特に、困難で障害のある選択肢を閉ざす場合も同じだ。また、精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和は自由の行使に必要だが、また別問題である。自由行使に必要な知識もまた同じ。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)保護主義的な不自由について
(a)満足なものでも「合理的なもの」でも、選択肢が少なければ不自由
「物理的」なものであれ「精神的」なものであれ、ある人の選択の領域が狭い場合、その人がその状態に満足しているにせよ、また人が合理的になれば唯一の合理的な道が彼にそれだけ明瞭になり、複数の道の間で動揺しなくなるであろうということがどれだけ真実であるにせよ (私はこの命題は誤っていると思う)、このいずれの状況によっても彼がより広い選択の幅 を持つ人よりも必ずや自由であるということにはならないであろう。

(b)困難で障害のある選択肢を閉ざす場合も不自由
 障害の横たわっている道 に入りたいという願望を除去することによって障害を除 けば、心の静安、満足、あるいは知恵までもが大きくなるかもしれない。しかし自由は大きくならない。

(2)自由と知識の問題
(a)精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和
 精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和は、きわめて望ましい条件であり、この条件はかなりの数の障害を除去する。またこれは、他のすべての自由のための必要条件である。しかし、だからといって問題の自由があるかどうかとは、別問題である。

(b)自由であることを知ること
 どのような道が前にあるか、それがどれだけ開かれているかをよりよく知れば、それだけ自分が自由であることを知るようになるであろう。知らなかったけれども扉は開いていたのだということを後になって発見した人は、無知について後悔しても、自由の欠如について後悔することはないであろう。

(c)自由の行使に必要となる知識
 知識が自由の行使にとって不可欠の条件となることもあろう。その 途上にある障害がそれ自体で自由剥奪、つまり知る自由の剥奪となることもある。無知は道を 閉ざす。知識は道を開く。


「「物理的」なものであれ「精神的」なものであれ、ある人の選択の領域が狭い場合、その 人がその状態に満足しているにせよ、また人が合理的になれば唯一の合理的な道が彼にそれだ け明瞭になり、複数の道の間で動揺しなくなるであろうということがどれだけ真実であるにせ よ(私はこの命題は誤っていると思う)、このいずれの状況によっても彼がより広い選択の幅 を持つ人よりも必ずや自由であるということにはならないであろう。障害の横たわっている道 に入りたいという願望、さらにはその道についての意識さえも除去することによって障害を除 けば、心の静安、満足、あるいは知恵までもが大きくなるかもしれない。しかし自由は大きく ならない。精神の独立――正気と人格の一貫性、健康と内面の調和――は、きわめて望ましい条件 であり、かなりの数の障害を除去することによって、それだけの理由で自由の一種と見なされ る資格を有しているであろう。しかしその自由は、多くの種類の自由の中の一つでしかない。 ある人は、この種の自由は他のすべての自由のための必要条件であるという意味で、少なくと も独自性があるというかもしれない。私が無知で執念にとらわれ非合理的であるならば、私は そのことによって事実にたいして盲目になり、こうして盲目になった人は事実上、可能性が客 観的に閉ざされている人と同様に自由でないことになる、というのである。しかし私には、この種の議論は正しいとは思えない。私が自分の権利に無知であり、あるいは神経症にかかって (あるいは貧乏であるがために)その権利から利益を得られないでいれば、それは私にとって 無用のものとなるであろう。しかし、だからといってその権利が存在しないことにはならな い。他の開かれた扉に連なる路上に、一つの扉が閉ざされているという状態なのである。自由 の条件(例えば知識、金銭)が破壊されている、あるいは不足していることは、自由そのもの が破壊されていることではない。自由の価値は自由の利用可能性にかかっているとしても、自 由の本質は自由の利用可能性に依存していない。より多くの大道を歩むことができ、その大道 がより広く、それぞれの大道がさらに多くの道に向かって開かれていれば、それだけ人は自由 である。どのような道が前にあるか、それがどれだけ開かれているかをよりよく知れば、それ だけ自分が自由であることを知るようになるであろう。自ら知らずして自由であることが、痛 烈な皮肉になる場合もある。しかし、知らなかったけれども扉は開いていたのだということを 後になって発見した人は、無知について後悔しても、自由の欠如について後悔することはない であろう。自由の範囲は行動の可能性にかかっており、その可能性についての知識に依存して はいない。もちろん、その知識が自由の行使にとって不可欠の条件となることもあろう。その 途上にある障害がそれ自体で自由剥奪――つまり知る自由の剥奪となることもある。無知は道を 閉ざす。知識は道を開く。しかしこれが自明の理であるからといって、自由は自由の意識を含 むことにならないし、ましてや自由と自由の意識とが同じであえるということにもならな い。」

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.288-290,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

バーリン選集2 時代と回想 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




新しい知識は我々の合理性、真理を把握する力を強め、理解力を深め、我々の力と内的な調和、智慧と効力を大きくするが、必ずしも自由を大きくするわけではない。 選択の自由があるならば、増大した知識によってこの自由の限界が何であるか、何がその自由を拡大し縮小させるかを知ることができるであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

知識と自由

新しい知識は我々の合理性、真理を把握する力を強め、理解力を深め、我々の力と内的な調和、智慧と効力を大きくするが、必ずしも自由を大きくするわけではない。 選択の自由があるならば、増大した知識によってこの自由の限界が何であるか、何がその自由を拡大し縮小させるかを知ることができるであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



「知識によってわれわれが一層自由になるのは、現実に選択の自由がある場合である。知識 にもとづいて、その選択の自由がない場合とは別の行動ができる場合である。できるであっ て、しなければならないとか現実にするというのではない。つまり新しい知識を得たことに よって別の行動ができ、そして別の行動をする場合であって、必ずしも別の行動をする必要は ない。まず初めに自由がなければ、そして自由の可能性がなければ、自由を大きくすることは できない。新しい知識はわれわれの合理性、真理を把握する力を強め、理解力を深め、われわ れの力と内的な調和、智慧と効力を大きくするが、必ずしも自由を大きくするわけではない。 選択の自由があるならば、増大した知識によってこの自由の限界が何であるか、何がその自由 を拡大し縮小させるかを知ることができるであろう。しかし私には変えることができない事実 と法則があることを知るだけでは、私が何かを変えることができるようにはならない。そもそ も自由がなければ、知識があっても自由が大きくなるわけではない。すべてが自然法則によっ て支配されているとすれば、知識によってその法則をよりよく「利用」できるといっても無意 味であろう。意味があるとすれば、その「できる」が選択「できる」ことを意味している場合 だけである。つまりさまざまな道の中から私が選ぶことができるといえるような状況、何か一 つの道を選ぶように厳格に決定されていないような状況にだけ適用されるような「できる」の 場合だけである。いいかえれば、もし古典的決定論が正しい見方であるとしても(それが現代 の慣行と合致していないという事実は、それにたいする反論とはなりえない)、それについて 知っても自由は大きくならないであろう――自由が存在していなければ、それが存在していない ということを発見しても自由が作り出されてくることにならない。これは、徹底的に展開され た機械論的-行動論的な決定論についてと同様に、自己決定論にも当てはまることである。」 

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.274-275,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

バーリン選集2 時代と回想 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私の自由の範囲を拡大できない。逃れ難いものとしての自然法則、言語、諸命題で認識できる諸法則、これらで認識できる外的世界、物質、他者、私自身に関する諸事実である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由意志と逃れ難いもの

真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私の自由の範囲を拡大できない。逃れ難いものとしての自然法則、言語、諸命題で認識できる諸法則、これらで認識できる外的世界、物質、他者、私自身に関する諸事実である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)私の支配の外にある要因
 真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私 の自由の範囲を拡大できはしない。これらの要因は、説明したからといって無くなるわけでは ない。知識の増大は、私の合理性を増大させ、私の自由を増大させるかもしれない。しかしそ れは、無制限ではない。

(2)逃れ難いもの、自然法則、言語、諸命題で認識できる諸事実、諸法則
 私が合理的で正気であれば、一般的命題を信じないわけにはいか ない。あるいは、正気であれば、一般的な言葉を使わないわけにはいかない。肉体を有しなが ら、重力に引かれないわけにはいかない。

(3)物質、他者、私自身に関する諸事実、諸法則
 私自身の本性や他の物や人の本性、さらには私とそれ らの物や人を支配する法則について私が知っていることは、私が精力を浪費し誤用しないよう に助けてくれる

(4)真の選択、偽りの選択、逃れ難いもの
 真の選択と偽りの選択とを区別する過程で、それがいかにして区別されるのか、私がその幻想をいかにして見抜くかにかかわりなく、私は自分には逃れ難い本性があるのに気づく。


「いわずもがなのことであるが、次のようなことは言っておく必要があると思う。未来につ いて、未来の事実がしっかりと固まってすで形成されたものと見るのは、物の見方として虚偽 である。われわれ自身の行動と他の人々の行動を、全体としてあまりに強くて抵抗しえないよ うな力によって説明しようとするのは、もともと事実によって説明してよいことの範囲を超え ているから、経験的に誤りである。この理論は、極端な形態にまで押しつめれば、決定なるも のを一撃で粉砕してしまう。つまり、私は私自身の選択によって決定されるということになる であろう。そうでないと信じること――例えば決定論、宿命論、偶然論などに立って――は、それ 自体で一つの選択であり、むしろそれ故に一層卑怯な選択である。けれども、このような傾向 はまさしくそれ自身で人間の特性の一つの現れであると論じることも、たしかに可能である。 未来を――過去との対称的な対比で――変更不可能なものと見なすこのような傾向、あるいは言い 訳を求め、逃避主義的な夢想に走り、責任から逃亡しようとするのは、それ自体が心理的な事 実である。自己欺瞞とは、もともと私が意識的に選べないものである。私がこのような結果に なるとは知りつつも、しかしその結果を避けないように行動することもあるであろう。しか し、選択と強制された行動との間には差異がある。強制そのものが、過去の強制されざる選択 の結果であったとしても、両者は別である、私の抱いている幻想が、私の選択の分野を決定す る。己を知ること――幻想を破ることがこの分野を変える。つまり、現実に(いわば)何ものか が私を選択しているにもかかわらず、私は自分がそれを選択したのだと考えるのではなく、私 が真に選ぶことを《より》可能にするのである。しかし、真の選択と偽りの選択とを区別する 過程で(それがいかにして区別されるのか、私がその幻想をいかにして見抜くかにかかわりな く)、私は自分にはのがれがたい本性があるのに気づく。私にはできないものが、いくつかあ る。私が(論理的にいって)合理的ないし正気であれば、一般的命題を信じないわけにはいか ない。あるいは、正気であれば、一般的な言葉を使わないわけにはいかない。肉体を有しなが ら、重力に引かれないわけにはいかない。おそらくある意味では、その両者をそれぞれ同時に 試みることはできるであろうが、それでも、合理的であるということは、私がそれに失敗する ということを意味しているはずである。私自身の本性や他の物や人の本性、さらには私とそれ らの物や人を支配する法則について私が知っていることは、私が精力を浪費し誤用しないよう にたすけてくれる。それは、偽りの主張と言い訳をあばき出す。責任をあるべきところに固定 し、偽りの無実の申し立てと真に無実の人々にたいする偽りの非難をしりぞける。しかしそれ は、真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私 の自由の範囲を拡大できはしない。これらの要因は、説明したからといって無くなるわけでは ない。知識の増大は、私の合理性を増大させるであろう。そして無限の知識は、私を無限に合 理的にしていくことであろう。それは私の力、私の自由を増大させるかもしれない。しかしそ れは、私を無限に自由にすることはできない。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.263-265,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

バーリン選集2 時代と回想 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




人気の記事(週間)

人気の記事(月間)

人気の記事(年間)

人気の記事(全期間)

ランキング

ランキング


哲学・思想ランキング



FC2