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2022年3月28日月曜日

絶対的に世界から切り離されて自律し、社会、自然、宇宙と交渉し、負債を返済できると空想することは、常軌を逸した精神状態であり、モラルの論理として説かれれば、それは欺瞞的であり犯罪である。恐らく真実は、世界の方こそが、あなたが生きることから、価値あるものを受け取っているのに違いない。 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

負債を負っているのは世界の方

絶対的に世界から切り離されて自律し、社会、自然、宇宙と交渉し、負債を返済できると空想することは、常軌を逸した精神状態であり、モラルの論理として説かれれば、それは欺瞞的であり犯罪である。恐らく真実は、世界の方こそが、あなたが生きることから、価値あるものを受け取っているのに違いない。 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


 「「わたしたちは社会になにを負っているのか?」と問いかけて事象を逆転しようとするこ と、あるいは「自然」やなんらかの宇宙的秩序への「負債」を云々することでさえ、誤った解 決である。それらは、あるモラルの論理からなにごとかを救いだそうとする苦肉の策であるわ けだが、当のモラルの論理こそがそもそもわたしたちを宇宙的秩序から切断した当のものなの だ。そうした発想は要するに、ある過程、すなわち、常軌を逸した精神状態へといたる過程の 頂点でしかない。というのも、それらの発想が前提としているのは次のような事態だからであ る。あまりに絶対的かつ徹底的に世界から切り離されているので、じぶん以外のあらゆる人間 ――あるいはあらゆる生命、宇宙的秩序さえも――ひとまとめに括ることができ、さらに、そう やって括られたもの[社会、自然、宇宙など]と交渉できる、と考えてしまう事態である。歴 史的にみてそのような試みが、わたしたち自身の生を誤った前提の上にあるなにかとみなすこ と、支払い期限をはるかに超過した借金とみなすこと、それゆえ、存在自体を犯罪的なものと みなすことに帰着してしまったのは、なんの不思議もない。しかし、ここに真の犯罪があると したら、それはこの欺瞞である。そもそもこの前提そのものが、欺瞞的なのである。じぶん自 身の存在の基盤と交渉することが可能であると考えること以上に、おこがましく、ばかげた話 しがあるだろうか? むろん、ありえない。〈絶対的なもの〉となんらかの関係をもつこと が、実際に可能であるならば、わたしたちは、完全に時間の外部あるいは人間的時間の外部に 存在する原理と直面していることになる。したがって、中世の神学者たちが正しく認識してい たように、〈絶対的なもの〉に対しては、負債のようなものがそもそもありえないのである。  結論:おそらく世界こそが、あなたから生を借りている[あなたに生を負っている] 」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『負債論』,第12章 いまだ定まらぬなにごとかの はじまり(1971年から今日まで),pp.572-573,以文社(2016),酒井隆史(訳),高祖岩三郎 (訳),佐々木夏子(訳))

負債論 貨幣と暴力5000年 [ デヴィッド・グレーバー ]





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






自己存在は、両親や祖先、社会や国家のおかげであり負債を負っていると説かれるが、事実は、全ての文化的遺産、人類全体、自然、全宇宙が必要だったのであり、負債を返済し自律を構想すること自体が、とんでもない思いあがりである。仮に無限の負債を仮想しても返済方法は各個人の選択に任されている。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

無限の負債と個人の自由

自己存在は、両親や祖先、社会や国家のおかげであり負債を負っていると説かれるが、事実は、全ての文化的遺産、人類全体、自然、全宇宙が必要だったのであり、負債を返済し自律を構想すること自体が、とんでもない思いあがりである。仮に無限の負債を仮想しても返済方法は各個人の選択に任されている。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




(a)存在する全てに対して負債を構想すること自体が、とんでもない思いあがり
 私たちの罪責性(guilt)は、宇宙に対する負債を 返済できないことによるものではない。私たちの罪責性とは、〈存在する全て、または これまで存在してきた全て〉と、いかなる意味であれ同等のものと考えるほど思い上がっているため、そもそもそのような負債を構想できてしまうことにあるのだ。  
(b)仮に無限の負債を仮想しても返済方法は各個人の選択に任されている
 人はみな人類、社会、自然または宇宙に対して無限 の負債を負っているが、自分以外の別の誰かが支払い方法を指示できるわけではない。人間の自由とは、返済方法をどうしたいかを自分自身 で決定する私たちの能力ということになる。
(c) 宗教、道徳、政治、経済、刑事司法体制の欺瞞
 確立された権威の システムのほとんどすべて、宗教、道徳、政治、経済、刑事司法体制は、それぞれ異なる欺瞞の方法である。それらは計算不可能なものを計算できるとうそぶき、制約なき負債のうちのあれこれの部分をかくかくしかじかのように返済せよと指令する権限を詐称するにすぎないのだ。


「このように整理してみると、議論が前提そのものをむしばみはじめる。これらは商業的負 債とはなんの関係もない。つまり、子どもをつくれば両親への返済になるかもしれないが、無 関係のだれかに現金を貸すことで債権者に返済したとみなされることはふつうない。  わたし自身疑問におもう。ほんとうにこれが的を射た答えなのか? ブラーフマナの作者た ちが本当に示そうとしていたのは、究極的には、宇宙に対する人間の関係は根本からして商取 引とはほど遠く、そうなる可能性もないということであろう。商取引は平等と分離の双方をふ くむからである。先にあげた事例はどれも分離の克服にかかわっている。じぶん自身が祖先と なることによって祖先への負債から解放される[自由になる]。じぶん自身が賢者になること によって賢者への負債から解放される。人道的にふるまうことによって人類への負債から解放 される。宇宙となるといわずもがなである。すでに万物を有しているゆえに神々との取引が不 可能であるとすれば、宇宙との取引もまちがいなく不可能なのだ。宇宙はすべて《であり》、 そのすべてには必然的にあなた自身も包摂されるのだから。実のところこのリストは以下のよ うなふくみを巧みなやりかたで表現していると解釈することさえできる。負債から「自己を解 放する(freeing oneself)」ただひとつの方法は、文字通りに負債を返済することではな く、負債など存在しないことを示すことである、と。負債が存在しないのは、ひとは実際には 分離などしていないので、負債を帳消にして分離し自律した存在に到達するという考えそのも のが、はなから馬鹿げたものであるからである。あるいは、人類または宇宙から分離した存在 としておのれをみたて、こうして一対一の取引を可能であるとする想定自体が、死によっての み返答の与えられる犯罪なのである。わたしたちの罪責性(guilt)は、宇宙に対する負債を 返済できないことによるものではない。わたしたちの罪責性とは、〈存在するすべて、または これまで存在してきたすべて〉と、いかなる意味であれ同等のものと考えるほどおもいあがっ ているため、そもそもそのような負債を構想できてしまうことにあるのだ。  あるいはこの等式のもうひとつの側面に目をむけてみよう。かりにわたしたち自身が、宇宙 あるいは人類への絶対的負債の立場にあると想像することができたとしても、次の問いがあら われる。いったいだれが、宇宙または人類を代弁してこの負債がいかに返済されるべきかその 方法を告げる権利をもっているのか? 宇宙全体から独立しているから宇宙との交渉ができる という主張よりも不合理なものがあるとしたら、それは彼岸(the other side)を代弁して いるという主張である。  今日の個人主義的な社会にふさわしいエートスを求めるとするならば、次のようにいえるだ ろうか。ひとはみな人類、社会、自然または宇宙(いかようにもお好みでよい)に対して無限 の負債を負っているが、[じぶん以外の]べつのだれかが支払い方法を指示できるわけではな い、と。これは少なくとも知的には筋が通っている。もしそうだとすれば、確立された権威の システムのほとんどすべて――宗教、道徳、政治、経済、刑事司法体制――を、それぞれ異なる欺 瞞の方法とみなすことができる。それらは計算不可能なものを計算できるとうそぶき、制約な き負債のうちのあれこれの部分をかくかくしかじかのように返済せよと指令する権限を詐称す るにすぎないのだ、と。だとすれば、人間の自由とは、返済方法をどうしたいかをじぶん自身 で決定するわたしたちの能力ということになる。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『負債論』,第3章 原初的負債,pp.102-103,以文 社(2016),酒井隆史(訳),高祖岩三郎(訳),佐々木夏子(訳))

負債論 貨幣と暴力5000年 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







私たちの責任を、商取引における負債のようなもので基礎づけようとする様々な試みが多くなされてきた。しかし、これは真実であろうか。自分の実在を、私たちは誰に負っているのか。存在の基盤である自然、宇宙、文化、祖先、人類全体。(デヴ

私は誰のおかげで存在しているのか

私たちの責任を、商取引における負債のようなもので基礎づけようとする様々な試みが多くなされてきた。しかし、これは真実であろうか。自分の実在を、私たちは誰に負っているのか。存在の基盤である自然、宇宙、文化、祖先、人類全体。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(a)存在の基盤である自然、宇宙
 宇宙、宇宙の力、現代的に言い換えると〈自然〉に対して、私たちの存在の基盤に対 して、である。
(b)文化
 私たちにとって最も価値ある知識と文化的成果をなしえた人びとに対して。人間の存 在は、それらの知識と文化的成果によって、枠組みと意味、そしてまた形態をも受けとる。
(c)祖先
 わたしたちの両親、およびその両親、つまり祖先に対して。
(d)人類全体
 人類全体に対して。


「わたしたちは自分の存在を可能にするすべての人びとに対して無限の負債を負って生まれ てきた、しかるに「社会」と呼ばれる自然な単位は存在しない。とはいえ、もしそうだとすれ ば、わたしたちは本当のところだれに対してなにを負っているのか? 万人? 万物? それ とも、人や物によって程度に強弱があるのか? それに、かくも拡散しているなにものかに、 どうやって負債を支払うのだろう? あるいは、より端的にいって、いったいだれが、どんな 根拠をもって、返済方法を指示する権威を発動できるのか?  このように問いを提起してみたとき、ブラーフマナの作者たちは空前絶後の洗練をきわめた モラルについての省察を与えてくれている。先述したように、これらのテキストがどのような条件で作成されたのか、はっきりしない。しかしこれまでに知られた証拠資料は、いくつかの 重要な文書が前500年から前400年のあいだのどこか――おおよそソクラテスの生きた時代――に 作成されたことを示している。その頃のインドでは商業経済や硬貨、利子付貸出といった制度 が日々の生活に根づきはじめていた。その時代のインドの知識階級も、ギリシャや中国の知識 階級とおなじように、それらの事象のふくむ意味と格闘していたのである。インドの場合、そ れは次のような問いに集約される。わたしたちの責任を負債として想像することはなにを意味 するのか? じぶんの実在をわたしたちはだれに負っているのか?  彼らによる答えに(古代インドにも王や政府が確実に存在していたにもかかわらず)「社 会」にも国家にも言及がみられないのは意義深い。そのかわり負債は、神に、賢者に、父に、 「人間たち(men)」に[個別的に]定められている。彼らの定式をより現代的な言語に翻訳 することはさほどむずかしくはなさそうだ。そこで次のようにまとめてみた。結局、わたした ちが自己の存在をなによりもまず負っているのは、  ・宇宙、宇宙の力、現代的にいいかえると〈自然〉に対して、わたしたちの存在の基盤に対 して、である。それに対する負債は儀式によって返済される。儀式は小さきわれらを凌駕する 存在すべてへの敬意と承認の行為である。  ・わたしたちにとって最も価値ある知識と文化的成果をなしえた人びとに対して。人間の存 在は、それらの知識と文化的成果によって、枠組みと意味、そしてまた形態をも受けとる。こ こにはわたしたちの知的伝統を創造した哲学者や科学者だけでなく、ウィリアム・シェイクス ピアから中東のどこかでイースト菌入りのパンを発明したが忘れ去られたままの女性までふく まれる。それらの人びとに対する負債は、わたしたち自身が学習し人間の知識と文化に貢献す ることで支払われる。  ・わたしたちの両親、およびその両親――つまり祖先に対して。じぶん自身が祖先となること で返済される。  ・人類全体に対して。異邦人に対する寛容によって、人間的諸関係つまり生を可能なものに する、社会性にかかわる基本的なコミュニズム的土台を維持することによって返済する。」 
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『負債論』,第3章 原初的負債,pp.100-102,以文 社(2016),酒井隆史(訳),高祖岩三郎(訳),佐々木夏子(訳))

負債論 貨幣と暴力5000年 [ デヴィッド・グレーバー ]





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2022年3月27日日曜日

政治とはつまるところ説得術である。政 治的なものとは、十分な数の人びとが信じるならば物事が真実になる、そのような社会生活の 次元である。だが、その主張の唯一の基盤が、誰もが信じているということだけであることを認めてしまえば、決してうまくいくことはない。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

政治は魔術に似ている

政治とはつまるところ説得術である。政 治的なものとは、十分な数の人びとが信じるならば物事が真実になる、そのような社会生活の 次元である。だが、その主張の唯一の基盤が、誰もが信じているということだけであることを認めてしまえば、決してうまくいくことはない。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



 「以下のことについてべつの視角から表現すれば、この新しい時代は貨幣の政治的本性とま すます折り合いが悪くなってきたともいえるだろう。政治とはつまるところ説得術である。政 治的なものとは、十分な数の人びとが信じるならば物事が真実になる、そのような社会生活の 次元である。厄介なのは、うまくゲームをやっていくためには、そのことを決して認めるわけ にはいかないというところにある。たとえば、わたしはフランス国王であると世界中のすべて の人びとを納得させることができればわたしは実際にフランス国王となる、ということは真実 かもしれない。だが、わたしの主張の唯一の基盤が、そこにあること[だれもが信じていると いうことだけであること]を認めてしまえば、決してうまくいくことはない。この意味で、政 治は魔術によく似ている。まさに、政治と魔術がいずこにあっても、いずれも詐欺めいた後光 を帯びてしまうゆえんである。当時、こういった疑惑は、著しく誇張されていた。1711年に、 風刺的エッセイストのジョセフ・アディソンは、イングランド銀行が――それゆえイギリスの貨 幣制度が――王座の政治的安定に対する民衆の信頼に依存していることについて短編幻想小説を 書いている。」


(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『負債論』,第11章 大資本主義帝国の時代(1450 年から1971年),pp.505-506,以文社(2016),酒井隆史(訳),高祖岩三郎(訳),佐々木夏子 (訳))

負債論 貨幣と暴力5000年 [ デヴィッド・グレーバー ]



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






ある国王は常備軍を維持したい。どうすれば良いか。兵士たちに硬貨を配布し、つい で、王国内のすべての世帯にその硬貨の一部を王に返すべしと要求するなら、一夜にして国民経済は兵士への物資供給のための巨大機械に転換することになる。これが、そもそもなぜ王国は臣民たちに納税を強いたのかの理由である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

市場と貨幣を機能させる

ある国王は常備軍を維持したい。どうすれば良いか。兵士たちに硬貨を配布し、つい で、王国内のすべての世帯にその硬貨の一部を王に返すべしと要求するなら、一夜にして国民経済は兵士への物資供給のための巨大機械に転換することになる。これが、そもそもなぜ王国は臣民たちに納税を強いたのかの理由である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)貨幣と市場は政府から独立していない
 金と銀が政府から完全に独立した市場の自然なはたらきを通じて貨幣になったのなら、金山と銀山を支配することだけで済みではないか? そうすれば王国は、必要な金 銭をすべて手中におさめることができるではないか。




「このように考えると少なくとも初期王国の多くが採用した財政政策のあきらかな謎のうち のひとつを解決するのに役立つ。そもそもなぜ王国は臣民たちに納税を強いたのか? これは あまり問われることのない問いである。一見したところ答えは自明にみえるからだ。政府が税 を要求するのは民衆の金銭を手に入れたいからに決まっている。だがもしアダム・スミスが正 しければ、そして金と銀が政府から完全に独立した市場の自然なはたらきを通じて貨幣になったのなら、金山と銀山を支配することだけですみではないか? そうすれば王国は、必要な金 銭をすべて手中におさめることができるではないか。実際に古代の国王たちは通常それをおこ なっていた。領地内に金山や銀山があれば王たちはそれらを独占したのである。とすれば、金 を徴収し、じぶんの肖像をそこに刻印し、臣民たちのあいだで流通させたあとで、そのおなじ 臣民たちに、それを[税として]返すよう要求する目的はなんなのか?  これはちょっとした難問である。だが貨幣と市場が同時に出現したのでないとするのなら、 完全に理にかなっている。これが市場を生みだす最もかんたんで効果的な方法だからだ。ここ で仮説的な一例をあげてみよう。ある国王は5万人からなる常備軍を維持したい。古代および 中世の諸条件のもとでは、それだけの兵力を養うのは大問題であった。このような軍勢は、駐 屯しているあいだに、野営地の10マイル以内で食べられるものならなんでも食い尽くしてしま う。行軍中でなければ、必要な食料を貯蔵し入手し運搬するためだけに、ほとんど[軍勢と] おなじ数の人間と動物を雇う必要が出てくる。それに対して、兵士たちに硬貨を配布し、つい で、王国内のすべての世帯にその硬貨の一部を王に返すべしと要求するなら、一夜にして国民 経済は兵士への物資供給のための巨大機械に転換することになる。いまやすべての世帯が、硬 貨を手に入れるためにあれこれと方法をさがしだし、兵士の欲しがるものを供給するという全 般的なもくろみに参加することになる。市場はその副次的効果として発生するのである。」 

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『負債論』,第3章 原初的負債,pp.74-75,以文社 (2016),酒井隆史(訳),高祖岩三郎(訳),佐々木夏子(訳))

負債論 貨幣と暴力5000年 [ デヴィッド・グレーバー ]





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2022年3月26日土曜日

行政機構が市場を生み、市場と政府は軍事的活動のために一体化して機能した。軍事=鋳貨=奴隷制複合体の中でも、倫理と徳性、現実に関する新たな理論を探究する哲学者たちが存在したが、複合体の危機とともに、やがて人間の活動領域は、貪欲が支配する市場と、寛大さや慈愛の諸価値を説く宗教とに、観念的に分断され、それは今日まで続いている。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

市場と諸価値の観念的な分断

行政機構が市場を生み、市場と政府は軍事的活動のために一体化して機能した。軍事=鋳貨=奴隷制複合体の中でも、倫理と徳性、現実に関する新たな理論を探究する哲学者たちが存在したが、複合体の危機とともに、やがて人間の活動領域は、貪欲が支配する市場と、寛大さや慈愛の諸価値を説く宗教とに、観念的に分断され、それは今日まで続いている。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(1)政府と軍事的活動と市場
(a)行政機構が市場を出現させた
 少なくとも近東においては、市場はまず政府の行政機構の副次的効果として出現したようだ。
(b)軍事的活動のための市場
 しかしながら時がたつにつれ、市場の論理は軍事的活動に巻き込まれていった。そこで は市場の論理は、枢軸時代の戦争における傭兵の論理とほとんど見分けがつかなくなる。
(c)軍事的活動のための政府
 最終的にその論理が、政府それ自体を征服し、政府の目的そのものまで規定するようになった。

(2) 軍事=鋳貨=奴隷制複合体
 その結果、軍事=鋳貨=奴隷制複合体の出現する場所ならどこにおいても、唯物論哲学の 誕生がみられるようになる。
(a) 物質的諸力の世界
 聖なる諸力でなく物質的諸力から世界は形成されていること。人間存在の最終的目的は物質的富の蓄積であるということ。
(b) 徳性や正義は統治のための道具
 そこでは、徳性や正義のような諸理念も、大衆を満足させるべく設計された道具として再文脈化されていった。

(3) 倫理と徳性を探究する哲学者たち
 軍事=鋳貨=奴隷制複合体という事態と格闘しながら、人間性と魂についての思想をつきつ め、倫理と徳性の新しい基盤をみいだそうとする哲学者たちがみいだされる。

(4)社会運動、民衆運動、新たな理論
(a)不可避的に形成された社会運動
 どこにおいても、こうした並外れて暴力的かつ冷笑的な新しい支配者たちと対決しなが ら不可避的に形成された社会運動と共同戦線を張る知識人たちがみられる。
(b) 現実に関する対抗理論と民衆運動
 そこから人類史に とって新しい現象が生まれた。すなわち、知識人の運動でもある民衆運動である。このとき現 存する権力装置に対立する人びとは、現実の性質についての特定の種類の理論の名のもとに対 立するという想定が現れたのである。 

(5)民衆運動は平和運動であった
 どこにおいても、これらの運動は、政治の基盤としての暴力という新しい発想、とりわ け侵略的戦争を拒絶したがゆえに、なによりもまず平和運動であった。 

(6)負債によるモラル基礎づけの試み
(a) 市場によるモラル基礎づけ試み
 どこにおいても、非人格的市場によって提供された新しい知的道具を使って新しいモラルの基盤を考案してやろう、という初発的衝動があったようだ。そしてどこにおいても、それ は頓挫した。
(b)社会的利益による基礎づけ
 社会的利益という思想をもってその課題に応じた墨家は、 わずかのあいだ隆盛をきわめたかと思うと、たちまち瓦解した。そして、そのような思想を 全面的に拒絶した儒教が取って代ったのである。
(c)負債によるモラルの基礎づけ
 モラル上の責任を負債の 観点から再定義しようとする試みは、新たな経済的状況によってほとんど不可避的だったとはいえ、一様に不満を残すものであったようにみえる。
(d) 社会的絆も束縛と考える極論
 いっそう強力な衝動が、負債が全面的に廃棄されてしまうような、もうひとつの 世界を構想することのうちにはみられる。だがそこでは、ちょうど身体が監獄であるように、 諸々の社会的絆も束縛の諸形態とみなされてしまったのだ。

(7) 軍事=鋳貨=奴隷制複合体の危機
 統治者の姿勢は、時ともに変化した。当初は、個人としては冷笑的な現実政治の諸説を 信奉しながら、新しい哲学的、宗教的諸運動に対しては興味本位の寛容を示していた。だが、 交戦する諸都市および諸公国に大帝国がとってかわるにつれ、そしてとりわけこれらの帝国が 拡張の限界に達して軍事=鋳貨=奴隷制複合体を危機に引きずり込むにつれて、すべてが変化し た。

(8)貪欲が支配する市場と慈愛を強調する宗教
(a)市場と宗教への活動領域の分断
 最終的効果は、人間の活動領域の一種の観念的分断であって、それは今日まで続いている。すなわち、かたや市場、かたや宗教というわけである。
(b) 物財の獲得とは切り離された諸価値
 利己的な物財の獲得に社会のある部分をあてがったとする。すると、誰か別の人間が、それとは別の領域を確定しようとするであろうことは、ほぼ不可避である。 そしてその領域から説教をはじめるわけである。究極の価値という観点から物質的なものは無意味である、利己的なものは――自己すらも――幻想である。与えることは受け取ることより高貴である、と。
(c) 貪欲と対立的な寛大さや慈愛の強調
 枢軸時代の宗教が、それ以前には存在しないも同然だった慈愛の重要性をおしなべて強調したことは、間違いなく重要である。純粋な貪欲と純粋な寛大とは相補的な概念なのである。双方とも、非人格的で物理的な鋳貨が姿をあらわす場所であればどこでも、そろって出 現しているように思われる。




「こうしてみると、ここにみられるのは奇妙な往復運動、攻撃と反撃ということになる。そ んな動きによって、市場、国家、戦争、宗教のすべてが、たえず分離したり、あるいは結合し あうのである。可能なかぎり簡潔に要約してみよう。  (1)少なくとも近東においては、市場はまず政府の行政機構の副次的効果として出現したよ うだ。しかしながら時がたつにつれ、市場の論理は軍事的活動に巻き込まれていった。そこで は市場の論理は、枢軸時代の戦争における傭兵の論理とほとんど見分けがつかなくなり、最終 的にその論理が、政府それ自体を征服し、政府の目的そのものまで規定するようになった。  (2)その結果、軍事=鋳貨=奴隷制複合体の出現する場所ならどこにおいても、唯物論哲学の 誕生がみられるようになる。唯物論的であるというのは、次の二つの意味においてである。す なわち、聖なる諸力でなく物質的諸力から世界は形成されていること。人間存在の最終的目的 は物質的富の蓄積であるということ。そしてそこでは、徳性や正義のような諸理念も、大衆を 満足させるべく設計された道具として再文脈化されていった。  (3)どこにおいても、こうした事態と格闘しながら、人間性と魂についての思想をつきつ め、倫理と徳性の新しい基盤をみいだそうとする哲学者たちがみいだされる。  (4)どこにおいても、こうした並外れて暴力的かつ冷笑的な新しい支配者たちと対決しなが ら不可避的に形成された社会運動と共同戦線を張る知識人たちがみられる。そこから人類史に とって新しい現象が生まれた。すなわち、知識人の運動でもある民衆運動である。このとき現 存する権力装置に対立する人びとは、現実の性質についての特定の種類の理論の名のもとに対 立するという想定があらわれたのである。  (5)どこにおいても、これらの運動は、政治の基盤としての暴力という新しい発想、とりわ け侵略的戦争を拒絶したがゆえに、なによりもまず平和運動であった。  (6)どこにおいても、非人格的市場によって提供された新しい知的道具を使って新しいモラ ルの基盤を考案してやろう、という初発的衝動があったようだ。そしてどこにおいても、それ は頓挫した。社会的利益(social profit)という思想をもってその課題に応じた墨家は、 わずかのあいだ隆盛をきわめたかとおもうと、たちまち瓦解した。そして、そのような思想を 全面的に拒絶した儒教が取って代ったのである。すでにみたように、モラル上の責任を負債の 観点から再定義しようとする試みは――ギリシアとインドとに出現した衝だったが――新たな経済 的状況によってほとんど不可避的だったとはいえ、一様に不満を残すものであったようにみえ る。それよりいっそう強力な衝動が、負債が全面的に廃棄されてしまうような、もうひとつの 世界を構想することのうちにはみられる。だがそこでは、ちょうど身体が監獄であるように、 諸々の社会的絆も束縛の諸形態とみなされてしまったのだ。  (7)統治者の姿勢は、時ともに変化した。当初は、個人としては冷笑的な現実政治の諸説を 信奉しながら、新しい哲学的、宗教的諸運動に対しては興味本位の寛容を示していた。だが、 交戦する諸都市および諸公国に大帝国がとってかわるにつれ、そしてとりわけこれらの帝国が 拡張の限界に達して軍事=鋳貨=奴隷制複合体を危機に引きずり込むにつれて、すべてが変化し た。」(中略)  (8)その最終的効果は、人間の活動領域の一種の観念的分断であって、それは今日までつづ いている。すなわち、かたや市場、かたや宗教というわけである。もっとおおざっぱにいって みよう。利己的な物財の獲得に社会のある部分をあてがったとする[市場]。すると、だれか べつの人間が、それとはべつの領域を確定しようとするであろうことは、ほぼ不可避である。 そしてその領域から説教をはじめるわけである。究極の価値という観点から物質的なものは無 意味である、利己的なものは――自己すらも――幻想である。与えることは受けとることより高貴である、と。いずれにせよ枢軸時代の宗教が、それ以前には存在しないも同然だった慈愛の重 要性をおしなべて強調したことは、まちがいなく重要である。純粋な貪欲と純粋な寛大とは相 補的な概念なのである。どちらも他方抜きでは想像することすらできない。双方とも、そのよ うな純粋かつ目的の限定されたふるまいを要求する制度的文脈においてのみ生じえたのだ。そ して、双方とも、非人格的で物理的な鋳貨が姿をあらわす場所であればどこでも、そろって出 現しているようにおもわれる。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『負債論』,第9章 枢軸時代(前800- 後),pp.370-373,以文社(2016),酒井隆史(訳),高祖岩三郎(訳),佐々木夏子(訳))

負債論 貨幣と暴力5000年 [ デヴィッド・グレーバー ]






デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2022年3月6日日曜日

物々交換から始まって貨幣が発明され、そのあとで次第に信用システムが発展したというのは、事実ではない誤った理論である。注意深い研究は、まさにこの逆が真実であることを示す。確かに受け取ったという約束行為と、その約束を信じるという行為が貨幣の起源である。(アルフレッド・ミッチェル=イネス(1864-1950))

貨幣の起源

物々交換から始まって貨幣が発明され、そのあとで次第に信用システムが発展したというのは、事実ではない誤った理論である。注意深い研究は、まさにこの逆が真実であることを示す。確かに受け取ったという約束行為と、その約束を信じるという行為が貨幣の起源である。(アルフレッド・ミッチェル=イネス(1864-1950))
















   


(a)貨幣の歴史は書き改められていない
 新しい歴史はついに書かれなかった。どの経済学者も ミチェル・イネスを論駁することはなかった。ひたすら無視した。あらゆる証拠資料が物 語の誤りを明示しているにもかかわらず、教科書がそれを書き換えることはなかった。いまだ 貨幣の歴史は実質的には鋳貨の歴史として描かれている。




「ここにいたって貨幣の起源にかんする旧来の物語はほとんどあらゆる点で崩壊してしま う。ひとつの歴史的理論がここまで絶対的かつ系統的に論駁されることもまれであろう。20世 紀に入っての数十年で、貨幣の歴史を完全に見直すのに必要な著作はすべて出揃っていた。土 台となる作業をおこなったのは――先ほどの鱈の話題で参照した――ミチェル・イネスであり、 1913年と1914年にニューヨークの『銀行法雑誌(Banking Law Journal)』誌に発表され た2本の論文である。これらの論文のなかで、ミチェル・イネスは既存の経済史が足場をおい ている誤った前提をきわめて冷静に列挙しながら、真に必要なのは負債の歴史であると主張し ている。  『商業にかんして流布している誤謬のひとつは、次のようなものである。すなわち、近代に おいてはじめて貨幣を預金する仕組みが信用(クレジット)と呼ばれて導入され、かつこの仕 組みが知られる以前には、あらゆる購入は現金で、要するに貨幣によって支払われていた、 と。注意深い研究の示すのは、まさにこの逆が真実であるということである。旧時代に硬貨が 商業においてはたしていた役割は、今日よりはるかに小さかった。実際に、硬貨の量があまり に少なかったおかげで[中世イングランドの]王室と支配階級は、小規模の支払いのために、 さまざまな種類の代用貨幣を必要としたぐらいである。鋳貨の量があまりにもささやかだった のでときおり王たちはそれらすべての硬貨を再鋳造や再発行のために引き上げたが、それでも 商業にはさしつかえなかったのである。』  実のところ、貨幣史についての標準的見解はここからまったく後退している。物々交換からはじまって、貨幣が発見され、そのあとで次第に信用システムが発展したわけではない。事態 の進行はまったく逆方向だったのである。わたしたちがいま仮想貨幣と呼んでいるものこそ、 最初にあらわれたのだ。硬貨の出現はそれよりはるかにあとであって、その使用は不均等にし か拡大せず、信用システムに完全にとってかわるにはいたらなかった。それに対して物々交換 は、硬貨あるいは紙幣の使用にともなう偶然の派生物としてあらわれたようにみえる。歴史的 にみれば物々交換は、現金取引に慣れた人びとがなんらかの理由で通貨不足に直面したときに 実践したものなのだ。  興味深いことになにも起きなかった。新しい歴史はついに書かれなかった。どの経済学者も ミチェル・イネスを論駁することはなかった。ひたすら無視したのだ。あらゆる証拠資料が物 語の誤りを明示しているにもかかわらず、教科書がそれを書き換えることはなかった。いまだ 貨幣の歴史は実質的には鋳貨の歴史として描かれている。そこで想定されているのは、過去に おいて貨幣と鋳貨とはおなじものであったということである。いまだ鋳貨が大幅に消失した時 代については、経済が「物々交換に回帰した」時代だったと記述されている。この一節がなに を意味するのか、ほとんど知られていないにもかかわらず、あたかも自明のものとみなされて いる。その結果、たとえば950年に、あるオランダの街の住民は、いったいどのようにして、 じぶんの娘の婚礼のためにチーズやスプーンを購入し楽隊を雇ったのか、わたしたちにはほと んどなにもわからなくなっている。ましてやペンバやサマルカンドでこうした行事がどのよう に差配されたのか知るよしもないのである。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『負債論』,第2章 物々交換の神話,pp.62-64,以 文社(2016),酒井隆史(訳),高祖岩三郎(訳),佐々木夏子(訳))

負債論 貨幣と暴力5000年 [ デヴィッド・グレーバー ]

 
デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)








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