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2019年4月21日日曜日

9.行為は、3つの側面から評価される。予見可能な帰結の望ましさに関する理性による判断である道徳的側面、想像される動機や性格の望ましさによる審美的側面、動機や性格が引き起こす共感による共感的側面である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

行為の道徳的評価、審美的評価、共感的評価

【行為は、3つの側面から評価される。予見可能な帰結の望ましさに関する理性による判断である道徳的側面、想像される動機や性格の望ましさによる審美的側面、動機や性格が引き起こす共感による共感的側面である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.1)追記。

(3)ミルの考え
 (3.1)人間の行為は、3つの側面から評価される。行為の道徳的側面は最も重要であるが、他の側面と混同したり、他の側面を無視することは誤っている。
  (3.1.1)行為の道徳的側面
  《観点》ある行為の予見可能な帰結が、私たちにとって望ましいかどうかの「理性」による判断。
  《引き起こされる感情》是認したり、否認したりする。
  《行為に付与される属性》行為の正・不正。
  (3.1.2)行為の審美的側面
  《観点》ある行為が、望ましい動機や性格の徴候を示しているという「想像力」による判断。
  《引き起こされる感情》賞賛したり、侮蔑したする。
  《行為に付与される属性》行為の美しさ・醜さ。
  (3.1.3)行為の共感的側面
  《観点》ある行為が、共感できる動機や性格の徴候を示しているという「同胞感情」による判断。
  《引き起こされる感情》愛したり、憐れんだり、嫌悪したりする。
  《行為に付与される属性》行為の愛らしさ・行為への憎しみ。
  (3.1.4)ベンサムによる異論は次のとおりであるが、誤りである。
   (i)ある行為によって、賞賛や侮蔑、好き嫌いの感情が引き起こされたとしても、その行為がその人の望ましい動機や性格、あるいは悪い動機や性格の徴候であると推測することはできない。
   (ii)従って、利益や危害をもたらさない行為によって、その人を賞賛したり好んだり、あるいは軽蔑したり嫌悪したりすることは、不正義であり偏見である。
   (iii)「良い趣味」や「悪い趣味」という言いかたで趣味について賞賛したり非難したりすることは、一個人による無礼な独断論である。人の趣味は、その人が賢いのか愚かなのか、教養があるのか無知なのか、上品なのか粗野なのか、洗練されているのか粗雑なのか、繊細なのか無神経なのか、寛大なのか卑しいのか、慈愛的なのか利己的なのか、誠実なのか下劣なのかを示すものではない。

 (3.2)何が望ましいのかに関する理性による判断:道徳は2つの部分から構成されている。
  有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)だけでなく、その他の欲求や感情(b)も、何が望ましいのかに関する理性による判断の要素となっている。
   (i)人間の外面的な行為の規制に関するもの。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の世俗的利益に対してどのような影響を及ぼすか。
    参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (ii)自己教育:人間が自分で自分の感情や意志を鍛練することに関するもの。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の感情や欲求に対してどのような影響を及ぼすか。
    参照:(a)行為の望ましさは、外面的利害だけでなく、感情や意志の陶冶にもかかわる、(b)理性に基づく道徳的判断を推進する諸動機は、快・不快と利害に関する欲求だけでなく、自らの精神のあり方を対象とする諸感情を含む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.3)経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機。
   (i)自己涵養への願望のようなもの。
   (ii)自らの精神のあり方を直接の対象とするあらゆる精神的感情。
   (再掲)
    (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
    (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
    (b.7)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
    (b.8)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
    (b.10)私たちの意思を実現させる力への愛
    (b.11)運動や活動、行為への愛

 「彼は見過ごすことのできない別の誤りも犯している。

というのは、これほど、彼を人類に共通する感情に反対する立場に追いやりがちで、ベンサム主義者に対して一般に抱かれている考えを特徴づけている非情で機械的で不愛想な雰囲気を彼の哲学に与えがちなものはないからである。

この誤謬、というより一面性は、功利主義者としての彼に属しているものではなく、専門的道徳論者としての彼に属しているものであり、宗教的であっても哲学的であっても、ほとんど道徳論者を公称しているすべての人々に共通しているものである。

それは、行為や性格を《道徳的》観点から観察することはそれらを観察する第一のもっとも重要な仕方であることは間違いないけれども、あたかもそれが《唯一の》仕方であるかのようにみなすという誤りである。

ところが、それは3つの仕方の1つにすぎず、人間に対する私たちの感情はそれら3つのすべてによって大いに影響されるだろうし、影響されるに違いないし、私たちの本性が抑えこまれないかぎりは影響されざるを得ないのである。

人間のあらゆる行為は3つの側面をもっている。《道徳的》側面、すなわち行為の《正・不正》に関わる側面と、《審美的》側面、すなわち行為の《美しさ》に関わる側面と、《共感的》側面、すなわち行為の《愛らしさ》に関わる側面である。

第一のものは私たちの理性や良心に関わり、第二のものは私たちの想像力に関わり、第三のものは私たちの同胞感情に関わる。

私たちは第一のものに照らして是認したり否認したりし、第二のものに照らして賞賛したり侮蔑したりし、第三のものに照らして愛したり憐れんだり嫌悪したりする。

行為の《道徳性》はその予見可能な帰結に左右され、行為の美しさや愛らしさ、またはその逆は、行為がその徴候を示している性質に左右される。

こうして、嘘をつくことが《不正》なのは、その結果が人を惑わすということだからであり、人間同士の信頼を損なう傾向があるからである。それが《卑劣》でもあるのは、それが臆病だからであり――というのは、それは真実を話すことによる結果に向き合おうとしないことから起きているからである――あるいは、せいぜいよくても、活力や知性に欠陥のないあらゆる人が当然もっていると思われるような正攻法によって目的を達成する《力》が欠けていることの証拠だからである。

自分の息子たちを罰したブルトゥスの行為は、罪を犯したことが明白な人に対して祖国の自由にとって不可欠な法律を執行したのだから、《正しいもの》であった。それは類まれな愛国心、勇気および自制心の強さを示しており、《賞賛すべきもの》であった。しかし、そこには何ら《愛すべきもの》はなかった。それは愛すべき資質があったと推定しうる根拠を示しておらず、そのような資質が欠けていたと推定しうる根拠を示している。

もし息子たちの一人が兄弟に対する愛情から陰謀に加担していたとしたら、《彼の》行為は道徳的でも賞賛すべきものでもなかったかもしれないが、愛すべきものではあっただろう。

行為を観察するためのこれら3つの仕方を混同することは、どのような詭弁を弄してもできないことである。しかし、それらのうちひとつだけに固執して残りのものを見失うことはきわめてありうることである。

感情論は3つのうち後の2つを最初のものよりも上位に置くものであり、一般の道徳論者やベンサムの誤りは、後の2つを完全に無視することである。このことはベンサムにとりわけ顕著である。

彼は、あたかも道徳的基準がもっとも重要でなければならないだけでなく(それはそうであるが)、唯一のものでなければならないかのように、そして利益や危害をもたらさない行為や抱かれた感情に比例するだけの利益や危害をもたらされない行為によって人を賞賛したり好んだり、あるいは軽蔑したり嫌悪したりすることは不正義であり偏見であるかのように書いたり考えたりしていた。

彼はこのことに関しては実に徹底していたために、このような根拠のない好き嫌いと彼が考えていたものを表現しているものであるとして、自分がいるところでそれについて話されるのを耳にすることが我慢ならないいくつかの成句があった。

それらのなかには、《良い趣味》や《悪い趣味》という成句があった。彼は、趣味について賞賛したり非難したりすることは一個人による無礼な独断論であると考えていた。

それ自体は善くも悪くもないものに対する人々の好き嫌いは、人々の性格のあらゆる点に関してもっとも重要な推測を含んでいるわけではないし、人の趣味は、その人が賢いのか愚かなのか、教養があるのか無知なのか、上品なのか粗野なのか、洗練されているのか粗雑なのか、繊細なのか無神経なのか、寛大なのか卑しいのか、慈愛的なのか利己的なのか、誠実なのか下劣なのかを示すものではないかのように考えていた。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.154-156,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:行為の道徳的評価,行為の審美的評価,行為の共感的評価)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年4月20日土曜日

8.理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

究極的目的と二次的目的

【理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b)追記。


(1)利害関心がもたらす偏見や、情念が存在する。
(2)「義務」とは何か、何が「正しく」何が「不正」なのかに関する、私たちの考えが存在する。
(3)(1)偏見や情念と、(2)義務は一致しているとは限らない。
(4)義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、(a)は誤っており(b)が真実である。
 (a)私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a.1)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (a.2)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。

 (b)道徳、すなわち何が正しく、何が不正なのかの問題は、理性による判断である。
   義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (b.1)道徳は単なる感情の問題ではなく、理性と計算の問題である。
  (b.2)道徳問題は議論や討議に対して開かれている。すなわち、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり、不注意に選別されたりするようなものではない。
  (b.3)道徳は、何らかの目的の連鎖として体系化される。
   (i)行為の道徳性は、その行為が生み出す帰結によって決まる。
   (ii)究極的目的、人間の幸福とは何かという問題は、体系的統一性、一貫性、純粋に科学的見地から重要なものである。しかし、これは複雑で難解な問題であり、様々な意見が存在している。
   (iii)究極的目的から導出され、逆にそれを基礎づけることになる二次的目的、あるいは中間原理、媒介原理が、道徳の問題において重要な進歩を期待できるような、実践的な諸目的である。
   (iv)このような二次的目的は、究極的目的については意見を異にしている人々の間でも、合意することがあり得る。なぜなら、人類は自分たちの「本性」について一つの見解を持つことが困難でも、事実として、現にある一つの本性を持っているだろうからである。

 究極的目的、人間の幸福
  ↓
 二次的目的、中間原理、媒介原理
  ↓
 行為が生み出す帰結:行為の価値

  (b.4)ベンサムは、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理として、「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」を置いた。

(5)以上から、どのように考えどのように感じる「べき」なのかという問題が生じ、人類の見解や感情を、教育や統治を通じて陶冶していくということが、意義を持つ。
 (5.1)道徳論は、不変なものではなく、人類の経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで、知性とともに進歩していくものである。
 (5.2)倫理問題に取り組む唯一の方法は、既存の格率を是正したり、現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを目的とした、教育や統治である。

 「可能な範囲でベンサムの哲学の概要を述べてきたが、他の何にもまして彼の名前と同一視されている彼の哲学の第一原理、すなわち「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」についてほとんど述べてこなかったことに読者は驚かれたかもしれない。

もし紙幅があれば、あるいはベンサムについて正しい評価を下すために本当に必要ならば、この主題について論じられるべきことが多くある。

道徳の形而上学について論じるのにより適当な機会に、あるいはこのような抽象的な主題についての見解を分かりやすくするのに必要な説明をうまくおこなうことができるような機会に、この主題について私たちが考えていることを述べることにしよう。

ここで私たちが述べておきたいのは、その原理についてはベンサムとほとんど同意見であるが、彼がその原理に対して与えた重要性の度合についてはそうではないということだけである。

功利性、あるいは幸福はあまりにも複雑で漠然としすぎており、さまざまな二次的目的を媒介にすることなしには追求することができない目的であると私たちは考えている。

そして、これらの二次的目的に関しては、究極的基準については意見を異にしている人々の間でも合意することがありうるし、しばしば合意している。

また、これらの目的については、思想家の間に、道徳形而上学の重要な問題についてまったく相容れない見解の相違がみられることから想定されるよりもはるかに多くの意見の一致が実際に広く見られる。

人類は自分たちの本性について一つの見解をもつことよりも、一つの本性をもっているということの方がはるかにありうるから、中間原理、すなわち真の媒介原理(vera illa et media axiomata)とベーコンが呼んだものについて、第一原理についてよりも容易に一致するようになる。

そして、中間的目的と照らし合わせることよりもむしろ、究極的目的に照らし合わせることによって行為の意味を明らかにしたり、人間の幸福に直接照らし合わせることによって行為の価値を評価したりする試みは、一般的には、本当に重要な結果ではなく、もっとも簡単に指摘できたり個別に特定できたりする結果をもっとも重視することに終わる。

功利性を基準として採用している人々は、二次原理を媒介としないかぎりは、それを正しく適用することはめったにできないし、それを拒否している人々は、一般的には二次原理を第一原理へ昇格させているだけである。

 したがって、私たちは功利主義に関する議論を実践上の問題というよりも配列と論理的従属についての問題であり、倫理に関する哲学としての体系的統一性と一貫性のために、主として純粋に科学的見地から重要なものと考えている。

この主題についての私たち自身の見解がどのようなものであっても、私たちが倫理理論においてなされるに違いないと信じている重大な進歩を期待するのはこのようなものからではない。

しかし、ベンサムが成し遂げたあらゆることは功利性の原理に負っていること、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理を見つけだすことが必要であったこと、彼にとって体系的統一性が自身の知性に対して確信をもつために不可欠な条件であったことなどは確かなことである。

さらに指摘しておくことがある。すなわち、幸福が道徳の目指すべき目的であってもなくても――道徳が何らかの《目的》を目指していること、道徳が漠然とした感情や説明不能な内的な確信のうちに放置されないこと、道徳が単なる感情の問題ではなく理性と計算の問題であることなどは、道徳哲学の観念そのものにとって本質的な要素であり、現実に道徳問題に関する議論や討議を可能にしているものなのである。

行為の道徳性はそれが生み出す傾向にある帰結によって左右されるという事は、あらゆる学派の理性的な人々によって認められている理論である。

そして、こうした帰結の善悪はもっぱら快楽と苦痛によって判定されるということは、功利性を支持する学派によって全面的に認められている理論であり、これはこの学派に特有のものである。

 ベンサムが功利性の原理を採用したことによって行為の道徳性を確定するために考慮するべきこととしてその《帰結》に注意を向けたという点に関するかぎり、少なくとも彼は正しい道を進んでいた。

とはいえ、迷うことなくこの道を進んでいくためには、性格形成や行為が行為者自身の精神構造に与える影響についてベンサムがもっていたよりもいっそう深い知識が必要であった。

彼にこのような種類の影響を評価する能力が欠如していたことは、この主題に関する人類の経験が具現化されている伝統的な考えや感情に当然払うべき(盲従とはまったく違う)適度な敬意が足りなかったこととあいまって、彼を実践倫理上の問題に関してまったく信頼のおけない案内役にしてしまっているように思われる。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.152-154,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳,目的,究極的目的,二次的目的,中間原理,媒介原理)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年4月14日日曜日

7.民主主義的な制度は、次の二つの感情を維持し強化し得るものであること。(a)個人の人格に対する配慮、(b)教養ある知性に対する敬意。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

個人の人格に対する配慮と教養ある知性に対する敬意

【民主主義的な制度は、次の二つの感情を維持し強化し得るものであること。(a)個人の人格に対する配慮、(b)教養ある知性に対する敬意。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1.3)追記。
(2.1)追記。
(3.2)追記。

(1)多数派が、政治的権力の担い手であることは、概して正しい。
  多数派による政治的権力の行使は、概して正しい。ただし、様々な少数派の意見を反映し得る制度が必要だ。思想の自由、個性的な性格、たとえ多数派に嫌悪を抱かせる道徳的・社会的要素も、保護されるべきである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 (1.1)ただし、このこと自体が正しいわけではない。
 (1.2)少数派による支配や、他のどのような状態よりも、不正の程度が低い。
 (1.3)多数派は、次の二つの感情を持つ必要がある。
  (a)個人の人格に対する配慮
  (b)教養ある知性に対する敬意
(2)多数派に、絶対的権力を与えることの弊害
 (2.1)どのような社会においても数の上での多数派は同じような社会的境遇のもとにあり、同じような偏見や情念や先入見を持っているだろう。
  (a)利益に根ざした偏見
   (a.1)自らの私的利益を追求することは、人間の生来の傾向である。
   (a.2)利己的な性向に自分が屈している時に、「これは義務であり、徳である」と、そうしていないかのように自分を納得させる。
  (b)階級利益に基づく階級道徳(これは、ベンサムが解明した)
   (b.1)ともに交流し合い共通の利害を持っている人々の集団が、その共通の利益を基準に、自分たちの道徳を形成している。
   (b.2)歴史において、もっとも英雄的で公平無私な行為と思われたものが、このような階級道徳に導かれている。

 (2.2)仮に、多数派に絶対的権力を与えるならば、多数派の偏見、情念、先入見の欠点を是正することができなくなる。その結果、人間の知的・道徳的性質をさらに改善することができなくなり、社会は不可避的に停滞、衰退、あるいは崩壊していくだろう。
(3)社会の中に、様々な少数派の人びとが存在することの必要性
 (3.1)少数派の存在が、多数派の偏見、情念、先入見を是正する契機にし得るような制度が必要である。
 (3.2)それは、思想の自由と個性的な性格の避難場所になり得ること。
  民主主義的な制度は、次の二つの感情を維持し強化できるようなものでなければならない。
   (a)個人の人格に対する配慮
   (b)教養ある知性に対する敬意
 (3.3)仮に、支配的権力が嫌悪の目で見るような道徳的・社会的要素であったとしても、それが消滅させられないよう、守られる必要がある。
 (3.4)かつて存在していた偉大な人のほとんどすべては、このような少数派であった。

 「これらのことを考慮すると、国王や貴族院を排除し普通選挙によって多数派を主権者の座に就かせることだけで満足せず、すべての公吏の首の周りを世論の軛で縛り上げる方法を工夫したり、少数派や公吏自身の正義についての考えかたがわずかでも、あるいはほんの一時であっても影響を与えるあらゆる可能性を排除するための方法を工夫したりするために、彼のあらゆる創意が傾けられていたときに、私たちはベンサムが自らの卓越した能力を用いてもっとも有用な仕事を成し遂げたと考えることはできない。

たしかに、何らかの力を最強の力とした時点で、その力のために十分なことをしたのである。

それ以降は、最強の力が他のすべてを併呑してしまわないようにするための配慮がむしろ必要となる。

社会におけるあらゆる力が一つの方向のみに向かって働いているときにはいつでも、個々の人間の権利は深刻な危機にさらされている。

多数派の力は《攻撃的》にではなく《防御的》に用いられているかぎり――すなわち、その行使が個人の人格に対する配慮と、教養ある知性に対する敬意によって和らげられているときには――有益なものである。

もしベンサムが、本質的に民主主義的な制度をこれら二つの感情を維持し強化するのにもっとも適したものにするための方策を明らかにすることに従事していたならば、彼はより永続的な価値があることや彼の卓越した知性によりふさわしいことを成し遂げていただろう。

モンテスキューが現代を知っていたならこのことを成し遂げただろう。私たちは、私たちの時代のモンテスキューであるド・トクヴィル氏からこのような恩恵を受け取ることになるだろう。

 それでは、私たちはベンサムの政治理論を無用のものと考えているのだろうか。そのようなことは断じてない。私たちはそれが一面的であると考えているだけである。

彼は完全な統治がもつべき理想的条件のうちのひとつ――受託者たちの利益と彼らに権力を信託している共同体の利益が一致すること――をはっきりと明るみにだし、無数の混乱と誤解を取り除き、それを発展させる最良の方法を見事なほど巧みに明らかにした。

この条件はその理想的完全の域には到達できないものであるうえに、他のあらゆる要件についても絶えず考えながら追求されなければならない。

しかし、他の要件を追求するためには、この条件を見失わないでいることがなおいっそう必要となる。この条件が他のものよりもわずかでも後回しにされるときには、その犠牲はしばしば不可欠なものであるけれども、つねに害悪を伴うことになる。

ベンサムは現代ヨーロッパ社会においてこの犠牲がいかに全面的なものになってきているかを明らかにし、そこでは一部の邪悪な利益が世論によってなされるような抑制を受けているのみで、支配的権力をどれほど独占しているかを明らかにした。

そして、世論はこのようにして現存の秩序においてつねに善の源泉であるように思われたので、彼は生来の偏見によってその内在的な優越性を誇張するようになった。

ベンサムは邪悪な利益を、あらゆる偽装を見破りながら、とりわけそれによって影響を受ける人々から隠蔽するための偽装を見破りながら探し出した。

普遍的な人間本性の哲学に対する彼の最大の貢献はおそらく彼が「利益に根ざした偏見(interest-begotten prejudice)」と呼んだもの――自らの私的利益を追求することを義務であり徳であるとみなす人間の生来の傾向――を例証したことだろう。

たしかに、この考えはけっしてベンサムに固有のものではなかった。利己的な性向に自分が屈している時にそうしていないかのように自分を納得させるずる賢さはあらゆる道徳論者の注意をひいてきたし、宗教的著述家は人間の心の深遠さや屈曲についてベンサムよりすぐれた知識をもっていたために、このことについてベンサムよりも深く調べていた。

しかし、ベンサムが例証したのは、階級利益の形をとった利己的な利害関心であり、それに基づいた階級道徳である。

彼が例証したのは、ともに交流しあい共通の利益をもっている人々の集団がその共通の利益を自分たちの徳の基準にしがちであることや、そこから歴史において頻繁に実証されているような、もっとも英雄的な公平無私ともっとも醜悪な階級利益との間の結びつきが生じてくるということである。

これがベンサムの主要な考えのひとつであったし、彼が歴史の解明に貢献したほとんど唯一のものであった。これによって説明されるものを除けば、歴史の大部分は彼にとってまったく不可解なものであった。

このような考えを彼に与えたのはエルヴェシウスであり、彼の著作『精神論』ではこの考えについて全体にわたってこの上なく鋭い解説がなされている。

この考えは、エルヴェシウスによる別の重要な考えである性格に対する環境の影響という考えとあいまって、他のすべての18世紀の哲学者が文学史の中にのみ名をとどめるようになるときにも、彼の名をルソーとともに後世に残すことになるだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.149-151,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:個人の人格に対する配慮,教養ある知性に対する敬意)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年4月9日火曜日

6.多数派による政治的権力の行使は、概して正しい。ただし、様々な少数派の意見を反映し得る制度が必要だ。思想の自由、個性的な性格、たとえ多数派に嫌悪を抱かせる道徳的・社会的要素も、保護されるべきである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

多数派による政治的権力と、少数派の存在

【多数派による政治的権力の行使は、概して正しい。ただし、様々な少数派の意見を反映し得る制度が必要だ。思想の自由、個性的な性格、たとえ多数派に嫌悪を抱かせる道徳的・社会的要素も、保護されるべきである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)多数派が、政治的権力の担い手であることは、概して正しい。
 (1.1)ただし、このこと自体が正しいわけではない。
 (1.2)少数派による支配や、他のどのような状態よりも、不正の程度が低い。
(2)多数派に、絶対的権力を与えることの弊害
 (2.1)どのような社会においても数の上での多数派は同じような社会的境遇のもとにあり、同じような偏見や情念や先入見を持っているだろう。
 (2.2)仮に、多数派に絶対的権力を与えるならば、多数派の偏見、情念、先入見の欠点を是正することができなくなる。その結果、人間の知的・道徳的性質をさらに改善することができなくなり、社会は不可避的に停滞、衰退、あるいは崩壊していくだろう。
(3)社会の中に、様々な少数派の人びとが存在することの必要性
 (3.1)少数派の存在が、多数派の偏見、情念、先入見を是正する契機にし得るような制度が必要である。
 (3.2)それは、思想の自由と個性的な性格の避難場所になり得ること。
 (3.3)仮に、支配的権力が嫌悪の目で見るような道徳的・社会的要素であったとしても、それが消滅させられないよう、守られる必要がある。
 (3.4)かつて存在していた偉大な人のほとんどすべては、このような少数派であった。

 「現代ヨーロッパにおける貴族制的な政府、すなわち(慎慮や時には人間らしい感情が妨げた場合を別にすれば)少数者の私的利益と安楽のために共同体全体を完全に犠牲にすることによって成り立っている政府に対する反動の時代にあっては、このような理論がもっとも高潔な精神の持ち主によって容認されるということは十分にありうることである。

ヨーロッパの改革論者は、数の上での多数派があらゆるところで不当に抑圧され、あらゆるところで蹂躙され、せいぜいよくても無視されているのをつねに見てきたし、あらゆるところで多数派がもっとも明白な不満の原因を是正させたり、精神的涵養のための措置を求めたりするために十分な力をもっておらず、支配階級の金銭的な利益のために公然と税負担を求められることを阻止するために十分な力さえもっていないことも見てきた。


これらのことに目を向け、(とりわけ)多数派により多くの政治的権力を与えることによってこれらに終止符を打とうとすることが急進主義の特質である。

現代においてきわめて多くの人がこのような願望を抱き、これを実現することは人々が自らの身をささげる価値のある目的であると考えられていたことが、ベンサム流の統治論が支持された理由である。

しかし、ある悪い形態の統治から別の悪い形態へと移行することは人類のありふれた運命であるとしても、哲学者は重要な真理の一部を別のもののために犠牲にすることによって、このような運命に加担してはならない。

 どのような社会においても数の上での多数派は同じような社会的境遇のもとにあり、主に同じ職業についている人々、すなわち未熟練単純労働者から成り立っているに違いない。

私たちは彼らをみくびってはいない。彼らに不利なことを述べているときにはそれが何であっても、商人や郷士の多数者についても当てはまることを述べているのである。

同じような境遇や職業にある場合には、同じような偏見や情念や先入見をもっているだろう。

いずれか一組の偏見や情念や先入見に対して、別の種類の偏見や情念や先入見によって均衡を図ることなしに絶対的権力を与えることは、その欠点を是正することを絶望的にし、狭隘で貧相な類いの人間本性を普遍的で永続的なものとし、人間の知的・道徳的性質をさらに改善するようなあらゆる勢力を粉砕してしまう。

私たちは社会には傑出した権力が存在していなければならないことは理解しているし、多数派がその権力であることは概して正しいことであるが、それはそのこと自体が正しいからではなく、この問題を扱うのに他のどのような状態よりも不正の程度が低いからである。

しかし、社会の制度は何らかの形で、不公平な見解を是正するものとしての、そして多数派の意志に対する永続的で常駐的な反対勢力である思想の自由と個性的な性格の避難場所としての備えを整えておくことが必要である。

長い間進歩的であり続けた、あるいは長い間偉大であったあらゆる国がそうあれたのは、支配的な力がどのような種類であったとしても、その力に対する組織的な反対勢力が存在していたからである。

すなわち、[古代ローマの]貴族階級に対する平民階級、国王に対する聖職者、聖職者に対する自由思想家、貴族に対する国王、国王と貴族に対する庶民のような反対勢力である。

かつて存在していた偉大な人のほとんどすべてはこのような反対勢力を形成していたのである。

そのような争いがおこなわれてこなかったようなところではどこでも、あるいはそのような争いが相争う原理のうちの一方による完全な勝利によって終結し、古い争いに代わる新しい争いが起きなかったところではどこでも、社会は中国的停滞にとどまるか、あるいは崩壊してきたのである。

多数派の意見が主権を掌握しているところにおいても、支配的権力が聖職階級だったり貴族階級であったりするところにおいても、支配的権力が嫌悪の目で見るようなあらゆる道徳的・社会的要素がその周りに集まっているような、そしてそのような権力によって捕らえられて消滅させられようとすることからその防壁に隠れて避けることができるような抵抗の中心が必要である。

そのような拠点が存在していないところでは、人類は不可避的に衰退していくだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.147-149,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:多数派,少数派,思想の自由,個性的な性格,偏見,情念,先入見)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年4月6日土曜日

5.(a)法を基礎づける人間本性の原理、(b)目的と手段の体系、(c)解釈、修正、改善に必要な情報を完全に含む法典の体系化方法、(d)細部に及ぶ明確、正確な議論、具体的な改善案、(e)その適応例として訴訟法。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

ベンサムの法哲学

【(a)法を基礎づける人間本性の原理、(b)目的と手段の体系、(c)解釈、修正、改善に必要な情報を完全に含む法典の体系化方法、(d)細部に及ぶ明確、正確な議論、具体的な改善案、(e)その適応例として訴訟法。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.7)追加。

(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。
 (2.7)ベンサムの法哲学
  (2.7.1)法律の規定を検証するための、人間本性の原理を体系的に考察すること。
  (2.7.2)法哲学から神秘主義を駆遂し、ある明白で正確な目的に対する手段として、実際的な見地から法律を見ることの模範を示すこと。
  (2.7.3)法観念一般、法体系の観念やそれらの中に含まれている様々な一般的観念に付随している混乱や曖昧さを一掃すること。
   (i)曖昧さは、明確さと正確さによって対処すること。
   (ii)細部は、一般論によってではなく細部によって論ずること。
   (iii)既存のものが悪いことを示すだけではなく、具体的な改善案を提示すること。
  (2.7.4)すべての法律を、体系的に配列された一法典に転換すること。
   (a)従来の法典
    (a.1)専門用語が明確に定義されていない。
    (a.2)その結果、専門用語の意味を知るために、絶え間なく過去の判例を参照する必要がある。
   (b)体系的な法典
    (b.1)解釈のために必要なものを、すべて含む。
    (b.2)法典の修正や改善に必要な情報が、つねに整えられている。
    (b.3)法典の構成要素、諸要素間の関係、命名法、配列の仕方等、体系化方法を明確にする。
    (b.4)体系の全体構成において、不足要素が明確にされており、追加が容易にできる。
  (2.7.5)「司法制度や証拠に関する哲学も含めた訴訟手続に関する哲学が法哲学の他のいかなる部門よりも悲惨な状態にあることを発見し、それを一挙にほとんど完成の域にまでもっていった」。

 「栄誉はすべて彼のものである――彼の特別な資質以外には何もこれを成し遂げることはできなかっただろいう。

彼の不屈の忍耐力、他の人の意見によって支援されることを必要としない自立心、きわめて実際的な性分、総合的な習性――そして、とりわけ独自の方法が必要であった。

形而上学者は曖昧な一般論を武器としてこの主題にしばしば取り組んだが、自分たちが見いだしたままで進展させることはなかった。

法律は実際的な問題である。そこで検討されなければならないものは手段と目的であって、抽象観念ではなかった。

曖昧さは曖昧さによってではなく、明確さと正確さによって対処された。

細部は一般論によってではなく細部によって論じられた。

このような主題においては、既存のものが悪いことを示すだけでは何らかの進展を図ることはできず、どのようにすればそれらを良いものにできるかを示すことも必要であった。

ベンサム以外には、私たちが読んだことのあるどのような偉人もこのことをするのに適任ではなかった。彼はそれを決定的に成し遂げた。これらの著作[著作集]とこれから続いて出版される巻を見ていただきたい。

 ベンサムが成し遂げたことの詳細については立ち入ることはできない。ある程度の要約を作るだけでも数百頁が必要になるだろう。

私たちの評価を少数の項目のもとにまとめておくことにしよう。第一に、彼は法哲学から神秘主義を駆遂し、ある明白で正確な目的に対する手段として実際的な見地から法律を見ることの模範を示した。

第二に、彼は法観念一般、法体系の観念やそれらのなかに含まれているさまざまな一般的観念に付随している混乱や曖昧さを一掃した。

第三に、彼は《法典化》(codification)、言い換えれば、すべての法律を成文の体系的に配列された一法典に転換することの必要性と実現可能性を実証した。

それは、単一の定義を含んでおらず、あらゆる専門用語の意味を知るために絶え間なくそれまでの判例を参照しなければならないナポレオン法典のような法典ではなく、解釈のために必要なものをすべてその中に含み、法典そのものを修正したり改善したりするための準備がつねに整えられているような法典である。

彼はそのような法典がどのような部分から成り立っているか、そして部分同士はどのような関係にあるかを示し、彼らしい区別と分類によって、その命名法と配列の仕方はどのようなものでなければならないか、あるいはどのようなものになりうるかを示すために多くのことをなした。

彼がやり残したことについても、彼は他の人が多少とも簡単にできるようにしておいた。

第四に、彼は民法が備えようとしている社会の緊急事態や民法のもろもろの規定を検証する人間本性の原理を体系的に考察した。この考察は、精神的利益が考慮されなければならないときはつねに(私たちがすでにほのめかしたように)不完全なものであるが、物質的利益を保護するために策定されるあらゆる国の法律にとっては優れたものである。

第五に、(注目すべき仕事がすでになされていた刑罰という主題については言うまでもないことだが)彼は、司法制度や証拠に関する哲学も含めた訴訟手続に関する哲学が法哲学の他のいかなる部門よりも悲惨な状態にあることを発見し、それを一挙にほとんど完成の域にまでもっていった。

彼がその原理をひとつ残らず確立させたので、実際の制度を示そうとするときでさえするべきことはほとんど残されていない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.141-142,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:ベンサムの法哲学,法律,人間本性,目的と手段,法典)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年4月2日火曜日

4.(a)行為の望ましさは、外面的利害だけでなく、感情や意志の陶冶にもかかわる、(b)理性に基づく道徳的判断を推進する諸動機は、快・不快と利害に関する欲求だけでなく、自らの精神のあり方を対象とする諸感情を含む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

ベンサム道徳論の限界を超える

【(a)行為の望ましさは、外面的利害だけでなく、感情や意志の陶冶にもかかわる、(b)理性に基づく道徳的判断を推進する諸動機は、快・不快と利害に関する欲求だけでなく、自らの精神のあり方を対象とする諸感情を含む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.3)、(b.4)追記。
(2.5.1)~(2.5.3)追記。
(3.2.1)、(3.2.2)追記。


(1)人間が持つ欲求、感情、傾向性
 (a)有害なものを避け、幸福を願う欲求
 (b)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情
  (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
  (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
  (b.3)共感
  (b.4)一般的博愛:義務の感情や個人的利害からではなく、誰でもが抱く博愛の感情
  (b.5)愛することへの愛:同情的な支持を必要とすること。
    また賞賛、崇敬する対象を必要とすること。
  (b.6)良心の感情:是認したり非難したりする感情
  (b.7)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
  (b.8)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
  (b.9)芸術家の情熱である美への愛
  (b.10)私たちの意思を実現させる力への愛
  (b.11)運動や活動、行為への愛
(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。
(3)ミルの考え
 (3.1) 義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)だけでなく、その他の欲求や感情(b)も、何が望ましいのかに関する理性による判断の要素ともなり得るし、経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機の一つともなっている。
  (3.2.1)何が望ましいのかに関する理性による判断:道徳は2つの部分から構成されている。
   (i)人間の外面的な行為の規制に関するもの。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の世俗的利益に対してどのような影響を及ぼすか。
   (ii)自己教育:人間が自分で自分の感情や意志を鍛練すること。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の感情や欲求に対してどのような影響を及ぼすか。
  (3.2.2)経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機。
   (i)自己涵養への願望のようなもの。
   (ii)自らの精神のあり方を直接の対象とするあらゆる精神的感情。
   (再掲)
    (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
    (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
    (b.7)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
    (b.8)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
    (b.10)私たちの意思を実現させる力への愛
    (b.11)運動や活動、行為への愛

 「共感はベンサムが私欲によらない動機として認めていた唯一のものであるが、それはある限定的な場合を除けば有徳な行為を保証するものとしては不十分なものであると彼は思っていた。

他のあらゆる感情と同じように、個人的愛情は第三者に危害をもたらしがちであり、したがってつねに抑制される必要があるということを彼はよく理解していた。

人類全体に作用する動機と考えられている一般的博愛については、それが義務の感情と切り離されたときに現われる本当の価値を評価し、あらゆる感情のなかでもっとも弱くもっとも不安定なものとした。

人類が影響を受け、彼らを善に導くかもしれない一つの動機として、個人的利益だけが残された。したがって、ベンサムの世界観は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている集合体というものであり、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことは3つの源泉――法律、宗教および世論――から生じる希望と恐怖によって防止されなければならないというものである。

人間の行為を拘束するものとみなされたこれらの3つの力に対して、彼は《強制力》(sanction)という名称を与えた。すなわち、法律の与える賞罰によって作用する政治的強制力、宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する宗教的強制力、彼が特徴的に《道徳的》強制力とも呼んでいる、私たちの同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する《民衆的》強制力である。


 このようなものが世界についてのベンサムの見解である。これから私たちは、弁明しようという精神でも非難しようという精神でもなく、冷静に評価しようという精神をもって、人間本性や人間の生についてのこのような見方がどの程度まで通用するのか――すなわち、それは道徳においてどれほどのことを成し遂げるのか、また、政治・社会哲学においてどれほどのことを成し遂げるのか、さらに、個人にとってどのように役に立ち、社会にとってどのように役に立つのか――を検討することになる。

 これは個人の行為については、世俗的な慎慮と表面的な誠実さや慈愛についてもっとも明白な指示をいくつか示すこと以上には何の役にも立たないだろう。

個人の性格形成に際して助けになろうとしないような、また自己涵養への願望のようなもの、さらにはそのような能力と言ってもよいだろうが、そのようなものが人間本性に存在していることを認識しないような倫理学体系のもつ欠陥については詳述する必要はない。

そして、仮に認識していたとしても、自らの精神のあり方を直接の対象とするあらゆる精神的感情を含めた、人間が抱きうる精神的感情の約半数の存在を見落としているために、人間のこの重要な義務にとってほとんど助力を与えることができていないようなものについても同様である。

 道徳は2つの部分から構成されている。そのひとつは自己教育、すなわち人間が自分で自分の感情や意志を鍛練することである。この領域はベンサムの体系においては空白である。

もうひとつの同等の部分は、人間の外面的な行為の規制に関するものであるが、第一のものがなければ、まったく不十分で不完全なものであるに違いない。

というのも、ある行為が私たち、あるいは他の人々の感情や欲求を規定する際にどのような影響を及ぼすかということを問題の一部として考慮しないとしたら、ある行為が私たち自身、あるいは他の人々の世俗的利益に対してどのような仕方で多くの影響を与えるかを、私たちはどのようにして判断できるだろうか。

ベンサムの原理に立脚している道徳論者も、殺すなかれ、放火するなかれ、盗むなかれという程度のことには到達できるだろう。

しかし、人間の行為のより微妙な違いを規定したり、この世界の状況に影響を及ぼすこととはまったく別に、性格の深みに影響するような人間の生についての事実――たとえば、男女間の関係、家族一般の関係、その他の何らかの親密な社会的・共感的関係など――に対して、より重要な道徳性を認める能力があるだろうか。

これらの問題の道徳性は、ベンサムがその適格な判定者でもなく、彼が決して考慮することのなかったような事柄を考察することに左右されるのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.130-132,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳論,自らの精神のあり方を対象とする諸感情)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年3月31日日曜日

3.有害なものを避け幸福を願う欲求だけでなく、他の諸欲求や感情も道徳論にかかわっている:完全性への欲求、秩序と調和への愛、良心の感情、愛することへの愛、個人の尊厳の感情、廉恥心など。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

道徳と人間の諸欲求、諸感情

【有害なものを避け幸福を願う欲求だけでなく、他の諸欲求や感情も道徳論にかかわっている:完全性への欲求、秩序と調和への愛、良心の感情、愛することへの愛、個人の尊厳の感情、廉恥心など。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)人間が持つ欲求、感情、傾向性
 (a)有害なものを避け、幸福を願う欲求
 (b)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情
  (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
  (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
  (b.3)良心の感情:是認したり非難したりする感情
  (b.4)愛することへの愛:同情的な支持を必要とすること、また賞賛、崇敬する対象を必要とすること
  (b.5)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
  (b.6)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
  (b.7)芸術家の情熱である美への愛
  (b.8)私たちの意思を実現させる力への愛
  (b.9)運動や活動、行為への愛
(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。
(3)ミルの考え
 (3.1) 義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)だけでなく、その他の欲求や感情(b)も、何が望ましいのかに関する理性による判断の要素ともなり得るし、経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機の一つともなっている。

 「彼が見落としているのは、厳密な意味での人間本性の道徳的部分――完全性への欲求や是認したり非難したりする良心という感情――だけではない。彼は他のあらゆる理想的目的をそれ自体として追求することを人間本性に関する事実としてほとんど認識していない。

廉恥心や個人の尊厳――すなわち他者の意見とは無関係に、あるいはそれに反抗して作用する個人の高揚や堕落の感情、芸術家の情熱である《美》への愛、あらゆる事物における《秩序》、適合、調和やそれらが目的にかなっていることへの愛、他の人間に対する力という狭い意味の力ではなく、私たちの意思を実現させる力である抽象的な《力》への愛、運動や活動に対する渇望であって、それと反対のものである安楽への愛にほとんど劣らない影響を人間の生に及ぼす信条である《行為》への愛。

これらの人間本性の有力な構成要素のうちどれも「行為の動機」の中に位置を占める価値があると考えられていないし、これらのうちベンサムの著作のどこかでその存在を認知されていないものはおそらくひとつもないだろうが、そうした認知に立脚している結論はひとつもない。

もっとも複雑な存在である人間も彼の目にはきわめて単純な存在に映っている。

共感という項目においてすら、彼の理解はより複雑な形態をとっているその感情――《愛すること》への愛、すなわち同情的な支持や賞賛したり崇敬したりする対象を必要とすること――までは及んでいない。

仮に彼が人間本性のうちのより深遠な感情のいずれかについて熟考したとしても、それは単に奇特な趣向とみなされ、それが引き起こすかもしれない行為のうち有害なものを禁じる以外には、道徳論者も立法者も関心を示すことがないようなものとみなされた。

人があるものに対して快を感じるべきだとか感じるべきでないとか、別のものに対して不快に思うべきだと言ったりすることは、政治的支配者の場合と同じように、道徳論者の場合にも専制的行為であると彼には思われた。

 (偏狭で感情的な敵対者がこのような場合にしがちなように)人間本性に関するこの描写がベンサム自身を模写したものであると推測するとしたら、また、彼が動機表から除いた人間性の構成要素のすべてが彼の脳中に欠けていたと推定するとしたら、それは彼に対してきわめて不当であろう。

徳に対して彼が若い頃に抱いていた感情の並外れた強さは、すでにみたように、彼のあらゆる思索の発端となったものであったし、道徳、とりわけ正義に関する気高い感覚が彼のあらゆる思索を導き、そこに浸透している。

しかし、人類(というよりむしろ感覚をもつあらゆる存在)の幸福を、それ自体として望ましい唯一のものとして、あるいはそれ以外のあらゆるものを望ましいものにする唯一のものとして想定することを若い頃から習慣としてきたために、彼は自分の中に見出したあらゆる私欲のない感情を人類の幸福を願う感情と混同していた。

それは、宗教的著述家たちの幾人かが、おそらく人間にはこれ以上できないほどの強さで徳をそれ自体として愛していたが、習慣的にその徳に対する愛を地獄に対する恐怖心と混同したのと同じであった。

しかし、長い間にわたる慣習によっていつも同じ方向に作用するようになっている感情を相互に区別するためには、ベンサムがもっていた以上の繊細さが必要とされただろう。彼は想像力を欠いていたので、この区別が十分に分かりやすい場合でも、他者の心の中にあるこの区別を読み取ることができなかった。

 それゆえに、このような重大な見落としをしているという点に関しては、彼から受けた知的恩恵の大きさゆえに彼の弟子とみなされてきている才能ある人々のうちで、彼にしたがう人は誰もいなかった。

彼らは功利性の理論について、また正・不正の一つの判断基準として道徳感覚を認めることを拒否するということについては、彼に従っていたかもしれない。しかし、そのようなものとしての道徳感覚は否定しながら、彼らはハートリとともにそれを人間本性における一つの事実として是認し、それに説明を与え、その法則を確定しようと努めてきた。

私たちの本性のこの部分を過小評価していたとして彼らを非難することも、それを思索の後方へ押しやりがちであるとして彼らを非難することも正当ではない。この基本的な誤りの何らかの影響が彼らにまで及んでいるとしても、それは迂回的に、ベンサムの理論の他の部分が彼らの精神に与えた結果としてである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.128-130,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:完全性への欲求,秩序と調和への愛,良心の感情,愛することへの愛,個人の尊厳の感情,廉恥心)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年3月30日土曜日

2.義務や正・不正を基礎づけるものとして、人々が考えついた様々な成句:道徳感覚、共通感覚、悟性、永久不変の正義の規則、事物の適性との調和、自然法、理性の法、自然的正義、公正、良い秩序、神の啓示。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

義務や正・不正を基礎づけるもの

【義務や正・不正を基礎づけるものとして、人々が考えついた様々な成句:道徳感覚、共通感覚、悟性、永久不変の正義の規則、事物の適性との調和、自然法、理性の法、自然的正義、公正、良い秩序、神の啓示。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))】

 何が正しく何が不正かを教えてくれるという「道徳感覚」と同じように、人々が考えついた様々な表現の仕方がある。
(a)何が正しく何が不正かは、私たちの「共通感覚」が教えてくれる。
 (a.1)共通感覚は、人間が持っている普遍的な感覚であり、すべての人が持っている。
 (a.2)特別の人だけが持てる特殊な感覚ではなく、私たちが共通に持っている。
 (a.3)それにもかかわらず、同じ感覚を持っていない人の感覚は、どのように扱われるのか。それは、考慮する価値のないものとして排除されることになる。
(b)何が正しく何が不正かは、私たちの「悟性」が教えてくれる。
 (b.1)しかし、悟性とは何なのか。
(c)何が正しく何が不正かは、「永久不変の正義の規則」が教えてくれる。
 (c.1)道徳感覚や共通感覚は、永久不変の正義の規則に由来して生じるものである。
 (c.2)しかし、永久不変の正義の規則とは何なのか。
(d)何が正しく何が不正かは、「事物の適性と調和するか、一致しないか」に由来する。
 (d.1)しかし、何が「調和的」であり、何が「一致しない」ことなのか。
(e)何が正しく何が不正かは、「自然法」が教えてくれる。
 (e.1)道徳感覚や共通感覚は、自然法に由来して生じるものである。
 (e.2)しかし、自然法とは何なのか。
(f)何が正しく何が不正かは、「理性の法」、「正しい理性」、「自然的正義」、「自然的公正」、「良い秩序」が教えてくれる。
 (f.1)いずれも、問題になっている事柄が、ある適切な基準に従っていることを表現している。
 (f.2)しかし、適切な基準は具体的には何なのか。
 (f.3)この基準は、多くの場合、功利性である。明確に言えば、快と苦痛による基準である。
(g)何が正しく何が不正かは、「私が知っている」と率直に言う人がいる。その人は、神に選ばれた人である。
 これらの成句は、それが根拠とする基準と、論拠として認められ得る意味と範囲が確定されない限りは、自己の主観的な感覚・感情に基づいた根拠の曖昧な主張を、世間と自己自身に隠し立てておくための表現にしかならない。

(出典:wikipedia
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
検索(ベンサム)

 「以下の一節は彼の最初の体系的著作である『道徳と立法の原理序説』からのものであるが、彼の哲学体系の長所と短所をこれ以上にはっきりと示しているものを引用することはできないだろう。
 『きわめて一般的で、それゆえにきわめて許容されうる自己充足を世間から、そして可能なら自分自身からも隠し立てておくために、人々が考えついたさまざまな作り事や人々が持ちだしてきたさまざまな成句を調べてみることはなかなか興味深いことである。
 1、ある人が言うには、人が何が正しくて何が不正であるかを自分に教えることを目的として作られているものを持っており、それは「道徳感覚(moral sense)」と呼ばれている。彼は安心して仕事に取りかかり、これこれのことは正しく、これこれのことは不正であると述べ、なぜかと聞かれたならば「私の道徳感覚がそのように教えてくれているから」と答える。
 2、別の人はその成句を修正して、《道徳》という言葉を省いて、そこに《共通》という言葉を挿入する。そうして、その人は、自分の共通感覚(common sense)が、他の人の道徳感覚がそうしているのと同じくらい確実に、何が正しくて何が不正なのかを教えてくれると述べる。共通感覚とはすべての人間が持っている何らかの感情のことを意味していると述べる。そして、論者と同じ感覚をもっていない人の感覚は考慮する価値のないものとして排除される。この工夫は道徳感覚よりも優れている。というのも、道徳感覚は新奇なものなので、人にそれを見出すことがなくてもその人に好感をもつかもしれないが、共通感覚は人の創造と同じくらい古くからあるものなので、同胞と同じような共通感覚をもっていないと思われることを恥ずかしいと思わない人はいない。それはもうひとつ別の利点をもっており、それは権力を共有しているように見せかけることで妬みを小さくするというものである。というのは、ある人がこの根拠に基づいて自分と異なっている人を呪おうとするときには、「我かく欲し、かく命ず」とは言わずに、「汝の欲するごとく命ぜよ」と言うからである。
 3、また別の人は、道徳感覚なるものが実際にあるとは思えないけれども、私は《悟性》(understanding)をもっており、それもきわめて役立つものであると述べる。その人が言うには、この悟性が正・不正の基準であり、いろいろなことを教えてくれる。善良で賢明な人はみな、自分と同じように悟性を働かせている。他の人々の悟性がいずれかの点で自分と違っているとしたら、間違っているのは彼らであり、それは彼らに何かが欠けているか間違っているかの兆候なのである。
 4、また別の人は、永久不変の正義の規則があり、その正義の規則がいろいろなことを命じていると述べる。その上で、その人は真っ先に思い浮かぶものについての自らの感情を認めさせようとする。その感情は永久的な正義の規則から数多く派生したものである(と思うしかなくなるだろう)。
 5、他の人は、あるいは同じ人かもしれないが(それはどうでもよいことである)、事物の適性と調和する行為もあれば、それと一致しない行為もあると述べる。それから、その人は暇にまかせて、どのような行為が調和的であり、どのようなものが一致しないのか語るだろうが、その人が何となくその行為を好んでいるか嫌っているかに応じてそうするのである。
 6、大多数の人々が、自然法についてつねに語り、その上で彼らは何が正しくて何が不正なのかに関する自分たちの感情を表明しようとしており、人はその感情が自然法の数多くの章節を構成しているものであることを知ることになるだろう。
 7、自然法という成句の代わりに、時には理性の法、正しい理性、自然的正義、自然的公正、良い秩序という成句が用いられる。そのいずれもが同じように用いられる。最後のものは政治学においてもっとも用いられている。最後の3つのものは他のものにくらべたらましである。というのは、成句が意味している以上のものをそれほどはっきりとは主張していないからである。それらはそれ自体で多くの積極的基準とみなされることをごくわずかしか求めておらず、どのような基準であっても、問題になっている事柄が適切な基準に従っていることを表現している成句として時おり受け取られることで満足しているように思われる。しかし、多くの場合、[その基準は]《功利性》であるというのがよいだろう。《功利性》はより明確に快と苦痛に言及しており、より明快なものである。
 8、ある哲学者が言うには、嘘をつくということ以外にこの世界には有害なものはなく、たとえば、もし人が自分自身の父親を殺害しようとしているならば、これは彼がその人の父親ではないということを述べる一つの仕方にすぎないことになるだろう。もちろん、この哲学者は自分が好まないものを見たときには、それは嘘をつく一つの仕方であると述べるだろう。それは、《実際には》行為がなされるべきでないときに、その行為はなされるべきであり、なされてもよいと言っているようなものである。
 9、彼らすべてのなかでもっとも聡明でもっとも率直なひとははっきりと意見を述べるような人であり、自分は選ばれし人の一人であると述べている。今や神自らが選ばれし人に何が正しいかを知らせるように取り計らっており、それはよい効果をもっているので、選ばれし人は非常に努力するようになり、何が正しいかを知るだけでなく実践せずにはいられなくなる。それゆえ、何が正しくて何が不正なのかを知りたいと思うならば、人は選ばれし私のところに来る以外にない。』
 これらの成句やそれに類似したものが、ベンサムが理解していた程度のものにすぎないという見解をもっている人はほとんどいないように思われる。しかし、これらの成句が訴える基準が確かめられ、論拠として認められうる《意味》と《範囲》が的確に明らかにされるまでは、これらの成句の意味は完全に分析されており、より正確な言葉に言い換えられており、これらの成句は根拠として通用しうるということを、今日では思想家として権威ある人は誰もあえて主張しようとしないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.109-113,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳感覚,共通感覚,悟性,永久不変の正義の規則,事物の適性との調和,自然法,理性の法,自然的正義,公正,良い秩序,神の啓示)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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