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2022年1月14日金曜日

尊厳死の問題は、生命の尊厳と他の価値との衝突ではなく、何が生命の尊厳かという問題である。自然的生命の挫折は必ず生命の尊厳を損なうのか、逆に、自然的生命の継続が、生命の尊厳を損なう場合も、存在するのかが、問題である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

尊厳死の問題

尊厳死の問題は、生命の尊厳と他の価値との衝突ではなく、何が生命の尊厳かという問題である。自然的生命の挫折は必ず生命の尊厳を損なうのか、逆に、自然的生命の継続が、生命の尊厳を損なう場合も、存在するのかが、問題である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(5.1)激しい苦痛がないなら損害もないというのは事実か
 尊厳死に反対する主張の多くは、激しい苦痛を患っていない患者――永続的 な無意識状態の患者も含めて――には、生存し続けることによって蒙る重大な損害はありえない という前提にたっている。
 (a)この前提は、意識のない患者は死ぬことを望んだかもしれないという親族による死の要請は、特に厳格な証明規準に合致しなければならないという手続的な主張の基礎をなす。
 (b)それは、法が尊厳死を許可すべきではないのは、それが死の許可の濫用を招くことになるという「滑り坂」論の主張の基礎をなす。
 (c)医者達が殺人を求められ、かつそれが許されるならば、彼らは堕落させられ人間性の意識が衰えることになるであろうという主張の基礎をなす。

(5.2)自然的生命の継続が、生命の尊厳を損なう場合も、存在するのか
 仮に死に瀕したときに1ダースもの機械をつけて数週間生き永らえたり、植物状態で数年間 生物学的に生き永らえたとしても、それは自らの人生をより悪いものにすると考えている人 は、それを回避する目的で事前の準備ができるならば、その方が自らの生命の尊厳への人間的 貢献に対してより多くの尊重を示すものであると考える。

(5.3)自然的生命の挫折は必ず生命の尊厳を損なうのか
 積極的安楽死(active euthanasia)――医者が死を懇願している患者を殺すこと――は、常に生命の尊厳という価値に 対する攻撃であり、したがってそれを理由として禁止されるべきである、と広く考えられてい る。

(5.4)生命の尊厳か他の価値かではなく、何が生命の尊厳かの問題
 尊厳死が提起している問題は、生命の尊厳が人間性や同情のような他の何らかの価 値に譲歩すべきであるか否かということではなく、生命の尊厳がどのようにしたら理解され尊重されるべきかということなのである。
 (a)権利と利益の問題と、生命の尊厳の問題
  中絶と尊厳死に関する重大なモラル上の問題は、どちらの問題 も、個々の人間の権利と利益に関する決定のみならず、人間の生命それ自体の本来的・宇宙的 価値に関する決定でもある。
 (b)何が生命の尊厳なのかが問題
  問題とされている価値は、全ての人の生命の中心的なものであり、それらの価値が意味することに関 して、誰もが、他の人々の命令を認めるほど軽々しいものと考えることができない。
 (c)生命の尊厳を損なわない死とは
  ある人を他の人々が許容する方法で死なせること――しかしその方法は、彼自身にとって は自らの生命に対する恐るべき否定と考える方法である――は、破壊的で忌むべき圧制の形態な のである。



「◇「慎みある社会」は強制と責任のどちらを選択すべきか  仮に死に瀕したときに1ダースもの機械をつけて数週間生き永らえたり、植物状態で数年間 生物学的に生き永らえたとしても、それは自らの人生をより悪いものにすると考えている人 は、それを回避する目的で事前の準備ができるならば、その方が自らの生命の尊厳への人間的 貢献に対してより多くの尊重を示すものであり、更に他の人々が彼のためにそれを回避してく れるならば、その方が彼の生命に対してより多くの尊重を示すものであると信じている。人間 の生命の不可侵性を尊重するためには自らの利益を犠牲にすべきである、という主張は分別の あるものとはなりえないのである――その主張は論点を回避するものである。何故ならば彼は、 死ぬことが彼自身の生命の価値を尊重する最善の方法と考えているからである。したがって生 命の不可侵性に訴えることは、中絶と同様にここでも深刻な政治上、憲法上の問題を生起する ことになる。再度述べるならば、深刻な問題というのは、「慎みのある社会(decent society)は強制(coercion)と責任(responsibility)のどちらを選択すべきなのであ ろうか?」ということである――そのような社会は、最も深刻な精神的・宗教的(spirtual) 性質の事柄に関する集団的判断を、個人に強制することをめざすべきなのであろうか? ある いは、市民が自らの生命についての最も中心的で個人的な決定の判断を、独力で決定すること を認め、かつそれを市民に求めるべきなのであろうか?
◇二つの誤解  私は死を望んでいることがはっきりとわかる患者や、そのような選択をすることができない 無意識状態の患者について、医者がその死を早めてよい時期を決定するための何らかの詳細な 法的枠組みについての擁護はしてこなかった。私の主たる関心は、人々は自らの死について、 何故明らかに神秘的な意見を持つのかということを理解することにあったのであり、更に尊厳 死に関する激しい公的な論争の中で、本当に問題とされているのは何なのかということを示す ことにあったのである。私が強調してきた通り、それらの議論の一部は、私が考慮することの なかった困難で重要な行政上の問題に集中している。しかしそれらの議論の多くはモラル上、 倫理上の問題に関わるものであり、かつその一部は我々が既に指摘してきた、二つの誤解に よって深刻な危機にさらされてきたものである。そこでこの点について、要約的に再度述べて おくことが我々にとっては賢明なことであろう。  ◇第一の誤解――人が生き続けることに重大な損害はあり得ないのか?  第一の誤解は、人々がいつ、どのようにして死ぬかということに関して持つ利益の性質につ いての混乱である。尊厳死に反対する主張の多くは、激しい苦痛を患っていない患者――永続的 な無意識状態の患者も含めて――には、生存し続けることによって蒙る重大な損害はありえない という前提にたっている。我々の理解によれば、この前提は、意識のない患者は死ぬことを望んだかもしれないという親族による死の要請は、特に厳格な証明規準に合致しなければならないという手続的な主張の基礎をなすものであり、更にそれは、法が尊厳死を許可すべきではないのは、それが死の許可の濫用を招くことになるという「滑り坂」論の主張の基礎をなすものであり、そして医者達が殺人を求められかつそれが許されるならば、彼らは堕落させられ人間性の意識が衰えることになるであろうという主張の基礎をなすものでもある。しかしながら我々には、人々がどのようにして、何故自らの死が気がかりなのかということが理解されるならば、これらの主張が基礎をおく前提がばかげたものであり、かつ危険なものであるということが理解されるのである。
◇第二の誤解――生命の尊厳は他の価値に譲歩すべきなのか?  第二の誤解は、我々が本書で検討を加えてきており、今正に再度検討を加えた一つの考え・ 思想――生命の尊厳に関する思想――に関する誤解に起因している。積極的安楽死(active euthanasia)――医者が死を懇願している患者を殺すこと――は、常に生命の尊厳という価値に 対する攻撃であり、したがってそれを理由として禁止されるべきである、と広く考えられてい る。しかし尊厳死が提起している問題は、生命の尊厳が人間性や同情のような他の何らかの価 値に譲歩すべきであるか否かということではなく、生命の尊厳がどのようにしたら理解され尊 重されるべきかということなのである。中絶と尊厳死に関する重大なモラル上の問題は、本格 的な生を一括して考えるものであり、それは同じ構造を持つものなのである。どちらの問題 も、個々の人間の権利と利益に関する決定のみならず、人間の生命それ自体の本来的・宇宙的 価値に関する決定でもある。どちらの問題も、人々の意見が分裂しているのは、一方の側の 人々が、他方の側の人々が大切と考えている価値を侮辱するからなのではなく、反対に、問題 とされている価値が全ての人の生命の中心的なものであり、それらの価値が意味することに関 して、誰もが、他の人々の命令を認めるほど軽々しいものと考えることができないからなので ある。ある人を他の人々が許容する方法で死なせること――しかしその方法は、彼自身にとって は自らの生命に対する恐るべき否定と考える方法である――は、破壊的で忌むべき圧制の形態な のである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第7章 生と死のはざま ――末期医療と尊厳死,生命の不可侵性と自己の利益,信山社(1998),pp.349-351,水谷英夫, 小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

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