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2020年8月29日土曜日

25.何のために為すのかという習慣的な問いは、外部の権威への信仰を生む。(a)超人間的権威(b)人格的権威(c)良心(d)理性(e)社会的本能(f)内在的精神を持った歴史(g)最大多数者の幸福。しかしこれらは、真の自己決定の回避ではないのか。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

外から与えられた権威への信仰

【何のために為すのかという習慣的な問いは、外部の権威への信仰を生む。(a)超人間的権威(b)人格的権威(c)良心(d)理性(e)社会的本能(f)内在的精神を持った歴史(g)最大多数者の幸福。しかしこれらは、真の自己決定の回避ではないのか。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)意志:おのれ自身を信じること
 おのれ自身に目標を与えること。
(2)外部から与えられる目標を信じること
 (2.1)何のために為すのかという問い
  何のために為すのか、という問いが習慣的に発せられる。
 (2.2)外部から与えられる目標
  おのれ自身に目標を与える冒険を回避し、何か他のものに責任を転嫁する。
  (a)超人間的権威
  (b)人格的権威
  (c)良心の権威
  (d)理性の権威
  (e)社会的本能
  (f)一つの内在的精神と目標を持っていると想像された歴史
  (g)最大多数者の幸福
(3)ニヒリズム:外部から与えられた権威を信じられなくなったとき現れる
 (a)特定の目標など、まるっきり必要ないのではないか。
 (b)特定の目標など、予見することなどまったくできないのではないか。

 「「何のために?」というニヒリズムの問いはこれまでの習慣から発するものであり、この習慣の力で、目標は外部から―――つまり、なんらかの《超人間的な権威》によって、立てられ、あたえられ、要求されると思われた。

この権威を信ずることが忘れられたのちにも、やはり古い習慣にしたがって、《無条件に語ることをこころえており》、目標や課題を《命令することのできる他の》権威がさがしもとめられる。

《良心》の権威が、《人格的な》権威の失われた代償として、いまや第一線へとのりだす(神学から解放されればされるほど、《道徳》はますます命令的となる)。ないしは《理性》の権威が。ないしは《社会的本能》(畜群)が。ないしは、一つの内在的精神をもっていて、おのれの目標をおのれ自身のうちにもっており、ひとが身を《まかせることのできる》歴史が。

ひとは、《意志》を、目標の《意欲》を、《おのれ自身に》目標をあたえる冒険を、《回避》したかったのである。ひとは責任を転嫁したかったのである(―――ひとは《宿命論》を奉じたでもあろう)。最後には幸福が、しかも、いくばくかの偽善をともなって、《最大多数者の幸福》があらわれる。
 ひとはこうひとりごとする、
 (一)特定の目標などまるっきり必要ではない、
 (二)それを予見することなどまったくできない。
 《最高の力に達した意志が必要である》いまこそ、この意志は《最も弱く最も小心》である。《全体を組織する》意志の《力に対する絶対的な不信》。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『権力への意志』第一書 ヨーロッパのニヒリズム、Ⅰ ニヒリズム、二〇、ニーチェ全集12 権力の意志(上)、pp.36-37、[原佑・1994])
(索引:超人間的権威,人格的権威,良心,理性,社会的本能,内在的精神を持った歴史,最大多数者の幸福)

ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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2018年11月26日月曜日

15.(a)認識の一手段に過ぎない理性、論理、「科学」の誤解、(b)「真」の世界の取り違え、(c)「価値」の偽造。これら3つの誤りが、真に実在する世界の真の認識、真の科学、真の価値の源泉への道を遮断した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

理性、論理、「科学」の誤解

【(a)認識の一手段に過ぎない理性、論理、「科学」の誤解、(b)「真」の世界の取り違え、(c)「価値」の偽造。これら3つの誤りが、真に実在する世界の真の認識、真の科学、真の価値の源泉への道を遮断した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)真に実在する世界
 真に現実的な世界は、転変、生成、多様、対立、矛盾、戦闘など、この世界の実在性をつくりなす諸固有性を持った、全てのものが連結され、制約し合っているような世界である。
(2)真に実在する世界を認識する諸方法がある。真の科学。
(3)理性、論理、「科学」の世界
 認識の一方法として、雑然たる多様な世界を、扱いやすい単純な図式、記号、定式へと還元する。
(4)3つの誤り
 (4.1)誤り1:「科学」の誤解
  理性、論理、「科学」の世界は、真に実在する世界を認識するための一方法に過ぎないにもかかわらず、この方法のみが世界を認識する手段であると誤解された。
 (4.2)誤り2:「真」の世界の誤解
  その結果、「真」の世界は、認識の手段が要請するような、自己矛盾をおかしえず、転変しえず、生成しえないようなものと考えられ、逆に、真に実在する世界は、「仮象」の世界であると誤解された。
  (4.2.1)しかし、真に現実的な世界の、何らかのものを断罪して無きものと考えれば、正しい認識には到達できない。これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
  (4.2.2)真に実在する世界を知り、「真」の世界への信仰に反対する人々は、理性と論理をも疑い「科学」を忌避し、これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
 (4.3)誤り3:「価値のある」ものが、「真」の世界に由来するとの誤解
  (4.3.1)真の認識、真の科学への道から遮断された偽りの世界が、「真」の世界とされる。
  (4.3.2)真に実在する世界は、「仮象の世界」「虚偽の世界」とされる。
  (4.3.3)「真」の世界から、「価値のある」ものが導き出される。

 「哲学の迷誤は、論理と理性範疇のうちに、有用性を目的として世界を調整する(それゆえ、「原理的」には、有用な《偽造》をなす)手段をみとめる代わりに、そこには真理の標識が、したがって《実在性》の標識があると信ぜられたことにもとづいている。

じじつ、「真理の標識」は《原理的偽造のそうした体系の生物学的有用性》にすぎなかった。

しかも、動物という類は自己保存にもまして重大なことを何ひとつしらないのだから、じじつこの点において「真理」について語ってよかったのである。

ただ、人間中心的特異体質を、《事物の尺度》と、「実在的」と「非実在的」の基準とみなしたことにのみ、幼稚さがあった。要するにこれは、一つの被制約性を絶対化することであるからである。

ところが見よ、そのとき一挙に世界は「真」の世界と「仮象」の世界とに分裂した。

しかも、人間がそこに住まい、そこに住みつくようおのれの理性を工夫しておいた世界、まさしくこの世界が人間の不信を買ったのである。

形式を把手として利用し、世界を取りあつかいやすい算定しうるものたらしめる代わりに、哲学者たちの妄想は、私たちがそのうちで生きている別の世界がそれとは対応しないあの世界の概念が、これらの諸範疇のうちにあたえられていると、看破した・・・手段が、価値尺度であると、意図のいかんを断罪するものであるとすら、誤解された・・・

 意図されたのは、有用な仕方でおのれを欺くということであった。そのための手段が、雑然たる多様性を合目的的な扱いやすい図式へと還元する助けになるような定式や記号の捏造にほかならなかった。

 しかるに、ああ! そのとき、いかなる存在者もおのれを欺こうとは欲しない、いかなる存在者も欺いてはならない、―――したがってあるのはただ真理への意志のみであるとの、《道徳の範疇》が使いだされたのである。「真理」とは何か?

 矛盾の原理が範型をあたえたが、それは、そこへといたる道が探しもとめられている真の世界は、自己矛盾をおかしえず、転変しえず、生成しえず、いかなる起源をもいかなる終極をももたないということにあった。

 これこそ、犯された最大の誤謬であった、地上で犯された誤謬の本来的宿業であった。

すなわち、実在性の標識は理性形式のうちにあると信ぜられたが、―――他方この理性形式は、実在性を支配するための、賢明な仕方で実在性を《誤解する》ためのものであったのである・・・

 ところが見よ、そのとき世界は偽となった。しかもそれは、《この世界の実在性をつくりなす》諸固有性、すなわち、転変、生成、多様、対立、矛盾、戦闘、精密にこのもののためにほかならない。かくして全宿業が実現した。すなわち、

(一)いかにしてひとは、虚偽の世界、たんなる仮象の世界から脱却するか? (―――かつてはそれが、現実の世界、唯一の世界であった。)

(二)いかにしてひとは、仮象の世界の性格とは反対のものに能うかぎりおのれをならしめるか? (あらゆる実在の存在者とは反対のものとしての、もっと明瞭に言えば、《生との矛盾》としての、完全なる存在者という概念・・・)

 価値の全方向は《生の誹謗》をめざしていた。理性にもとづく独断論を認識一般と取りちがえることがでっちあげられた。そのため反対派の人々はいまや《科学》をもつねに忌避したのである。

 科学への道はこのように《二重に》遮断されていた。

第一には「真」の世界によせる信仰によって、第二にはこの信仰の反対者たちによって。

自然科学、心理学は、(一)その対象において断罪され、(二)その無垢を奪われてしまっていた・・・

 もっぱらすべてのものが連結され制約されている現実的世界においては、なんらかのものを断罪して《なきものと考える》とは、すべてのものをなきものと考えて断罪することにほかならない。

「このものは存在すべきではなかった」、「このものは存在すべきではないのに」という言葉は、一つの茶番である・・・この帰結を考えぬいてみれば、なんらかの意味で《有害で破壊的》であるものを除去しようと欲するなら、生の源泉は台なしにされる。いや、生理学がこのことを《もっと上手に》論証してくれる!

 ―――私たちにわかったのは、いかにして道徳が、(a)全世界観を《害毒する》か、(b)認識への、《科学》への道を遮断するか、(c)すべての現実的本能を解体し掘りくつがえすか(道徳がこの本能の根ざすところを《非道徳的》と感取するよう教えることによって)、ということである。

 私たちにわかったのは、最も聖なる名称や態度でもって身ごしらえしているデカダンスの怖るべき道具が私たちの面前でひと仕事しているということである。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『権力への意志』第三書 新しい価値定立の原理、Ⅰ 認識としての権力への意志、五八四、ニーチェ全集13 権力の意志(下)、pp.27-28、[原佑・1994])
(索引:理性,論理,科学)

ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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2018年6月8日金曜日

人類全体は、共にある共通の国家に属している市民のようなものだ。我々はこの共同国家から、叡智的なもの、理性的なもの、法律的なものを与えられている。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

理性、法律、叡智の由来

【人類全体は、共にある共通の国家に属している市民のようなものだ。我々はこの共同国家から、叡智的なもの、理性的なもの、法律的なものを与えられている。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
 「もし叡智が我々に共通なものならば、我々を理性的動物となすところの理性もまた共通なものである。であるならば、我々になすべきこと、なしてはならぬことを命令する理性もまた共通である。であるならば、法律もまた共通である。であるならば、我々は同市民である。であるならば、我々は共に或る共通の政体に属している。であるならば、宇宙は国家のようなものだ。なぜならば人類全体が他のいかなる政体に属しているといえようか。であるから我々はこの共同国家から叡智的なもの、理性的なもの、法律的なものを与えられているのである。でなければどこからであろう。あたかも私の存在の土の部分はどこかの土から分割され、水の部分はほかの元素から、空気の部分はどこかの源泉から、熱と火の部分はさらに別の固有の源泉から分割されているように―――なぜなら何ものも無から生ぜず、同様に何ものも無にかえらないのである―――そのように叡智もまたどこからかきたのである。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四、pp.51-52、[神谷美恵子・2007])
(索引:共同国家、理性、法律、叡智)

自省録 (岩波文庫)


(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

マルクス・アウレーリウス(121-180)
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2018年5月9日水曜日

想像力は、感官や理性の代理人となり真の判定、善の実行を助けるが、想像力自身に真や善の権威が付与されるか、それを僭称している。信仰の問題で、想像力は理性の及ばないところまで高まる。比喩と象徴、たとえ話、まぼろし、夢。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

想像力と信仰

【想像力は、感官や理性の代理人となり真の判定、善の実行を助けるが、想像力自身に真や善の権威が付与されるか、それを僭称している。信仰の問題で、想像力は理性の及ばないところまで高まる。比喩と象徴、たとえ話、まぼろし、夢。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
(a) 悟性と理性は、決定と判定を生む。
(b) 意志と欲望と感情は、行動と実行を生む。
(c) 想像力は、感官と理性の代理人あるいは「使者」の役割をつとめる。
 感官が、想像力に映像を送ってはじめて、理性が「真」であると判定を下す。
 理性が、想像力に映像を送ってはじめて、理性の判定「善」が実行に移される。すなわち、想像はつねに意志の運動に先だつ。能弁によって行われるすべての説得や、事物の真のすがたを色どり偽装するような、説得に似た性質の印象づけにおいて、理性を動かすのは、主として想像力に訴えることによるのである。
(c') 想像力は、感官や理性からの「真」や「善」の伝言の使者に過ぎないのではなく、それ自身決して小さくない権威そのものを付与されるか、そうっとそれを僭称している。すなわち、感官や理性の伝言を超えて、自ら「真」や「善」の権威を僭称する。
(d) 信仰と宗教の問題において、われわれはその想像力を理性の及ばないところに高めるのであって、それこそ、宗教がつねに比喩と象徴とたとえ話とまぼろしと夢によって、精神に近づこうとした理由なのである。

 「人間の精神の諸能力に関する知識には二つの種類がある。

すなわち、その一つは人間の悟性と理性に関するものであり、他の一つは人間の意志と欲望と感情に関するものである。

そしてこれらの能力のうちさきの二つは、決定あるいは判定を生み、あとの三つは行動あるいは実行を生む。

なるほど、想像力は、双方の領域において、すなわち、判定を下す理性の領域においても、またその判定に従う情意の領域においても、代理人あるいは「使者」の役割をつとめる。

というのは、感官が想像力に映像を送ってはじめて理性が判定を下し、また理性が想像力に映像を送ってはじめてその判定が実行に移されることができるからである。それというのも、想像はつねに意志の運動に先だつからである。

ただし、この想像力というヤヌス〔二つの顔をもつローマの神〕はちがった顔をもっていないとしてのことである。というのは、想像力の理性に向けた顔には真が刻まれ、行為に向けた顔には善が刻まれているが、それにもかかわらず、
 「姉妹にふさわしいような」〔オウィディウス『変身譚』二の一四〕
顔なのであるから。

なおまた、想像力は、ただの使者にすぎないのではなく、伝言の使命のほかに、それ自身けっして小さくない権威そのものを付与されるか、そうっとそれを僭称している。

というのは、アリストテレスの至言のように、「精神は身体に対して、主人が奴隷に対してもつような支配力をもっているが、しかし理性は想像力に対して、役人が自由市民に対してもつような支配力をもっている」〔『政治学』一の三〕のであって、自由市民も順番がくると支配者になるかもしれないからである。

すなわち、われわれの知るように、信仰と宗教の問題において、われわれはその想像力を理性の及ばないところに高めるのであって、それこそ、宗教がつねに比喩と象徴とたとえ話とまぼろしと夢によって、精神に近づこうとした理由なのである。

それからまた、能弁によって行われるすべての説得や、事物の真のすがたを色どり偽装するような、説得に似た性質の印象づけにおいて、理性を動かすのは、主として想像力に訴えることによるのである。」

(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一二・一、pp.207-208、[服部英次郎、多田英次・1974])

(索引:想像力、感官、理性、意志、宗教、信仰)

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)


(出典:wikipedia
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


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