人々の直感、生命の不可侵性
生命に対する自然的投資と人間的投資の挫折の概念によって、生命の不可侵性に対する中絶の意味を理解できたが、尊厳死についてはどうだろう。それが、患者の最善の利益であると本人が考える場合でも、その利益を犠牲にして自然的生命を守ることが正しいとは思えない。しかし、それでもなお、意図的な死は生命の本質的価値に対する最大の侮辱であるという直感がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
(a)生命の不可侵性と挫折
中絶の議論をする際に、私は生命の不可侵性という独特の解釈――ある人間の生命が開始された以 上、その生命に対する投資が破壊される場合、それは生命の抹殺・破壊(waste)という本来 的に悪い出来事が起こったのである――を擁護した。
(b)自然的投資と人間的投資の挫折
私は死の決定が人間の生命に対する投資の 破壊と考えられる場合を、二つの別な次元の問題――私はこれを自然的投資と人間的投資の次元 の問題と名付けた――として区別し、その区別を用いて、中絶に関して明確に保守的な見解につ いての解釈を行なった。
(c)患者の最善の利益とされる場合でも悪なのか
尊厳死はさまざま な形態、自殺、自殺幇助、治療中止や生命維持装置の除去をとるものであるが、仮にそれが 患者の最善の利益とされる場合であっても、悪とされることがあり得るのだろうか。
(d)意図的な死は生命の本質的価値に対する侮辱する
意図的な死は、たとえそれが患者の利益とされる場合であって も、生命の本質的価値に対する最大の侮辱となるものであるという直感は、尊厳死に対して保守的な態度の人々が抱く嫌悪感の中でも、最も深く最も重要な部分なのである。
「◇人々の直感――生命の不可侵性 既に述べたことであるが、もう一つ別な問題に話を転じることにしよう。尊厳死はさまざま な形態――自殺、自殺幇助、治療中止や生命維持装置の除去――をとるものであるが、仮にそれが 患者の最善の利益と《される》場合であっても、悪とされることがありうるのだろうか? 中 絶の議論をする際に、私は生命の不可侵性という独特の解釈――ある人間の生命が開始された以 上、その生命に対する投資が破壊される場合、それは生命の抹殺・破壊(waste)という本来 的に悪い出来事が起こったのである――を擁護した。私は死の決定が人間の生命に対する投資の 破壊と考えられる場合を、二つの別な次元の問題――私はこれを自然的投資と人間的投資の次元 の問題と名付けた――として区別し、その区別を用いて、中絶に関して明確に保守的な見解につ いての解釈を行なった。この見解(=保守的見解)によると、人間の生命に対する自然的投資 は人間的投資よりも際立って一層重要なものなのであり、従って早死を選択することは、生命 という神聖な価値に対する最大の侮辱となる可能性をもつものなのである。 我々は尊厳死に関して明確な保守的見解についての解釈をする際にも、同じ区別を用いるこ とができる。仮に我々が多くの宗教的伝統に合致したこのような見解――技術的に延命可能で あった人が死ぬ場合はいつでも、人間の生命に対する自然的投資の挫折となる――を受け入れる ならば、人間の手による一切の介入――致死量の薬を末期ガンで苦しんでいる人に注射したり、 永続的植物状態の人から生命維持装置を撤去すること――は自然を欺くこととされよう。した がって、仮に自然の投資がそのような意味に理解されることによって、生命の不可侵性に対す る方向づけがなされるならば、尊厳死というものは常にその価値に対する侮辱とされることに なる。私の考えではこのような主張が、世界中で、あらゆる尊厳死の形態に対する強力な保守 的反対意見の最も強い基礎を形成しているものなのである。もちろんそれが唯一の論拠ではな いのであり、人々は実務的で行政的な問題についても懸念を示しており、(尊厳死を認めるこ とによって)万一生命が蘇生したかもしれない人に対して死の許可をすることになりはしない かと恐れている。しかしながら、意図的な死はたとえそれが患者の利益とされる場合であって も、生命の本質的価値に対する最大の侮辱となるものであるという直感は、尊厳死に対して保 守的な態度の人々が抱く嫌悪感の中でも、最も深く最も重要な部分なのである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第7章 生と死のはざま ――末期医療と尊厳死,生命の不可侵性と自己の利益,信山社(1998),pp.346-347,水谷英夫, 小島妙子(訳))
ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]
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