合理的・技術的手段と目的、価値
この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配の最も深遠なる遺産とは、合理的・技術的手段と、それが奉仕する根本的には不合理な目的の間の直感的分裂を、あたかも常識であるかのように見せかけてきたことにある。何らかの実現手段と、それとは別の自由な価値、または実現手段が価値を主張してくる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))
(a)不合理な目的と合理的・技術的手段との分裂
公務員たちは、自国を支配者たちがたまたま夢想した国家目標の追求のため、もっとも効率的手段を見出すことのできる自らの能力に、誇りをおぼえている。その目標が、文化的繁栄であろうが、帝国主義的征服であろうが、真に平等な社会秩序の追求であろうが、あるい は聖書の定める掟の字義通りの適用であろうが、かまわないのである。
(b)何らかの実現手段と、別の自由な目的
人間は、豊かになるため市場に足を向け、そのための最も効率的な計算をすると想定されている。だが、いったん貨幣を手にしたら、それを使って何をしようがかまわないとも想定されている。
(c)自由な目的と、その実現手段
ほとんどの時代や地域で、人の振る舞う方法は、その人の本質の根本的表現であると見做されている。すなわち、目的があって、それを実現するための手段と行為がある。
(d)何らかの実現手段が価値を主張する
二つの領域、すなわち技術的に限定さ れる能力の領域と究極の価値の領域に世界が分裂したそのとき、どちらの領域も必然的に他方の領域に侵入を試み始めるかのようにみえる。合理性ないし効率性はそれ自体価値である、それらは究極の価値ですらある、我々は「合理的」社会を構築せねばならぬ、と宣言する人間が現れるのだ。
(e)実現手段から切り離された目的
その一方で、生活は芸術 に、さもなくば宗教にならねばならない、と主張する人間も現れる。しかし、こうした運動はすべて、自らが克服すると宣言する、当の分裂そのものを前提としているのである。
「この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配のもっとも深遠なる遺産とは、合理 的・技術的手段とそれが奉仕する根本的には不合理な目的のあいだの直感的分裂を、あたかも 常識であるかのようにみせかけてきたことにある。
まず国家レベルでこのことはいえる。そこ で公務員たちは、自国を支配者たちがたまたま夢想した国家目標の追求のため、もっとも効率 的手段をみいだすことのできるみずからの能力に、誇りをおぼえている。
その目標が、文化的 繁栄であろうが、帝国主義的征服であろうが、真に平等な社会秩序の追求であろうが、あるい は聖書の定める掟の字義通りの適用であろうが、かまわないのである。
それとおなじことが個 人レベルでもあてはまる。そこでは、人間は、豊かになるため市場に足をむけ、そのための もっとも効率的な計算をすると想定されている。
だが、いったん貨幣を手にしたら、マンショ ンを買おうが、レースカーを買おうが、消えたUFOの探索費用にあてようが、あるいは、子ど もに気前よくばらまこうが、それを使ってなにをしようがかまわないとも想定されている。
こ うしたことはあまりに自明視されているので、これまで歴史的に存在してきたほとんどの人間 社会では、そうした分裂が考えられもしなかったことなど、想起するのもむずかしい。
ほとん どの時代や地域で、ひとのふるまう方法[ひとのとる手段]は、そのひとの本質[目的]の根 本的表現であるとみなされているのである。
しかし、このように二つの領域――技術的に限定さ れる能力の領域と究極の価値の領域――に世界が分裂したそのとき、どちらの領域も必然的に他 方の領域に侵入を試みはじめるかのようにみえる。
合理性ないし効率性はそれ自体価値であ る、それらは究極の価値ですらある、われわれは(それがなにを意味していようと)「合理 的」社会を構築せねばならぬ、と宣言する人間があらわれるのだ。
その一方で、生活は芸術 に、さもなくば宗教にならねばならない、と主張する人間もあらわれる。
しかし、こうした運 動はすべて、みずからが克服すると宣言する、当の分裂そのものを前提としているのであ る。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.54-56,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))