2018年4月6日金曜日

不十分な根拠にもとづく場合であっても、喜びや愛は、悲しみや憎しみよりも望ましい。しかし、偽なる善への愛は、害をなしうるものへ、わたしたちを結びつけてしまう。(ルネ・デカルト(1596-1650))

偽りの喜びや愛

【不十分な根拠にもとづく場合であっても、喜びや愛は、悲しみや憎しみよりも望ましい。しかし、偽なる善への愛は、害をなしうるものへ、わたしたちを結びつけてしまう。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 誤りに陥る偶然を避けえないこの人生の諸状況においては、かりに、不十分な根拠にもとづく場合であっても、喜びや愛は、悲しみや憎しみよりも望ましい。偽である喜びが、真なる理由にもとづく悲しみより、よい場合さえある。しかし、偽なる善への正しくない愛は、害をなしうるものへ、わたしたちを結びつけてしまい、わたしたちを卑しめ、貶めるからである。
 「なおまた、憎しみと悲しみは、真なる認識から生じたときでさえ、精神によって斥けられねばならないのだから、ましてや偽なる意見からきている場合はなおさらだ。しかし、愛と喜びとが、同じように誤った根拠にもとづいている場合には、それが善いか否か、と疑いうるし、愛と喜びが、それ自体において精神にとって何であるかを、他と切り離して考慮するならば、次のように言えると思われる。喜びは、それがより善い根拠にもとづく場合よりは不安定であり、愛も利点が少ないが、それでもやはり、同じく不十分な根拠にもとづく悲しみや憎しみよりも望ましい、と。したがって、誤りに陥る偶然を避けえない人生の諸状況においては、悪に向かっている情念よりは、善に向かう情念に傾くほうが、たとえ単に悪を避けるためであっても、いつの場合もはるかによい。さらに、偽である喜びが、真なる理由にもとづく悲しみよりもよい場合さえ、しばしばある。しかし、同じことを、憎しみとの対比において、愛についても言うことはできない。なぜなら、憎しみが正しいとき、それはただ、避けるべき悪を含んでいるものからわたしたちを遠ざけるだけなのに対して、正しくない愛は、害をなしうるもの、あるいは少なくともそれほど重要視する価値のないものへ、わたしたちを結びつけてしまい、わたしたちを卑しめ、貶めるからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四二、pp.120-121、[谷川多佳子・2008])
(索引:不確かな善への愛、偽なる善への愛)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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悲しみと憎しみは、喜びと愛よりも不可欠である。なぜなら、害を斥けるほうが、より完全性を加えてくれるものを獲得するよりも、いっそう重要だからだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悲しみと憎しみ

【悲しみと憎しみは、喜びと愛よりも不可欠である。なぜなら、害を斥けるほうが、より完全性を加えてくれるものを獲得するよりも、いっそう重要だからだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 情念の効用は、身体の保存や、身体をいっそう完全にするのに役立ちうる行動にむけて、精神を促し同意と協力を与えることにある。この意味で、悲しみと憎しみは、喜びと愛よりも、不可欠である。なぜなら、害となり破壊するかもしれないものを斥けるほうが、なくても生きていけるなんらかの完全性を加えてくれるものを獲得するよりも、いっそう重要だからだ。
 「それらの情念は、自然の設定によって、すべて身体に関係し、精神が身体と結合されている限りにおいてのみ、精神に与えられる。したがって、情念の自然的な効用は、身体の保存に役立ちうる行動、なんらかのしかたで身体をいっそう完全にするのに役立ちうる行動にむけて、精神を促し同意と協力を与えることだ。」(中略)「悲しみは、ある意味で第一であり、喜びよりも不可欠である。そして憎しみは愛よりも不可欠である。なぜなら、害となり破壊するかもしれないものを斥けるほうが、なくても生きていけるなんらかの完全性を加えてくれるものを獲得するよりも、いっそう重要だからだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一三七、pp.114-116、[谷川多佳子・2008])
(索引:情念の効用、喜び、愛、悲しみ、憎しみ)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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悪への憎しみは、真の認識に基づくときでも、やはり必ず有害である。なぜなら、この場合でも善への愛より行為することがつねに可能であるし、人における悪は善と結合しているからだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悪への憎しみ

【悪への憎しみは、真の認識に基づくときでも、やはり必ず有害である。なぜなら、この場合でも善への愛より行為することがつねに可能であるし、人における悪は善と結合しているからだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 憎しみは、どんなに小さくてもやはり必ず有害である。それは、悪への憎しみに促されたいかなる行為も、善への愛に促されてより良くなされることが、つねに可能であるからだ。少なくとも、その善と悪が十分に認識されている場合はそうである。また、悪から遠ざける憎しみは、同じく、その悪が結合している善からもわたしたちを遠ざけることになるからである。
 「これと反対に、憎しみは、どんなに小さくてもやはり必ず有害だ。そして悲しみをともなわないことはけっしてない。憎しみは小さすぎることはありえない、とわたしは言うが、それは、わたしたちが悪への憎しみに促されていかなる行為をしようと、その行為は、悪の反対である善への愛に促されてより良くなされることが、つねに可能であるからだ。少なくとも、その善と悪が十分に認識されている場合はそうである。」(中略)「また、憎しみが悲しみをともなわないことはけっしてない、ともわたしが言うのは次の理由による。悪は、ある欠如にすぎないから、それの帰属する実在的主体なしには理解されえない。しかも、実在的なるものが存在するとすれば、必ずみずからのうちになんらかの善さを備えている。その結果、わたしたちをなんらかの悪から遠ざける憎しみは、同じく、その悪が結合している善からもわたしたちを遠ざけることになる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四〇、pp.118-119、[谷川多佳子・2008])
(索引:悪への憎しみ)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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自分に欠けている真理を知ることが、悲しみをもたらし不利益であったとしても、それを知らないことよりもより大きな完全性である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

真理を知ることによる悲しみ

【自分に欠けている真理を知ることが、悲しみをもたらし不利益であったとしても、それを知らないことよりもより大きな完全性である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 もし、喜び自体が最高の善ならば、たとえ自分に欠けている善があったとしても、それは是認されるだろう。しかし、思慮を重ねたあげく、自分に欠けている真理を知ることが、悲しみをもたらし不利益であったとしても、それを知らないことよりもより大きな完全性である。
 「私はときどき自ら疑問に思うことがあります。すなわち、自ら所有する善と所有しない善の正しい価値を知るためにさらに思慮と知識とを重ねたあげく、さらに悲しくなるよりも、現在所有する善が実際よりもより大きく、より価値があると想像し、自分に欠けている善を知らず、あるいはそれに心を留めもせずに楽しく満足している方が、よいのかどうかと。もし私が最高善は喜びであると考えるなら、どんな犠牲を払っても、自分を喜ばせるように努めるべきであることを疑わないでしょうし、不快を酒で紛らし、あるいはタバコで和らげる粗野な人たちを私は是認するでしょう。しかし私は、徳の実践に存する、あるいは(同じことですが)われわれの自由意志が獲得できるあらゆる善の所有に存する最高善と、その獲得から生じてくる精神の満足とを区別しています。それゆえ、それが不利益であっても真理を知ることは、それを知らないことよりもより大きな完全性であることを考えて、私は楽しさがより少なくても、より多くの認識をもつ方がよいと認めます。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『デカルト=エリザベト往復書簡』一六四五年一〇月六日、pp.140-141、[山田弘明・2001])
(索引:思慮、真理、喜び、悲しみ)

デカルト=エリザベト往復書簡 (講談社学術文庫)



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 4.精神と身体
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 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
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