記号、意義、意味の間の関係
【記号、意義、意味の間の関係(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】記号に対して一つの定まった意義が対応し、その意義に対してまた一つの定まった意味が対応する。ただし、日常言語においては、この要請を満たさないことが多く、文脈の指定が必要になることがあるが、それで満足しなければならない。また、意義は持つが、意味を持つかどうか疑わしいこともある。逆に、一つの意味(すなわち、一つの対象)に付与される記号は必ずしも一つではない。そして、ある意義は意味の一面を我々に認識させる。すべての側面から意味を認識するためには、あらゆる意義を知る必要があるが、そのようなことは到底我々にはできない。また、同じ一つの意義は、異なる言語によってだけではなく、同一の言語においても異なる表現を有している。
記号、意義、意味の間の関係(1)
記号 → 一つの意義 → 一つの意味
=一つの対象
記号 → 一つの意義 →(意味がない場合)
・上記の関係が成立するには、文脈の指定が必要になることがある。
記号、意義、意味の間の関係(2)
一つの対象─┬→意義a→表現a1、表現a2、表現a3、……
=一つの意味 ├→意義b→表現b1、表現b2、表現b3、……
└→意義c→表現c1、表現c2、表現c3、……
「固有名の意義は、その固有名が属する言語もしくは表記法の全体に十分に通暁しているすべての人によって把握される。しかし、そのことによっては、固有名の意味は、たとえそれが存在するにせよ、依然としてその一面のみが明らかにされたにすぎない。意味をすべての側面から認識するためには、所与のすべての意義について、その意義がその意味に属するか否かを直ちに述べうることが必要である。しかしそのようなことは到底我々にはできない。
記号、記号の意義、記号の意味というものの間の適法な関係は、記号に対して一つの定まった意義が対応し、その意義に対してまた一つの定まった意味が対応するが、しかし、一つの意味(すなわち、一つの対象)に付与される記号はかならずしも一つではないというものである。同じ一つの意義は、異なる言語によってだけではなく、同一の言語においても異なる表現を有している。もちろんこの適法な関係には、例外が存在する。確かに、完璧な記号体系の全体においてはすべての表現に対して、何らかの定まった意義が対応するのが当然であろう。しかし、人々の日常言語(Volkssprahe)は、この要請を満たさないことが多く、したがって、同一の文脈において同一の語が常に同一の意義を持つだけで満足しなければならない。あるいはまた、文法的に正しく構成され、かつ、固有名の代りとなる表現が常に一つの意義を持つということは承認することができるが、それにもかかわらず、その意義に対して一つの意味が対応するか否かということは、そのことによっては述べられていない。例えば、「地球からもっとも離れた天体」という言葉は、一つの意義を持つが、この言葉が一つの意味を持つかどうかは非常に疑わしい。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』27-28、フレーゲ著作集4、pp.73-74、土屋俊)
(索引:記号、意義、意味)
(出典:wikipedia)
「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない。
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)
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