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2024年5月9日木曜日

26.ウィリアム・ウエントワースの理論(ジョナサン・H・ターナー(1942-)

 ウィリアム・ウエントワースの理論(ジョナサン・H・ターナー(1942-)


 「動物が学習し、そして環境から情報を獲得することに頼るほど、遺伝子が具体的な行動に効果をもつ可能性は小さくなる。

人間の場合、社会文化体系の行動に対する影響が遺伝子的傾向よりもはるかに大きい。

種がどのように行動するかについて情報を獲得するために、ますます学習に依存するようになるほど、《迅速で適切な情報検索》の必要性が高まる。迅速で適切な情報検索は統一的全体あるいはパターン化された《図式》として情報を収集し、解釈する能力によって促進される。

なぜならより多くの情報が図式としてダウンロードでき、またより多くの選択肢と代案が加えられるからである。

 ウエントワースはその要点を明示していないけれども、迅速で適切な情報検索への依存は動物に選択圧として作用する。生存手段として集団指向的な行動(たとえば群れ、小群れあるいは大きく群れる本能)に向う強力な生物プログラムをもたない動物は、社会関係をつくり、そしてそれを維持することに依存する。

つまり社会関係を育成するために大量の熱量を消費しなければならないという意味で、その動物が《深層において社会的》であるほど、情報探索のための効率的な機構は適応度をいっそう強化する。

 感情は人間の情報検索の背後にある中枢の機構である。なぜなら感情は脳の情報処理水準を超える「管理中枢」として作用し、また情報を「枠づけ、また焦点化をする」からである。これらの機構は適応度を強化するために多くの方法によって作用する。

 1.感情は注意の調整器である。感情は個体に環境のある側面について警告を迅速に伝える。

 2.感情は注意持続時間、つまり個体がどれほどの時間にわたって環境のある側面に警戒を保たなければならないかを調整する。

 3.感情は個人経験から学習し、そして環境の異なる側面についての記憶を貯蔵することを可能にする。学習は最終的に出来事に対する感情的反応に結ばれている。文化が経験を表示し、標識をつけるための手段として提供する感情が多いほど、記憶はますます複雑かつ精妙になる。

 4.感情は個人が環境および状況の特定の対象と関係する記憶を呼び起こすことを可能にする。

 5.感情は個人が自己を他者、状況、そしてもっと全体的な環境との関係において対象と見なすことを可能にする。感情がなければ、人びとはある状況において自己を方向づけ、評価し、あるいは位置づけることができない。

 6.感情は個人が役割を取得し、他者の性向を読み、そして他者の間主観性を達成することを可能にする方法で互いに伝達することを可能にする。

 7.感情は個人にエネルギーを与えるだけでなく、個人がある状況で文化的期待に適う方法で行動するよう強く働く。

 8.感情は文化的指令と禁止に力を付与する。感情がなければ、良心の《激しい痛み》、社会的責務の《指令に従うこと》も、尊敬を《実感すること》も、あるいは道徳性を《当然と見なすこと》もできないだろう。

 9.感情、とくに孤独や疎外の不安や恐れは、社会的網状組織が維持されていることを確認するため、自己、他者、また状況を監視するよう個人を強く動かす。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第8章 進化論による感情の理論化、pp.458-460、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]






リチャード・エマーソンの理論 (ジョナサン・H・ターナー(1942-)



リチャード・エマーソンの理論 (ジョナサン・H・ターナー(1942-)




 「エマーソンの理論には三つの中核と見なせる概念がある。(1)権力、(2)権力行使、(3)均衡である。

ある行為者が《権力》をもちうるのは、他者が高い価値をもつ資源を有する彼に依存する場合である。

エマーソンの用語を用いるならば、行為者Aの行為者Bに対する権力は、行為者Bが行為者Aの資源への依存度の関数である。

すなわち、PAB=DBAである(なおPは権力をDは依存度を、そしてAとBは異なる資源を交換しようとしている二人の行為者を表す)。

依存は、他者の求める資源が(a)高い価値をもち、そして(b)別人から入手できないか、あるいは入手するためにはもっと高い費用を支払わなければならない程度によって決定される。

逆に、他者の資源を高く価値づけている行為者が交換に供給できる高い価値をもつ場合、依存の水準、したがって一方の行為者の他方の行為者に対する権力は低下する。

各行為者が互いに高い価値をもつ資源をもち、したがって各行為者が高い価値をもつ資源を他者に依存すると、各行為者は他者に対して絶対的な権力をもつ。この状態は、その関係に内在する高い水準の互恵的な権力によって、エマーソンが構造的凝集と呼ぶ状態を強化する。 

一方の行為者が他方の行為者を上回る権力(後者の依存によって)をもつと、この行為者は権力を行使し、そしてその強みを活かして依存者からもっと多くの資源を引きだし、もしくは依存している者が提供するいかなる資源であっても、それを獲得するための費用を引き下げようとする。

行為者Aが、行為者Bの依存のために行為者Bに勝る権力をもつと、行為者Aは権力有利の立場にある。権力有利と権力行使をしめす交換関係は、エマーソンの用語を用いると、平衡失調状態である。このように関係が平衡を失うと、いくつかの均衡回復のための作用が始まる。 

 均衡回復のための一つの作用は、B(依存している行為者)がAによって提供される資源を低く評価することであり、これによって依存度を下げることができる。

第二の均衡回復のための作用は、BがA1によって提供される資源の代替的な源泉(A2、A3、A4など)を見つけることである。これにより貴重な資源をA1だけに依存しなくてすむ。

第三の均衡回復のための作用は、Bが提供しなければならない資源に対するAにとっての価値を多少でも増やすことである。そうすることで高い価値をもつ資源によって、AのBへの依存度を高くすることができる。

第四の均衡回復のための作用は、BがAに供給する資源のAにとってBの代替的な要因(別の行為者B)を多少でも減らすことである。こうした均衡回復のための作用のすべてが、BのAへの依存度を低下するか、それともAのBへの依存度を加増できる方策である。」

 (ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第6章 感情の交換理論、pp.335-337、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

2024年4月27日土曜日

25. 評価過程において、恥を経験する誰もが「悪いことをしたのは《わたし》だ」という。これに対して、罪を経験している誰もが「わたしがしたのは悪い《ことだ》」という。ジョナサン・H・ターナー(1942-)

評価過程において、恥を経験する誰もが「悪いことをしたのは《わたし》だ」という。これに対して、罪を経験している誰もが「わたしがしたのは悪い《ことだ》」という。ジョナサン・H・ターナー(1942-)

 「要するに、評価過程において、恥を経験する誰もが「悪いことをしたのは《わたし》だ」という。

これに対して、罪を経験している誰もが「わたしがしたのは悪い《ことだ》」という。

ルイス(2000)は、こうした帰属を包括的、もしくは特定的な帰属として識別する。包括的な自己帰属は「自己全体」におよぶ。自己の総体がその評価に含まれる。恥の場合、個人は自己を「悪い人」であると識別する。

これに対して、特定的な自己帰属は自己が関与している特定の行為を指示する。「悪い人」であるよりも、むしろ人が「悪いこと」をしたと認知する。タンネイによれば、こうした強調点の相違が異なる感情と異なる行動反応をもたらす。

 恥は主として矮小感と関係する激しい否定的な感情である。個人は矮小であり、取るに足らず、無力であると感じる(Tangney,1995b)。

恥じている人は人目にさらされていると感じる。なぜなら「不完全な自己」が他人からどのように見られているかを考えるからだ。こうした他者はその状況に実際に存在し、もしくは自分の想像のなかに存在しているのかもしれない。恥を感じる人は、人目を避けたい、消えてしまいたい、あるいはその状況から逃れたいのだ。

 罪は、恥と比べると、それほど激しい否定的な感情ではない。なぜならその焦点は、自己全体でなく、むしろ自分がしでかした特定の違反とその結果につながれているからだ。罪は悪いことをしたことへの緊張感、後悔と自責の念と関係する(Tangney,1995b)。

人はその状況から逃れるよりも、むしろ自分がやってしまった過失を打ち明け、その損傷について謝罪し、また(あるいは)現状を回復することを求める。

全人格が詮索されているのではないので、賠償的な行為を行うことがある状況においてたやすく自己の指針を見つける。違反は許されるので、人は出会いを継続することが可能であり、何らかの方法で対処することができる。

 タンネイ(2002)は、罪(恥ではなく)が「道徳的感情」である一つの理由は、罪は他者ともう一度結合しようとする試みによって人を能動的に動機づける。

これに対して、恥は他者との分離と距離を広げたままである。それゆえ罪(恥ではなく)を道徳的感情として扱うための別の理由をも識別している。

 罪は他者との同情の気持ちを促進するように思われるのに対して、恥はこれらの気持ちを萎えさせる。

同情は他者の苦悩を認知し感じることをともなう。それは育成するに値する有用な感情であると考えられる。なぜなら罪は支援行動を促進し、そして攻撃的な行動を抑制しがちであるからだ。

罪は自己全体よりも、むしろ個人の行動に焦点を定めるので、個人は恥の場合のように、内面を直視することも、また自己を巻き込むことも少ない。 

外部に目を向け、他者の苦痛に注目することが同情の必要条件である。恥を感じることは同情過程への侵害である。なぜなら傷ついた他者よりも自己にいっそう焦点を定めるからだ。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第5章 精神分析的要素を用いた感情の象徴的相互作用論の理論化、pp.317-318、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]



2024年4月21日日曜日

24. 人びとがどのように感じ、そして何をするかに影響をおよぼすのは、その不一致が減少できるかどうかについての彼らの期待である。 (チャールズ・カーバー、マイケル・シャイアー)ジョナサン・H・ターナー(1942-)

人びとがどのように感じ、そして何をするかに影響をおよぼすのは、その不一致が減少できるかどうかについての彼らの期待である。 (チャールズ・カーバー、マイケル・シャイアー)ジョナサン・H・ターナー(1942-)



「カーバーとシャイアーは、感情が行動調整にとって重要であるとする考えに同意しない。

彼らは感情的要因よりもむしろ情報が自己調節を導いていると論じる。

不一致減少に向けたさらなる努力が成功を収めると信じているなら彼らは継続するだろう。もし人びとが不一致減少に向けた努力が不成功に終わると思っていると、彼らは撤退し、止めてしまうだろう。

しかし撤退することもままならないことがある。とくにその目標が個人の自己定義の中心に位置している場合がそうである。人びとは止めることもできず、そしてなお不一致を経験すると、彼らはしばしば憂鬱になる。

つまりカーバーとシャイアーは、不一致の現前そのものがいつも不快(否定的情動)を人びとのうちにつくりだすとは考えていない。むしろ否定的な気持ちは、個人が不一致を減らせないと確信する場合だけに生じる。そうであるとすると、その個人は自己目標の優先順位を入れかえるだろう。

つまり人びとがどのように感じ、そして何をするかに影響をおよぼすのは、その不一致が減少できるかどうかについての彼らの期待である。  

最後にカーバーとシャイアーは、感情は不一致減少のフィードバック・ループから生じるだけでなく、個人が特定の結果を避けようと試みる不一致拡大のフィードバック・ループからも生じると議論している。

その目標に近づこうとする行為よりも、むしろある個人の行動は基準あるいは準拠している価値から離れる動きを起こそうとするかもしれない。」(中略)  

「不一致減少のループでは、個人は目標を達成しようとつとめる。そして個人が望ましい目標に近づくほど、喜びなどの肯定的感情がますます出現する。

不一致拡大のループでは、個人は目標を避けようとつとめ、そして個人がそうすることに成功するほど、安堵のような感情が生じやすくなる。  

カーバーとシャイアーのアプローチとヒギンズの情動理論のあいだには、いくつかの興味深い相違が見いだされる。

ヒギンズにとって、感情は自己の二つの表象間の不一致の関数である。これに対して、カーバーとシャイアーにとって、感情は目標に向う速度の関数である。

たとえばカーバーとシャイアーにとって、不一致があっても個人が目標へ向けて速い速度で進行していると感じるかぎり、否定的より肯定的な感情が経験される。  

もう一つの相違は、ヒギンズ理論は否定的感情に焦点を合わせる傾向が見られるが、カーバーとシャイアーは肯定的ならびに否定的感情に等しく注目している。

さらに、両者の理論のあいだにあるもう一つの相違は、道徳指令、すなわち「理想的」と「当為的」がどのように概念化されるかと関係する。理想は不一致減少のループを取り扱うのに対して、当為は不一致減少のループ(肯定的目標の実現に向けた運動)および不一致拡大のループ(反目標からの逃避)の両方を示唆している(Carver and Sheier,1998)。

カーバーとシャイアーにとって、もし個人が回避ループで十分に進展できなかったならば、経験される不安の水準は、肯定的目標に向う運動が実現されないときと同程度であろう(ヒギンズモデルはこの点を強調している)。  

カーバ-とシャイアーのモデルの強みは、「怖がる自己」「望ましくない自己」「あってほしくない自己」と見なされるものから出現する感情に注目していることである。」

 
望ましい目標 目標に向けた展開なし
標準を下回る速度で目標に向う展開
不一致減少なし
不一致減少
憂鬱
望ましい目標 標準より速い速度で目標に向う展開 不一致減少 高揚/喜び
望ましくない目標 目標に向けた展開なし
標準を下回る速度で目標から遠ざかる展開
不一致拡大なし
不一致拡大
不安
望ましくない目標 標準より速い速度で目標から遠ざかる展開 不一致拡大 安堵
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第4章 象徴的相互作用論による感情の理論化、pp.273-276、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]



2024年4月14日日曜日

23. ヒギンズによれば、行為者は自らの自己概念と彼(彼女)の関連する自己指針の一致を維持しようと動機づけられる。一致が達成できないと、否定的感情が生じる。(E・トリー・ヒギンズ)ジョナサン・H・ターナー(1942-)

ヒギンズによれば、行為者は自らの自己概念と彼(彼女)の関連する自己指針の一致を維持しようと動機づけられる。一致が達成できないと、否定的感情が生じる。(E・トリー・ヒギンズ)ジョナサン・H・ターナー(1942-)



「自己不一致理論の基礎的な着想は、情動がいずれか一つの自己状態の表象内容の結果であるよりも、むしろ別々の自己状態の表象間の結果であると見なす。

異なる型の自己状態の表象を判別するため、ヒギンズ(1987,1989)は二つの心理的次元を用いる。

(1)自己の領域と、(2)自己に関する異なる見方である。

前者によってヒギンズは三つの領域を識別する。(a)現実の自己(あなた[あるいは他者]が、あなたが現に保有していると考えている属性)、(b)理想的な自己(あなた[あるいは他者]が、あなたが保有したいと欲している(あるいは望んでいる)特定な自己の特徴)、(c)当為としての自己(あなた[あるいは他者]が、あなたがもつことを義務あるいは責務と感じている自己の特徴)。

自己に関する第二の次元、つまり自己に関する異なる見方は、(a)自分自身の見方と、(b)家族や友人など重要な他者の見方をともなう。  

自己の異なる領域が自己についての異なる見方と結びつくと、さまざまな自己状態の表象が現われる。

たとえば現実的/自分自身の自己、現実的/他者の自己、理想的/自分自身の自己、理想的/他者の自己、当為的/自分自身の自己、当為的/他者の自己である。

ヒギンズは最初の二つの「自己」(そしてとくに現実的/自分自身の自己)が個人の自己概念に近似していると主張する。

彼は残りの四つの「自己」を自己の指針と呼んでいる。ヒギンズによれば、行為者は自らの自己概念と彼(彼女)の関連する自己指針の一致を維持しようと動機づけられる。一致が達成できないと、否定的感情が生じる。

この着想がアイデンティティ制御理論や情動制御理論ときわめて近似していることに注意してほしい。」

 
現実的/自分自身の自己 理想的/自分自身の自己 現実-理想の不一致 落胆に関する感情
憂鬱、悲しみ、不満
現実的/自分自身の自己 理想的/他者の自己 現実-理想の不一致 落胆に関する感情
恥、当惑
現実的/自分自身の自己 当為的/自分自身の自己 現実-当為の不一致 動揺に関する感情
不安、罪、自虐
現実的/自分自身の自己 当為的/他者の自己 現実-当為の不一致 動揺に関する感情
恐れ
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第4章 象徴的相互作用論による感情の理論化、pp.267-269、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]



2024年4月5日金曜日

22. 感情は、(1)文化的価値、信念や規範、(2)文化的要素の外的象徴による対象化、(3)こうした文化の象徴化を強化するその時々に適当な儀礼、(4)身体運動と発話のリズミカルな共時化、(5)文化の指令に同調しそこねた人たちに対する儀礼化した裁可付与と密接に関係している(ジョナサン・H・ターナー(1942-)

 感情は、(1)文化的価値、信念や規範、(2)文化的要素の外的象徴による対象化、(3)こうした文化の象徴化を強化するその時々に適当な儀礼、(4)身体運動と発話のリズミカルな共時化、(5)文化の指令に同調しそこねた人たちに対する儀礼化した裁可付与と密接に関係している(ジョナサン・H・ターナー(1942-)

エミール・デュルケム

 「たとえば、神々を崇敬する先住民たちは、実際には彼ら自身と共に彼らの社会を崇拝しているのだ。

なぜなら興奮とマナに顕現する神々の力は、彼ら自身の相互作用から生起した力であるにちがいない。

宗教の起源、したがって社会連帯のもっとも原基的な形態は、人びとの相互作用と超自然力として表現される高揚した感情の覚醒に由来する。

宗教の起源に関するデュルケムの推測の功績がいかなるものであれ、彼が感情理論家にいくつかの決定的な力を与えたことは確かである。

 第一に、デュルケムは文化的象徴に「神聖な」品格を授けることの意義を強調した。神聖な象徴は個人間に激しい感情を喚起する力をもっている。

その後における理論家たちは、文化的象徴が宗教である必要はなく、実際に、すべての文化要素が個人の行動を制約し、そして感情を喚起する力をもっていると認識した。

この感情喚起には二種がある。文化指令への同調は個人を肯定的な感情経験へ導く。これに反して、文化指令に同調しそこなうと、否定的な感情喚起と裁可を呼び込むことになる。したがって象徴の力は「道徳的な」品格を内具しており、これによって人びとは象徴に同調すると道義的であると実感し、象徴に違反すると憤慨する。これによって人びとは道徳規則をおおむね堅守すると確信する。

 第二に、文化はトーテムなどの「神聖な」対象によって、さらに象徴化される程度に応じて道徳的な品格を帯びる。こうした「神聖な」対象が(..)物理的対象である必要のないことが、後の理論家によって明白にされた。つまり文化にとって必要であるのは、何らかの外的な方法――目視できる対象によってだけでなく、重要な単語や語句や考えなど、文化的象徴をとおして――で表象されうるということだ。

たとえば「わたしはアメリカを愛している」という表現は、アメリカ社会において認知される一連の美徳についての信念を象徴するため、アメリカ国旗などの物理的トーテムと同様に強力な作用をはたす。

文化がこの種の再帰性――一組の価値、信念や規範が別の集合の象徴によって表象されること――を帯びると、文化はますます道徳性を帯びることになり、感情を喚起することができる。

たとえば誰かがアメリカ社会の美徳についてあざ笑うような声明に反応して、道義的に憤激したと仮定してみよう。その反応は、その人があたかも先住民の物的トーテムを斧で叩き壊したり、あるいはアメリカ国旗を焼き払ったりするときと同じく激しいものだろう。

だから、象徴の表象化は文化をさらに重要なものにし、道徳的に投企され、そして感情的なものにさせる、ある種の圧力過給器の働きをする。

 第三に、外的対象によって表象化された文化の要素に向けられる儀礼は、感情を喚起し、そして個人に連帯感を経験させる。

ここでもまた、アーヴィング・ゴッフマン(1967)のような後の理論家は、あらゆる対人的行動が注意と関連する文化台本や枠組の定まっている儀礼によって区切られていることを認識するにいたった。たとえば宗教儀礼は個人が相互作用するときいつも起こる特殊例にほかならない。

 第四に、個々人が自らの身体をいっせいに動かすと、儀礼はある種のリズムを表し、そして言語による発言に集合的に関わる。このリズミカルな性質は興奮の原因でも、また結果でもある。個人が相互作用を行うと、彼らはいっそう活気づけられ、そして彼らの互いのジェスチャーはますます共時化したリズムを表す。このリズミカルな共時化が興奮を高め、相互作用の焦点を定め、そして感情を沸騰させる。

したがってもっと最近の理論家たちは、相互作用が感情を生成するためには、それがリズミカルなジェスチャーの交換を行うことが必須であると認識している。

 だから、デュルケムは自分が社会連帯の原基的な基盤を発見したと感得したのに対して、後の理論家たちは、彼が対人的なすべての行動を導く機構の主要な集合――外的事物によって象徴される信念に向けられる儀礼――の正体を明らかにしたと認識した。

したがって感情は、(1)文化的価値、信念や規範、(2)文化的要素の外的象徴による対象化、(3)こうした文化の象徴化を強化するその時々に適当な儀礼、(4)身体運動と発話のリズミカルな共時化、(5)文化の指令に同調しそこねた人たちに対する儀礼化した裁可付与と密接に関係している。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第3章 儀礼による感情の理論化、pp.148-150、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]




2024年3月30日土曜日

21. 場所の考慮を「政治的に」させるのは、個人が他者に対して対人的な力を維持し、またもしできることなら権力を失うことを回避しながら、もっと多くの権力を獲得しようとすることにある。(キャンダス・クラーク)ジョナサン・H・ターナー(1942-)

場所の考慮を「政治的に」させるのは、個人が他者に対して対人的な力を維持し、またもしできることなら権力を失うことを回避しながら、もっと多くの権力を獲得しようとすることにある。(キャンダス・クラーク)ジョナサン・H・ターナー(1942-)

 「場所の考慮を「政治的に」させるのは、個人が他者に対して対人的な力を維持し、またもしできることなら権力を失うことを回避しながら、もっと多くの権力を獲得しようとすることにある。

クラークは、この種のミクロ政治は伝統社会ではあまり明白ではないと論じている。より大きな社会構造における個人の地位が特定の出会いにおける彼の場所をも規定するからである。

しかし社会が高度に分化し、そして個人主義が優勢な文化イデオロギーになると、出会いにおける場所はますます攻撃的な力づくの作戦の様相を帯びることになる。

他人が自分の劣等感を表す感情をもって彼に互恵化させる感情表現をすると、個人は場所において上位者の地位をうまく確立し、保てるかもしれない。ある種の戦略的なドラマツルギーが関係しているかもしれない。クラークは望ましい場所を獲得するためのいくつかの戦略を概括している。

 1.他人に向けて否定的感情を開示し、そして彼らに劣等感を抱かせること。同情がこの戦略において用いられると、その戦略は見せかけの同情を軸にして展開し、他人の否定的な資質に注意を引きつける。たとえばある個人は仕事で後れをとった他者に「恥をかかせる」ために同情を表すかもしれない。

 2.他人の弱点、傷つきやすさ、問題や位置の低さを強調するようなやり方で感情的な贈り物を与えなさい。そうすれば、この「贈り物」の受け手は自意識過剰になるか、あるいは劣等感を感じる。同情が一つの戦術として用いられると、個人は彼が否定的属性をしめしたために許され、あるいは赦免されたことを他者に知らせるだろう。

 3.他人をおだてるようなやり方で肯定的感情を与えなさい。そうすれば、彼らはあなたに好意を抱くだろう。同情を一つの戦術として用いるとき、個人は上位者に同情を表し、そして彼と親密さを増せるかもしれない。そうすれば上位者とのあいだの距離が縮まる。

 4.他人に義務や責任を思い出させなさい。そうすれば他人のうちに罪や恥意識を芽生えさせることができる。同情を一つの戦術として用いる際に、同情が与えられるために生まれる問題を指摘することによって、感情的な重荷をつくりだしなさい。そうすれば、他者の場所を低めることができるだけでなく、同情の受け手に互恵化しなければならない責任を負わすことができる。

 5.他人から感情的制御を失わせ、そして社会統制の独占を保ちなさい。同情が一つの戦術として用いられるとき、他人に心配、屈辱、恥、怒りなどの否定的感情を実感させるような方法で同情を提供しなさい。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第2章 感情のドラマツルギー的、文化的な理論化、pp.131-133、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))<br>

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感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]




2024年3月23日土曜日

20. 多くの状況で人びとは、感情イデオロギー、感情規則や感情開示規則に同調する自己呈示を維持するために、ホックシールド(1979,1983)が感情労働、つまり感情管理と呼んでいる実務に従事することになる。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)

多くの状況で人びとは、感情イデオロギー、感情規則や感情開示規則に同調する自己呈示を維持するために、ホックシールド(1979,1983)が感情労働、つまり感情管理と呼んでいる実務に従事することになる。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)

 「ホックシールドの分析の要点は、文化の台本がとくに否定的感情を喚起するような行動を人びとに強いると、個人が文化的規則とイデオロギーをどのように処理するかに強い関心を寄せている。

たとえば航空会社の旅客機乗務員が、乗客の不作法な行動に遭遇している際に、感情規則と感情開示規則によって指示される望ましい態度をどのように保持するのだろうか。

多くの状況で人びとは、感情イデオロギー、感情規則や感情開示規則に同調する自己呈示を維持するために、ホックシールド(1979,1983)が感情労働、つまり感情管理と呼んでいる実務に従事することになる。適切な態度を感じ、またそれを提示するための感情労働の技法は、以下のことを含んでいる。

 1.ボディワーク 人びとは状況への生理反応を変えようとする。

たとえば平静を装うため、個人は冷静さを保つために深呼吸をする。また別の人は攻撃的な行動の構えを表現するため、身体を躍動しながら大声を張りあげるかもしれない(試合に先立ってアスリートがよくやっているように)。このように身体が気持ちを高ぶらせる(あるいは気持ちを削ぐ)ために用いられる(Hochschild,1983)。

 2.表層演技 個人は、こうした演技が感情――ジェスチャーが伝えると思われている感情――を自ら感じ、経験できるという期待を込めて、外部に向けて自らの表出的ジェスチャーを操作する。

たとえば人びとは出会いを維持するため、しばしば「その場にふさわしい幸せそうな表情を装う」。ここでの感情の開示規則は、個人は幸せを感じるべきと要求するが、しかしこの振る舞いは、当人が最終的に幸せと感じることができ、そして本当に肯定的な雰囲気になるかもしれないという期待をもって実行されることもある。

 3.深層演技 人びとは、自己の内面に特定の気持ちを呼び起こそうとする。この気持ちによって、人びとは感情の開示規則が彼らに顕在的に表現することを要求する感情を自ら経験できる。行為者は台本が求める感情開示の方向に自己の内面を変えるためにこの技法を頻繁に用いる。

 4.認知ワーク 個人は思いつきや考えを呼び起こす。

たとえば状況が悲しみを要求するなら(たとえば葬儀)、個人は悲しみとはどんなものであるかについて考え、そして実際に悲しさの顕在表現が本物に見えるようにするため本当の悲しみの感覚を体験した過去の経験を思い起こすかもしれない。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第2章 感情のドラマツルギー的、文化的な理論化、p.78、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]



2024年3月14日木曜日

19. 感情文化(スティーブン・ゴードン)

 感情文化(スティーブン・ゴードン)

 「ゴードン(1990)は感情を、(1)身体感覚、(2)表出ジェスチャー、(3)社会状況もしくは社会関係、(4)社会の感情文化によって構成されると見なしている。

ゴードンの見解によれば、第一の要素、すなわち身体感覚は文化の台本が誘導する行動に表現される場合にのみ重要である。

だから感情を表わす顔面表情、言語表現や身体ジェスチャーは先天的な生物的衝動の結果であるよりも、むしろ他者や状況にどのように反応するかを制約する文化力の産物である。文化力は感情を指示する語彙、人びとが感情について抱いている信念、および人びとが感情をどのように感じるべきかについてと、また感情がいつ、またどのように表現されるべきかの規則においてとくに明白であるとゴードンは論じる。

社会メンバーは、すべての感情語彙(感情を表わす単語)、感情信念(たとえば幸せは自由に表現されるべきだが、怒りは弱められるべきであること)、そして感情規範(われわれは争いに悲しみを、そしてパーティーでは幸せを感じるべきであること)を学習する。ゴードン(1989a,1989b,1990)はこうした複合的な感情語彙、信念、規範を社会の感情文化と呼んでいる。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第2章 感情のドラマツルギー的、文化的な理論化、p.78、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))


感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]

 

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