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2019年9月4日水曜日

自立した実践的推論者は、様々な社会関係を通じて、共通善を受容し、必要なケアを受けまたは与え、自らの善を創造し、個々の善の自らの人生における位置づけを決定し、追求することによって、共通善に寄与する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

自立した実践的推論と共通善

【自立した実践的推論者は、様々な社会関係を通じて、共通善を受容し、必要なケアを受けまたは与え、自らの善を創造し、個々の善の自らの人生における位置づけを決定し、追求することによって、共通善に寄与する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)実践的推論
 実践的推論とは、その本性上、ある一群の明確な社会関係の内部で、他者たちと共に行われる推論である。
 (1.1)社会関係への依存
  私たち一人ひとりが、社会関係を通じて、自立した実践的推論者としての地位を獲得する。
 (1.2)各人の諸々の傾向性
  各人は、諸々の傾向性や活動の発展を通じて、自立した実践的推論者になることへと方向づけられる。
 (1.3)各人の善と共通善
  各人の善は、社会関係に参加する全ての人々の善を同時に追求することなしには追求されえない。なぜなら、自分が位置づけられている一群の社会関係全体の開花とは独立に、自らの善や自らの開花について、実践的に適切な理解を得ることはできないからである。
(2)各人の善の達成と共通善への寄与
 (2.1)自立した実践的推論者としての成功
  自立した実践的推論者として諸々の活動に参加し、社会関係の中で一定の成功を収める。
 (2.2)個人の善は、コミュニティの善に従属しているわけではない。
  (a)個人は、まずコミュニティの善を自らのものとして引き受けることによって、個人の善を具体的なものにすることができる。すなわち共通善は、彼らの個人的な善の不可欠な構成要素である。
  (b)しかし、一人ひとりの個人の善は、共通善以上のものである。
  (c)コニュニティ全体の善としての共通善以外にも、家族や家族以外の諸集団にとっての善や、さまざまな実践における善のような共通善が存在する。
  (d)各人は自立した実践的推論者として、それら個々の善が各々、自らの人生においていかなる位置を占めるのが最善かという問いに答える必要がある。
   参照: 特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうち何を選択することが「善」なのか、なぜそうなのかの問題は、諸々の善がなぜ「善」なのかという問題とは、別の問題である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))
 (2.3)逆にコミュニティの善が、個人の善に従属しているわけではない。
  (a)諸個人の善の総計が、コミュニティの善というわけではない。
  (b)諸個人の善の追求は、コミュニティにおける共通善に寄与し得る。
(3)障害を抱えている時期における善の追求
 必要とする細心のケアによって、何らかの障害を抱えている時期であっても、諸徳を身につけ諸徳を発揮し、他者たちの善を自己の善とみなして追求できる。
 (3.1)必要とする細心のケア
  幼少期や老年期や病気や怪我をしたときに、必要とする細心のケアを受け取ることができるし、そのような状況下で細心のケアを受け取ることが、合理的に期待しうる。
  (a)この合理的な期待は、利得の交換という意図による、計算による期待ではない。
  (b)他者に与えることが求められるものは、受け取ったものに比べて、不釣合いかもしれない。
  (c)与えることが求められる他者は、彼らから受け取ることがない人々であるかもしれない。
  (d)他者に与えるケアは、主として彼らのニーズに基づく、無条件的なものである。
 (3.2)幼少期や老年期や病気や怪我をしたときにおける、一人ひとりの開花は、コミュニティ全体の開花を示す一つの重要な指標である。なぜなら、このような人々に対する細心のケアは、その人々のニーズだけがケア提供の理由であるからである。

 「私が採用している、概してアリストテレス的な見解によれば、実践的推論とは、その本性上、他者たちとともにおこなわれる推論であり、一般的には、ある一群の明確な社会関係の内部で他者たちとともにおこなわれる推論である。そもそもそうした諸々の関係は、私たち一人ひとりがまずはそれらを通じて自立した実践的推論者としての地位を獲得し、その後も引き続き、それらに支えられてその地位を維持していくような、そうした諸関係として形成され、発展を遂げてきた。一般的かつ典型的には、まずもって家族や家庭といった諸関係が、続いて、各種学校や徒弟制度における人々の諸関係が、さらには、その特定の社会や文化に属する大人たちが従事する多様な実践における人々の諸関係が、そうした諸関係である。そのような諸関係の成立と存続は、各人がそれらを通じて自立した実践的推論者になることへと方向づけられる、諸々の傾向性や活動の発展から切り離しえない。それゆえ各人の善は、それらの関係に参加するすべての人々の善を同時に追求することなしには追求されえない。というのも、私たちは、そこに自分が位置づけられているのを見出す一群の社会関係全体の開花〔繁栄〕とは独立に、それとは切り離されたものとして、みずからの善やみずからの開花について実践的に適切な理解を得ることはできないからである。なぜできないのだろうか。
 もし私がヒトにとって可能なかぎりの開花を遂げたいと思うならば、私の人生の全体は次のようなものでなければならない。すなわち、自立した実践的推論者として諸々の活動に参加し、そこで一定の成功を収めるばかりでなく、幼少期や老年期や病気をしたときやけがをしたときに、そうした状況下で私が必要とする細心のケアを受けとることができるような、また、そのような状況下で細心のケアを受けとることを合理的に期待しうるような、そうした人生でなければならない。そうである以上、私たち一人ひとりがみずからの善を達成できるのは、ただ次のような場合だけである。すなわち、私たちが何らかの障碍を抱えている時期に、私たちが、諸徳を身につけ諸徳を発揮することを通じて他者たちの善を自己の善とみなして追求できる種類のヒトになれるよう他者たちが手助けしてくれる場合、また、そのようにして他者たちが私たちの善を彼ら自身の善とみなして追求してくれる場合だけである。そして、このように各人が他者の善を自己の善とみなして追求しうるとすれば、それは、〈私たちが他者を助ける場合にかぎって、彼らもまた利得の交換という意図で、私たちを助けてくれるだろう〉という具合に、私たちがあらかじめ計算をおこなったためではない。そのような計算をおこなうのは、そうすることがみずからの善である場合に、そしてただその場合にかぎって、他者の善を考慮に入れる種類のヒトであって、そのようなヒトは、〔ここで考察している種類のヒトとは〕まったく異なる種類のヒト、すなわち、すでに私がその特徴づけをおこなってきた諸徳の欠如したヒトであろう。
 というのも、上記のような与えることと受けとることの諸関係のネットワークに、諸徳が要求するようなしかたで参加するためには、私は次のことを理解していなければならない。すなわち、私が与えることを求められるものは、私が受けとったものに比してひどく不釣合いなものかもしれないということ。また、私が与えることを求められる人々は、私が彼らから何も受けとることがない人々であるかもしれないということを、私は理解していなければならない。さらに私は、私が他者に与えるケアは、ある重要な意味において無条件のものでなければならない、ということも理解していなければならない。なぜなら、私にどの程度のことが要求されるかは、たとえそれだけによって決定されるわけではないにせよ、主として彼らのニーズによって決定されるからである。
 家族や隣近所や仕事にかかわる諸関係のネットワークが開花した〔繁栄した〕状態にある場合、すなわち、ある開花した地域コミュニティが存在する場合、その理由はつねに、このコミュニティのメンバーたちが彼らの共通善をめざしておこなう諸活動が、彼らの実践的合理性によって適切に導かれているということに存するだろう。だが、そうしたコミュニティの開花から恩恵を受ける人々の中には、自立した実践的推論をおこなう能力がもっとも乏しい人々、すなわち、幼児や高齢者や病気にかかった人々やけがをしている人々や、その他さまざまなしかたで障碍を負っている人々も含まれるだろう。そして、そのような人々一人ひとりの開花は、コミュニティ全体の開花を示す一つの重要な指標であろう。というのも、ある特定のコミュニティのメンバーたちに対して行動の理由を提供するのが〔障碍をもった人々のニーズを含む〕《ニーズ》である場合にかぎって、そのコミュニティは開花するからだ。
 右の説明において、個人の善はコミュニティの善に従属しているわけではなく、また、その逆でもないことに注意されたい。個人はたんにみずからの善を追求するためばかりでなく、そもそもみずからの善を具体的なことばによって定義づけるためにも、まずはコミュニティの善を、みずからのものとして引き受けるべき善として認識する必要がある。それゆえ、共通善というものを、諸個人の善の総計として、すなわち、それらを単純に足し合わせたものとして理解することはできない。と同時に、あるコミュニティにおける共通善の追求は、そのことに寄与しうるすべての人間にとって、彼らの個人的な善の不可欠な構成要素であるとはいえ、一人ひとりの個人の善はそうした共通善以上のものである。また、いうまでもなく、コニュニティ全体の善としての共通善以外にも、家族や家族以外の諸集団にとっての善や、さまざまな実践における善のような共通善が存在する。〔それゆえ〕各人は自立した実践的推論者として、それら個々の善が各々、みずからの人生においていかなる位置を占めるのが最善かという問いに答える必要があるのだ。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第9章 社会関係、実践的推論、共通善、そして個人的な善,pp.150-153,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:自立した実践的推論,共通善,社会関係,個人的な善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

2019年8月30日金曜日

人間は、社会関係の中に組み込まれ他者に依存した状態から、共通善を理解し、めざすべき未来を他者と共有し、社会関係の形成や維持に寄与する自立した実践的推論者へと成長する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

自立した実践的推論者

【人間は、社会関係の中に組み込まれ他者に依存した状態から、共通善を理解し、めざすべき未来を他者と共有し、社会関係の形成や維持に寄与する自立した実践的推論者へと成長する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)子ども
 (a)ごく幼い子どもは、誕生する前から、自らが作り上げたわけではない一群の社会関係の中に、組み込まれている。
 (b)子どもは、大人に依存している。
(2)子どもが、自立した実践的推論者になるための諸条件
 (a)言語の獲得と、言語を幅広く多様なしかたで用いる能力を獲得する。
 (b)自らの行動の諸理由を比較衡量する能力を獲得する。
 (c)自分が現在抱いている諸々の要求から距離を置く能力を獲得する。
 (d)ただ現在だけを意識している状態から、想像上の未来をも見通している意識状態へと変化する。
(3)自立した実践的推論者
 (a)自らが参加する社会関係の形成や維持に寄与する。
 (b)自立した実践的推論者たちによる共通善を理解する。
 (c)現在および未来の可能な諸相に関して、ある程度共通の理解が存在する。
 (d)共通善の達成を可能にするような、他者との協力関係を形成・維持する技術を学ぶ。

 「ごく幼い子どもは、その誕生の瞬間から、いやそれどころか誕生する前から、みずからが作り上げたわけではない一群の社会関係の中に組み込まれているし、そうした諸関係によって自己のありようを規定されている。そのような子どもがいずれ到達しなければならない状態とは、一人の自立した実践的推論者たるその人間が、他の自立した実践的推論者たちとの間に、また、〔いまはその子どもが彼らに依存しているのだが〕やがては彼らのほうがその人間に依存するようになる人々との間に、諸々の社会関係をとり結んでいる状態である。自立した実践的推論者は、幼児とは異なり、彼らがそこに参加する社会関係の形成や維持に寄与する。そして、自立した実践的推論者になる術を学ぶということは、自立した実践的推論者たちによる共通善の達成を可能にするような、そうした関係を他者と協力して形成・維持する術を学ぶことである。しかるに、そのような他者と協力しあっておこなう活動は、〔その活動にたずさわる人々の間に〕現在および未来の可能な諸相に関して、ある程度共通の理解が存することを前提としている。
 ただ現在だけを意識している状態から想像上の未来をも見通している意識状態へと変化することが、幼児の状態から自立した実践的推論者の状態への移行に見出される第三の側面である。この能力も、みずからの行動の諸理由を比較衡量する能力や、自分が現在抱いている諸々の要求から距離を置く能力と同様に、言語の獲得と言語を幅広く多様なしかたで用いる力の双方をその要件とする能力である。言語を用いない知的な種のメンバーは、この能力をもちえない。ウィトゲンシュタインはこう述べている。「動物(Tier)が怒っていたり、おびえていたり、悲しんでいたり、喜んでいたり、びっくりしている状態というのは想像できる。だが、希望に満ちた状態というのはどうだろう。そして、そのような状態が想像できないのはなぜだろう」。そして、彼は続けてこう指摘している。イヌは自分の主人がいま玄関にいることは信じることはあっても、自分の主人があさって帰ってくると信じることはないだろう、と。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第7章 傷つきやすさ、開花、諸々の善、そして「善」,pp.100-101,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:自立した実践的推論者,社会関係,共通善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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