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2019年4月5日金曜日

9.あらゆる真に生きられる現実は、出会いである。私という存在の全体が、確かに汝の存在の全体を捉えており、また同時に、私の全てが汝に捉えられている。関係は、印象、想像物、情緒ではない。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

出会い

【あらゆる真に生きられる現実は、出会いである。私という存在の全体が、確かに汝の存在の全体を捉えており、また同時に、私の全てが汝に捉えられている。関係は、印象、想像物、情緒ではない。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

あらゆる真に生きられる現実は、出会いである。
 (a)関係の成立:我-汝の関係が成立しているとき、私という存在の全体が、確かに汝の存在の全体を捉えており、また同時に、私の全てが汝に捉えられている。
 (b)捉えられた汝は、印象のように部分的な対象ではない。汝の存在の全体が捉えられている。
 (c)捉えられた汝は、私の恣意的な想像物ではない。私という存在の全体が、汝を捉えている。
 (d)私に引き起こされた情緒によって、汝に捉えられているのではない。
 (e)関係の受動性:関係は、探し求めても、見い出されない。私が汝と出会うのは、汝が私に向い寄って来るからである。
 (f)関係の能動性:汝との直接的な関係のなかへ歩み入るのは、私の存在の全体をかけた行為である。

 「私が《汝》と出会うのは恩寵によってである、――探しもとめることによっては《汝》は見いだされない。

しかし私が《汝》にむかってあの根元語を語りかけることは、私の存在そのものの行為、私の本質的行為である。

 私が《汝》と出会うのは、《汝》が私に向いよってくるからである。だが、《汝》との直接的な関係のなかへ歩みいるのはこの私の行為である。

このように、関係とは《選ばれること》であると同時に《選ぶこと》であり、受動(Passion)であると同時に能動(Aktion)である。

なぜなら、およそ存在の全体をかけた能動的行為においては、あらゆる部分的行為は止揚され、したがって――たんに部分的行為の限界に根ざしているにすぎぬ――あらゆる行為感覚も止揚されてしまうので、その行為の能動性は受動に似たものになってしまうからである。

 根元語・《我-汝》は、ただ存在の全体でもってのみ語られ得る。

私の存在が集一し溶解してひとつの全的存在となることは、決して私のわざによることではないが、私なくしては決して起こり得ない。

私は《汝》との関わりにおいて《我》となり、《我》となることによって私は、《汝》を語るのである。あらゆる真に生きられる現実は出会いである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.17-18、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:出会い,印象,想像,情緒,関係,関係の受動性,関係の能動性)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

マルティン・ブーバー(1878-1965)
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2018年5月9日水曜日

12.意志において理性の力を助ける方法:(1)巧妙な詭弁を、論理学の力で見破る。(2)激烈な感情に十分に対抗できるような想像、印象を、弁論術の力で理性の判断から仕立てる。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

意志において理性の力を助ける方法

【意志において理性の力を助ける方法:(1)巧妙な詭弁を、論理学の力で見破る。(2)激烈な感情に十分に対抗できるような想像、印象を、弁論術の力で理性の判断から仕立てる。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
 意志は理性による支配から、3つのものに妨害されている。
(a1) 巧妙な詭弁:論理学に関係のある罠で、まちがった推論によって理性は罠をかけられる。
(b1) 激烈な情念と感情:道徳哲学に関係し、我を忘れさせられる。
(c1) しつこい想像、印象:弁論術に関係のある罠で、印象あるいは所見にまといつかれる。
 意志を、理性の命ずる方向に動かすにあたっては、どうすれば良いか。すなわち理性の命令を、想像力に受け入れさせるには、どうすれば良いか。
(a2) 論理学の力をかりて巧妙な詭弁を見破り、理性を確実にする。
 理性は未来と時間の全体とを見るという点で、情念とは異なる。
(b2) 感情そのものにも、つねに、善への欲求がある。
(c2) ところが、感情は現在だけを見るので、未来と時間の全体とを見る理性よりも、いっそう多く想像力をかきたて、理性はふつう負かされてしまう。
 そこで、
(c3) 弁論術の力をかりて雄弁と説得とで、理性が命ずるもの、例えば未来の遠いものを現在のように見えさせてしまえば、そのときは想像力が、現在だけを見ている感情から、理性のほうへ寝がえり、理性が勝つ。

 「弁論術の任務と役目は、意志を理性の命ずる方向にいっそうよく動かすために、理性の命令を想像力にうけいれさせることである。

現に、理性はその支配を三つのものによって妨害されているからである。三つのものとは、論理学に関係のあるわなあるいは詭弁と、弁論術に関係のある想像あるいは印象と、道徳哲学に関係のある情念と感情とである。

そして他人との折衝の場合、人間は巧妙な手としつこい要求と激烈さとによって左右されるように、内心における折衝の場合も、人間は、まちがった推論によって根底をくずされ、印象あるいは所見にしつこくまといつかれ、情念のために我を忘れさせられる。

といっても、人間の本性はそれほど できそこなってはいないので、あの三つの能力と技術は、理性をかき乱して、それを確立し高めないような力をもっているわけではない。

というのは、論理学の目的は、立論の形式を教えて理性を確実にすることであって、理性をわなにかけることではなく、道徳哲学の目的も、感情を理性に従わせることであって、理性の領域を侵させることではなく、弁論術の目的も、想像力をみたして理性を補佐することであるからである。」(中略)

「なおまた、もしも感情それ自身が御しやすくて、理性に従順なものであったら、意志に対する説得と巧言などを用いる必要は たいしてなく、ただの命題と証明だけで十分であろうが、しかし、感情がたえず むほんをおこし扇動する、
 「よいほうの道はわかっており、そのほうがよいと思う。
  しかし、わたしはわるいほうの道をたどる」〔オウィディウス『変身譚』七の二〇〕
のをみると、もし説得の雄弁がうまくやって、想像力を感情の側からこちらの味方に引き入れ、理性と想像力との同盟を結んで、感情と対抗しなければ、理性は捕虜と奴隷になるであろう。

というのは、感情そのものにも、理性と同じように、つねに、善への欲求があるが、感情は現在だけを見、理性は未来と時間の全体とを見るという点で異なり、そしてそれゆえ、現在のほうがいっそう多く想像力をみたすので、理性はふつう負かされてしまうからである。

しかし、雄弁と説得との力が未来の遠いものを、現在のように見えさせてしまえば、そのときは、想像力の寝がえりで、理性が勝つのである。」

(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一八・二、一八・四、pp.249-252、[服部英次郎、多田英次・1974])
(索引:論理学、道徳哲学、弁論術、詭弁、情念、感情、想像、印象)

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)


(出典:wikipedia
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


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