真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立する(マルティン・ブーバー(1878-1965)
これが、何とかして活路を見いだそうとする切実な時代的要求の出発点である。
感情が個人生活を生み出すものではないということはしかし、ごく少数のひとびとしか、まだ理解していない。むしろ、ここにこそもっとも個人的なものがやどっているようにみえるわけである。
そして、近代人はおおむねそうなのだが、やたらに自分自身の感情と関わりあうようになって、そのあげく、感情の非現実性に絶望しても、ひとびとはその絶望によってすら容易には蒙をひらかれることがない。なぜなら、絶望もまたひとつの感情、興味ぶかい対象だからである。
組織が公的生活を生み出すものでないということに苦しむひとびとは、ひとつの解決手段を思いついた、……すなわち、それを他ならぬ感情によって、ゆるめたり、溶かすなり、うち破るなりせねばならないというのだ。組織のなかへ《感情の自由》をみちびきいれることによって、まさに感情の面からそれを革新せねばならないというわけである。
たとえば、国家が自動機械じみたものに化されてしまって、たがいに心の触れあいのない市民をただともかく繋ぎあわせているにすぎず、彼らのあいだに何らの共同的なつながりをもうち立てたり推し進めたりしていないからには、このような国家は愛の共同体(Liebengemeinde)によって取りかえられるべきだというのが、このひとびとの考えなのだ。
そして愛の共同体とは、民衆が自由な、熱烈な感情にうながされて集いあい、たがいに生活を共にしようと欲するときにこそ成り立つというのである。
だが、事実はそうではない。真の共同体(Gemeinde)とは、ひとびとがたがいにあたたかな感情をもちあうことによって成り立つのではない(むろんこのことなしには成り立たないとはいえ)。
真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立するのである。
この後者は前者から生ずるのであるが、しかしこれが前者とともにのみ存在したためしはまだない。共同体は生ける相互関係をもとにして築きあげられる、しかし、その建築師はあの生きて働きかけてくる中心なのである。」