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2024年2月3日土曜日

13.組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。(マルティン・ブーバー(1878-1965)


組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。(マルティン・ブーバー(1878-1965)




「経験と利用の機能の向上は、たいていの場合、人間の関係能力の低下と引きかえに起こる。

 精神を自分のための享受手段に仕立てあげてしまった人間……このような人間は、自分のまわりに生きている存在といったいどのように関わりあうのであろうか?

 このような人間は、《我》と《それ》とを相いへだてる分離の根元語のもとに立って、《共に在る人間》(Mitmensch)との共同生活を判然と区画された二つの管区に、つまり組織と感情とに、《それ》の管区(Es-Revier)と《我》の管区(Ich-Revier)とに分割してしまうのである。 

 組織とは《外部》のことであって、ここでは
ひとは、ありとあらゆる目的事にかかずりあっている。労働し、取り引きし、影響をおよぼし、企業し、競争し、編成し、経営し、執務し、説教することによって。この《外部》とはいちおう秩序づけられた、また、いささか調和もとれている機構であって、そこではさまざまな要件が、人智と構成人員との多様な参与によって推進されているのである。 

 感情とは、ひとがそこで自分だけの生活をいとなみ、組織の束縛からはなれて休養するところの《内部》のことである。ここでは情緒のスペクトルが興味ぶかく眺める眼のまえで揺れ動き、愛好や、憎悪や、快楽や、そして、それがひどすぎるものでなければ、悲しみすらも享受されるのだ。ここではひとはくつろいで、そして揺り椅子のなかで身を伸ばすのである。 

 組織は厄介の多い集会場であり、感情は変化にみちた古城の私室である。 

 むろんこの両者の境界はたえずおびやかされている。なぜなら、気まぐれな感情は時としては、いかに即物的な組織のなかへも闖入するからだ。しかし、いささかそのつもりになれば、この境界はふたたびきちんと画されるのである。

 いわゆる個人生活の諸領域の内部でこのような境界を確実に画することは、もっとも困難である。たとえば結婚生活においては、これはそう簡単にはおこなわれないことがある。だが、ここにもやはりその種の境界は存在しているのだ。

いわゆる公的生活の諸領域においては、その種の境界はきっぱりと画されている、たとえば、諸政党や、あるいはまた、超党派性を標榜する諸団体の年間の明け暮れや《活動》をながめてみるがよい、ここでは天を衝くばかりのはげしいやりとりが交わされる会合と、そして――機械的に一様な、といってもあるいは有機的にだらけた、といっても同じことだが――地を這うような実務とが、見事に分離しているのである。

 だが、組織の場における分離された《それ》は、一種のゴーレムであり、感情の場における分離された《我》は、飛びさまよう一種の魂の鳥である。 

この両者とも、真の人間というものを知らないのだ。前者はただ規範を、後者はただ《対象物》を知っているにすぎず、いずれも人格たる人間を、共同性を知らない。いずれも現在を知らないのである。
 
組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》(das Nochnichtsein)を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。組織は公的生活を生み出さず、感情は個人生活を生み出さないのである。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.58-60、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話








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