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2021年12月17日金曜日

政治的行為の究 極的目的を科学的に、あるいは純粋に合理的な方法によって決定することはできないので、理 想の状態とはどのようなものであるべきかに関する意見のさまざまな相違は、議論の方法によっては必ずしも常に取り除けない。(カール・ポパー(1902-1994))

ユートピア主義の批判

政治的行為の究 極的目的を科学的に、あるいは純粋に合理的な方法によって決定することはできないので、理 想の状態とはどのようなものであるべきかに関する意見のさまざまな相違は、議論の方法によっては必ずしも常に取り除けない。(カール・ポパー(1902-1994))



「社会のある理想状態をわれわれの一切の政治的行為が貢献すべき目的として選ぶユートピ ア的方法は暴力を生み出しやすい、ということは次のようにして論証できる。政治的行為の究 極的目的を科学的に、あるいは純粋に合理的な方法によって決定することはできないので、理 想の状態とはどのようなものであるべきかに関する意見のさまざまな相違は、議論の方法に よっては必ずしも常に取り除けない。理想状態についてのこのような意見の相違は、少なくも 部分的には、宗教的意見の相違の性格をもつであろう。そして、これらの相異なったユートピ ア的諸宗教のあいだには、いかなる寛容もありえないのだ。ユートピア的目的は合理的な政治 的行為と議論の基礎としての役を果たすものと目論まれており、したがってこの目的がはっき りと定まっている場合にのみ、はじめてそのような行為は可能となるであろう。それゆえユー トピア主義者は、自分と同じユートピア目的を共有せぬ、また自分と同じユートピア宗教を信 仰しない、競争相手の他のユートピア主義者たちを、説得して自分の側につけるか、さもなけ れば粉砕してしまうかのいずれかをしなければならなくなる。  しかし、ユートピア主義者はもっとそれ以上のことをせざるをえない。かれは競合するすべ ての異端的見解の排除と駆遂とをきわめて徹底的におこなわざるをえない。なぜなら、ユート ピア的目標への道は長く、したがってかれの政治的行為が合理的であるためには、これからさ き長期間にわたって目的を不変に保つ必要があり、これをなしとげうるのは、競合している ユートピア的諸宗教を粉砕するにとどまらず、そのような諸宗教の一切の記憶をできるかぎり 駆遂してしまう場合だけだからである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第18章 ユートピアと暴力,pp.662-664,法 政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))






カール・ポパー(1902-1994)





2021年12月9日木曜日

善い目的は悪い手段を正当化するかどうか。中間的な結果が悪くても最終結果が良ければいいというのは、錯覚である。最終結果とは何か。そこで何かが終わるのか。中間結果も最終結果も、全てかけがえのない現実である。我々が比較対照しなければならないのは、ある行為の進路の予見しうる限りの全結果と、別の行為の進路の全結果である。(カール・ポパー(1902-1994))

ある行為の全結果の比較

善い目的は悪い手段を正当化するかどうか。中間的な結果が悪くても最終結果が良ければいいというのは、錯覚である。最終結果とは何か。そこで何かが終わるのか。中間結果も最終結果も、全てかけがえのない現実である。我々が比較対照しなければならないのは、ある行為の進路の予見しうる限りの全結果と、別の行為の進路の全結果である。(カール・ポパー(1902-1994))



「(c)第三の重要な点は、最終結果としてのいわゆる「目的」が中間的な結果である「手 段」よりも重要だと考えてはならないということである。「終わり良ければすべて良し」とい うことわざに示唆されているこの考えは、極めて誤解を招きやすいものである。第一に、いわ ゆる「目的 end」はとても事柄の終局 end とは言えない。第二に、目的が成就してしまえば 手段がいわば免責されるのではない。例えば、戦争での勝利のために使われた新しい強力な武 器のような「悪い」手段は、この「目的」が達成された後に、新しい困難を創造するかもしれ ない。換言すれば、あるものをある目的への手段として記述することが正当でありうるとして も、それは非常にしばしば手段以上のものである。それは当該の目的とは別の他の諸結果を生 む。そこでわれわれが比較対照しなければならないのは、(過去ないし現在の)手段と(未来 の)目的ではなく、ある行為の進路の予見しうる限りの全結果と別の行為の進路のそれとであ る。これらの結果は中間的な諸結果を含む時期にもわたるし、また企図された「目的」は考慮 すべき最後のものではないであろう。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,註(6),p.323,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠 (訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









善い目的は悪い手段を正当化するかどうか。手段と目的のあいだの因果関係が成り立ち、それが合理的であると仮定すると、企図された手段の悪と、これらの手段が採用されない場合の生ず るに違いない悪のうちの軽い方を選ぶという問題になる。(カール・ポパー(1902-1994))

大きな悪を避けるための手段として悪

善い目的は悪い手段を正当化するかどうか。手段と目的のあいだの因果関係が成り立ち、それが合理的であると仮定すると、企図された手段の悪と、これらの手段が採用されない場合の生ず るに違いない悪のうちの軽い方を選ぶという問題になる。(カール・ポパー(1902-1994))


「だが、想定された因果連関が成り立つ、換言すれば手段と目的について語ることが適切で あるような状況が存在する、と仮定しよう。その場合、われわれはもう二つの問い、(b)と (c)を区別しなければならない。  (b)因果関係が成り立ち、またわれわれがそれを確信することが合理的であると仮定する と、問題は主として二つの悪――企図された手段の悪とこれらの手段が採用されない場合の生ず るに違いない悪――のうちの軽い方を選ぶという問題になる。換言すれば、目的のうちの最善の 要素がそれ自体として悪い手段を正当化するのではないが、一層悪い結果を避けようとする試 み、それ自体としては悪い結果を生み出す行為を正当化するかもしれない(われわれは大抵、 ある人の生命を救うためにその人の手足を切断することが正しいことを疑わない)。  これとの関連では、われわれが実際には当該の諸悪を評価することができない、ということ が非常に重要になるかもしれない。例えばあるマルクス主義者たちは、暴力的社会革命に含ま れる苦悩は彼らが「資本主義」と呼ぶものに内在する慢性の悪に含まれるものよりもはるかに 少ないと信じている。だがこの革命がより良い事態へ導くと仮定してさえも――彼らはどうして ある状態での苦悩と他の状態での苦悩を評価することができるのだろうか。ここでまた事実問 題が生じるのであり、事実的知識を過大評価しないことがまたしてもわれわれの義務なのであ る。その上、企図された手段が結局状況を改善することを容認したとして――われわれは他の手 段がもっとましな結果をもっと少ない代価で達成しないものかどうか、確かめたのであろう か。  だが同じ例はもう一つの非常に重要な問いを引き起こす。再び「資本主義」下の苦悩の総和 が、もしそれが数世代の間続いた場合には内乱の苦悩を上回ると仮定しても――われわれは後の 諸世代のためにある世代に苦しむように宣告することができるのであろうか(自分自身を他の 人々のために犠牲にすることと他の人々――ないし自分自身《および》他の人々――をそのような 目的のために犠牲にすることの間には大きな相違がある)。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,註(6),pp.322-323,未来社(1980),内田詔夫(訳),小 河原誠(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









善い目的は悪い手段を正当化するかどうかという問題は、道徳的評価の問題というよりはむしろ事実に関する問題である。すなわち、一層確実な結果である悪い手段にもかかわらず、期待された目的に通じているのかどうか。自分の因果理論に対する懐疑的な態度は、最も重要な道徳的義務の一つである。 (カール・ポパー(1902-1994))

善い目的は悪い手段を正当化するか

善い目的は悪い手段を正当化するかどうかという問題は、道徳的評価の問題というよりはむしろ事実に関する問題である。すなわち、一層確実な結果である悪い手段にもかかわらず、期待された目的に通じているのかどうか。自分の因果理論に対する懐疑的な態度は、最も重要な道徳的義務の一つである。 (カール・ポパー(1902-1994))


「善い目的は悪い手段を正当化するかどうかという問題が生じるのは、病人の心を平静にす るために彼にうそをつくべきか、また人々を幸福にするために彼らを無知のままにしておくべ きか、また平和と美の世界を建設するために長くて血なまぐさい内乱を開始すべきかというよ うな場合からであるように思われる。  これらすべての場合において、企図されている行為は、善であると見なされている二次的な 結果(「目的」と呼ばれる)を引き起こすために悪であると見なされている一層直接的な結果 (「手段」と呼ばれる)をまず引き起こすことである。  私はこのような場合すべてにおいて、三つの異なった種類の問題が生じると思う。  (a)われわれは手段が実際に期待された目的に通じるということをどこまで想定する資格が あるか。手段は一層直接的な結果なのだから、それらは大抵の場合企図された行為の一層確実 な結果であろうし、またもっと間接的である目的は確実性が一層少ないであろう。  ここで提起されている問題は、道徳的評価の問題というよりはむしろ事実に関する問題であ る。それは、事実問題として、手段と目的の間にあると想定された因果連関が当てにできるも のかどうかという問題である。そこで、もし想定された因果連関が成り立たない場合には、そ れは手段と目的という場合ではなかったのであり、それゆえ実際はこの標題で考えるべきでは なかったのだと言うこともできよう。  これは真実であるかもしれない。だが実際上、ここで考慮されている論点はおそらく最も重 要な道徳的問題を含んでいる。というのは、その問題(企図された手段は企図された目的を引 き起こすかどうかという)は事実的な問題であるけれども、《この問題に対するわれわれの態 度は幾つかの最も根本的な道徳的問題》――われわれはこのような場合に、そうした因果連関が 成り立つという確信に依存すべきかどうかという問題、また換言すれば、われわれは独断的に 因果理論に依存すべきか、それとも、とくにわれわれの行為の直接の結果がそれ自体悪である と見なされる場合には、因果理論に対して懐疑的な態度を採るべきかという問題――《を引き起 こすからである》。  この問題はおそらくわれわれの挙げた三つの例のうちの初めのものの場合にはあまり重要で はないが、他の二つの場合には重要である。ある人々は、これら二つの場合において、想定さ れた因果連関が成り立つことは非常に確実なことだと感じるかもしれない。だがその連関は非 常に間接的なものであるかもしれない。また彼らの信念の情緒的な確実性でさえも、それ自 体、彼らの疑いを阻止しようとする試みの結果であるかもしれない(換言すれば、問題は狂信 者とソクラテスの意味での合理主義者――自分の知的限界を知ろうとする者――の間の問題であ る)。「手段」の悪が大きいものであればあるほど、問題は一層重要になる。それはともか く、自分の因果理論に対する懐疑の態度を採るように自己教育することは、疑いもなく最も重 要な道徳的義務の一つである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,註(6),pp.321-322,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









2021年12月8日水曜日

最初に掲げた思想や理想、目標は、いったいどこから手に入れたのか。もともと合理的であろうとして目標を決めたが、それは直感で手に入れたのではないか。また思想や理想、目標は不変なのか。仮に私たちがそう信じても、未来の後継者たちは、そう思わないかもしれない。(カール・ポパー(1902-1994))

ユートピア主義への批判

最初に掲げた思想や理想、目標は、いったいどこから手に入れたのか。もともと合理的であろうとして目標を決めたが、それは直感で手に入れたのではないか。また思想や理想、目標は不変なのか。仮に私たちがそう信じても、未来の後継者たちは、そう思わないかもしれない。(カール・ポパー(1902-1994))


「この論点を一般化すると、ユートピア的態度への更に進んだ批判になる。この態度が実践 的価値をもちうるのは、おそらく若干の修正は加わるとしても、もとの青写真が完成に至るま での作業の基礎であり続けると仮定する限りにおいてであることは明らかである。だがこれに は時間がかかる。それは政治的にも精神的にも革命の時期であろうし、政治の分野での新しい 実験や経験の時期であろう。それゆえ思想や理想も変化することが予想される。もとの青写真を作成した人々にとって理想国家と思えたものが、その後継者たちにはそうは見えないかもし れない。このことを承認すれば、この態度全体が崩れ去る。最初に究極の政治的目標を確立し その後にそれに向かって動き始めるという方法は、その実現過程の間に目標がかなり変化しう るということを認めるならば、空しいものとなる。いままでとってきた措置が新しい目標の実 現から現実には逸れるものであることが、いつ何時明らかになるかもしれない。またわれわれ が新しい目標に合わせて方向を変えるならば、再び同じ危険に身をさらすことになる。われわ れが払ったすべての犠牲にもかかわらず、どこにも到達しないかもしれない。ピースミールな 妥協の実現よりも遠い理想へ向かう一歩を好む人たちは、その理想が非常に遠い場合には、その一歩が理想に近づく一歩であるのかそこから遠ざかる一歩であるのかを言うことさえ困難 になるかもしれないということを常に記憶すべきである。このことは、ジグザグの歩みをとっ て進まねばならない場合や、ヘーゲルの隠語によれば「弁証法的に」進まねばならない場合、 また進路が全然明瞭には計画されていない場合にはとりわけそうである(この問題は、目的は どの程度まで手段を正当化できるかという、古くまた幾分子供っぽい問題と関連する。いかな る目的も決してすべての手段を正当化することはできないという主張は別としても、私はかな り具体的で実現可能な目的は、もっと遠い理想では決してなしえないような一時的手段の正当 化をなしうると考えている)。  いまや、ユートピア的態度を救うことのできる道は、プラトンのように唯一の絶対不変の理 想を信じることとともに、更に二つの仮定、即ち(a)この理想が何であるか、および(b)その 実現のための最善の手段は何であるかをきっぱりと決定する合理的方法が存在するという仮 定、を付け加える以外にはないことが分かる。ユートピア的方法論が全く空しいという宣言を 阻止できるためには、このような遠大な仮定をする他ない。だがプラトン自身や最も熱烈なプ ラトン主義者でさえ、(a)は確かに真ではないこと、究極目的を決定する合理的方法は存在せ ず、あるとすればある種の直感以外のものではないことを認めるであろう。それゆえ、ユート ピア工学者たちの間に何らかの意見の相違があれば、合理的方法が存在しない以上、理性の代 わりに力の使用、すなわち暴力に行き着くに違いない。ある一定の方向において何らかの進歩 があるとすれば、それは採用された方法にもかかわらずなされるのであって、その方法のゆえ にではない。その成功は、例えば指導者の卓越性によるものかもしれない。だがわれわれは、 卓越した指導者というものは合理的方法によっては生み出すことができず、運による他ないと いうことを決して忘れてはならない。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,pp.159-160,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠 (訳))


カール・ポパー
(1902-1994)









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