法全体に内在する拘束力
【難解な事案を解決するとき、裁判官たちの感ずる拘束を表現する比喩の例:「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】(3.3.5)追記。
(3)立法趣旨とコモン・ローの原理
裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
(3.1)立法趣旨
ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」
(3.1.1)権利は、制定法により創出される。
(3.1.2)特定の制定法により、如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案が発生する。
(3.2)コモン・ローの原理
判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理
(3.2.1)「同様の事例は、同様に判決されるべし」とする原理。
(3.2.2)一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案が発生する。
(3.3)難解な事案において、立法趣旨、コモン・ローの原理が果たしている機能
(3.3.1)制定法は、法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有する。
(3.3.2)裁判官は、判例法上の実定的法準則に従う義務が一般的に存在する。
(3.3.3)政治的権利は、立法趣旨、コモン・ローの原理として表現される。
(3.3.4)如何なる法的権利が存在するか、如何なる判決が要請されるかが不明確な、難解な事案が発生する。
(3.3.5)裁判官は、立法趣旨およびコモン・ローの原理を拠り所として、自らに認められている自律性を受容し、難解な事案を解決する。
(a)裁判官たちは、以前の判決の効力の内実につき意見を異にする場合でさえ、その判決に牽引力が認められることについては意見が一致している。
(b)裁判官たちは、新たな法を創造していると自覚するときでさえ感ずる拘束を、次のような比喩で表現する。「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「裁判官は、法それ自体が純粋に作用するための機関である」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」。
(3.3.6)したがって法的権利は、政治的権利のある種の函数として定義されることになる。
立法趣旨 コモン・ローの原理……政治的権利
↓ ↓ │
制定法 判例法上の │
│ 実定的法準則 │
↓ ↓ ↓
個別の権利 個別の判決………………法的権利
「裁判官達は、以前の判決が解釈以外の何らかの仕方で、論争の対象となる新たな法準則の定式化に寄与することを認める点では同意しているように思われる。彼らは以前の判決の効力の内実につき意見を異にする場合でさえ、その判決に牽引力が認められることについては意見が一致している。これに対し、ある問題に関してどのような投票を行うべきかを決定する際、立法者はきわめてしばしば背景的倫理や政策上の諸問題にしか関心を払わない。立法者は、その投票が議会の同僚議員のそれと、あるいは過去の議会のそれと矛盾しないことを示す必要はない。しかし裁判官が、このような独立的な性格をもつことは非常に稀である。裁判官は、自己の法創造的判決に対して自ら与える正当化を他の裁判官や公務担当者が過去において下した判決と関連づけようと努めるのが常である。
事実、有能な裁判官は、彼らの職務を一般的な方法で説明しようとする場合、彼らが新たな法を創造していると自覚するときでさえ感ずる拘束を、そして彼らが立法者であれば適切ではないような拘束を表現するために、何らかの比喩的表現を探そうとする。たとえば彼らは、法全体に内在する新たな法準則を見出したと述べてみたり、政治よりは哲学に属するような方法を通じて、法の内在的論理に拘束力をもたせるとか、裁判官は法それ自体が純粋に作用するための機関であるとか、あるいはたとえ法の生命は論理よりは経験に属するものであっても、法にはそれ固有のある種の生命が認められるなどと述べたりする。ハーキュリーズは、これら周知の比喩や擬人的表現に満足してはならないが、同時にこれらの表現に含まれた最良の法律家へと訴えかける含蓄ある内容を無視するようないかなる司法過程の記述にも満足してはならない。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.139-140,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法全体に内在する拘束力,法に固有の生命)
(出典:wikipedia)
「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
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