積極的自由の歪曲、理性による解放
【欲望、情念、偏見、神話、幻想の心理学的・社会学的原因の理解はよい。しかし“合理的な”諸価値や事実が、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、まさに積極的自由が歪曲される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】
追記。
(2.5)積極的自由の歪曲4:理性による解放
自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。欲望、情念、偏見、神話、幻想は、その心理学的・社会学的原因と必然性の理解によって解消し、自由になれる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
(a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
(i)欲望、快楽の追求は、外的な法則への服従である。
(ii)情念、偏見、恐怖、神経症等は、無知から生まれる。
(iii)社会的な諸価値の体系も、外部の権威によって押しつけられるときは、異物として存在している。意識的で欺瞞的な空想からか、あるいは心理学的ないし社会学的な原因から生まれた神話、幻想は、他律の一形態である。
(iv)知識は、非理性的な恐怖や欲望を除去することによって、ひとを自由にする。規則は、自分で自覚的にそれを自分に課し、それを理解して自由に受けとるのであるならば、自律である。
(v)社会的な諸価値も、理性によってそれ以外ではあり得ないと理解できたとき、自律と考えられる。自分によって発案されたものであろうと他人の考案になるものであろうと、理性的なものである限り、つまり事物の必然性に合致するものである限り、抑圧し隷従させるものではない。
(vi)理解を超えて、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、積極的自由が歪曲される。
(b)自分で目標を実現するための方策を考える。
(i)理性は、何が必然的で何が偶然的かを理解させてくれる。
(ii)自由とは、選択し得るより多くの開かれた可能性を与えてくれるからというのではなく、不可能な企ての挫折からわれわれを免れさせてくれるからである。
(iii)必然的でないものが、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、積極的自由が歪曲される。
(c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
「われわれは専制君主――制度あるいは信仰あるいは神経症――によって奴隷とされている。
これをとり除くことのできるのは、分析と理解のみである。われわれは自分で――自覚的にではないにせよ――つくり出した悪霊によって繋縛されている。これをはらいのけることができるのは、ただそれを意識化し、それに応じた行動をとることによってのみである。
わたくしが自分自身の意志によって自分の生活を設計するならば、そのときにのみわたくしは自由である。この設計が規則をもたらす。
規則は、もしわたくしが自覚的にそれを自分に課し、それを理解して自由に受けとるのであるならば、それが自分によって発案されたものであろうと他人の考案になるものであろうと、理性的なものである限り、つまり事物の必然性に合致するものである限り、わたくしを抑圧し隷従させることはない。
なにゆえに事物がそうあらねばならぬごとくにあらねばならないのかを理解することは、自分がまさしくそのようにあることを意志することである。
知識がわれわれを自由にするのは、われわれの選択しうるより多くの開かれた可能性を与えてくれるからというのではなく、不可能な企ての挫折からわれわれを免れさせてくれるからなのだ。
必然的な法則が現にそうであるより以外のものであることを欲するのは、非理性的な欲求――XであらねばならぬものがまたXでもないことを欲する――の餌食となることである。
さらに進んで、これらの諸法則が必然的にそうあるより別のものだと信ずることは、狂気の沙汰である。
これこそが合理主義の形而上学的核心である。そこに含まれている自由概念は、障害物のない境域、自分のやりたいことのできる空虚な場所という「消極的」な自由の観念ではなくして、自己支配ないし自己統御という〔「積極的」な自由の〕観念である。
わたくしは自分自身の意志することを行うことができる。わたくしは理性的存在である。わたくしが自分自身に対して必然的であると証明できるもの、理性的な社会――つまり、理性的なひとびとによって、理性的存在が抱くであろうような目標へと向けられている社会――においてそうあるよりほかにありえないと証明できるものはいかなるものであれ、これをわたくしは、理性的存在であるがゆえに、自分の道から一掃してしまおうなどと欲することはできない。
わたくしはこれを自分の本体に同化させてしまう、ちょうど論理法則や数学・物理学の法則、芸術上の規則をそうするように。
またわたくしが理解し、それゆえに意志するすべてのものを支配している原則、またそれ以外であることを欲しえないがゆえに、決してわたくしがそれによって妨げられることのない理性的な目標などについてもそうするのと同じように。
これが、理性による解放という積極的学説である。これの社会的形態は、今日のナショナリズム、マルクス主義、権威主義、全体主義等々の信条の多くのものの核心をなしている。
その進展課程には、合理主義的な装備が置き忘れられてしまったというようなことがあるかもしれない。
けれども、今日地球上の数多の部分で、デモクラシーにおいてもまた専制政治においても、この自由をめぐって議論が交わされ、この自由のために戦いがなされているのである。
いまここでわたくしはこの自由の観念の歴史的展開を跡づけてみよいうというのではないが、その変遷の若干の諸点について評釈をくわえてみたいと思う。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),4 自己実現,pp.46-48,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:積極的自由の歪曲,理性による解放,必然性,積極的自由)
(出典:
wikipedia)
「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(
Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(
nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))
アイザイア・バーリン(1909-1997)
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