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2021年12月24日金曜日

なぜ法に服従する責務があるのか。(a)功利主義による基礎づけ、(b)社会の成員として負う義務、(c)公平の原理。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法に服従する責務の説明

なぜ法に服従する責務があるのか。(a)功利主義による基礎づけ、(b)社会の成員として負う義務、(c)公平の原理。(ハーバート・ハート(1907-1992))


(a) 法に服従する責務に関する純粋に功利主義的な理論
 (i)この理論は、法に服従する義務を、幸福を促進する責務の特殊事 例にすぎないものと見なす。
 (ii)この理論は、悪法に対する不服従は、も しも不服従の結果が服従の結果よりも功利主義的に見て一層ましであるならばそれは正当化され る、という当然の帰結を伴っている。不服従の害悪には、法体系の権威を弱めることを通じて他の人びとに加えられるどのような害 悪をも含む。
(b) 社会の成員として負う義務
 法に服従する責務とは、 市民が同じ社会の一員としての相互的関係によって自分自身の社会の成員に対し特別に負って いると考えられる責務であって、たんに、危害、損害、苦痛を与えてはならないという人びと一般に対する責務の一例として理解されるものではない、
(c)公平の原理
 多数の人び とが、他の方法では得られない諸利益を獲得するために一定のルールによって自分たちの自由 に制約を加える時、他の人びとによるそのルールへの服従から利益を得た人びとは、今度は自分 たちがそのルールに服従する責務を負う。

法に服従する責務
 法に服従する責務に関する哲学的探求にとっては、この主題 の功利主義的な側面と他の道徳的側面との間の区別――正義のところで説明した区別に類似した もの――が必要とされる。ある人が法律の要求することを道徳上行なうべきことであることを立 証するためには、どのような明解な道徳理論においても、ただたんに法体系が、その法律の性 質如何を問わず、存在しているというだけでは不十分であることは明白なように思われる。し かしながら、法に服従する責務に関する純粋に功利主義的な理論に対してもまた、強力な反論 が存在している。その功利主義的な理論とは、この責務をたんに幸福を促進する責務の特殊事 例にすぎないものと見なす理論であり、したがって、この理論は、悪法に対する不服従は、も しも不服従の結果(法体系の権威を弱めることを通じて他の人びとに加えられるどのような害 悪をも含む)が服従の結果よりも功利主義的に見て一層ましであるならばそれは正当化され る、という当然の帰結を伴っている。この功利主義的な理論が説明することのできない道徳的 状況の特徴には、特に重要な二つのものがある。その最初のものは、法に服従する責務とは、 市民が同じ社会の一員としての相互的関係によって自分自身の社会の成員に対し特別に負って いると考えられる責務であって、たんに、危害、損害、苦痛を与えてはならないという人びと一般に対する責務の一例として理解されるものではない、というものである。二番目のもの は、法に服従しない人びとが自ら進んで処罰に服する場合(たとえば、良心的徴兵忌避者の場 合)のように、たとえそれらの人びとの不服従によって法体系の権威がほとんど、あるいは まったく傷つけられないことが明白であっても、人びとは法に服する責務の下にあるとしばし ば考えられている、というものである。
 社会契約の理論は、法に服従する責務のこれら二つの側面に焦点を合わせたものである。そ して、法への服従の責務は、他の人びとに対して公正であること――功利とは別のものであり、 功利と衝突する可能性のあるもの――の責務であると見なされうることを示す一定の考慮を、契 約論における神秘的なもの、あるいは他の是認し難いものから切り離すことは可能である。そ こに含まれている原理は、最も単純な形にして述べれば次のようになる。つまり、多数の人び とが、他の方法では得られない諸利益を獲得するために一定のルールによって自分たちの自由 に制約を加える時、他の人びとによるそのルールへの服従から利益を得た人びとは今度は自分 たちがそのルールに服従する責務を負う、ということである。この原理と功利の原理とが衝突 することはありうることである。なぜなら、たとえかなりの数の人びとが自分の番になっても 協力をせずルールに従わなくても、そのような制約によって獲得される諸利益はしばしば生じ てくるからである。功利主義者にとっては、もしも彼の協力がその体系の諸利益を獲得するた めに必要でないならば、彼がルールに従うべき理由は存在しえないであろう。実際に、その場 合、もしもある個人が協力したとすれば、彼は幸福の総量を最大化しそこなうという過ちを犯 したことになるだろう。というのは、もしも彼がその体系の制約に従うことなく体系の諸利益 を得るとすれば、幸福の総量は最大となるであろうからである。もしもすべての人びとがその 協力を拒否するとすればその体系は期待されている諸利益を生み出さないであろう、あるいは 崩壊してしまうであろうという憂慮は、そのようなすべての人びとによる協力拒否は起こらな いだろうということが知られている場合には――たいていの場合そうなのだが――、功利主義計算 においては重要性を持たないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,3 法哲学の諸問 題,pp.135-136,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳),古川彩二(訳))

【中古】 法学・哲学論集 /H.L.A.ハート(著者),矢崎光圀(訳者),松浦好治(訳者) 【中古】afb



ハーバート・ハート
(1907-1992)




言葉は、世界の記述のために用いられるだけでなく、社会的な慣行の存在を背景として、責務を創造したり、権利を移転したり、一般的に法的状況を変化させることもできる。法律行為の一般的性質は、言語の遂行的用法として理解できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

行為遂行的言語

言葉は、世界の記述のために用いられるだけでなく、社会的な慣行の存在を背景として、責務を創造したり、権利を移転したり、一般的に法的状況を変化させることもできる。法律行為の一般的性質は、言語の遂行的用法として理解できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))



「新しい分析法学の第二の特徴は、まったく異なった仕方で現代分析哲学に結び付いてい る。ウィトゲンシュタインは、どこかで言葉はまた行為でもあると述べていた。オースティン 教授の最も独創的な業績は、彼の死後出版された『言葉によって、いかに行為するか』の中に 見ることができる。その中で彼は、言葉が果たす多様な機能のうちには哲学者によって非常に 頻繁に見落とされているにもかかわらず、社会生活とりわけ法における一定の行為を理解しよ うとするときに最も重要なものとなる機能があると論じている。洗礼式を例にあげよう。式の 重要な時点において、ある文が語られる(「私はここにこの子をXと命名する」)。これらの 言葉を言った効果として、それまで存在していた社会状況が変化させられ、その子をXという 名で呼ぶことが「正しい」とされるようになる。ここでは、言葉は最も普通の用法である世界 の《記述のため》に用いられているのではなく、社会的な慣行を背景として《一定の変化を引 き起こすため》に用いられている。約束の言葉を述べるということについても同じことがあて はまる。「私の車で駅までお送りすることをお約束します」は事柄の《記述》ではなく、それ はその言葉を話した人に道徳的な責務を創造する効果を持つ発話である。それは話した人を拘 束する。言葉のこの用法が法においてたいへんな重要性をもつことは明らかである。それは、 「私はここに私の金時計を友人Xに遺贈します」と遺言者によって書かれた遺言書や、立法者 によって用いられた法の文言、たとえば「ここに、......法を制定する」を見れば明らかである。 法においては、正当な資格を備えた人によって、適切な状況の下で述べられた言葉は法的効果 を持っている。  イギリスの法律家はこのような仕方で用いられる言葉をときどき「効果発生」 語"operative" words と呼ぶが、法以外の分野にも広く見られるこの言語機能は、イギリ スの多くの哲学者には「遂行的言明」として知られている。法の内外における言語の遂行的用 法は多くの興味ある特殊な特徴を備えていて、その点で世界を記述する言明が真であるか偽で あるかに関心を抱くときにわれわれが使う言語の用法とは異なっている。法律行為 Rechtsgeschäfte の一般的性質は、言語の遂行的用法というこの考えをぬきにして は理解できないように思われる。何人かの法哲学者は、たんに言葉を使うだけで責務を創造し たり、権利を移転したり、一般的に法的状況を変化させたりできるという事実にたいへん当惑 した。その中でも有名なのはヘーゲルストレームである。彼にとっては、それは魔術や法的 錬金術の一種に思えたのである。しかし、それが言語の特別な機能であることを認識するだけ でそれをちゃんと理解できることは明らかである。つまり、ある人がある言葉を話すときには 一定のルールが機能し始めるべし、ということを定めるルールまたは慣行が背景として与えら れると、それによって当該言葉の機能そして広義においてその言葉の意味が決定されるのであ る。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第5部 四人の法理論家たち,12 イェーリングの概念の天国と現代分析法理学,pp.313-314,みすず書房(1990),矢崎光圀(監 訳),松浦好治(訳))

【中古】 法学・哲学論集 /H.L.A.ハート(著者),矢崎光圀(訳者),松浦好治(訳者) 【中古】afb


ハーバート・ハート
(1907-1992)




2021年12月23日木曜日

政治的論議や社会的諸制度の批判の場にお いて、非実定法的な自然権の観念を用いることは、政府のいかなる権力の行使とも両立しえず、 それゆえに危険なほど無政府主義的になるか、もしくは、総じて無意味ないし瑣末なものになる。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

自然権批判

政治的論議や社会的諸制度の批判の場にお いて、非実定法的な自然権の観念を用いることは、政府のいかなる権力の行使とも両立しえず、 それゆえに危険なほど無政府主義的になるか、もしくは、総じて無意味ないし瑣末なものになる。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))














(a)もし人びとの主張する自然権が形式上絶対的なも のであり、いかなる例外も、あるいは他の価値との妥協も認めないとすれば、それは危険なほど無政府主義的になる。不可譲の権利という客 観的に響く言葉を用いることによって、確立された法を「無効」にし、法が行なったり要求したりしうることに対して限界を画するようなものと理解されることになる。
(b)逆に、一 般的な例外を承認するならばたとえば、法が許容する場合を除いて、いわゆる自然的自由権 はけっして奪われることのない何物かであると提唱されるならば、自然権は立法者とその服 従者のどちらにとっても、「瑣末で」無意味な指針となる。




 「ベンサムの第二の批判は、政治的論議や確立された法および社会的諸制度の批判の場にお いて非実定法的な自然権の観念を用いることは、政府のいかなる権力の行使とも両立しえず、 それゆえに危険なほど無政府主義的であるにちがいないか、もしくは、総じて無意味ないし瑣 末なものであるだろう、というものである。もし人びとの主張する自然権が形式上絶対的なも のでありいかなる例外もあるいは他の価値との妥協も認めないとすれば、それは前者であろ う。ある何らかの確立された法に対して強い反発感情を抱く人びとは、不可譲の権利という客 観的に響く言葉を用いることによって、このような感情を何かより以上のものとして、つまり 確立された法を「無効」にし法が行なったり要求したりしうることに対して限界を画するよう な、何か確立された法に優位するものの要求として表わすことができるであろう。そうする代 わりに、自然権が形式上絶対的なものとして表わされず(フランス「人権宣言」のように)一 般的な例外を承認するならば――たとえば、法が許容する場合を除いて、いわゆる自然的自由権 はけっして奪われることのない何物かであると提唱されるならば――、自然権は立法者とその服 従者のどちらにとっても、「瑣末で」無意味な指針なのである。かくして、新しいアメリカ諸 州のいくつかでは、憲法上、明文によって自然的自由が宣言されたにもかかわらず、それは奴 隷所有者の奴隷を所有する権利に影響を与えないとされたことで、自然権は瑣末なものとなっ たのである。このように、自然権は、政府の権力行使が常に自由や所有に対する何らかの制限 を伴っているがゆえに、整序だった政府と両立しえないか、それとも瑣末で空虚で役立たない かのどちらかである、とベンサムは結論づけたのである。」
 (ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第4部 自由・功利・権利,8 功利 主義と自然権,pp.214-214,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),玉木秀敏(訳))

【中古】 法学・哲学論集 /H.L.A.ハート(著者),矢崎光圀(訳者),松浦好治(訳者) 【中古】afb


ハーバート・ハート
(1907-1992)




2019年4月14日日曜日

29.論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件は、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる公機関の存在と、一般の私人の「せざるを得ない」か「責務」かは問わない服従である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

論理的に単一の法体系が存在するための条件

【論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件は、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる公機関の存在と、一般の私人の「せざるを得ない」か「責務」かは問わない服従である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.3.1)に追記。
(3.3.3)追記。
(3.3.4)追記。

(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
   「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。それは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (3.1)「せざるを得ない」
  (a)行動を行なう際の、信念や動機についての陳述である。
  (b)そうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果が生じるだろうと信じ、その結果を避けるためそうしたということを意味する。
  (c)この場合、予想された害悪が、命令に従うこと自体による不利益よりも些細な場合や、予想された害悪が、実際に実現するだろうと考える根拠がない場合には、従わないこともあろう。
 (3.2)「責務を負っている」
  (a)信念や動機についての事実は、必要ではない。
  (b)その責任に関する、社会的ルールが存在する。
  (c)特定の個人が、この社会的ルールの条件に当てはまっているという事実に注意を促すことによって、その個人にルールを適用する言明が「責務を負っている」である。
 (3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
  社会には、「私は責務を負っていた」と語る人々と、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々の間の緊張が存在していることだろう。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
   (a)「ルール」の違反には処罰や不快な結果が予想される故に、「ルール」に関心を持つ。
   (b)ルールが存在することを拒否する。
   (c)この人々は、ルールに「服従」している。
   (d)行為が「正しい」「適切だ」「義務である」かどうかという考えが、必ずしも含まれている必要がない。
   (e)逸脱したからといって、自分自身や他人を批判しようとはしないだろう。
  (3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
   (a)自らの行動や、他人の行動をルールから見る。
   (b)ルールを受け入れて、その維持に自発的に協力する。
  (3.3.3)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
   (a)公機関も一般の私人も、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる健全な社会。
   (b)一般の私人が、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々からなる社会。
    「このような状態にある社会は悲惨にも羊の群れのようなものであって、その羊は屠殺場で生涯を閉じることになるであろう。」しかし、法体系は存在している。
  (3.3.4)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
   (a)公機関
    法的妥当性の基準を明記する承認のルール、変更のルール、裁判のルールが、公機関の活動に関する共通の公的基準として、公機関によって有効に容認されている。従って、逸脱は義務からの違反として、批判される。
   (b)一般の私人
    これらのルールが、一般の私人によって従われている。私人は、それぞれ自分なりに「服従」している。また、その服従の動機はどのようなものでもよい。

 「立法者が自分に権能を与えているルールと一致して行なうことを、裁判所が容認された究極の承認ルールを適用するときに行なうことを「服従」という言葉で記述しようとするとき、どうして誤解を生じるのかというと、それはルール(あるいは命令)に従うということは従う人の側の考え、つまり自分の行なうことは彼自身にとっても他人にとってもそうするのが正しいという考えが必ずしも含まれている《必要》がないからである。彼は自分の行なうことがその社会集団の他の人々にとっての行動の基準を実現することであると考える必要はない。彼はルールに従った自分の行動を「正しい」、「適切だ」、「義務である」と考える必要はないのである。言いかえれば、彼の態度は社会的ルールが容認され、行為の諸類型が一般的基準として扱われるときに常に見られる批判的な性格をもつ必要がないのである。彼はルールをその適用を受けるすべての人に対する基準として容認する内的視点を彼らとともにもっているかもしれないが、そうする必要はないのである。その代わりに、彼はそのルールが刑罰の威嚇によって《彼》にその行為を要求するものであるとしか考えていないかもしれない。彼は結果を恐れて、あるいは惰性からそのルールに服従するかもしれないのであって、そのとき彼は自分自身も他人もそうする責務があると考えていないのであり、また逸脱したからといって自分自身や他人を批判しようとはしないだろう。しかしルールに対するこのような単なる個人的な関与の仕方は、すべての一般人がルールに従うときに見られるものである《かもしれない》が、それは裁判所を裁判所として活動させるルールに対する裁判所の態度を特徴づけることができないのである。このことは、他のルールの妥当性を評価する究極の承認のルールについて、もっとも明らかに当てはまる。究極の承認のルールがいやしくも存在するとすれば、それは内的視点から正しい判決の公的で共通な基準であるとみなされなければならないのであって、それぞれの裁判官が自分なりに従うにすぎないものであるとみなされてはならないのである。体系のそれぞれの裁判官は場合によっては、これらのルールから逸脱するかもしれないが、一般的には裁判所はそのような逸脱を基本的に公的であり共通のものである基準の違反として、批判的に関与しなければならない。これは単に法体系の効率ないし健全さの問題ではなく、論理的には単一の法体系があると言えるための必要条件である。単に何人かの裁判官が、議会における女王の制定するものが法であるということにかこつけて「自分のためにだけ」行動し、そしてこの承認のルールを尊重しない人々を批判しないならば、法体系の特徴ある統一性と継続性は失われるであろう。なぜならそれらはこの決定的な点において、法的妥当性の共通の基準の容認にもとづいているからである。裁判所の行動のこういった気まぐれさと、一般人が裁判所の矛盾した命令に出会ったときに生じる混乱との間で、われわれはその状況をどのように記述するのかと迷うであろう。われわれは《造化の戯れ》lusus naturae に直面しているのであり、それはあまりに明白なのでしばしば注目されないものについてのわれわれの意識を鋭くするという理由だけからも考察に値するのである。
 したがって、法体系の存在にとって必要で十分な二つの最低条件がある。一方において、その体系妥当性の究極的基準に一致して妥当しているこれらの行動のルールは、一般的に従われていなければならない。他方において、法的妥当性の基準を明記する承認のルールおよび変更のルールと裁判のルールは、公機関の活動に関する共通の公的基準として公機関によって有効に容認されていなければならない。第一の条件が私人が満たす《必要のある》唯一のものであって、彼らはそれぞれ「自分なりに」服従しているだろうし、またその服従の動機はどのようなものでもよいということである。しかし健全な社会では、彼らは実際それらのルールをしばしば行動の共通な基準として受けいれ、またそれらのルールに従う責務を認め、あるいはこの責務をたどっていって、憲法を尊重するというさらに一般的な責務に至ることさえあるのである。第二の条件は、体系の公機関によって満たされなければならない。彼らはこれらのルールを公機関の行動に関する共通の基準とみなし、そしてそれぞれ自分自身や他人の逸脱を違反として批判的に評価しなければならない。もちろん、これらのルールのほかに、単なる個人的な資格における公機関に適用される多くの第1次的ルールがあることもたしかであり、彼らはそれらに従うだけでよいのである。」(中略)「法体系を考察するもっとも実りのある方法であるとわれわれがのべた、第1次的ルールと第2次的ルールの結合があるところでは、ルールをその集団にとっての共通の基準として容認することは、一般人が自分なりにルールに従うことによってそのルールを黙って受けいれているという相対的に受動的な状態とは違ってくるだろう。極端な場合(「これが有効なルールだ」という)法的言語の特徴ある規範的使用を伴った内的視点は公機関の世界に限られるかもしれない。この一層複雑な体系においては、公機関だけが法の妥当性に関する体系の基準を容認し、用いるかもしれない。このような状態にある社会は悲惨にも羊の群れのようなものであって、その羊は屠殺場で生涯を閉じることになるであろう。しかし、そのような社会が存在しえないと考えたり、それを法体系と呼ぶのを拒否する理由はほとんどないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第2節 新しい諸問題,pp.125-127,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))
(索引:せざるを得ない,責務を負っている,法体系)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年4月9日火曜日

28.ルールは、裁判所、公機関、私人の、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。ただし、ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

承認のルールの存在

【ルールは、裁判所、公機関、私人の、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。ただし、ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.3.1)追記。

 (3.3)法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。
 「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
 承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であるとして単に容認されている。

 (i)究極の承認のルールの適用……事実
 (ii)裁判所を含む一般的な諸活動での容認・使用……事実として確証可能
   ↓
 特定の法体系の妥当性

  (3.3.1)究極の承認のルールとして、実際に用いられているかどうかが、まず問題である。
   (a)承認のルールは、裁判所、公機関、私人が一定の基準を参照して法を確認する際、複雑ではあるが、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。
   (b)ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。
  (3.3.2)次の諸問題は、また別の問題である。
   (a)承認のルールが、法体系に対して有する意義は何か。
   (b)あるルールが、ある「目的」に対してどのような利益や害悪をもたらすか。
   (c)あるルールを支持する「十分な理由」があるか。
   (d)あるルールが、「道徳的責務」とどのような関連があるか。

 「一層重要な異議は、究極の承認のルールが妥当するという「想定」について語ることは妥当性に関する法律家の陳述の背後にある第二の前提のもつ基本的に事実的な性質を隠すことになる、というものである。承認のルールが実際に存在しているのは、裁判官、公機関、その他の人々の実際の活動においてではあるが、その活動は明らかに複雑な事柄である。のちに見るように、この種のルールの正確な内容と範囲について、またその存在についてさえ生じてくる疑問には明確なあるいは確定的な答ができないような状況がたしかにある。それにもかかわらず、「妥当性を想定すること」をそのようなルールの「存在を前提すること」から区別することは重要であって、そのような区別をしないとそういったルールが《存在する》という主張の意味が曖昧になるという理由からだけでも重要なのである。
 前章で素描した責務の第1次的ルールの単純な体系においては、あるルールが存在するという主張はそのルールを容認していない観察者が行なうような事実に関する外的陳述でありうるだけであって、この場合その検証は観察者が事実の問題として、ある行動様式が一般に基準として容認されているかどうか、またその様式が単なる一定方向に向かう単なる習慣から社会的ルールを区別する上述の特徴を伴っているかどうかを確認することでなされる。イギリスでは教会に入るときには帽子を取らなければならないという、法的なものではないが、あるルールが存在するという主張を解釈し検証する場合もこの方法によるべきなのである。もしこのようなルールが社会集団の実際の活動のなかに存在していることがわかれば、それらのルールの価値や望ましさはもちろん問題になるけれども、それらの妥当性について別個に議論すべき問題はないのである。一度それらのルールの存在が事実として確証されてしまうと、それらが妥当していることを肯定したり否定したりするならば、あるいはそれらの妥当性を「想定する」が示すことはできないと言ったりするならば、われわれは事態を混乱させるだけであろう。他方、成熟した法体系におけるように承認のルールを含むルールの体系が存在し、したがってルールがその体系の一部であるということが、今や承認のルールの与える一定の基準を満足させているかどうかにかかっているところにおいては、「存在する」という言葉は新しい用い方をされるのである。ルールが存在するという陳述は、それが慣習的ルールの単純な場合におけるように、一定の行動様式が実際の活動のなかで基準として一般的に容認されているという《事実》に関する外的陳述ではもはやないのである。それは、現在容認されてはいるがのべられていない承認のルールを適用し、また(おおざっぱに言えば)「体系に妥当性の基準があるところでは妥当する」ことを単に意味する内的陳述なのである。しかし、他の点と同様にこの点においても承認のルールは体系のその他のルールと異なっている。それが存在するという主張は、事実に関する外的陳述でありうるのみである。というのは体系の下位のルールはたとえ一般的に無視されているとしても妥当するだろうし、その意味で「存在する」だろうが、それに対して、承認のルールは裁判所、公機関、私人が一定の基準を参照して法を確認するさいの、複雑ではあるが、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在するからである。その存在は事実の問題なのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第1節 承認のルールと法の妥当性,pp.119-120,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))
(索引:法的妥当性,承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2019年4月7日日曜日

27法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。ルールの存在を「仮説」や価値言明とする理解は、事実問題を曖昧にしてしまう。ルールの価値、基礎づけは別問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

承認のルールの存在、価値、基礎づけ

【法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。ルールの存在を「仮説」や価値言明とする理解は、事実問題を曖昧にしてしまう。ルールの価値、基礎づけは別問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)法的妥当性についての内的陳述
 「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
(2)事実についての外的陳述
 「あるルールが表現されている法体系は、裁判所や公機関や私人によって用いられている究極の承認のルールによって、承認されている。」

 究極の承認のルール
   ↓
 特定の法体系の妥当性

(3)では、究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか
 (3.1)承認のルールの妥当性は証明不能であり、ひとつの仮説なのか?

  ???
   ↓
 究極の承認のルール……仮説
   ↓
 特定の法体系の妥当性

 (3.2)価値についての陳述なのか?
 「あるルールが表現されている法体系の承認のルールは優れたものであって、それに基づく体系は支持するに値する。」

 究極の承認のルール……価値についての陳述
   ↓
 特定の法体系の妥当性

 (3.3)法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。
 「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
 承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であるとして単に容認されている。

 (i)究極の承認のルールの適用……事実
 (ii)裁判所を含む一般的な諸活動での容認・使用……事実として確証可能
   ↓
 特定の法体系の妥当性

  (3.3.1)究極の承認のルールとして、実際に用いられているかどうかが、まず問題である。
  (3.3.2)次の諸問題は、また別の問題である。
   (a)承認のルールが、法体系に対して有する意義は何か。
   (b)あるルールが、ある「目的」に対してどのような利益や害悪をもたらすか。
   (c)あるルールを支持する「十分な理由」があるか。
   (d)あるルールが、「道徳的責務」とどのような関連があるか。

 「たしかに、この究極のルールについて多くの疑問がある。このルールがイギリスの裁判所、立法府、公機関あるいは私人の実際の活動において究極の承認のルールとして実際に用いられているかどうかをたずねることができる。あるいは、われわれの法的推論過程は今では放棄されてしまっている体系の妥当性の基準を用いたつまらないゲームだったのだろうか。法体系の満足すべき形式は、まさにそのようなルールを根底にもっていることなのかどうかをきくことができる。そのようなルールは害よりも益をもたらすだろうか。それを支持する十分な理由があるのだろうか。そうする道徳的責務があるのだろうか。これらが極めて重要な疑問であることは明らかであるが、承認のルールについてそれらの疑問を出すとき、それと同じく明らかなのは、われわれが承認のルールの助けをかりて答えたその他のルールに対する疑問ともはや同じ種類の疑問に答えようとしているのではないということである。特定の制定法が妥当するのは、それが議会における女王の制定するものは法であるというルールを満足させているからだ、と言うことから進んで、イギリスにおいてこの最終的なルールは究極の承認のルールとして裁判所や公機関や私人によって用いられていると言うとき、われわれはその体系のあるルールの妥当性を主張する法についての内的陳述から事実についての外的陳述、つまり体系の観察者がたとえ自分はその体系を容認していなくても行なう陳述に移っているのである。同様に、特定の制定法が妥当するという陳述からその体系の承認のルールは優れたものであって、それにもとづく体系は支持するに値するという陳述に移るときもまた、われわれは法的妥当性についての陳述から価値についての陳述に移っているのである。
 承認のルールの法的究極性を強調した人々はこのことを表明するために、体系のその他のルールの法的妥当性は承認のルールを参照することによって証明されうるのに対して、承認のルール自体の妥当性は証明されえないのであって、それは「想定される」か「仮定される」かあるいは「仮説」なのであるとのべた。しかしながら、これは重大な誤解を招くものであろう。裁判官や法律家であれ、あるいは一般人であれ、彼らが法体系の日常の運用のなかで特定のルールが法的に妥当すると言うとき、その陳述はたしかに一定の前提を伴っている。それらは、その体系の承認のルールを容認している人々の観点を表明している法についての内定陳述であって、それゆえそのようなものとして、体系に関する事実の外的陳述ではのべることができそうな多くのことをのべないままにしておくのである。このように、のべないままにされている事柄は法的妥当性についての陳述の通常の背景や文脈を形成し、したがってそれらの陳述によって「前提」されていると言われるのである。しかしそれらの前提とされている事柄が何であるかを正確に理解し、それらの性質を曖昧にしないことが大切である。それらは二つのことからなっている。第一に、ある一定の法のルール、たとえば特定の制定法が妥当すると真剣に主張する人は、法を確認するために適当なものとして容認している承認のルールをみずから利用しているのである。第二に、この承認のルールの観点から彼は特定の制定法を評価するのであるが、この承認のルールは彼によって容認されているだけでなく、その体系の一般的な活動のなかで実際に受けいれられ使用されているのが実状なのである。もしこの前提の正しさが疑われるならば、それを実際の活動、つまり裁判所が法としてみなされるべきものを確認する仕方とその確認が一般に黙認されることとに照らして確証することができるだろう。
 これら二つの前提は、証明されえない「妥当性」の「想定」であると記述しても十分ではないのである。あるルールの体系の一部としての地位が承認のルールの与える一定の基準を満足させているかどうかにかかっているような、ルールの体系《内部》で生じる疑問に答えるために、われわれは「妥当性」という言葉を必要とするにすぎないし、また普通その言葉を用いるだけなのである。基準を与える承認のルールそのものの妥当性についてそのような疑問は生じえない。承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であるとして単に容認されているのである。承認のルールの妥当性は「想定されるが証明されえない」と、曖昧に言うことによって、この単純な事実を表現することは、メートルによるすべての測定の正しさを究極的に決めているパリのメートル原器が、それ自体正しいことは想定できるが決して証明できないと言うのと同じである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第1節 承認のルールと法の妥当性,pp.117-119,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))
(索引:法的妥当性,内的陳述,外的陳述,承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2019年4月2日火曜日

26.主権的立法権の本質は、最高の承認のルールの存在である。最高の概念を、無制限と取り違えてはならず、無制限な主権的立法権の存在を前提とする理論は、誤りである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

主権的立法権の存在と最高の承認のルール

【主権的立法権の本質は、最高の承認のルールの存在である。最高の概念を、無制限と取り違えてはならず、無制限な主権的立法権の存在を前提とする理論は、誤りである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

最高の承認のルールとは何か。
(1)法的妥当性の基準、法源が「最高」であるとは、
 (a)ある承認のルール:最高の承認のルール、究極のルール
 (b)別の承認のルール
 (a)の基準に照らして確認されたルールが、他の諸基準(b)に照らして確認されたルールと衝突するとしても、依然その体系のルールとして承認される。逆に、(a)以外の諸基準に照らして確認されたルールは、(a)の基準に照らして確認されたルールと衝突すれば、承認されない。
(2)「最高」と「無制限」は混同されやすいが、別の概念である。
 (2.1)憲法の条項のなかに、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、その最高性が直ちに無制限な立法権を意味するものではない。
 (2.2)憲法が、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、特定の条項を改正権の範囲外におくことによって、明示的に、立法権限を制限している場合もある。
 (2.3)従って、「すべての法体系は、法的に無制限な主権的立法権の存在を前提としている」という理論は、誤りである。

 「体系の他のルールの妥当性の評価基準を与えている承認のルールはわれわれが明らかにしようと試みる重要な意味をもっており、《究極の》ルール the ultimate rule である。

そして普通見られるように、いくつかの基準が相対的な従属と優越という順序に位置づけられているところではそのうちの一つが《最高》supreme なのである。承認のルールの究極性とその基準のうちの一つがもつ最高性というこれらの観念は注目に値する。

われわれが拒否した理論から、つまりすべての法体系のどこかに、たとえそれが法的形式の背後にあっても、法的に無制限な主権的立法権が存在しなければならないという理論から、これらの観念を解き放すことは重要である。

 最高の基準と究極のルールというこれら二つの観念のうち、第一のものは非常に容易に定義できるものである。

法的妥当性の基準あるいは法源が最高であると言ってよいのは、その基準に照らして確認されたルールが、たとえその他の諸基準に照らして確認されたルールと衝突するとしても、依然その体系のルールとして承認されるのであるが、それにひきかえ他の諸基準に照らして確認されたルールは最高の基準に照らして確認されたルールと衝突すればそのようには承認されないという場合である。

比較の観点から、われわれがすでに用いた「優越的」基準や「従属的」基準という概念について、同じような説明をすることができる。

優越的基準や最高の基準という観念は単に尺度上の《相対的》位置に関係しているだけで、法的に《無制限》な立法権というどんな観念をも意味していないことは明らかである。

しかし、「最高」と「無制限」ということは少なくとも法理論上では容易に混同されるものである。その一つの理由は、より単純な形態の法体系において究極の承認のルール、最高の基準、法的に無制限な立法府という諸観念が一致してくるように思えることである。 

というのは、立法府が何ら憲法的制限に服さず、みずからの制定法によって自己以外の源から生じるその他の法のルールすべてから法としての地位を取り去る権限をもっているところでは、その立法府の制定法は妥当性の最高の基準であるということが、その体系の承認のルールの一部になっているからである。

憲法理論によれば、これがイギリスにおける立場なのである。

しかし立法府がそのように無制限ではないアメリカ合衆国の体系のような諸体系においてさえ、妥当性に関して一つの最高の基準を含む一組の諸基準を与える究極の承認のルールが完全にとりこまれているだろう。

改正権を規定していないかあるいはいくつかの条項を改正権の範囲外におく憲法によって通常の立法府の立法権限が制限されているところでも、そのとおりの状況であろう。

「立法」という言葉をもっとも広く解釈したとしても、ここでは法的に無制限な立法府は存在していないのであるが、その体系はもちろん究極の承認のルールを含んでいるし、憲法の条項のなかに妥当性に関する最高の基準を含んでいるのである。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第1節 承認のルールと法の妥当性,pp.115-116,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))

(索引:主権的立法権の存在,最高の承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年11月10日土曜日

18.半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

半影的問題における決定の本質

【半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1.2)追記、(4)追記。

 (1.2)この批判の基準は、道徳的なものとは限らない。
  (1.2.1)このケースでの「べき」は、道徳とはまったく関係のないものである。
  (1.2.2)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。

(4)問題解決のために、重要だと思われること。
 (1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の諸事実を考慮することが重要である。
 (4.1)法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。
 (4.3)私たちは、不確実性の中に生きており、不完全な法の下での決定の際、在る法の自然で合理的な精密化の結果として、唯一の正しい決定の認識へと導かれ得るのだろうか。それは、むしろ例外的であり、多くの選択肢が同じ魅力を持って競い合っているのではないだろうか。
 (4.4)すなわち、存在している法は、私たちの選択に制限を加えるだけで、選択それ自体を強制するものではないのではないか。
 (4.5)従って、私たちは、不確実な可能性の中から選択しなければならないのではないか。

半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)にもかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。この基準は、何だろうか。
 (1.2)この批判の基準は、道徳的なものとは限らない。
 (1.3)目標、社会的な政策や目的が含まれるかもしれない。
 (1.4)しかし、在るものと、さまざまな観点からの在るべきものとの間に、区別がなければならない。
(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
 参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
 参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

(3)半影的問題の決定も、在る法の自然な精密化、明確化であると思える場合がある。
 ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。
  難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))

 (3.1)難解な事案、すなわち半影的問題において、次のような事実がある。
  (3.1.1)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
  (3.1.2)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」とみなすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
 (3.2)日常言語においても、次のような事実がある。
  (3.2.1)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
  (3.2.2)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
  (3.2.3)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

(4)問題解決のために、重要だと思われること。
 (1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の2つのことが重要だと思われる。
 (4.1)法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。

 「そのルールは新しいケースを包含すべきだと私たちは考え、熟考した後、たしかに包含していると理解するに至る。

しかし、存在と当為の融合の例として思いあたるふしのある経験をこのように提示することが認められるとしても、次の二つのことに注意が向けられなければならない。

第一に、このケースでの「べき」は、Ⅲですでに説明した理由からして、道徳とはまったく関係のないものだということである。

新しいケースがルールの目的を補完して明瞭化するというのとまったく同じ意味が、ゲームのルールを解釈する際にも、また、非常に不道徳的な抑圧の法律であり、その不道徳性はそれを解釈することを求められている人も正しく理解しているような法律を解釈する際にもみられるであろう。

ゲームをしている人もまた、自分たちのしているゲームの「精神」が予想されていなかったケースにおいて何を要求するのかを考えることができる。

さらに重要なのは、このような議論を正当化すると思われる現象が法の領域においてどれほど稀な現象であるかということ、すなわち、あるルールの自然で合理的な精密化の結果、唯一の判決の仕方が私たちに強制されているという感覚がどれほど例外的なものであるかということを、検討の総括として心に銘記しておく必要がある。

解釈がなされるほとんどのケースにおいて、選択肢の中での選択、「司法立法」、さらには「命令」(恣意的な命令ではないけれども)といった表現の方が、現実の状況をうまく伝えるのは紛れもない事実である。

 私たちが意識的な選択をしていることを自覚せず、認識されるのを待っているものを認識するという意識でいるならば、比較的確定した法の枠組の中でも、あまりに多くの選択肢があまりに同じく平等の魅力を持って競い合っているので、裁判官や法律家は、不確実なままに、自分自身の、また他人の行為の原則や意図や望みを解釈しようとする際に体験する経験に適切な表現を与える道を探らなければならない。

法の解釈を記述するのに、在る法と在るべき法との融合、分離不可能性という上述の表現を使用することは(裁判官は法を発見するのであって、決して法をつくるのではないという前の時代の物語のように)、私たちが不確実性の中に生きており、私たちは不確実な可能性の中から選択しなければならないという事実、また、存在している法は私たちの選択に制限を加えるだけで選択それ自体を強制するものではないという事実を覆い隠してしまうことにしかならない。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・
哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.95-96,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:半影的問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年11月9日金曜日

17.難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))

難解な事案と在る法、在るべき法

【難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))】

(1)難解な事案、すなわち半影的問題において、次のような事実がある。
 (1.1)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
 (1.2)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」とみなすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
(2)日常言語においても、次のような事実がある。
 (2.1)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
 (2.2)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
 (2.3)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

(出典:alchetron
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)
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 「もし倫理学における「非認知主義的」理論やその他類似の理論を反証することが、在る法と在るべき法との区別に関係するもので、この区別をある点で破棄したり、何か弱めたりすると主張するためには、一層突っ込んだそして厳密な議論をしなければならない。

ハーバード・ロー・スクールのフラー教授(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))がそのさまざまな著作の中で展開している以上に、この方向での議論をはっきりと展開している人物はいない。そこで、その主要な論点だと思われるところを批判することで、この論文を終えたい。

その論点は、意味が明確で議論を呼ぶことのない法的ルールないし法的ルールの意味の明確な部分ではなく、当初から問題があることが感じられており、具体的ケースにおいてルールの意味について議論がなされる場面でのルールの解釈を考察するときに再び私たちの前に現われてくるものである。

どのような法体系においても、法的ルールの適用される範囲が、立法者が現実に考えたこと、あるいは、考えたと思われる具体的な事例の範囲に限られることはない。

これが実際のところ、法的ルールと命令との重要な違いの一つである。

ところが、立法者が考えた事例、もしくは、考えたであろう事例を超える事例にルールを適用していると考えられる場合に、このような新しいケースへのルールの拡張は、しばしば、ルールを解釈する者の意識的な選択や命令のようには見えない。

それは、そのルールに新しい、拡張的な意味を与える決定とも見えないし、また、立法者が、たとえば18世紀に死んだのだがもし20世紀まで生きていたならば、言うであろうことの推測とも見えない。

そうではなく、そのルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある特定の現存、物故の人物にというよりもルール自体に(ある意味で)帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。

功利主義者は、このような古いルールの新しいケースへの解釈的な拡張を、司法立法と記述するのだが、これはこの現象を正しく扱っていない。

これでは、新しいケースを過去のケースと同様に扱うという意識的な承認や決定と、ルールの下に新しいケースを包摂することが、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化することになるという認識(この認識には意識的なところはほとんどないし、また、任意的なところすらほとんどない)との違いについての手掛かりが与えられない。


 おそらく、多くの法律家や裁判官は、補完し明確化するという言いまわしの中に、彼らの経験にぴったり合致するものを感じるであろう。

そうでない者は、これは、功利主義者の表現では司法「立法」、現代のアメリカの用語で言えば「創造的選択」という言葉でうまく語られている事実を、ロマンティックに解釈したものだと考えるかもしれない。

 この問題点を明確にするために、フラー教授は、法とは無関係な例を哲学者のウィトゲンシュタインから借りてきているが、啓発的な例であると思われる。
 『ある人が私に向かって「その子供たちにゲームを教えてやりなさい」と言う。そこで私はダイスを使うゲームを教える。すると、相手は「私はその種のゲームを考えていなかった」と言う。彼が私に命令した時に、ダイスを使うゲームを排除することが彼の念頭になければならないのだろうか。』

 この例はたいへん重要なことに触れているように私には思われる。おそらく次のような(区別可能な)論点がある。

第一に、私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、仮定的な人間に共通の目的を考慮して解釈しているので、反対のことが明示的に指示されるまでは、幼い子供にゲームを教えろという指図を、他の文脈では「ゲーム」という言葉が自然にギャンブルの意味に解釈されることもあろうが、ギャンブルを教えてやれという命令とは解釈しない。

第二に、たいへんしばしばあることだが、話し手がその言葉のそのような解釈を聞いて、「そうだ、それが私の言いたかったことだ。〔ないし「それが私がずっと考えていたことだ。」〕あなたがこの具体的なケースを私に示してくれるまでは思い至っていなかったがね」ということがある。

第三に、前もってはっきりと心に描かれていなかった個別具体的なケースが曖昧に表現された指図の範囲の中に入ると、たいてい他人と議論したり相談したりした後でのことだが、認識したとしよう。この認識のあり方を記述するのに勝手にそのケースをそのように扱うように決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。

これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのかを、ないし、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。――これらの言い回しはフラー教授が同じ論文の後の部分で使用している。

 フラー教授が例に挙げた種類のケースに注意を向けることで、道徳的議論の性格についての哲学的議論は、多くの実りを得るものと私は信じている。

このようなケースに注目することは、「目的」と「手段」との間は鋭く分離しており、「目的」について議論するときには互いに非合理的に働きかけることができるだけで、合理的議論は「手段」についての議論のためのものであるという見解を矯正するものを提供する助けになろう。

しかし、この論点が、在る法と在るべき法との区別の主張が正しいものかどうかとか賢明なものかどうかという問題にどれほど関係しているかといえば、私は実際にはほとんど関係していないと考える。

よく考えてみると、法的ルールを解釈する際に、ある解釈がルールのたいへん自然な精密化や明瞭化なので、それを「立法」だとか「法創造」だとか「命令」だとか考えたり呼んだりすることがうまくそぐわないもののように思える場合があるというのがこの議論の趣旨である。

そして、そのような場合について、在るルールと在るべきルールを区別することは――少なくとも「べき」の持つある意味においては――誤解を招くであろう、という議論である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.92-94,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:難解な事案,在る法,在るべき法,半影的問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年11月4日日曜日

16.仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また逆に、在るべき法が客観的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、また区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

在るべき法

【仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また逆に、在るべき法が客観的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、また区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.3)、(4)追記。

(3)規範的な言語で表現される価値言明は、ある集団において特定の社会的ルールが存在するか否かという事実問題である。この事実の存在は、人々の外的視点、内的視点の両面から判断される。
 (3.1)注意すべきは、感情や態度などの主観的選好そのものが価値を基礎付けるわけではなく、事実としての社会的ルールの存在が、そのような感情や態度をしばしば生じさせるということである。
 (3.2)また、社会的ルールの存在という事実にとって、ルールの常習的違反者が少数存在することは何ら矛盾したことではない。
 参照: 特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 参照: 「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化しても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (3.3)存在と当為、事実と価値、手段と目的、認知的と非認知的の区別が、議論と検討と反省が無駄だという根拠として使われるとき、この区別は有害なものとなる。個別具体的なものについての争いに関し、当事者が議論し詳細に検討し反省してみることによって、当初は曖昧なまま感知されていた諸原則が、当事者双方が合理的に受け容れられるような明確なものとして、理解できるようになる。
(4)しかし、それでもなお、在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、区別すべきである。
 (4.1)ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、その法が法でないことを示したことにはならない。法は様々な程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、なお法であり続ける。
 (4.2)逆に、法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。

 「このような見解(もちろん、このような大雑把な検討で伝えられるよりもはるかに精密な議論である)に反対して、これらすべての存在と当為、事実と価値、手段と目的、認知的と非認知的の厳密な区別は間違いであると主張する者もいる。

究極的な目的ないし道徳的価値を認めるときに、私たちは、何が起こっているのかということについての事実判断の真理性と同様、選択や態度や感覚や感情の問題ではなく、しかも、私たちが生きている世界の性格によって受け入れざるを得ないものを認識している。

典型的に道徳的な議論というのは、議論している当事者が互いに、感覚や感情を表現したり抑制したり、勧告や命令を発する議論ではなく、議論することで当事者が、詳細に検討し反省してみると最初に争っていたケースが曖昧なまま感知していた原則(それ自体、他のどのような分類の原則に比べても、少しも「主観的」でも「意志の命令」でもない原則)の範囲に入ると認め、そして、それが個別具体的なものについて最初に争われた他のどのような分類よりも「認知的」「合理的」と呼ばれるに値すると認めるに至る議論であるとされる。

 以上のような道徳に関する「非認知的」理論への批判や、在るものと在るべきものについての言明の徹底的な区別の否定を認めて、道徳的な判断は他のタイプの判断と同じく合理的に擁護できるものであるとしよう。

そう考えたとして、在る法と在るべき法との連関の本質に関して何か導かれるものがあるだろうか。これだけからでは何も導かれはしないと断定できる。法は、いかに道徳的に邪悪であっても、なお(この点に関する限り)法である。道徳的判断の本質についてのこの見解を受け入れることで生じる唯一の違いは、そのような法の道徳的邪悪さが証明できるものとなるというだけのことであろう。

あるルールが道徳的に悪であり法たるべきでないということ、また逆に、道徳的に望ましく法たるべきであるということが、そのルールが要求していることについての言明だけからたしかに導き出されるだろう。 

しかし、これを証明したとしても、そのルールが法でない(または、法である)ことを示したことにはならない。

私たちが法を評価したり非難したりする際に用いる原則が合理的に発見可能なものであり、たんなる「意志の命令」ではないことが保障されても、法は、さまざまな程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、なお法であり続けることがあるという事実には変わりはない。また逆に、法であるべきすべての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。」


(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.91-92,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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