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2018年6月20日水曜日

諸学問の配列:(1)総合的配列、(2)解析的配列、(3)名辞に従う目録の配列。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

諸学問の配列

【諸学問の配列:(1)総合的配列、(2)解析的配列、(3)名辞に従う目録の配列。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 あらゆる学問的真理は、次の三つの主要な方法で配列し、またお互いに結びつける必要がある。ただし、個別的な事実や歴史・言語のことは別にしておく。
(1) 各命題を、数学者が行うように、それが論理的に依存する命題の後に配列する。すなわち、証明の順に並べる。
(2) 各命題を、目的を実現するために役立つ手段を探しやすいように配列する。すなわち、人類の目標である善の獲得や、悪の回避のための手段を、解析して階層的に配列する。
(3) (1)と(2)の間の記述の重複を避けるために、共通的な名辞の配列を用意して、(1)と(2)を互いに参照させる方法がある。この名辞の配列から、探そうとしている目的の(1)と(2)の命題にたどりつくことができる。その際、共通的な名辞の配列には、以下の二つの方法がある。
 (3.1)人々が共有して使用できる、ある範疇に従って、共通的な名辞を配列する。
 (3.2)アルファベット順に、共通的な名辞を配列する。
 なお、これら三つの方法が、次の三つの学問に対応しているのは興味深い。
(1) 総合的配列、理論的なもの、自然学
(2) 解析的配列、実践的なもの、道徳学
(3) 名辞に従う目録の配列、論証的なもの、論理学

 「ここから、ひとつの同じ真理は、それがもちうる異なった諸関係に従って多くの場所をもちうることが分かります。それで、蔵書を整理する人たちが、ある書物をどこにおくべきか分からなくなることもとてもしばしば起こります。二つか三つのふさわしい場所のうちで決心がつかないからです。しかし、今は一般的な原理についてだけお話しし、個別的な事実や歴史・言語のことは別にしておきましょう。私は、あらゆる学問的真理の二つの主要な配列を認めています。各々にはその長所があり、両者は結び付ける価値があるでしょう。一方は総合的で理論的なものです。これは、数学者が行うように、真理を証明の順に並べるものです。したがって、各命題はそれが依存する命題の後に来ることになります。他方の配列は解析的で実践的なものです。これは、人類の目標すなわち善、そのきわみは至福である善から始まり、そうした善を獲得したり反対の悪を避けたりするのに役立つ手段を順を追って探すものです。そして、これら二つの方法は、一般的に百科全書のなかで用いられ、またある人たちはそれらを個別的な学問のなかで用いてきました。」(中略)「しかし、そうした二つの配列を同時に用いて百科全書を書く場合には、反復を避けるために参照という方策を用いることができるでしょう。これら二つの配列に、名辞による第三の配列を付け加えなければなりません。これは、実際には一種の目録にすぎず、すべての人々が共有するであろうある範疇に従って名辞を並べる体系的なものであるか、学者の間で受け入れられている言語に従うアルファベット順のものであるかです。ところで、名辞が十分に注目に値する仕方で入っているすべての命題を見つけて集めるためには、そうした目録が必要でしょう。」(中略)「ところで、私はこうした三つの配列を考察して、それらが、あなたが復活させた古代の区分に対応しているのは好奇心をそそることだと思います。その区分とは、学問ないし哲学を理論的なもの・実践的なもの・論証的なものに、あるいは、自然学・道徳学・論理学に分けるものです。というのも、総合的配列は理論的なものに対応し、解析的[分析的]配列は実践的なものに対応し、名辞に従う目録の配列は論理学に対応しているからです。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第四部・第二一章[三]、ライプニッツ著作集5、pp.354-356、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1995])
(索引:諸学問の配列、総合的配列、解析的配列、名辞に従う目録の配列)

認識論『人間知性新論』 下 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)
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2018年6月19日火曜日

この宇宙は、その各々が自らの能動的原理により全宇宙を表出する無数の存在者から構成される。各存在者は、その原理を普遍的な原因から受け取っており、この故に全宇宙の秩序、調和、美がもたらされる。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

モナドと予定調和

【この宇宙は、その各々が自らの能動的原理により全宇宙を表出する無数の存在者から構成される。各存在者は、その原理を普遍的な原因から受け取っており、この故に全宇宙の秩序、調和、美がもたらされる。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(1) 真の完全なモナド(一般的な至高の原因)は、無数の存在者の集まりである。
(2) 各存在者は、一つの全たき世界、神をうつす鏡、全宇宙をうつす鏡であり、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出している。
(3) 表出は、以下の二つのものからなる。
 (3.1) その各々の存在者を真の「一」にさせる能動的原理、非物質的なもの、魂。
 (3.2) 受動的で有機的身体、物質的なもの。
(4) それら個々の魂が表出するものはすべて、ただ自己の本性から引き出されるものであり、他の個々の存在者から直接には影響されない。
(5) 個々の存在者が独立しているにもかかわらず、自然のうちに認められる秩序、調和、美がもたらされるのは、各々の魂が、その本性を、一般的な至高の原因から受け取り、それに依存しているからに他ならない。これが、予定調和である。
(6) 個々の存在者の表出が、その存在者の物質的な身体と自発的に一致する理由も、この予定調和による。
 「著者はここで、物質に関するもうひとつの重要な指摘を行っています。すなわち、物質を数的にただひとつのものとみなしてはならない、あるいは(私のいつもの言い方では)、真の完全なモナドすなわち「一」とみなしてはならない、という指摘です。物質は無数の存在者の集まりにすぎないのですから。この点で、この優れた著者は、私の学説に到達するには、わずかあと一歩が必要でした。というのも、実際、私はこれらの無限な存在者すべてに表象を与えているからです。つまりその各々は、その存在者が受動的で有機的身体を賦与されるために必要とされるものと一緒に、魂(あるいはその各々を真の「一」にさせる類比的な何らかの能動的原理)を賦与された、いわばひとつの動物のようなものなのです。ところで、これらの存在者は、能動的であると同様に受動的であるその本性(すなわち、それの有する非物質的なところと物質的なところ)を、一般的な至高の原因から受け取りました。そうでなければ、著者がとてもうまく指摘しておられるように、それらは互いに独立であるために、自然のうちに認められるあの秩序、あの調和、あの美を決して作り出すことができないだろうからです。しかし、道徳的な確実性しかもっていないと思われるこの議論は、私が導入した新しい種類の調和、すなわち予定調和によって、まったく形而上学的な必然性にいたります。というのも、それらの魂の各々が、自分の外で起こることを自分自身の仕方で表出し、他の個別的存在者からの影響をいささかもこうむることができず、あるいはむしろ、自己の本性というそれ自身の根底からその表出を引き出さねばならないために、必然的に各々の魂は、その本性(すなわち、外にあるものの表出に対するその内的理由)をある普遍的な原因から受け取ったにちがいないからです。これらの存在者は皆この普遍的原因に依存しており、この原因のためにお互いに他のものに完全に一致し対応するようになるのです。これは、無限の認識と力がなければ不可能であり、とりわけ機械と理性的魂の作用との自発的な一致に関しては、きわめて大いなるわざこそがなしうることなのです。そのためある高名な著作家は、そのすばらしい『歴史批判辞典』のなかでそれに異議を唱え、それは可能なあらゆる知恵を越えているのではないか、といわば疑いました。神の知恵さえそのような結果に対して大きすぎるとは思われない、と彼は言っていたからです。でも彼は、私たちの神の完全性についてもちうる弱い考え方が、これほどくっきりと際立たされたことは一度もなかったことは少なくとも認めました。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第四部・第一〇章[一〇]、ライプニッツ著作集5、pp.238-239、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1995])
(索引:モナド、予定調和)

認識論『人間知性新論』 下 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月18日月曜日

命題「私は現実存在する」は、直接的真理であり「公理」とも言える。これは「必然的命題」ではない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

私は現実存在する

【命題「私は現実存在する」は、直接的真理であり「公理」とも言える。これは「必然的命題」ではない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(a)「私は現実存在する」という命題は、他のいかなる命題によっても証明されえない命題、すなわち直接的真理であり、究極的な明証性を持っている。
(b)「公理」をより一般的に、直接的真理もしくは証明できない真理と取れば、「私は現実存在する」という命題は、ひとつの公理であり、私たちの認識の自然的秩序のうちで、最初に知られる陳述のひとつである。
(c)この命題は「必然的命題」ではない。
 「「私は現実存在する」というこの命題は、他のいかなる命題によっても証明されえない命題すなわち直接的真理なので、究極的な明証性をもっていると常に言うことができます。そして、「私は思考する、ゆえに、私は有る」と言うことは、厳密にいえば思考によって現実存在を証明することではありません。「思考すること」と「思考する存在であること」は同じことですから。「私は思考している」と言えば、「私は有る」とすでに言っているわけです。けれども、あなたがこの命題を公理の数に入れまいとするのは、それなりの理由があります。というのも、それは、事実の命題・直接的経験に基づく命題であって、必然性が諸観念の直接的一致のうちに見られるような、必然的命題ではないからです。反対に、「私」と「現実存在」というこの二つの名辞[項]がどのように結びついているのか、言いかえれば、なぜ私が現実存在するのかを見るのは神のみです。しかし、公理をより一般的に、直接的真理もしくは証明できない真理ととれば、「私は有る」というこの命題はひとつの公理であると言えます。いずれにせよ、それは原初的真理、あるいは、「複雑ナ名辞[項]ノウチデ最初ニ認識サレルモノノ一ツ」であることは確信できますし、言い換えればそれは、最初に知られる陳述のひとつであり、私たちの認識の自然的秩序のうちで理解されるものです。というのも、その命題が人間にとって生得的であるにしても、その命題を明白に形成しようとは一度も思わなかったということもありうるからです。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第四部・第七章[七]、ライプニッツ著作集5、pp.200-201、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1995])
(索引:私は現実存在する、我思う故に我在り)

認識論『人間知性新論』 下 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月11日月曜日

仮に、宇宙の別の場所か別の時に、この地球と全ての人々のコピーが存在したとしても、それは別の個体であり、異なる実体である。二つの完備な項は、決して相似にはならない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

個体

【仮に、宇宙の別の場所か別の時に、この地球と全ての人々のコピーが存在したとしても、それは別の個体であり、異なる実体である。二つの完備な項は、決して相似にはならない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
問い:宇宙の別の場所か別の時に、私たちが住んでいるこの地球と見た目には少しも違わない天体があり、そこに住んでいる人間の各々は、それに対応する私たちの各々と見た目には少しも違わないとしよう。この場合、その人格ないし自我については同一なのか、それとも二つなのか。
答え:それは、別の個体である。実在的に異なる実体である。別の場所か別の時というだけで、別の実体である。一時的に似ているということは、あるかもしれない。しかし、実体として異なる以上、差異は「機が熟せば姿を現わす」はずである。
(再掲)
完備な項の相似:このような場合は、恐らく起らない。何故ならば、二つの完備なものは決して相似ではないからである。

 「次に挙げるのはさらにいっそうふさわしい別の仮定です。すなわち、宇宙の別の場所か別の時に、私たちが住んでいるこの地球と見た目には少しも違わない天体があり、そこに住んでいる人間の各々は、それに対応する私たちの各々と見た目には少しも違わないことがありうる、という仮定です。かくて、同時に一億組以上の似かよった人物、つまり同一の現われと意識とをもった二人の人物の組があることになります。そして神は、精神だけであれ身体を伴ってであれ、精神が気づかぬうちにそれらを一方の天体から他方の天体へ転移させることができましょう。しかし、それら精神が転移されるにせよそのまま留めおかれるにせよ、その人格ないし自我について、あなたの側の著者たちによればどんな発言がなされるでしょうか。これらの天体の人々の意識や内的・外的な現われは区別できない以上、それらは二つの人格なのでしょうか、それとも同一人格なのでしょうか。確かに、神と諸精神なら、それも時間・場所の外的な隔たりや連関のみならず、二つの天体の人々には感覚できない内的な構成にさえ気づきうる諸精神であるならば、それらも識別できようというもの。けれども、あなた方の仮説によれば、ただ意志性だけが人物を識別するのであって、実体の実在的な同一性ないし差異性とか、他の人たちに現われるものさえ気にかける必要がないということです。ですから、似てはいるが言語に絶するほど互に隔たったそれら二つの天体に同時にいる二人の人物は、唯一人の同じ人物である、となぜ言えないのでしょうか。でもそれは明白な不合理です。自然的に発生しうる事柄について付言すれば、似かよった二つの天体と、その二つの天体にいる似かよった二つの魂は、一時的に似かよっているだけでしょう。なぜなら、個体的な差異がある以上、この差異は少なくとも非可感的な構成に存するのでなければならず、そうした構成は機が熟せば姿を現わすはずだからです。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第二部・第二七章[二三]、ライプニッツ著作集4、pp.296-297、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:個体)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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運動における決定の根源的完全性と、魂における自由な決定の根源的完全性とが、いかに両立し、なおかつ魂における決定に、身体が依存するのか。この依存は、形而上学的依存である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

自由意志の問題

【運動における決定の根源的完全性と、魂における自由な決定の根源的完全性とが、いかに両立し、なおかつ魂における決定に、身体が依存するのか。この依存は、形而上学的依存である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(a)自然学的依存は、一方がそれの依存する他方から受けとる直接的影響に存する。たとえば魂は、非意志的活動において、よく考えてみると身体に依存している。
(b)一方、思考の内には秩序と連結がある。また、善や悪は思考する存在者を強いずに傾かせ、意志による決定は自由である。つまり、選択を伴っている。
(c)このとき、運動における決定は、そのままで変わらない。
(d)運動における決定の根源的完全性と、魂における自由な決定の根源的完全性とが、いかに両立し、なおかつ魂における決定に、身体が依存するのか。これは自然学的依存とは異なる。形而上学的依存である。
 「運動においてもそうですが、思考の内には秩序と連結があります。なぜなら、一方は他方に完全に対応するからです。もっとも、運動における決定はそのままです。ところが思考する存在者においては、決定は自由である、つまり選択を伴っている。善や悪は思考する存在者を強いずに傾かせるのみです。というのも、魂は身体を表現する際に自分の完全性を保存するからです。それに、魂は非意志的活動において(よく考えてみると)身体に依存しているにもかかわらず、他の活動においては独立していて、まさに身体を魂自身に依存させるのです。しかしこの依存は形而上学的でしかなく、神が一方を規制するときに他方を顧慮するところに存する。言い換えれば、各々の根源的完全性に応じて一方よりも他方を神がいっそう多く顧慮するところに存するのです。これに対して自然学的依存は、一方がそれの依存する他方から受けとる直接的影響に存するでしょう。それに、非意志的思考が私たちにやってくる場合、一部分は私たちの感覚を刺激する諸対象によって外部から、また一部分は、先行の諸表象が残した(しばしば非可感的な)刻印のゆえに内部からきます。この先行の諸表象は活動を続け、新たにやってくるものと混ざりあう。この点で私たちは受動的であって、眠らずにいるときでさえ、夢の中と同様、呼び寄せられたわけでもないのにイメージが浮かんできます。(イメージということで私は、形の表現のみならず音声や他の可感的性質の表現をも含めて考えています)。ドイツ語ではそれを fliegende Gedanken 、つまり飛びまわっている思考と呼んでいます。それは私たちの思い通りにはならないし、そこには時として善良な人々に良心のためらいを抱かせるような馬鹿げたところ、決疑論者や教導者に試練を課すような馬鹿げたところがあります。幻燈の中で何かを回すとそれに応じて壁に図形が現われる。この思考はこうした幻燈の中で起ることと同じです。しかし私たちの精神は、再び現われる何らかのイメージを意識して「止まれ」と言いうるし、いわばそれを停止させることができます。さらに精神は、自分で然りと思う通りにある思考の進行に入っていき、それによって他の思考へと導かれるのです。けれども、これが当てはまるのは内的あるいは外的な印象が優勢でないときです。その点に関して人々は、気質によっても、また自らの行なった自己統制の訓練によっても著しく異なっているのは確かです。したがって、ある人が身をゆだねてしまう印象を別の人は克服しうるのです。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第二部・第二一章[一二]、ライプニッツ著作集4、pp.203-204、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:心身問題、自由意志)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月7日木曜日

自由のいろいろな意味:(a)精神の不完全性からの自由、(b)必然に対立する精神の自由、(c)権利上の自由、(d)事実上の自由、(e)身体の自由(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

自由の意味

【自由のいろいろな意味:(a)精神の不完全性からの自由、(b)必然に対立する精神の自由、(c)権利上の自由、(d)事実上の自由、(e)身体の自由(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(a) 精神の不完全性からの自由(情念への隷属からの自由)
(a.1) 強烈な情念に囚われているときには、必要とされる熟考をもって意志することができない。すなわち、情念に隷属しており、ある種の内的な強要と強制がある。
(a.2) 情念を超えて、知性による熟考と意志を働かせることができるとき、その程度に応じて情念から自由である。
(b) 必然に対立する精神の自由(自由意志)
(b.1) 知性が提示する、確実で間違いない最も強い諸理由に対してさえも、意志が偶然的であるのを妨げない。すなわち、知性は絶対的で言わば形而上学的な必然性を意志の働きに与えるわけではない。
(b.2) 知性は「確実で間違いのない仕方であっても、強いずに傾ける」。そして、意志が選択する。
 他にも、次のような自由の概念がある。
(c) 権利上の自由
 政治制度において、為すことが許されているという意味での自由。
(d) 事実上の自由
 権利上の自由の有無とは別に、意志する事柄を実際に為す力能があるという意味での自由。一般的に言えば、より多くの手段をもつ者が、意志する事柄をより自由に為す。
(e) 身体の自由
 身体が拘束されていたり、病気になったりしておらず、意志どおりに動かすことができるという意味での自由。
 「自由という名辞は甚だ曖昧です。権利上の自由もあれば事実上の自由もあります。権利上の見地からすれば、奴隷は自由ではないし、臣下が全面的に自由であるわけではないけれども、貧しき者も富める者と同程度に自由ではあるのです。事実上の自由は、意志する[欲する]事柄を為す力能ないし然るべく意志する[欲する]力能に存します。あなたが語っているのは為す自由で、それには程度と多様性があります。一般的に言えば、より多くの手段をもつ者が、意志する[欲する]事柄をより自由に為すのです。しかし自由は個別的には、私たちの思うままにできるのが常であるような諸事物の使用、特に私たちの身体の使用について理解されています。ですから、牢獄や病気は、私たちが意志して通常与えうる運動を身体や四肢に与えるのを妨げ、私たちの自由を奪い取るのです。そういうわけで、囚人は自由でないし、麻痺患者は自分の四肢を自由に使用できないのです。意志する自由はさらに二つの異なった意味に解されています。ひとつは、精神の不完全性ないし隷属に対立させる場合の自由。この不完全性ないし隷属は強要とか強制ではあるけれども、情念に由来するものがそうであるように内的なものです。もうひとつの意味は、自由を必然に対立させる場合に生じます。第一の意味では、ストア派の人々は賢者のみが自由だと言っていました。それに実際、強烈な情念にとらわれているときには、人は自由な精神をもっていません。そういうときは、然るべく意志すること、つまり必要とされる熟考をもって意志することができないからです。かくて、神のみが完全に自由であり、被造的精神は情念を超えている程度に応じて自由であるにすぎません。したがって、この自由はまさしく私たちの知性に関わっているのです。しかし、必然に対立する精神の自由は、知性と区別される限りでの裸の意志に関わっています。これが自由意志と呼ばれ、次のことに存します。すなわち、知性が意志に提示する最も強い諸理由ないし刻印でさえ意志の働きが偶然的であるのを妨げず、絶対的でいわば形而上学的な必然性を意志の働きに与えるわけではないと認めることです。確実で間違いのない仕方であっても、強いずに傾けるという仕方で、表象と理由が優位を占めるに応じて、知性は意志を決定しうる、と私が日頃から言っているのも、今述べたような意味においてです。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第二部・第二一章[八]、ライプニッツ著作集4、pp.199-201、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:自由の意味)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月5日火曜日

行動の傾向性や慣習、情念は、必ずしも意識されない微小表象に由来し、それは意志決定においても「強いずに傾ける」。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

微小表象

【行動の傾向性や慣習、情念は、必ずしも意識されない微小表象に由来し、それは意志決定においても「強いずに傾ける」。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(a) 熟慮を経ないで、私が、一方の行動よりも他方へ傾くとき、それは必ずしも意識されているとは限らない微小表象の連鎖と協働の結果である。
(b) 私たちの熟慮において、多くの感応力を与える慣習や情念でさえ、必ずしも意識されているとは限らない微小な刻印の連鎖に由来している。
(c) 自由意志論における「ビュリダンのロバ」の非決定は、これら必ずしも感じとれない微小表象の刻印を忘れている結果である。しかし、これらの刻印は、「強いずに傾ける」のである。
 「あらゆる刻印が結果をもっていますが、すべての結果が常に目立つとはかぎりません。私が一方よりも他方を向くとき、それはしばしば微小な刻印の連鎖によるのです。そうした微小な刻印を、私は意識しているわけではありませんが、これらの刻印はひとつの運動を他の運動より少しだけ起りにくくするのです。熟慮を経ない私たちの行動はすべて、微小表象の協働の結果です。私たちの熟慮において多くの感応力を与える慣習や情念でさえ、それに由来しています。というのも、こうした習慣は少しずつ生まれるものですし、したがって微小表象なくして、私たちはそういう目立つ態勢に到ることはないからです。すでに指摘したように、そうした微小表象のもたらす結果を道徳において否定する者は、自然学において、感じとれない微粒子を否定するようなひどい教育を受けた人々の轍を踏むことになります。しかしながら、自由について語る人々のなかには、均衡を破りうるこれら感じとれない刻印に注意を払わず、道徳的行為におけるまったき非決定を思い描く人を見かけます。これではまるで、二つの牧草地の真中に置かれた「ビュリダンのロバ」の非決定と同じです。これについては後にもっと詳しく話し合いましょう。でもこれらの刻印が、強いずに傾けるものであることは認めておきます。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第二部・第一章[一五]、ライプニッツ著作集4、p.120、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:微小表象)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月4日月曜日

我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その諸変化が絶えずある。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

意識されない無数の表象

【我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その諸変化が絶えずある。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その諸変化が絶えずある。
(a) 個々の印象があまりに微小で、多数であり、あるいはあまりに単調で、個別には十分識別できないが、他のものと結びついたときには、印象の効果を発揮して感覚されることがある。
(b) 慣れによって、その印象に新鮮な魅力がなくなって、我々の注意力や記憶力を喚起するほど十分強力ではなくなり、感覚されなくなることがある。
(c) 注意力が気づくことなく見過ごしていたある表象が、誰かが直ちにその表象について告げ知らせ、例えば今聞いたばかりの音に注意を向けさせるならば、我々はそれを思い起こし、まもなくそれについてある感覚を持っていたことに気づくことがある。
 「次のように判断させる多数の標示がある。すなわち、われわれの内には、意識表象も反省もされていない無数の表象が絶えずあり、それは、魂そのものの内にある、われわれが意識表象していない諸変化である。それらの印象があまりに微小でありしかも多数であるか、あるいはあまりに単調で、その結果、それぞれ別々に十分識別できないが、それでも他のものと結びついたときには印象の効果を発揮して、少なくとも集合的には錯然と感覚されるからである。たとえば、水車の回転や滝のすぐそばに暫くとどまっていると、慣れによってそれらの音に気をつけなくなる。それは、これらの運動がわれわれの感覚器官に印象を与えつづけていないからではないし、また、魂と身体の調和によって、これに対応する何ものもまだ魂のなかに生起していないからでもない。そうではなくて、魂や身体の受けている印象が、新鮮な魅力がなくなって、われわれの注意力や記憶力を喚起するほど十分強力ではなくなり、われわれの注意や記憶はもっと関心をよびおこす対象にだけ注がれるのである。あらゆる注意力は、いくらかの記憶を必要とし、われわれ自身の現前する諸表象のいくつかについて注意するようにと、いわば警告されないと、それらの表象を反省なしに、気づくことさえなく看過してしまうのである。けれども誰かが直ちにその表象について告げ知らせ、たとえば今聞いたばかりの音に注意を向けさせるならば、われわれはそれを思い起こし、まもなくそれについてある感覚をもっていたことに気づく。このようにそれらは、われわれがすぐには意識することのない表象であり、意識表象はこの場合、どんなに小さな間であろうと少しの間をおいた後に知らされて生じるのである。そして、密集していて区別できない微小表象をもっとよく識別するために私は、海岸で聞こえる海の轟やざわめきの例を用いることにしている。通常このざわめきを聞くには、全体のざわめきを構成している各部分、つまりひとつひとつの波のざわめきを聞いているにちがいない。これら微小なざわめきのひとつひとつは、すべてが同時に錯然と生起している集合のなかでしか知られないし、ざわめきをなしている波がたったひとつであるなら気づかれもしないであろうけれど。というのも、その波の運動によってわれわれは少しは作用を受けているはずであり、そうでなければ、十万の波の表象はもち得ないであろうから。ゼロが十万集まっても何ものもできないのである。微弱で錯然としたいかなる感覚ももたないほどに深く眠ることなど決してない。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』序文、ライプニッツ著作集4、pp.21-22、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:意識されない無数の表象)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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魂には、生得的な傾向、態勢、習慣、自然的潜在力があり、大理石の中の石理が現実的な彫像になるように、現実態となって現れる。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

大理石の中に石理の喩え

【魂には、生得的な傾向、態勢、習慣、自然的潜在力があり、大理石の中の石理が現実的な彫像になるように、現実態となって現れる。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(再掲)
 魂についての、二つの考え方。私は(b)の立場をとる。なぜなら、数学者たちの言う「共通概念」や必然的真理など、何かしら神的で永遠なものの由来が、外的な感覚や経験のみであるとは思われないからである。
(a) まだ何も書かれていない書字板(tabula rasa)のように、まったく空白で、魂に記される一切のものは感覚と経験のみに由来する。
(b) 魂は、もともと多くの概念や知識の諸原理を有しており、外界の対象が機会に応じてのみ、それらを呼び起こす。
 魂の中の「諸原理」とは何かについての、補足説明である。
 傾向、態勢、習慣、自然的潜在力としてわれわれに生得的なのであって、現実態としてではない。喩えとして、大理石の中に石理(いしめ)を見出し、それが現われるのを妨げているものを削りとり、磨きをかけて仕上げる作業が必要である。こうして、潜在力は、それに対応する何らかの現実態となる。
 感覚に起源をもたない生得的な観念の例。存在、一性、実体、持続、変化、活動、表象、快楽、およびわれわれの知的観念の他の多くの対象。
 「おそらくこの優れた英国の著者は、私の考えから、全面的に離れているのではないだろう。なぜなら、彼はその第一部全部を生得的知性を斥けるのに費やしたが、それはある限定された意味においてであり、第二部の初めとその後で感覚に起源をもたない観念が反省に由来することを認めているからだ。反省とは、われわれの内にあるものへ注意を向けることにほかならず、感覚は、われわれがすでに内にもっているものをわれわれに与えたりはしない。そうだとすれば、われわれの精神のうちに多くの生得的なものがあることをどうして否定できようか。われわれはいわば自らにとって生得的であり、われわれの内には、存在、一性、実体、持続、変化、活動、表象、快楽、およびわれわれの知的観念の他の多くの対象があるのだから。しかも、これらの対象はわれわれの知性に直接に属し常に現前しているのだから(われわれの不注意や欲求のために、常に意識表象されるわけではないが)、これらの観念がそれに依存するすべてのものと共にわれわれの内に生得的であるといっても、驚くことはないだろう。それゆえ私は、まったく均質な大理石やあるいは何も書かれていない板つまり哲学者たちがタブラ・ラサとよぶものよりも、石理(いしめ)のある大理石の喩えを用いたのだった。なぜなら、もし魂がそうした何も書かれていない板に似ているならば、大理石のなかにあるのがヘラクレスの形かあるいは何か別の形像かをまったく決められないのに、この大理石のなかにあるのはヘラクレスの形像だ、というように真理がわれわれの内にあることになろう。けれども、石理が他の形像よりもヘラクレスの形像を刻むのに適しているのであれば、この石は他の像よりヘラクレスの像を刻むように向いているのであり、ある意味でそこではヘラクレスが生得的ということになろう。ただし、石理を見出し、それが現われるのを妨げているものを削りとり、磨きをかけて仕上げる作業が必要ではある。観念や真理はこのように、傾向、態勢、習慣、自然的潜在力としてわれわれに生得的なのであって、現実態としてではない。これらの潜在力は、それに対応する何らかの現実態を常に伴っているが、たいていは感覚できないのである。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』序文、ライプニッツ著作集4、pp.18-19、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:大理石の中に石理の喩え)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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