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2018年5月22日火曜日

疑うことがもどかしく、断定をいそぐあまりに、時機が十分熟するまで判断をさしひかえないことは、あやまちである。疑いからはじめることに甘んじれば、確信に終わるであろう。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

疑うこと

【疑うことがもどかしく、断定をいそぐあまりに、時機が十分熟するまで判断をさしひかえないことは、あやまちである。疑いからはじめることに甘んじれば、確信に終わるであろう。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
 「もう一つのあやまちは、疑うことがもどかしく、断定をいそぐあまりに、時機が十分熟するまで判断をさしひかえないことである。というのは、観想の二つの道は、古人がよく口にした行動の二つの道にまったく似ているのであって、一つの道は、はじめ平らでなめらかであるが、終わりには通れなくなり、もう一方は、はじめはでこぼこして骨がおれるが、やがて平らなよい道になるのと同様に、観想の場合も、確信からはじめれば、疑いに終わるだろうが、疑いからはじめることに甘んじれば、確信に終わるであろうからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、五・八、p.66、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の不健康な状態、疑うこと)

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)


(出典:wikipedia
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


フランシス・ベーコン(1561-1626)
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2018年4月11日水曜日

意志の自由は、確かにある。これはまさに、完全に確実ではないことを信ずるのを拒み得る自由が、我々のうちにあることを経験したときに、自明かつ判然と示された。(ルネ・デカルト(1596-1650))

自由意志

【意志の自由は、確かにある。これはまさに、完全に確実ではないことを信ずるのを拒み得る自由が、我々のうちにあることを経験したときに、自明かつ判然と示された。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「だが我々の意志には自由があり、多くのことに任意に或いは同意し、或いは同意しなかったりできることは明白であって、このことは我々に本有的な、最初のそして最も共通的な概念(公理)に数えることができる。そしてこれが最も明らかにされたのは、少し前一切について疑おうと努め、ついには或る最も強力な我々の創造者が、あらゆる仕方で我々を欺こうと試みると、想像するにまで至ったときなのである。何となれば、それにも拘らず我々は、完全に確実ではなかったことを信ずるのを拒み得る自由が、我々のうちにあることを経験したからである。そしてそのとき疑いなく思われたこと以上に、自明かつ判然たることはあり得ないのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』第一部 三九、p.61、[桂寿一・1964])
(索引:自由意志、欺瞞者である神、疑うこと、悪意のある老獪な霊)

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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2017年12月26日火曜日

02.私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))

我思う故に我あり

【私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。】
 偽なるものに同意しないように用心する「私」が、確かに存在する。この私の存在も、疑うことができる。しかし、疑うことが、また確かに、私が存在していることを示す。このようにして、私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。私は存在する。
 「私は、世界のうちにまったく何物も、何等の天も、何等の地も、何等の精神も、何等の身体も、存しないと私を説得したのであった。従ってまた私は存しないと説得したのではなかろうか。否、実に、私が或ることについて私を説得したのならば、確かに私は存したのである。しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、『私は有る、私は存在する』、という命題は、私がこれを言表するたび毎に、あるいはこれを精神によって把握するたび毎に、必然的に真である、として立てられねばならぬ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察』省察二、p.38、[三木清・1949])
(索引:我思う故に我あり、コギト・エルゴ・スム)

省察 (岩波文庫 青 613-2)




ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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