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2022年2月8日火曜日

ある人の自由の範囲を決定するのは現実に開かれている扉であり、その当人の好みではない。主人が鎖を愛するように奴隷に教え込めば、それによって奴隷の満足が大きくなり、少なくとも悲 惨さが少なくなるとしても、主人がそれ自体で奴隷の自由を大きくしたわけではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

鎖を愛する奴隷の自由

ある人の自由の範囲を決定するのは現実に開かれている扉であり、その当人の好みではない。主人が鎖を愛するように奴隷に教え込めば、それによって奴隷の満足が大きくなり、少なくとも悲 惨さが少なくなるとしても、主人がそれ自体で奴隷の自由を大きくしたわけではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



「ある人の自由の範囲を決定するのは現実に開かれている扉であり、その当人の好みではな いということに、注目しておく必要がある。好きなように行動できるとして、願望の途上に心 理的ないしその他の障害がないというだけで、自由になるわけではない。この場合、行動の可 能性を変えずに欲望と意向を変えることによって、自由になることもできるからである。主人 が鎖を愛するように奴隷に教え込めば、それによって奴隷の満足が大きくなり、少なくとも悲 惨さが少なくなるとしても、主人がそれ自体で奴隷の自由を大きくしたわけではない。歴史 上、良心に欠けた人間の管理者たちが宗教教育を利用して、野蛮で不法な扱いを人々に甘受させたことがあった。このような政策が成功するとすれば――そしてこれら人間の管理者がそのよ うな手段にしばしば訴えると考えてよい理由もある――、そしてその政策の犠牲者たちが(例え ばもと奴隷の哲学者エピクテートスのように)苦痛と侮辱を気にとめないことを学んだとすれ ば、いくつかの専制体制は自由の創造者と呼んでよいことになるであろう。そのような体制は よそに気を引くような誘惑を排除し、願望と情熱を「奴隷化」することによって、個人の選択 ないし民主的選択の領域を拡大する政治制度よりも(仮定からして)一層大きな自由を作り出 しているからである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,p.290,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和(訳)) 

バーリン選集2 時代と回想 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




たとえ満足なものでも「合理的なもの」でも、選択肢が制限されれば不自由である。特に、困難で障害のある選択肢を閉ざす場合も同じだ。また、精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和は自由の行使に必要だが、また別問題である。自由行使に必要な知識もまた同じ。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

保護主義的不自由、自由と知識

たとえ満足なものでも「合理的なもの」でも、選択肢が制限されれば不自由である。特に、困難で障害のある選択肢を閉ざす場合も同じだ。また、精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和は自由の行使に必要だが、また別問題である。自由行使に必要な知識もまた同じ。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)保護主義的な不自由について
(a)満足なものでも「合理的なもの」でも、選択肢が少なければ不自由
「物理的」なものであれ「精神的」なものであれ、ある人の選択の領域が狭い場合、その人がその状態に満足しているにせよ、また人が合理的になれば唯一の合理的な道が彼にそれだけ明瞭になり、複数の道の間で動揺しなくなるであろうということがどれだけ真実であるにせよ (私はこの命題は誤っていると思う)、このいずれの状況によっても彼がより広い選択の幅 を持つ人よりも必ずや自由であるということにはならないであろう。

(b)困難で障害のある選択肢を閉ざす場合も不自由
 障害の横たわっている道 に入りたいという願望を除去することによって障害を除 けば、心の静安、満足、あるいは知恵までもが大きくなるかもしれない。しかし自由は大きくならない。

(2)自由と知識の問題
(a)精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和
 精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和は、きわめて望ましい条件であり、この条件はかなりの数の障害を除去する。またこれは、他のすべての自由のための必要条件である。しかし、だからといって問題の自由があるかどうかとは、別問題である。

(b)自由であることを知ること
 どのような道が前にあるか、それがどれだけ開かれているかをよりよく知れば、それだけ自分が自由であることを知るようになるであろう。知らなかったけれども扉は開いていたのだということを後になって発見した人は、無知について後悔しても、自由の欠如について後悔することはないであろう。

(c)自由の行使に必要となる知識
 知識が自由の行使にとって不可欠の条件となることもあろう。その 途上にある障害がそれ自体で自由剥奪、つまり知る自由の剥奪となることもある。無知は道を 閉ざす。知識は道を開く。


「「物理的」なものであれ「精神的」なものであれ、ある人の選択の領域が狭い場合、その 人がその状態に満足しているにせよ、また人が合理的になれば唯一の合理的な道が彼にそれだ け明瞭になり、複数の道の間で動揺しなくなるであろうということがどれだけ真実であるにせ よ(私はこの命題は誤っていると思う)、このいずれの状況によっても彼がより広い選択の幅 を持つ人よりも必ずや自由であるということにはならないであろう。障害の横たわっている道 に入りたいという願望、さらにはその道についての意識さえも除去することによって障害を除 けば、心の静安、満足、あるいは知恵までもが大きくなるかもしれない。しかし自由は大きく ならない。精神の独立――正気と人格の一貫性、健康と内面の調和――は、きわめて望ましい条件 であり、かなりの数の障害を除去することによって、それだけの理由で自由の一種と見なされ る資格を有しているであろう。しかしその自由は、多くの種類の自由の中の一つでしかない。 ある人は、この種の自由は他のすべての自由のための必要条件であるという意味で、少なくと も独自性があるというかもしれない。私が無知で執念にとらわれ非合理的であるならば、私は そのことによって事実にたいして盲目になり、こうして盲目になった人は事実上、可能性が客 観的に閉ざされている人と同様に自由でないことになる、というのである。しかし私には、この種の議論は正しいとは思えない。私が自分の権利に無知であり、あるいは神経症にかかって (あるいは貧乏であるがために)その権利から利益を得られないでいれば、それは私にとって 無用のものとなるであろう。しかし、だからといってその権利が存在しないことにはならな い。他の開かれた扉に連なる路上に、一つの扉が閉ざされているという状態なのである。自由 の条件(例えば知識、金銭)が破壊されている、あるいは不足していることは、自由そのもの が破壊されていることではない。自由の価値は自由の利用可能性にかかっているとしても、自 由の本質は自由の利用可能性に依存していない。より多くの大道を歩むことができ、その大道 がより広く、それぞれの大道がさらに多くの道に向かって開かれていれば、それだけ人は自由 である。どのような道が前にあるか、それがどれだけ開かれているかをよりよく知れば、それ だけ自分が自由であることを知るようになるであろう。自ら知らずして自由であることが、痛 烈な皮肉になる場合もある。しかし、知らなかったけれども扉は開いていたのだということを 後になって発見した人は、無知について後悔しても、自由の欠如について後悔することはない であろう。自由の範囲は行動の可能性にかかっており、その可能性についての知識に依存して はいない。もちろん、その知識が自由の行使にとって不可欠の条件となることもあろう。その 途上にある障害がそれ自体で自由剥奪――つまり知る自由の剥奪となることもある。無知は道を 閉ざす。知識は道を開く。しかしこれが自明の理であるからといって、自由は自由の意識を含 むことにならないし、ましてや自由と自由の意識とが同じであえるということにもならな い。」

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.288-290,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




新しい知識は我々の合理性、真理を把握する力を強め、理解力を深め、我々の力と内的な調和、智慧と効力を大きくするが、必ずしも自由を大きくするわけではない。 選択の自由があるならば、増大した知識によってこの自由の限界が何であるか、何がその自由を拡大し縮小させるかを知ることができるであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

知識と自由

新しい知識は我々の合理性、真理を把握する力を強め、理解力を深め、我々の力と内的な調和、智慧と効力を大きくするが、必ずしも自由を大きくするわけではない。 選択の自由があるならば、増大した知識によってこの自由の限界が何であるか、何がその自由を拡大し縮小させるかを知ることができるであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



「知識によってわれわれが一層自由になるのは、現実に選択の自由がある場合である。知識 にもとづいて、その選択の自由がない場合とは別の行動ができる場合である。できるであっ て、しなければならないとか現実にするというのではない。つまり新しい知識を得たことに よって別の行動ができ、そして別の行動をする場合であって、必ずしも別の行動をする必要は ない。まず初めに自由がなければ、そして自由の可能性がなければ、自由を大きくすることは できない。新しい知識はわれわれの合理性、真理を把握する力を強め、理解力を深め、われわ れの力と内的な調和、智慧と効力を大きくするが、必ずしも自由を大きくするわけではない。 選択の自由があるならば、増大した知識によってこの自由の限界が何であるか、何がその自由 を拡大し縮小させるかを知ることができるであろう。しかし私には変えることができない事実 と法則があることを知るだけでは、私が何かを変えることができるようにはならない。そもそ も自由がなければ、知識があっても自由が大きくなるわけではない。すべてが自然法則によっ て支配されているとすれば、知識によってその法則をよりよく「利用」できるといっても無意 味であろう。意味があるとすれば、その「できる」が選択「できる」ことを意味している場合 だけである。つまりさまざまな道の中から私が選ぶことができるといえるような状況、何か一 つの道を選ぶように厳格に決定されていないような状況にだけ適用されるような「できる」の 場合だけである。いいかえれば、もし古典的決定論が正しい見方であるとしても(それが現代 の慣行と合致していないという事実は、それにたいする反論とはなりえない)、それについて 知っても自由は大きくならないであろう――自由が存在していなければ、それが存在していない ということを発見しても自由が作り出されてくることにならない。これは、徹底的に展開され た機械論的-行動論的な決定論についてと同様に、自己決定論にも当てはまることである。」 

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.274-275,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私の自由の範囲を拡大できない。逃れ難いものとしての自然法則、言語、諸命題で認識できる諸法則、これらで認識できる外的世界、物質、他者、私自身に関する諸事実である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由意志と逃れ難いもの

真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私の自由の範囲を拡大できない。逃れ難いものとしての自然法則、言語、諸命題で認識できる諸法則、これらで認識できる外的世界、物質、他者、私自身に関する諸事実である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)私の支配の外にある要因
 真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私 の自由の範囲を拡大できはしない。これらの要因は、説明したからといって無くなるわけでは ない。知識の増大は、私の合理性を増大させ、私の自由を増大させるかもしれない。しかしそ れは、無制限ではない。

(2)逃れ難いもの、自然法則、言語、諸命題で認識できる諸事実、諸法則
 私が合理的で正気であれば、一般的命題を信じないわけにはいか ない。あるいは、正気であれば、一般的な言葉を使わないわけにはいかない。肉体を有しなが ら、重力に引かれないわけにはいかない。

(3)物質、他者、私自身に関する諸事実、諸法則
 私自身の本性や他の物や人の本性、さらには私とそれ らの物や人を支配する法則について私が知っていることは、私が精力を浪費し誤用しないよう に助けてくれる

(4)真の選択、偽りの選択、逃れ難いもの
 真の選択と偽りの選択とを区別する過程で、それがいかにして区別されるのか、私がその幻想をいかにして見抜くかにかかわりなく、私は自分には逃れ難い本性があるのに気づく。


「いわずもがなのことであるが、次のようなことは言っておく必要があると思う。未来につ いて、未来の事実がしっかりと固まってすで形成されたものと見るのは、物の見方として虚偽 である。われわれ自身の行動と他の人々の行動を、全体としてあまりに強くて抵抗しえないよ うな力によって説明しようとするのは、もともと事実によって説明してよいことの範囲を超え ているから、経験的に誤りである。この理論は、極端な形態にまで押しつめれば、決定なるも のを一撃で粉砕してしまう。つまり、私は私自身の選択によって決定されるということになる であろう。そうでないと信じること――例えば決定論、宿命論、偶然論などに立って――は、それ 自体で一つの選択であり、むしろそれ故に一層卑怯な選択である。けれども、このような傾向 はまさしくそれ自身で人間の特性の一つの現れであると論じることも、たしかに可能である。 未来を――過去との対称的な対比で――変更不可能なものと見なすこのような傾向、あるいは言い 訳を求め、逃避主義的な夢想に走り、責任から逃亡しようとするのは、それ自体が心理的な事 実である。自己欺瞞とは、もともと私が意識的に選べないものである。私がこのような結果に なるとは知りつつも、しかしその結果を避けないように行動することもあるであろう。しか し、選択と強制された行動との間には差異がある。強制そのものが、過去の強制されざる選択 の結果であったとしても、両者は別である、私の抱いている幻想が、私の選択の分野を決定す る。己を知ること――幻想を破ることがこの分野を変える。つまり、現実に(いわば)何ものか が私を選択しているにもかかわらず、私は自分がそれを選択したのだと考えるのではなく、私 が真に選ぶことを《より》可能にするのである。しかし、真の選択と偽りの選択とを区別する 過程で(それがいかにして区別されるのか、私がその幻想をいかにして見抜くかにかかわりな く)、私は自分にはのがれがたい本性があるのに気づく。私にはできないものが、いくつかあ る。私が(論理的にいって)合理的ないし正気であれば、一般的命題を信じないわけにはいか ない。あるいは、正気であれば、一般的な言葉を使わないわけにはいかない。肉体を有しなが ら、重力に引かれないわけにはいかない。おそらくある意味では、その両者をそれぞれ同時に 試みることはできるであろうが、それでも、合理的であるということは、私がそれに失敗する ということを意味しているはずである。私自身の本性や他の物や人の本性、さらには私とそれ らの物や人を支配する法則について私が知っていることは、私が精力を浪費し誤用しないよう にたすけてくれる。それは、偽りの主張と言い訳をあばき出す。責任をあるべきところに固定 し、偽りの無実の申し立てと真に無実の人々にたいする偽りの非難をしりぞける。しかしそれ は、真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私 の自由の範囲を拡大できはしない。これらの要因は、説明したからといって無くなるわけでは ない。知識の増大は、私の合理性を増大させるであろう。そして無限の知識は、私を無限に合 理的にしていくことであろう。それは私の力、私の自由を増大させるかもしれない。しかしそ れは、私を無限に自由にすることはできない。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.263-265,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年2月7日月曜日

選択が真の自己決定であるかどうかの解明は困難であっても、選択肢を制限する障害は因果的に理解可能である。自由であるとは、選択には互いに競合するいくつかの可能性、開かれた道が存在することを前提としており、障害を理解したり障害から解放されるには、合理性や知識が関わってくる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由への障害から自由意志を考える

選択が真の自己決定であるかどうかの解明は困難であっても、選択肢を制限する障害は因果的に理解可能である。自由であるとは、選択には互いに競合するいくつかの可能性、開かれた道が存在することを前提としており、障害を理解したり障害から解放されるには、合理性や知識が関わってくる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)選択における障害、自由の程度
 私の見るところ通常の思想と言語では、自由とは人間を人間以外の一切のものから区別する基本的な特徴であり、自由には選択行為にたいする障害がないことによって定められる程度があるということが、中心的な想定になっている。
《概念図》
 因果的変化(決定論的)
  状態1→状態2
 因果的変化(非決定論的)
  状態x→状態n (n=1,2,3,...)
  ・可能な状態nのうちの一つに変化
 選択
  状態x→状態n (n=1,2,3,...)
  ・可能な状態nのうちの一つを選択
  ・可能でない状態は障害がある状態
  ・障害は因果的法則の結果である

(2)自由な選択は先行する諸条件によって完全には決定されていない
 選択は、それ自体が先行する諸条件によって決定されていない、少なくとも全面的には決定されていないと見なされてい る。自由であるとは、強制されざる選択ができるということである。そして選択は、互いに競合 するいくつかの可能性、開かれた道を前提としている。


(3)選択肢を制限する障害は、因果的に理解可能
 非決定論的な因果的変化のどの特定部分が人間の自由意志に相当するのかを指し示すことや、またその変化が、なぜ自らの能動、自己決定と考えられるのかの解明が困難であっても、選択肢を制限する障害は、因果的に理解することができ、これは、合理性と知識に緊密に関わる。

(4)障害の例
 障害は多様であり、充分には認識できない。物理的なもの、精神的なもの、社会的要因、個人的要因。地理的条件、牢獄の壁、武装した人々、食住その他生活に必要なものが欠如するという脅威。心理的であ る場合は、恐怖感、コンプレックス、無知、錯誤、偏見、幻想、夢想、強迫観念、神経症、精神病など。

(5)障害からの解放手段
 道徳的自由、合理的な自己統制、すなわち何が問 題であるか、何が自分の行動の動機であるかを知っていること、他人や自分自身の過去の影 響、あるいは自分の集団や文化の影響から生じるまだ認識されていない力からの独立、内省し合理的に検討すれば根拠がないことが判るような希望、恐怖、願望、愛情、憎悪、理想などを 破壊すること、確かにこれら全ては障害からの解放をもたらすであろう。



「私の見るところ通常の思想と言語では、自由とは人間を人間以外の一切のものから区別す る基本的な特徴であり、自由には程度――選択行為にたいする障害がないことによって定められ る程度があるということが、中心的な想定になっている。ここでの選択は、それ自体が先行す る諸条件によって決定されていない、少なくとも全面的には決定されていないと見なされてい る。他の問題におけると同様、ここでも通常の感覚の方が間違っているのかもしれない。しか しそれに反駁する責任は、それに賛成しない人の側にある。通常感覚が自由の障害がどれだけ 多様であるかを充分に意識していないということもある。障害は物理的でも精神的でもある。 「内的」でもあり、「外的」でもある。あるいは両者の要素の複雑な混合でもある。社会的要 因や個人的要因、あるいはその両者のために解明が困難であり、おそらく解明は概念的に不可 能かもしれない。通常の意見は、この問題を過度に単純化しているのかもしれない。しかし私 の思うに、それは本質については――、自由とは行動にたいする障害がないということにかか わっているという点については正しい。これらの障害は、われわれの意図の実現を妨げる物理 的な力――自然のものか人間によるものかは問わず――から成る場合もある。地理的条件、牢獄の 壁、武装した人々、食住その他生活に必要なものが欠如するという脅威(意図的に武器として 用いられるか、意図せざるものかにかかわりなく)などがそうである。また障害が心理的であ る場合もある。恐怖感、「コムプレックス」、無知、錯誤、偏見、幻想、夢想、強迫観念、神 経症、精神病など、多種多様な非合理的要因である。道徳的自由、合理的な自己統制――何が問 題であるか、何が自分の行動の動機であるかを知っていること、他人や自分自身の過去の影 響、あるいは自分の集団や文化の影響から生じるまだ認識されていない力からの独立、内省し 合理的に検討すれば根拠がないことが判るような希望、恐怖、願望、愛情、憎悪、理想などを 破壊すること――たしかにこれらすべては障害からの解放をもたらすであろう。その障害の一部 には、人類の進路におかれたものの中でもっとも恐るべき、かつ陰険なものも含まれているで あろう。プラトンからマルクスとショーペンハウエルにかけての道徳論者は、この障害につい て鋭い、しかし散発的な洞察を行ってきた。しかしその力が全体として充分に理解されるよう になったのは、ようやく精神分析学の登場とその哲学的含意が知覚されるようになった今世紀 のことであった。この意味での自由概念の有効性を否定し、それが合理性と知識にたいして緊 密な論理的依存関係にあることを否定するのは、愚かなことであろう。自由がすべてそうであ るように、この自由も障害の除去から成り、あるいはそれに依存している。この場合の障害と は、人間の力の全面的な行使――人がいかなる目的を選ぼうと――にたいする心理的な障害物のこ とである。しかしこの障害は、それがいかに重要で、これまでいかに不充分にしか分析されて こなかったにせよ、障害の一部分でしかない。他の部類の障害、他のよりよく認識されている 形態の自由を無視して、このような障害だけを強調すれば、問題が歪曲されていくことになる であろう。そして私の思うに、ストア派からスピノザ、ブラッドレー、スチュアート・ハムプ シャーにかけて、自由を自己決定にだけ限定してきた人々は、まさにこの歪曲を行ってきたの である。  自由であるとは、強制されざる選択ができるということである。そして選択は、互いに競合 するいくつかの可能性――少なくとも二つの邪魔のない「開かれた」道を前提としている。それ はまた、いくつかの道を開いておくような外的な状況にかかっているであろう。人や社会が享 受している自由の幅について語る時にわれわれの念頭にあるのは、思いにその人と社会の前に 開かれている道の広さないし幅、いわば開かれている扉の数と、その扉がどれだけ広く開かれ ているかということである。しかしこの譬喩は不完全である。実際には「数」と「幅」だけで は不充分だからである。いくつかの扉が他の扉よりもはるかに重要であることもある。個人と 社会の生活にとって、その扉の奥にある利益の方が、はるかに中心的な関心事であることもあ ろう。ある扉は他の開かれた扉に続き、ある扉は閉ざされた扉へと続いている。現実の自由が あり、また可能性としての自由もある。それは、現存ないし潜在的な力――物理的ないし精神的 な力のもと、いくつかの閉ざされた扉をどれだけ容易に開くことができるかにかかっている。 それにしても、いかにして一つの状況を他の状況に照らして測定できるのであろうか。例えば、物質的な必要と安楽さが充分に保障されているという意味で、他人によっても状況によっ ても妨害されていないが、しかし言論と結社の自由は許されていない人がいるとしよう。他方 でより大きな教育の機会、他の人々との自由な交流と結社の機会を有しているが、例えば政府 の経済政策のためにぎりぎりの生活必要物資しか入手できない人がいるとしよう。この二人の どちらがより大きく自由かをどのようにして決定できるであろうか。この種の問題は常に生じ てくるであろう。それは功利主義の著作で、むしろあらゆる形態での非全体主義的な政治の実 践で充分にお馴染みのことである。しかし、たとえ硬くしっかりした基準を提出できないとし ても、人ないし社会の自由の尺度はもっぱら選択可能な可能性の幅によって決定されていると いうことは、依然として事実である。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.285-288,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年2月6日日曜日

公衆の感情、集団や人の価値観に屈服したとすれば、その責任は私にあるのであって、外的な力の責任ではない。そのような影響力は抵抗しがたいと考え、自らの行動を選択できないものだと考えるのは、他者からの非難や自己非難を回避しようしているだけではないのか。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自らの選択、評価、判断

公衆の感情、集団や人の価値観に屈服したとすれば、その責任は私にあるのであって、外的な力の責任ではない。そのような影響力は抵抗しがたいと考え、自らの行動を選択できないものだと考えるのは、他者からの非難や自己非難を回避しようしているだけではないのか。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)理解すべき自己は存在するのか
 人が自らを理解すれば、たとえそれが自由の充分条件ではないとしても、その時はじめて自由であるということは、われわれには理解すべき自己があるということを前提としている。

(2)理解するのでなく自ら選択するのではないのか
 (a)選択が自己を創造する
  理解すべき自己があるということ自体が、特にいく人かの実存主義哲学者 によって疑問に付された。通常、安直に考えられているよりははるかに多くのことが、人間の 選択によって決定されているというのが、彼らの主張である。
 (b)選択回避は責任回避
  選択は責任を意味しており、い く人かの人間はほとんどいつも、また大抵の人間は時々、この重い負担を回避したいと思うか ら、言い訳とアリバイを探し求めるという傾向がある。
 (c)社会的圧力は絶対的ではない
  自由に対する障害である社会的圧力などの存在と効力は、人間の意志や活動から独立のものでなく、あるいは 孤立した個々人に、利用できない手段ではない。
 (d)影響があるにしても自らの選択である
  他人の圧力、同調行動への教師や友人や両親の圧力、聖職者や同僚や批評家や社会集団ないし階級の言動による影響も、もし私がそのような影響を受けたとすれば、それは私が 影響を受けることを選んだからだ。

(3)選択しないことも一つの選択
 選択しないということもそれ自体が、行動的な 主体として自らを主張するのではなく、ことを成り行きにまかせるという一種の選択を表して いる。

(4)私の選択、評価、判断である
「事実」は決して自ら語りはしない。私、選択し評価し判断する私だけが語ることができる。私自身の甘美な意志 によって、私が自由に見て検討し、承認ないし拒否することができる原理、規則、理想、偏見、感情にしたがって、私は語る。




「しかしこの見解については、もっと根本的な批判があり、それを考察しておかねばならな い。人が自らを理解すれば(たとえそれが自由の充分条件ではないとしても)、その時はじめ て自由であるということは、われわれには理解すべき自己があるということ――人間の本性と呼 ぶに相応しい構造があり、それはあるがままの事実として存在し、法則に従い、自然的研究の 対象であるということを、前提としている。このこと自体が、特にいく人かの実存主義哲学者 によって疑問に付された。通常、安直に考えられているよりははるかに多くのことが、人間の 選択によって決定されているというのが、彼らの主張である。選択は責任を意味しており、い く人かの人間はほとんどいつも、また大抵の人間は時々、この重い負担を回避したいと思うか ら、言い訳とアリバイを探し求めるという傾向がある。そのため人は、自然や社会の避けがた い法則の作用――例えば、無意識の精神の働き、不変の心理的反射作用、社会進化の法則の働き など――にあまりにも多くのことを帰着させがちである。この流派に属する批判者たち(彼らは ヘーゲルとマルクス、キェルケゴールの双方に多くを負っている)は、自由にたいするいくつ かの悪名高い障害――例えばJ・S・ミルが大いに論じた社会的圧力など――は、客観的な勢力で はないという。つまりその存在と効力は、人間の意志や活動から独立のものでなく、あるいは 孤立した個々人には利用できない手段――個人の欲するがままに起こすことができない革命や急進的改革によってのみ変革できるといった性質のものではないと、いうのである。ここで論じ られているのは、それと正反対のことである。私は他人の圧力を受けているわけではない、ま た同調行動をとるよう学校の教師や友人や両親の圧力を受けているわけでもない、さらには私 には如何ともしようのないやり方で、聖職者や同僚や批評家や社会集団ないし階級の言動に よって影響されているわけでもない。もし私がそのような影響を受けたとすれば、それは私が 影響を受けることを選んだからだと、いうのである。私が《せむし》、ユダヤ人、ニグロなど として嘲笑され、侮辱されたとしよう。あるいは裏切り者という疑いをかけられていると感じ て、気落ちしているとしよう。しかしそれは、私を支配している他人の見解や態度、つまりそ のような人々の《せむし》、人種、叛逆についての意見と評価を、私が承認することを選んだ からにすぎないのである。私は常にそれを無視し、あるいはそれに抵抗することができる。そ のような意見、基準、見方をせせら笑うことができる。そしてその時、私は自由である。まさ しくこれが、異なった前提の上に建てられているとはいえ、ストアの賢人ゼノンの肖像を描い た人々が抱いていた理論である。私が公衆の感情、あるいはあれこれの集団や人の価値に屈服 したとすれば、その責任は私にあるのであって、外的な力――人的であれ非人格的なものであれ 外的な力の責任ではない。私としては、そのような影響力は抵抗しがたいと考え、私の行動を しきりにそのせいにしたがるであろうが、しかしそれは非難あるいは自己非難を避けようとし ているからにすぎない。このような批判者によれば、私の行動、私の性質、私の人格は神秘的 な実体、何らかの仮説的な一般的(因果的)諸命題の型の中の一要素ではなく、選択ないし選 択しないという型のおける一つの主体である。選択しないということもそれ自体が、行動的な 主体として自らを主張するのではなく、ことを成り行きにまかせるという一種の選択を表して いる。私が自己に批判的で事実を直視するならば、自分が責任を他に転嫁しているのだという ことを発見するであろう。このことは、理論の領域にも実務の領域にもともに当てはまる。例 えば私が歴史家であるとすれば、歴史上重要な要因についての私の見解はさまざまな個人や階 級の評判を高めたり低めたりしたいという私の願望に深く影響されているかもしれない。それ は私の側の自由な評価の行為であると、論じられるであろう。私がいったんこのことを意識す るようになると、私は私の意志にしたがって選び判断できるようになる。「事実」は決して自 ら語りはしない。私、選択し評価し判断する私だけが語ることができる。私自身の甘美な意志 によって、私が自由に見て検討し、承認ないし拒否することができる原理、規則、理想、偏 見、感情にしたがって、私は語る。」

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.260-262,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




自分に病的盗癖があることを知った病的盗癖者は、放置か抵抗かの選択肢を獲得する。選択は成功するとは限らないが、知らなければ抵抗できず、知識はいくらか能力を高める。しかし、ある自己知識は、他の能力と自由を減少させるかも知れず、必ずしも自由の総額を増やすわけではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自己知識と自由意志

自分に病的盗癖があることを知った病的盗癖者は、放置か抵抗かの選択肢を獲得する。選択は成功するとは限らないが、知らなければ抵抗できず、知識はいくらか能力を高める。しかし、ある自己知識は、他の能力と自由を減少させるかも知れず、必ずしも自由の総額を増やすわけではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a) 動機、意図、選択、理由、規則
 合理的行動とは、その行為者ないし観察者によって動機、意図、選択、理由、規則などの観点から説明でき、自然の法 則すなわち因果的、統計的、有機的な法則だけでは説明できない行動で ある。

(b)因果の連鎖でもなくランダムでもない
 合理的思想とは、その内容、少なくともそ の結論が何らかの規則と原理に従っており、因果の連鎖ないし出鱈目の連鎖の中の単なる要 素とはなっていないような思想である。

(c)泥棒と病的な盗癖を持つ者
 ある人を泥棒と呼ぶことは、その限りで彼に合理性を認めることである。彼に病的な盗癖があるとい うのは、合理性を認めないことである。

(d) 自分に病的盗癖があることを知っている病的盗癖者
 人間がどこまで自由であるかが、自分の行動の根源に ついて彼がどこまで知っているかに直接にかかっているとすれば、自分に病的盗癖があることを知っている病的盗癖者は、その限りで自由である。
 (i)放置するのか抵抗するのか
  彼は盗みをやめることができず、またや めようとはしないかもしれない。しかし彼がこの事実を知っているかぎり、彼はいまやその 衝動に抵抗するか、それともそれを野放しにするかの 選択ができる立場にある。
 (ii)つねに変更できるのか
  気質や因果関係を私が自分で自覚している ということは、それを操作ないし変更させる能力があるということと同じであろうか。その自 覚が、必ずや私にそのような能力を与えるということになるであろうか。
 (iii)いくらか能力が高まる
  ある傾向があることを自分で知っている場合、私はそれに応じて生活を演ずることができる。それに対して、自分で知らない場合には、そうはできない。 つまり私はいくらか能力を高め、その限りで自由を得ている。

(e) 自己知識と自由の総額
 自己知識は、私の自由の総額を増大させもすれば、減少させもするように思われる。問題は経験的な問題であり、それに対する答えは個々の状況にかかっている。
 (i)知っていることが、 他のある点では私の能力を低めることになるかもしれない。
 (ii)ある分野での能力と自由の増大にたいする代価として、他の分野での能力と自由を失うかもしれない。
 (iii)認識したとしても、そ のような感情を必ずしも統制できなくなっているかもしれない。


「問題をこのように提出することは、合理性と自由とは何であるかを問うことである。少な くともそれに向かって、長い道を歩むことである。合理的思想とは、その内容、少なくともそ の結論が何らかの規則と原理に従っており、因果の連鎖ないし出鱈目の連鎖の中のたんなる要 素とはなっていないような思想である。合理的行動とは、(少なくとも原則としては)その行 為者ないし観察者によって動機、意図、選択、理由、規則などの観点から説明でき、自然の法 則――因果的、統計的、「有機的」、その他同じ論理的型の法則――だけでは説明できない行動で ある(動機、理由などによる説明と、原因、蓋然性などによる説明とが「範疇的」に別のもの であるのか、したがって原則として対立しないし、むしろ互いに無関係であるのかという問題 は、もちろんきわめて重要な問題であるが、ここではそれを提起するつもりはない)。ある人 を泥棒と呼ぶことは、その限りで彼に合理性を認めることである。彼に病的な盗癖があるとい うのは、合理性を認めないことである。人間がどこまで自由であるかが、自分の行動の根源に ついて彼がどこまで知っているかに直接にかかっているとすれば、自分に病的盗癖があること を知っている病的盗癖者は、その限りで自由である。彼は盗みをやめることができず、またや めようとはしないかもしれない。しかしかれがこの事実を知っているかぎり、彼はいまやその 衝動に抵抗するか(たとえ失敗せざるをえないとしても)、それともそれを野放しにするかの 選択ができる立場にある――と主張されるのであるが――から、彼は一層合理的になるだけでなく (この点には論駁の余地はなさそうである)、一層自由になることになるであろう。果たし て、常にそうであるということになるであろうか。気質や因果関係を私が自分で自覚している ということは、それを操作ないし変更させる能力があるということと同じであろうか。その自 覚が、必ずや私にそのような能力を与えるということになるであろうか。知識はすべて自由を 増大させるという言葉には、もちろん明白な意味がある。けれどもその意味はきわめて陳腐で ある。私に癇癪の発作を起こしたり、階級意識を感じたり、ある種の音楽にたいして陶酔する 傾向があることを自分で知っている場合、私はそれに応じて生活を演ずることができる――「で きる」という言葉のある意味で。それにたいして自分で知らない場合には、そうはできない。 つまり私はいくらか能力を高め、その限りで自由を得ている。しかしこの知っていることが、 他のある点では私の能力を低めることになるかもしれない。私が癇癪の発作や何か苦痛の(あ るいは逆に快適な)感情の起こってくるのを予感した場合、私は何か他の形で私の能力を自由 に行使するのを躊躇して、何か他の経験を得られなくなるかもしれない。詩を書き続けたり、 いま読んでいるギリシャ語のテキストを理解したり、哲学を考えたり、あるいは椅子から立ち 上がったり――そういったことができなくなるかもしれない。言い換えれば、ある分野での能力 と自由の増大にたいする代価として、他の分野での能力と自由を失うかもしれないのである (この点については、やや異なった文脈で後で立ち返ることにする)。また私は、癇癪の発 作、階級意識、インドの音楽にたいする耽溺などが起こってきたことを認識したとしても、そ のような感情を必ずしも統制できなくなっているかもしれない。古典的著作家たちの意味する 知識とは、「何をなすべきか」についての知識ではなくて事実についての知識であり、それは、ある目的や価値に加担したことをあたかも事実についての発言であるかのように偽装し、 あるやり方で行動するという決意を表明しないでそれを記述したものかもしれない。それはと もかく、私が他の人々について知っているのと同じように私自身についても知っていると主張 するとすれば、たしかにその知識の根源は私自身であり、私の確信は一層強いとしても、この ような自己知識は私の自由の総額を増大させもすれば、減少させもするように思われる。問題 は経験的な問題であり、それにたいする答えは個々の状況にかかっている。すでに述べた理由 によって、知識を得ればそれだけある点で私は自由になるという事実から、それが必ずや私の 享受する自由の総額を増大させるという結論にはならないのである。それは片手で与えたもの をもう一方の片手でより多く取り返し、自由を減少させるかもしれないのである。」

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.257-260,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




外的世界、他者、自己に関する事実の知識は、私の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。しかし、目的とは何なのか。それは、客観的なのか主観的なのか、いかに知られるのか。どこまでが、私の自由意志と言えるのかという問題がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由意志に関する諸問題

外的世界、他者、自己に関する事実の知識は、私の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。しかし、目的とは何なのか。それは、客観的なのか主観的なのか、いかに知られるのか。どこまでが、私の自由意志と言えるのかという問題がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)外的世界、他者、自己に関する事実
 重要な事実についての知識、外的世界と他人と私自身の本性についての知識は、私 の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。
 (a)基本的な想定
   (i)物と人は本性――それが知られているかどうかにかかわりなく、明確な構造を有してい る、 (ii)これら本性ないし構造は、普遍的かつ不変の法則によって支配されている、  (iii)これら構造と法則は、少なくとも原則としては、すべて知ることができる。


(2)外的世界
 人間の本性とその目的について、この本性と目的を多少とも 達成するには、外的世界をいかにまたどの程度支配することが必要か。
 (a)外的世界が必要との主張
  例えばアリストテレスは、外的条件があまりにも不利ならば、自己達成、自らの本性の適切な実現は不可能にな るであろうと考えた。
 (b)内なる砦への退避
  ストア派とエピクロス派は、人間社会と外的世界からあ る程度の距離をおきさえすれば、外的状況が何であれ、完全な合理的自己統制は人間に達成可 能であると主張した。

(3)どこまでが私の意志なのか
 事物と非合理的な生物から成る 外的世界と、主体的な行動主体とを区別する境界線はどこにあるのか。

(4)目的とは何なのか
 一般的な本 性ないしは客観的な目的がそもそも存在しているのか。
 (a)客観的な目的があるとの主張
  ある者は、人間の目的は客観的に存在しており、特殊な調査方法によって発見可能であ ると主張した。
 (b)目的は主観的であるとの主張
  目的は主観的であり、あるいはき わめて多様な物理的、心理的、社会的要因によって決定されている。
 (c)目的はいかに知られるのか
  この方法が何であるか、経験的であるか先験的であるか、直感的であるか推論的であるか、科学的である純粋内省的であるか、公的であるか私的であるか、特に才能のあるもの、あるいは幸運なものに限られているのか、それとも原則として万人に開かれているの か。




「つまり重要な事実についての知識、外的世界と他人と私自身の本性についての知識は、私 の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去するという結論である。哲学者(そして神学 者、劇作家、詩人)は、それぞれ人間の本性とその目的について、この本性と目的を多少とも 達成するには、外的世界をいかにまたどの程度支配することが必要か、そのような一般的な本 性ないしは客観的な目的がそもそも存在しているのか、そして事物と非合理的な生物から成る 外的世界と主体的な行動主体とを区別する境界線はどこにあるのかについて、大きく意見を異 にしている。ある思想家は、本性の達成はこの地上において可能である(あるいはかつて可能 であったか、いつの日にかは可能であろう)と考え、また他の思想家は可能ではないと考え た。あるものは、人間の目的は客観的に存在しており、特殊な調査方法によって発見可能であ ると主張したが、この方法が何であるか、経験的であるか先験的であるか、直感的であるか推 論的であるか、科学的である純粋内省的であるか、公的であるか私的であるか、特に才能のあ るもの、あるいは幸運なものに限られているのか、それとも原則として万人に開かれているの かについては、意見が異なっていた。また他のものは、その目的は主観的であり、あるいはき わめて多様な物理的、心理的、社会的要因によって決定されていると信じていた。さらにいえ ば、例えばアリストテレスは、外的条件があまりにも不利ならば――人がいわばトロイ最後の王 プリアモスの不運に苦しめられるならば――、自己達成、自らの本性の適切な実現は不可能にな るであろうと考えた。それにたいしてストア派とエピクロス派は、人間社会と外的世界からあ る程度の距離をおきさえすれば、外的状況が何であれ、完全な合理的自己統制は人間に達成可 能であると主張した。彼らはさらにこれに加えて、意識的に独立と自立を求める人々、つまり 自分には支配できない外的な力の《おもちゃ》になることからの逃避を求める人々には、誰で も原則としてこの自己達成に必要な距離をおくことができるという、客観的な信念を抱いてい た。これらすべての見解に共通する想定として、次の点を挙げることができよう。  (i)物と人は本性――それが知られているかどうかにかかわりなく、明確な構造を有してい る、 (ii)これら本性ないし構造は、普遍的かつ不変の法則によって支配されている、  (iii)これら構造と法則は、少なくとも原則としては、すべて知ることができる。そしてそ の知識は自動的に、暗闇でつまずかないように、そして所与の事実――事物と人の本性、それを 支配する法則――からして失敗を運命づけられている方針に努力を浪費しないですむようにして くれる。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.255-257,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と動機にあるのかが問題である。麻薬、催眠術、根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶の影響はどうだろう。合理化とかイデオロギーの影響はどうだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

真の自由とは何か

真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と動機にあるのかが問題である。麻薬、催眠術、根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶の影響はどうだろう。合理化とかイデオロギーの影響はどうだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)麻薬、催眠術
 自由でない人とは、いわば麻薬を呑まされたり催眠術にかけられている状態にあ る人である。行動主体がどのような説明や正当化を試 みるかにはかかわりなく、何か隠された心理的、生理的条件によって自分には統制できない力の手中に握られていれば、自由ではない。

(2)根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶
 人間の行動が方向を誤った感情、例えば、存在していないものに対する恐怖、事態の真の状態の合理的知覚によらず、幻想や夢想、無意識の記憶と忘れ去られた 傷による憎悪などを原因にしている時には、人は自己指導的でなく、したがって自由ではな い。
(3)合理化、イデオロギー
 合理化やイデオロギーといったものは、行動の真の根源を知らない、あるいは真の根源を無視ないし誤解している偽りの行動の説明である。この偽りの 説明は、さらに幻想と夢想を生み、非合理的で衝動的な行動様式を生むであろう。

(4)意識的な意図と動機、目的
 真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と 動機にあるのかが問題である。ある合理的人間が自由なのは、彼の行動が機械的でなく、自らの動機から発し、彼が意識して いる、また欲すれば意識しうる目的の達成を意図している場合である。



「この理論によると、人間の行動が方向を誤った感情――例えば、存在していないものにたい する恐怖、事態の真の状態の合理的知覚によらず、幻想や夢想、無意識の記憶と忘れ去られた 傷による憎悪など――を原因にしている時には、人は自己指導的でなく、したがって自由ではな い。この見解では、合理化やイデオロギーといったものは、行動の真の根源を知らない、ある いはそれを無視ないし誤解している偽りの行動の説明ということになるであろう。この偽りの 説明は、さらに幻想と夢想を生み、非合理的で衝動的な行動様式を生むであろう。したがって 真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と 動機にあるか、逆にいえば、同じ効果、つまり(行動主体がどのような説明ないし正当化を試 みるかにかかわりなく)選択の結果であるかのように装って同じ行動を生み出すとしても、ど の程度まで何か隠された心理的、生理的条件によっていないかによって、人間は自由である。 ある合理的人間が自由なのは、彼の行動が機械的でなく、自らの動機から発し、彼が意識して いる、また欲すれば意識しうる目的の達成を意図している場合である。つまり、このような意 図と目的を持っていることが、彼の行動の充分条件ではないが、必要条件であるといってよい 場合である。自由でない人とは、いわば麻薬を呑まされたり催眠術にかけられている状態にあ る人である――彼が自分の行動をどう説明しようと、彼の表面の明白な動機と方針がいかに変化 しようとも、その事実には変わりはない。彼がどのような理由を挙げるにせよ、彼の行動が明 白に同じと予言できる時には、彼は自分には統制できない力の手中に握られており、したがっ て自由でないと、われわれは考える。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.256-257,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




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