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2019年8月24日土曜日

27.選ばれた優れた人たちは、普通の人たちの判断や意志の単なる代理人であってはならない。なぜなら、真理は常識に反して見えることもあり、多くの研究と思索を経なければ、理解できないような真理もあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

選ばれた優れた人たちの判断

【選ばれた優れた人たちは、普通の人たちの判断や意志の単なる代理人であってはならない。なぜなら、真理は常識に反して見えることもあり、多くの研究と思索を経なければ、理解できないような真理もあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.1)追記。

(1)普通の人たち(人民、公衆)
 (1.1)特定の任務のための特別な教育を受けていない、圧倒的多数の普通の人たちである。
 (1.2)普通の人たちの判断は、きわめて不完全である。
 (1.3)普通の人たちは、問題それ自体を自ら判断するというよりも、彼らのために問題を解決すべき専門家の性格や才能に基づいて、判断してしまいがちである。
(2)選ばれた優れた人たち
 (2.1)特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちである。
(3)良い統治とは何か。
  良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)選ばれた優れた人たちによる判断
  (3.1.1)有閑階級の集団であっても、下層の人々の集団であっても、普通の人たちの判断や意志による統治は、良い統治とは言えない。
   (a)例として、普通の人たちが統治に干渉し、予め決められている自分たちの判断を、立法者たちに押しつけ、立法者を普通の人たちの単なる代理人にしてしまう。
  (3.1.2)選ばれた優れた人たちによる、普通の人たちの集団から独立して慎重に形成された判断が、政治的問題の解決のために、必要である。
   (a)政治学における真理のなかには、政治学の全体を一通り研究を終えなければ理解できないような命題も存在する。完全に理解するためには、多くの思索と、人間本性に関する経験を理解していることが必要である。
   (b)真理のなかには、見かけ上は常識に反しているように思われるものがあり、逆に一番もっともらしく見える見解が間違っているということも多い。
  (3.1.3)選ばれた優れた人たちに、普通の人たちに対する責任を負わせて、目的の公正さを最大限に保証できるような統治の仕組みを作ることが、政治学における重大な難問である。
 (3.2)普通の人たちの究極的な支配権
   選ばれた優れた人たちによる統治は、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の下でのみ、公正に機能し得る。なぜなら、いかなる人も、個人的または階級的な利益や感情、価値観の影響下にあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (3.2.1)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかなときは、彼らを解任する仕組が存在すること。
  (3.2.2)このような究極的な支配権を保持する以外の方法で、選ばれた優れた人たちを制御することはできない。この支配権を放棄したら、選ばれた優れた人たちによる専制を招くことになるだろう。
  (3.2.3)なぜなら、いかなる人も個人的な利益や好み、自分の属している階級の利益や好みを持っており、何が善いことなのか、何が正しいことなのか、何が優れたことなのかに関する考え方にも、偏りが存在するからである。
 (3.3)普通の人たちに求められること
  以上に記載した民主主義の考え方が理解され、その精神に従って仕組みが運用されるかどうかは、普通の人たちの見識と行動にかかっている。仕組そのものに保障があるわけではない。
  (3.3.1)自ら完全に賢明であることは不可能であるし、その必要もない。
  (3.3.2)優れた見識の価値を評価でき、優れた人を選ぶことができる。
   (a)普通の人たちが、科学の問題に関して、科学者が一致して持っている見解に信頼を寄せているように、政治や経済、道徳に関する問題に関しても、優れた見識の価値を評価し、優れた人を選ぶことができるようになるならば、真偽の判断をすることができるであろう。
  (3.3.3)選ばれた優れた人たちの行為を理解し、不明な場合には説明を求めるだけの見識を持つ。
  (3.3.4)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立する目的や意図に導かれているときは、彼らを解任する権限を行使できるだけの見識を持つ。


 「他のすべてのことにおけるのと同じように統治においても危険なのは、望むことを何であってもできるような人々が彼らの究極的利益のためになること以上のことをしたいと望むことがあるということである。人民にとって利益となるのは、見つけ出すことのできるうちでもっとも有識で有能な人を自分たちの支配者として選び、そうした後は、彼らが目的としているものが人民の善で《あって》何らかの私的な善でないかぎり、自由な議論とまったく制限のない批判による監視のもとで、人民の善のために彼らが知識と能力を行使するのを認めることである。このようにして運営される民主主義は、これまでのあらゆる統治制度がもっていた良い資質をすべて合わせもつことになるだろう。その目的が善いものであるだけでなく、その手段も時代の英知が認めるような善いものが選ばれるだろう。そして、多数者の全能は代理人を通じて、そして最終的に多数者に対して責任を負っている見識ある少数者の判断にしたがって行使されることになるだろう。
 しかし、民主主義がそれについての間違った考え方に従うのではなく、このような精神によって理解され運営されるための十分な保障を民主主義の仕組みそれ自体が与えるということはありえない。このことは人民自身の良識にかかっている。人民があることを理由として自分たちの支配者を解任することができるならば、別のことを理由としてもそうすることができる。それなしには人民が良い統治への保障をもちえないような究極的な支配権は、人民が望むならば、彼ら自身が統治に干渉し、立法者をあらかじめ決められている多数者の判断を執行する単なる代理人にするための手段とされてしまうかもしれない。人民がこのようなことをするとしたら、彼らは自分たちの利益について思い違いをしていることになる。そして、そのような統治はほとんどの貴族政治よりもよいものだろうが、賢明な人が望むような民主政治ではない。
 民主主義についての正しい理念をこのように歪曲することについて私たちのように深刻には考えない人々もおり、これは開明的な統治を望んでいることが疑いようのない人の中にもみられる。彼らが言うには、多数者がすべての政治的問題を自分たちの法廷に引き出し、自分たち自身の判断にしたがって決定を下すことがよいことであるのは、そうすることで哲学者たちは大衆を啓蒙し、大衆が自分たちのより深遠な見解を理解できるようにしなければならなくなるだろうからである。このようなことを実現することができると考えるかぎりにおいて、人民の統治のこのような帰結に対して私たち以上に重要な価値を認める人は他にいない。そして、人民を教育するために必要なのはそれを望むことだけだとしたら、また、政治的真理を発見することだけが学問や知恵を必要とし、その根拠が見出されたときには、共同体のすべての個人が受けることができ、受けるべきであるような教育を受けた常識をもっているすべての人がその根拠を理解できるとしたら、この議論は抵抗することのできないものになるだろう。しかし、現実はそうではない。政治学における真理の多くは(たとえば経済学におけるように)、複数の命題が結びついたことの結果であり、一通り研究を終えた人でなければその最初の段階でさえ認識することのできないようなものである。完全に理解するためには多くの思索と人間本性に関する経験が必要となるような命題が他にも存在している。哲学者たちはどのようにしてこれらの命題を大衆に納得させるのだろうか。彼らは、常識によって科学を判断させ、無経験によって経験を判断させることができるのだろうか。政治哲学の入り口をくぐったことがあるすべての人が知っているように、その問題の多くに関して、間違った見解が一番もっともらしくみえ、その真理の大部分は、それについて特別に研究した人以外のすべての人にとっては矛盾したものであり、地球が太陽の周りを廻っているという命題と同じように見かけは常識に反しているものであるし、つねにそうであり続けるに違いない。大衆は、自分たちが天文学の問題に関して天文学者が一致してもっている見解に対して無制限の信頼を寄せているが、それと同じような信頼を寄せているような権威者から示されないかぎり、これらの真理をけっして信じようとはしない。現時点で大衆がそのような信頼感を寄せていないということは、哲学者にとって不名誉なことではないし、そのような資格がある人がどこにいるだろうか。しかし、有識階級のなかで意見の全般的一致のようなものを生み出すくらいまで知識の進歩が十分になされればすぐに、そのような信頼は与えられるだろうと強く確信している。現在でさえ、有識階級のなかで意見が一致している論点については、教育のない人々は一般的に彼らの見解を受けいれている。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『論説論考集』,附論,集録本:『功利主義論集』,pp.366-368,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:選ばれた優れた人,人民,公衆,普通の人たち,代理人,真理,常識)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月23日金曜日

26.選ばれた優れた人たちによる統治は、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の下でのみ、公正に機能し得る。なぜなら、いかなる人も、個人的または階級的な利益や感情、価値観の影響下にあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

普通の人たちの究極的な支配権

【選ばれた優れた人たちによる統治は、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の下でのみ、公正に機能し得る。なぜなら、いかなる人も、個人的または階級的な利益や感情、価値観の影響下にあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.2)追記。

(1)普通の人たち(人民、公衆)
 (1.1)特定の任務のための特別な教育を受けていない、圧倒的多数の普通の人たちである。
 (1.2)普通の人たちの判断は、きわめて不完全である。
 (1.3)普通の人たちは、問題それ自体を自ら判断するというよりも、彼らのために問題を解決すべき専門家の性格や才能に基づいて、判断してしまいがちである。
(2)選ばれた優れた人たち
 (2.1)特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちである。
(3)良い統治とは何か。
  良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)選ばれた優れた人たちによる判断
  (3.1.1)有閑階級の集団であっても、下層の人々の集団であっても、普通の人たちの判断や意志による統治は、良い統治とは言えない。
  (3.1.2)選ばれた優れた人たちによる、普通の人たちの集団から独立して慎重に形成された判断が、政治的問題の解決のために、必要である。
  (3.1.3)選ばれた優れた人たちに、普通の人たちに対する責任を負わせて、目的の公正さを最大限に保証できるような統治の仕組みを作ることが、政治学における重大な難問である。
 (3.2)普通の人たちの究極的な支配権
  (3.2.1)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかなときは、彼らを解任する仕組が存在すること。
  (3.2.2)このような究極的な支配権を保持する以外の方法で、選ばれた優れた人たちを制御することはできない。この支配権を放棄したら、選ばれた優れた人たちによる専制を招くことになるだろう。
  (3.2.3)なぜなら、いかなる人も個人的な利益や好み、自分の属している階級の利益や好みを持っており、何が善いことなのか、何が正しいことなのか、何が優れたことなのかに関する考え方にも、偏りが存在するからである。
 (3.3)普通の人たちに求められること
  (3.3.1)自ら完全に賢明であることは不可能であるし、その必要もない。
  (3.3.2)優れた見識の価値を評価でき、優れた人を選ぶことができる。
  (3.3.3)選ばれた優れた人たちの行為を理解し、不明な場合には説明を求めるだけの見識を持つ。
  (3.3.4)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立する目的や意図に導かれているときは、彼らを解任する権限を行使できるだけの見識を持つ。

 「合理的な民主主義という考えは、人民自身が統治するということではなく、人民が優れた統治への保障をもっているということである。

彼ら自身の手中に究極的な支配権を保持する以外のどのような方法によってもこの保障をもつことはできない。

もし彼らがこれを放棄したら、自らの身を専制に委ねることになる。

一般的に、人民に対して責任を負うことのない統治階級は自分たちの個別の利益や好みを追求して人民を犠牲にするに違いない。

道徳感情でさえ、そして卓越性についての考えでさえ、人民の善にではなく、彼ら自身の善に関係している。彼らの言う徳とは階級的な徳にほかならないし、彼らの愛国心や自己献身からの気高い行為は、自分の属している階級の利益のために自分の私的利益を犠牲にすることにすぎない。

レオニダスが示したような英雄的な公徳は奴隷の存在と完全に両立するものであった。

人民の利益に対する支配者の献身について人民が疑問を抱くようになったらすぐに人民が支配者を解任することができるような場合を別にすれば、いかなる政府においても人民の利益が目的とされることはないだろう。

しかし、人民の権力が適切に行使されるのはこれだけである。よい意図が保証されうるならば、最良の統治は(言うまでもないかもしれないが)もっとも賢明な人々による統治に違いなく、そのような人はつねに少数であるに違いない。

人民は主人でなければならないが、彼らは自分自身よりも熟練した召使を雇わなければならない主人であり、それは軍司令官を使っている時の大臣や、軍医を使っている時の軍司令官と同じである。

大臣は軍司令官を信任しなくなったら彼を解任して別の人を任命するが、いつどこで戦闘をおこなうかについて指示することはない。大臣は司令官に意図と結果に対してだけ責任を負わせている。人民も同じようにしなければならない。

このことによって人民による統制が無価値になるわけではない。政府による軍司令官に対する統制は無価値なものではない。

ある人による医者に対する統制は、その人が医者に対してどの薬を投与するのかを指示しないからといって、無価値なものではない。彼は医者の処方に従うか、不満があるならば、別の医者にかかるのである。彼の安全はこのことにかかっている。人民の安全もこのことにかかっており、彼らの分別はこれで満足するべきである。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『論説論考集』,附論,集録本:『功利主義論集』,pp.364-366,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))

(索引:選ばれた優れた人,人民,公衆,普通の人たち,究極的な支配権,階級利益)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
ジョン・スチュアート・ミルの関連書籍(amazon)
検索(ジョン・スチュアート・ミル)
近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年8月22日木曜日

良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの権限の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

良い統治のための必要条件

【良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの権限の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)普通の人たち(人民、公衆)
 (a)特定の任務のための特別な教育を受けていない、圧倒的多数の普通の人たちである。
 (b)普通の人たちの判断は、きわめて不完全である。
 (c)普通の人たちは、問題それ自体を自ら判断するというよりも、彼らのために問題を解決すべき専門家の性格や才能に基づいて、判断してしまいがちである。
(2)選ばれた優れた人たち
 (a)特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちである。
(3)良い統治とは何か。
 (3.1)選ばれた優れた人たちによる判断
  (a)有閑階級の集団であっても、下層の人々の集団であっても、普通の人たちの判断や意志による統治は、良い統治とは言えない。
  (b)選ばれた優れた人たちによる、普通の人たちの集団から独立して、慎重に形成された判断が、政治的問題の解決のために、必要である。
  (c)選ばれた優れた人たちに、普通の人たちに対する責任を負わせて、目的の公正さを最大限に保証できるような統治の仕組みを作ることが、政治学における重大な難問である。
 (3.2)普通の人たちの権限
  選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかなときは、彼らを解任する仕組が、普通の人たちにあること。
 (3.3)普通の人たちに求められること
  (a)自ら完全に賢明であることは不可能であるし、その必要もない。
  (b)優れた見識の価値を評価でき、優れた人を選ぶことができる。
  (c)選ばれた優れた人たちの行為を理解し、不明な場合には説明を求めるだけの見識を持つ。
  (d)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立する目的や意図に導かれているときは、彼らを解任する権限を行使できるだけの見識を持つ。

 「私たちが主張してきたことと時には矛盾しがちであっても重要性の点ではとにかくそれに匹敵するような唯一の目的――良い統治にとって不可欠な唯一の他の条件――は次のようなものである。

すなわち、集団としての公衆によってではなく、選ばれた人々によって統治されるということ、政治的問題が、直接的であっても間接的であっても、無知な集団――それが有閑階級の集団であっても下層の人々の集団であっても――の判断や意志へ訴えることによってではなく、少数者、とりわけこのような任務のために特別な教育をうけた少数者の慎重に形成された見解によって解決されるということである。

これが、不運なことに私たちのものにおいてではなかったが、多かれ少なかれいくつかの貴族政治においてこれまで存在してきた良い統治の一要素であり、それらの統治が分別あり熟練している政権というあらゆる評価を享受してきた理由となっているような要素である。

明確にそうなっていない貴族政治においてはこれはほとんど見出されない。(イングランドやフランスのような)貴族制を装った君主制はほとんどつねに怠け者による貴族政であったのに対して、(ローマやヴェネツィアやオランダのような)別の貴族制は熟達し勤勉な人々による貴族制としてある程度はみなされうるだろう。

しかし、すべての現代の政府のなかでもっとも顕著にこの卓越性を有していたのはプロイセンの政府――王国のなかでもっとも高度な教育を受けた人々によるきわめて力強くしっかりと組織された貴族政――である。インドにおけるイギリスの統治は(大幅に修正された形で)同じような性質を帯びていた。

 この原理がその他の幸運な状況と結びつけられたときには、そして、とりわけ(プロイセンにおけるように)政府に対する人民の支持をその安定のためのほとんど必要条件とするような状況と結びつけられたときには、人民に対する明確な説明責任が課されていないときでさえも、きわめて優れた統治がなされたことがあった。

しかしながら、そのような幸運な状況はめったに期待することはできない。

しかし、そのために特別に育成されてきた人々による統治という原則は良い統治を生み出すのに十分なものではないだろうけれども、良い統治はそれなしにはありえない。

今後長い間にわたって政治学における重大な難問は、良い統治を左右する二つの重要な要素をどのようにしてもっともよく調停するかということであり、また、特別に教育を受けた少数者による独立した判断から得られる利点を、多数者に対する責任をその少数者に負わせることによって目的の公正さを最大限に保証することとどのようにしてもっともよく結びつけるかということになるだろう。

 しかしながら、二つの目的を完全に調停可能なものとするために必要なのは、最初に想定されたかもしれないものよりも些細なことである。

多数者自らが完全に賢明である必要はなく、優れた見識の価値を認めるのに足る分別があれば十分である。

政治的問題の大部分は、多数者およびその目的のために訓練されていないあらゆる人々が必然的にきわめて不完全な判定者であるような考慮に左右されるものであるということや、概して彼らの判断が、問題それ自体というよりも、彼らのために問題を解決するべく任命した人の性格や才能に基づいてなされてしまいがちであるということを認識していれば十分である。

そうすれば、彼らは知識人たちが全般的に《もっとも》教育あると考えているような人を自分たちの代表者として選びだすことになるだろうし、彼らの行為に公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかにならないかぎり、彼らを選び続けることになるだろう。

このことは、人民が十分に判断できるのはどのようなものであり、できないものはどのようなものであるかを知っているという、誰でももっているような分別さえもっていればよいということを含意している。

国民の大半がこの分別をかなりの程度共有しているとしたら、そのような人民に関するかぎり、普通選挙賛成論は反対しがたいものであろう。

というのは、年月を重ねた経験、とりわけあらゆる重大な国家的非常時における経験は、大衆は優れた知性をもった人が必要なことに本当に気づいているときにはいつでも、優れた知性をもった人を見分けそこなうことはほとんどないということを示しているからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『論説論考集』,附論,集録本:『功利主義論集』,pp.362-364,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:良い統治のための必要条件,選ばれた優れた人,人民,公衆,普通の人たち)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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