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2020年5月9日土曜日

メタ倫理学は,特定の道徳的立場には拠らず,道徳的判断における真偽値の存在を疑い,あるいは真偽値の意味,道徳的表現の規則,機能を解明しようとする。これは,個別具体的な道徳的判断のための第一歩に過ぎない。(アンゼルム・W・ミュラー(1942-))

メタ倫理学と倫理学

【メタ倫理学は,特定の道徳的立場には拠らず,道徳的判断における真偽値の存在を疑い,あるいは真偽値の意味,道徳的表現の規則,機能を解明しようとする。これは,個別具体的な道徳的判断のための第一歩に過ぎない。(アンゼルム・W・ミュラー(1942-))】

(1)メタ倫理学的な問い、道徳的に中立な道徳哲学
 人はいかに生きるべきかをどのように反省し、それを言葉にしているのか
 (a)道徳的判断における真偽値の存在
  そもそも道徳的発言について、正しいとか誤っていると語ることはできるのか。
 (b)道徳的判断における真偽値の意味
  どのような意味でなら、道徳的発言について正しいとか誤っていると語ることができるのか。
 (c)道徳的表現の規則、機能
  概念分析の目的は、道徳的表現が用いられる際の規則と機能、およびそれらが言語的および非-言語的文脈で担っている役割を明らかにすることによって、そうした表現を理解するための手助けとすることにある。 (d)特定の道徳的立場は前提にしない
  特定の道徳的な立場をとることを避け、中立的な距離を保ちつつ判断する。
(2)倫理的判断、道徳的判断
 人はいかに生きるべきか。それぞれのケースでどの判断が正しくどの判断が誤っているのか、それゆえどの振舞いはよくてどの振舞いは悪いのかという問いに答えること。

「メタ倫理学者は、人はいかに生きるべきかについて考察し、それについて言明する代わりに、人はいかに生きるべきかをどのように反省し、それを言葉にしているのかについて考察する。メタ倫理学者たちの言明は、人間の振舞いについての倫理〔学〕的判断、つまり道徳的判断とは別のレベルにある。彼らは、《これらの判断》についてだけ、しかも特定の道徳的な立場をとることを避け、中立的な距離を保ちつつ判断する。彼らによれば、概念分析の目的は、道徳的表現が用いられる際の規則と機能およびそれらが言語的および非-言語的文脈で担っている役割を明らかにすることによって、そうした表現を理解するための手助けとすることにある。また、メタ倫理学者は、どのような意味でなら道徳的発言について正しいとか誤っていると語ることが《できる》のか、いや、そもそも道徳的発言について正しいとか誤っていると語ることは《できる》のかについて研究する。これに対して、それぞれのケースでどの判断が正しくどの判断が誤っているのか、それゆえどの振舞いはよくてどの振舞いは悪いのかという問いは、この倫理学観に従う限り、哲学の主題ではないことになる。
 たしかに、メタ倫理学者が考えているような道徳的に中立な哲学は可能かもしれない。道徳的な考えに関する概念分析と人間学的な理解が哲学にとって重要な課題であることは、いずれにせよまちがってはいない。にもかかわらず、この課題に《とどまりつづけようとする》道徳哲学には何かが欠けているように思われる。つまり、道徳的に中立な道徳哲学は、道徳が掲げる要求、すなわち自分が下した道徳的判断の真理性、自分とは異なる道徳的考え方の締め出し、これと真剣に取りくんでいないように思われるのである。もし道徳哲学が、哲学としてこれらの要求と真剣に取りくもうとするなら、これらの要求は受け入れられないとして拒否するか、さもなくば、少なくとも原則としては、どうしたら道徳的問いにおける真・偽を決定することができるかという問題を解明するかのどちらかを選ばなければならないだろう。」 (アンゼルム・W・ミュラー(1942-)『徳は何の役に立つのか?』第1章 徳倫理学への道、p.23、晃洋書房(2017)、越智貢(監修)・後藤弘志(編訳)・上野哲(訳))
(索引:メタ倫理学,倫理学,道徳哲学,倫理的判断,道徳的判断)

徳は何の役に立つのか?


(出典:philosophy.uchicago.edu
アンゼルム・W・ミュラー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「私たちが彼に期待しているのは、むしろ、「幸福は価値あるもののすべてではない」という回答である。この言葉には《不合理なもの》は何もない。私たちが幸福を理性的な努力における比類のない究極の理由として《定義づけ》ようとするのなら別だが、それにもかかわらず、この回答ではまだ答えきれていない問題がもう一つある。
 有罪の判決を下された者の多くは、自らの手紙の中で揺れる気持ちを表現している。一方で彼らは、自分の家族や友人たちとそのまま生き続けたかったに違いない。他方で、彼らは、国家の不正に抵抗すれば死刑判決は免れないという《変更不可能な条件の下で》、つかみ損ねた自らの幸福よりも実際に自らが歩んだ道を、後になってさえ選ぶのである。その際、彼らは、自らが歩んだ道の方が、(上の第2の論点の意味で)《一層深い》幸福を自らに与える見込みがあったのだ、などと自分に言い聞かせることはでき《ない》。
 徳の「独自のダイナミズム」が、仲間のために身を捧げるという振舞いに、道徳的に中立な動機や観点よりも優位を与えることは間違いない。その限りでは、《有罪判決を下されたレジスタンスの闘志たちは》、自らが取った道を(たとえ後になってからでも)肯定《する以外はできなかった》のである。ただし、彼らだけでなく私たち自身も、徳が彼らの「ためになった」のであり、彼らに不利益をもたらしたわけではないことを《確信》していない場合には、この主張はシニカルな印象を与える。しかしながら、本章の考察も、そうした確信のための足場を提供できたわけではない。ひっとしたら、よい人間が手にしている信念には、いまだ神秘のベールに包まれた部分が残されており、哲学はそれをただ尊重し得るだけなのかもしれない。
(アンゼルム・W・ミュラー(1942-)『徳は何の役に立つのか?』第8章 理由がなくともよくあるべき理由、pp.236-237、晃洋書房(2017)、越智貢(監修)・後藤弘志(編訳)・衛藤吉則(訳))
(索引:)

アンゼルム・W・ミュラー(1942-)
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2018年7月19日木曜日

7.仮に、物理的な状況や、苦痛や憤慨などの情動、心理的な状況の詳細を記述し尽くしたとしても、「いかなる倫理的意味においても善または悪ではない」。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

倫理学と心理的なもの

【仮に、物理的な状況や、苦痛や憤慨などの情動、心理的な状況の詳細を記述し尽くしたとしても、「いかなる倫理的意味においても善または悪ではない」。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
 (3.5.1)仮に、物理的な状況や、苦痛や憤慨などの情動、心理的な状況の詳細を記述し尽くしたとしても、「いかなる倫理的意味においても善または悪ではない」。

(再掲)
(1)事実の表明としての世界の中には、「価値」は存在しない。
 (1.1)世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。
 (1.2)全ての生起は偶然的であり、世界の中には「価値」は存在しない。
 (1.3)従って、命題が事実だけを表明し得るのだとすれば、命題はより高貴なものを表現し得ず、全ての命題は等価値である。
(2)「価値」は、世界の外に存在する。倫理学は超越的である。
 (2.1)故に、倫理学が事実の命題として表明され得ないことは、明らかである。すなわち、「倫理学は超越的である」。また、「倫理学と美学とは一つである」。
 (2.2)価値のある価値が存在するならば、それは偶然的な生成の世界の外に存在するに違いない。偶然的でないものは、世界の中にあることはできない。価値は、世界の外になければならない。
(3)では、倫理的なものとは何か。
 (3.1)倫理的なものは、「汝……なすべし」という形式の倫理法則によって、価値づけられるのではない。
 (3.2)また、行為の帰結による通常の意味の賞罰によって、価値づけられるのではない。
 (3.3)また、行為の帰結として出来事によって、価値づけられるのではない。
 (3.4)確かに、倫理的な賞罰が存在し、賞が好ましく、罰が好ましくないものに相違ないことも明らかであるが、賞罰は行為そのものの中になければならないのである。
 (3.5)「倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」

 「さて、おそらく皆様の中である方々は以上の点に同意され、そして「何ものも善または悪ではない。思考のみがそれを善または悪となす」というハムレットの言葉を想い起こされるかも知れません。

しかし、これもまた誤解を生む恐れがあります。ハムレットの言葉は、善悪はわれわれの外にある世界の性質ではないとしても、われわれの精神状態の属性である、という含みをもっていると思われます。

しかし、私の言おうとすることは、ある精神状態とは、それがわれわれに記述できるある事実であるということを意味している限りでは、いかなる倫理的意味においても善または悪ではない、ということであります。

たとえば、さきの世界のことを書いた本の中に殺人の記述があり、物理的・心理的にその詳細を描き尽しているのをわれわれが読んでも、これらの事実の単なる記述には《倫理的》命題と呼び得るものは何も含まれていないでしょう。

殺人は何か他の出来事、たとえば落石とまったく同じ次元にあることになりましょう。

たしかに、この記述を読めば、われわれには苦痛とか憤慨とかあるいは何かその他の情動がひき起こされるかも知れず、あるいはまた、他人がこの殺人のことを聞けば、それによって彼らのうちにひき起こされる苦痛や憤慨のことを読んで知ることはできるでしょうが、存在するのはただ事実、事実、事実だけであり、倫理学ではないでしょう。

そして、かりに倫理学というような科学が存在するとしたら、それは本当はどのようなものでなければならないであろうかと熟慮してみれば、以上の帰結は私にはきわめて自明と思われるのです

―――今や私はこう言わざるを得ません。およそわれわれが考えあるいは語り得ると思われるものはいずれも《ほかならぬこの》ものではない、ということ、その主題が本質的に崇高であり、他のあらゆる主題を超えることができると思われるような科学の本をわれわれは書くことができない、ということ―――これは私には自明と思われます。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『倫理学講話』、全集5、pp.386-387、杖下隆英)
(索引:価値,倫理学,事実,心理学)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
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2018年7月16日月曜日

6.事実の叙述は、絶対的価値の判断ではあり得ない。しばしば価値表明は、特定の目的が暗黙で前提されており、その目的(価値)に対する手段としての相対的価値の判断である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

絶対的価値と相対的価値

【事実の叙述は、絶対的価値の判断ではあり得ない。しばしば価値表明は、特定の目的が暗黙で前提されており、その目的(価値)に対する手段としての相対的価値の判断である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
下記(1.3)の補足説明である。
 (1.3.1)『「これがグランチェスターにゆく正しい道だ」と言う代わりに、私には「もし最短時間でグランチェスターに着きたいなら、これが君の行かなければならない正しい道だ」と言うこともできたでしょうし、それでも十分に同じことであります』。
 (1.3.1.1)目的(最短時間で着きたい)を与えて、その手段を展開することは、事実の表明である。
 (1.3.1.2)ある手段(この道が正しい)は、特定の目的を前提した限りで、他の手段と比較して「正しい」のであり、「相対的価値の判断」である。すなわち、「事実の叙述はいずれも絶対的価値の判断ではあり得ない」。
 (1.3.1.3)目的自体は、事実の世界の外から与えられている。

(再掲)
(1)事実の表明としての世界の中には、「価値」は存在しない。
 (1.1)世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。
 (1.2)全ての生起は偶然的であり、世界の中には「価値」は存在しない。
 (1.3)従って、命題が事実だけを表明し得るのだとすれば、命題はより高貴なものを表現し得ず、全ての命題は等価値である。
(2)「価値」は、世界の外に存在する。倫理学は超越的である。
 (2.1)故に、倫理学が事実の命題として表明され得ないことは、明らかである。すなわち、「倫理学は超越的である」。また、「倫理学と美学とは一つである」。
 (2.2)価値のある価値が存在するならば、それは偶然的な生成の世界の外に存在するに違いない。偶然的でないものは、世界の中にあることはできない。価値は、世界の外になければならない。
(3)では、倫理的なものとは何か。
 (3.1)倫理的なものは、「汝……なすべし」という形式の倫理法則によって、価値づけられるのではない。
 (3.2)また、行為の帰結による通常の意味の賞罰によって、価値づけられるのではない。
 (3.3)また、行為の帰結として出来事によって、価値づけられるのではない。
 (3.4)確かに、倫理的な賞罰が存在し、賞が好ましく、罰が好ましくないものに相違ないことも明らかであるが、賞罰は行為そのものの中になければならないのである。
 (3.5)「倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」

 「この相違の本質は明らかにつぎの点にあると思われます―――すなわち、相対的価値の判断はいずれも単なる事実の叙述に過ぎず、したがって、価値判断としての外見を完全になくしてしまうような形にすることができる、という点であります。

「これがグランチェスターにゆく正しい道だ」と言う代わりに、私には「もし最短時間でグランチェスターに着きたいなら、これが君の行かなければならない正しい道だ」と言うこともできたでしょうし、それでも十分に同じことであります

―――「この男はよい走者だ」は、彼は何マイルかを何分間で走る、ということをいっているに過ぎず、他の場合も同様であります。

さて、私が強く主張したいのは、相対的価値の判断はすべて単なる事実の叙述に過ぎない、ということを示すことができるとしても、事実の叙述はいずれも絶対的価値の判断ではあり得ないか、あるいはそれを含むことはできない、ということであります。

この点を説明しましょう―――皆様方のどなたかが全知の人間であり、したがって、この世界の全生物または無生物のあらゆる動きを御存知であり、また、およそこの世にある全人間のあらゆる精神状態を御存知である、と仮定し、また、この人が自分の知っていることのすべてを大きな一冊の本に書いたと仮定すると、この本は世界の完全な記述を含むことになるでしょう

―――そして、私が言いたいのは、この書はわれわれが《倫理的》判断と呼ぶと思われるもの、あるいは何かこのような判断を論理的に含むと思われるものは一切含まないであろう、ということであります。

それはむろん、すべての相対的価値判断とすべての科学的に真である命題と、そして事実、主張し得る真なる命題のすべてを含んでおりましょう。

しかし、記述された事実はすべて、いわば同じ次元にあることになりましょうし、また同様にして、全命題も同次元上にあるわけであります。なんらかの絶対的な意味で、崇高な、あるいは重要な、あるいは瑣末な命題は一切存在しません。」

(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『倫理学講話』、全集5、pp.385-386、杖下隆英)
(索引:価値,倫理学,事実,絶対的価値,相対的価値)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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2018年7月15日日曜日

5.価値は、事実としての世界の中では表明し得ない。倫理的なものは、倫理法則や賞罰、行為の帰結とは関係がないが、好ましいものとして、または好ましくないものとして、行為そのものの中に存在する。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

価値、倫理的なもの

【価値は、事実としての世界の中では表明し得ない。倫理的なものは、倫理法則や賞罰、行為の帰結とは関係がないが、好ましいものとして、または好ましくないものとして、行為そのものの中に存在する。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

(1)事実の表明としての世界の中には、「価値」は存在しない。
 (1.1)世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。
 (1.2)全ての生起は偶然的であり、世界の中には「価値」は存在しない。
 (1.3)従って、命題が事実だけを表明し得るのだとすれば、命題はより高貴なものを表現し得ず、全ての命題は等価値である。
(2)「価値」は、世界の外に存在する。倫理学は超越的である。
 (2.1)故に、倫理学が事実の命題として表明され得ないことは、明らかである。すなわち、「倫理学は超越的である」。また、「倫理学と美学とは一つである」。
 (2.2)価値のある価値が存在するならば、それは偶然的な生成の世界の外に存在するに違いない。偶然的でないものは、世界の中にあることはできない。価値は、世界の外になければならない。
(3)では、倫理的なものとは何か。
 (3.1)倫理的なものは、「汝……なすべし」という形式の倫理法則によって、価値づけられるのではない。
 (3.2)また、行為の帰結による通常の意味の賞罰によって、価値づけられるのではない。
 (3.3)また、行為の帰結として出来事によって、価値づけられるのではない。
 (3.4)確かに、倫理的な賞罰が存在し、賞が好ましく、罰が好ましくないものに相違ないことも明らかであるが、賞罰は行為そのものの中になければならないのである。
 (3.5)「倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」

 「六・四 全ての命題は等価値である。
 六・四一 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。世界《の中に》は価値は存在しない。そして仮に存在するとしても、それは価値を持たないであろう。

 価値のある価値が存在するならば、
それは全ての生起や、かくあり(So-Sein)の外になければならない。何故なら全ての生起やかくありは、偶然的だからである。

 それらを偶然でなくするものは、世界《の中に》あることはできない。世界の中にあるとすれば、これも又偶然的であろうからである。

 それは世界の外になければならない。

 六・四二 それ故倫理学の命題も存在しえない。

 命題はより高貴なものを表現しえない。

 六・四二一 倫理学が表明されえないことは明らかである。
 倫理学は超越的である。
 (倫理学と美学とは一つである。)

 六・四二二 「汝……なすべし」という形式の倫理法則が提起される時に、先ず念頭に浮ぶ考えは、「そして私がそうしなければどうなるのか」ということである。

しかし倫理学が通常の意味での賞罰と関係ないことは明らかである。従って行為の《帰結》に関するこの問は些細なものでなければならない。少なくともこの帰結が出来事であってはならない。

というのもこの問題提起にはやはり正しいところがあるはずだからである。たしかにある種の倫理的な賞罰が存在するに相違ない。しかし賞罰は行為そのものの中になければならないのである。

 (そして賞が好ましいもの、罰が好ましくないものに相違ないことも、又明らかである。)

 六・四二三 倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。
 そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『論理哲学論考』六・四~六・四二三、全集1、pp.116-117、奥雅博)
(索引:価値,倫理学,事実,倫理法則,賞罰)

ウィトゲンシュタイン全集 1 論理哲学論考


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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2018年5月8日火曜日

8.推論式による通常の論理学がすべての学問に適用できるように、帰納法も、自然哲学だけでなく、残りの諸学、論理学・倫理学・政治学についても、適用される。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

帰納法の適用範囲

【推論式による通常の論理学がすべての学問に適用できるように、帰納法も、自然哲学だけでなく、残りの諸学、論理学・倫理学・政治学についても、適用される。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】

 「また人は次のように反対する、というよりむしろ疑いもするであろ、果して我々は自然哲学だけについて言うのか、それとも残りの諸学、論理学・倫理学・政治学についても、我々の方法で行なわるべきだと語っているのかと。

ところでたしかに我々は、言われたことはすべてについてであると解しており、そして事物を推論式で支配する通常の論理学が、単に自然的のみならずすべての学に及ぶごとく、「帰納法」によって進行する我々の論理学も、一切を包括するわけである。

というのは我々は怒り・恐れ・恥じらいその他同様のものについて、また政治的事例についても、〔自然〕誌および発見表を作り上げるし、また、寒熱や光や植物の生育等について劣らず、記憶・合成および分割・判断その他の精神的働きについても同様である。

とは言え我々のいう「解明」の仕方は、誌が用意され整序された後には、(通常の論理学のように)単に精神の働きおよび運びを見るだけではなく、事物の本性をも考察するのであるから、我々は精神をばあらゆる点で適切な仕方で、事物の本性に適用されるように指導する。」

(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、一二七、p.191、[桂寿一・1978])
(索引:論理学、倫理学、政治学、帰納法)

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)



(出典:wikipedia
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


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