2018年10月28日日曜日

原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

原理の存在を擁護する諸慣行

【原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(1)法準則と先例
 (1.1)法準則は、権限を有する特定の機関が制定したことにより妥当性を有する。
 (1.2)裁判官は、特定の事案を裁定すべくこれらを定式化し、将来の事案に対する先例として確立する。
(2)諸原理
 (2.1)これに対して諸原理は、ハートが言うように「提示されたあるルールが有する特徴で、それが真の法準則であることを確定的かつ肯定的に示すと考えられる一定の特徴ないし諸特徴」を明示できるような、承認のルールを持っているわけではない。また、重要性の等級づけについても、単純な定式化が存在するわけではない。
 (2.2)諸原理は、相互に支えあって連結しており、これら諸原理の内在的意味により、当該原理を擁護しなければならない。
 (2.2.1)原理の制度的な支え
  (a)当該原理を具体的に表現していると思われる制定法
  (b)当該原理が援用されたり論証中に登場しているような過去の事案
  (c)当該原理を引用している制定法の序文
  (d)当該原理を引用している委員会報告、その他の立法関係書類など
 (2.2.2)推移し、発展し、相互に作用しある様々な規準の総体
  (a)制度的責任
  (b)法令解釈の一定の技術
  (c)各種判例の特定の理論と、その説得力
  (d)これらの慣行を支えている、何らかの一般的諸原理
  (e)これらすべての問題と、現在の道徳的慣行との関連性
 (2.2.3)一般市民が適正と感じ、公正と思うような、何らかの役割を演じている道徳的慣行

 「ハートによれば、多くの法準則は権限を有する特定の機関が制定したことにより妥当性を有する。ある法準則は立法府により制定法のかたちで創出され、他の法準則は特定の事案を裁定すべくこれらを定式化し将来の事案に対する先例として確立する裁判官により創出される。しかし、法準則のこのような系譜テストはリッグス事件やヘニングセン事件にみられる原理にはあてはまらない。これらの原理が法的原理とされるのは、立法府や裁判官の特定の決定に由来するからではなく、ほんとうは一般市民がこれらの原理を長い期間のうちに適正なものと感ずるようになったからである。適正さの感覚が維持されるかぎり法的原理は依然として効力をもち続ける。不法による利益取得を許可することがもはや不公正と思われず、また危険をはらむ器械を独占的に製造する少数会社に特別の負担を課することが公正と思われなくなれば、これらの原理はたとえ破棄ないし撤廃されなくとも、その後新たな事例でそれなりの役割を演ずることはもはやないであろう。(事実、この種の原理について「破棄される」とか「撤廃される」とか語るのは無意味である。原理が沈没するのは、いわば腐蝕したからであり魚雷攻撃をうけたからではない。)確かに、ある原理が法的原理であることを我々が主張し、この主張を正当化するよう要求された場合、我々は当の原理が援用されたり論証中に登場しているような過去の事案を引き合いに出すであろうし、また、この原理を具体的に表現していると思われる制定法を指摘するであろう(この場合、当の原理が制定法の序文や、制定法に伴う委員会報告その他の立法関係書類で引用されていれば、なお都合がよい)。我々がこのような制度的支えを見出せなければ、我々の主張の立証は失敗するだろうし、逆に多くの支えを見出すことができれば、それだけ原理の重要性を強く主張できるのである。
 しかしそれにもかかわらず、原理が法的原理となるためにいかなる制度的支えがどの程度必要かを明示したり、ましてや原理の重要性に一定の等級づけを与えるためにどの程度の制度的支えが必要かを明示するような定式を考え出すことは不可能である。我々が特定の原理を支持する論証を行うとき、これは推移し、発展し、相互に作用しある様々な規準(この規準自体も法準則ではなく、むしろ原理と考えられる)の総体と取り組みつつなされるのであり、これらの規準には、制度的責任、法令解釈、各種判例の説得力、及びこれらすべての問題と現在の道徳的慣行との関連性などに関する諸規準、その他この種の多くの規準が含まれている。どれほど複雑なものであれ単一の「ルール」にこれらすべての規準を詰め込むことはできないし、仮にこれが可能としても、結果として生ずるルールはハートの承認のルールとは似ても似つかぬものになるだろう。ハートの描く承認のルールは、「提示されたあるルールが有する特徴で、それが真の法準則であることを確定的かつ肯定的に示すと考えられる一定の特徴ないし諸特徴」を明示する、きわめて確固とした主導ルールだからである。
 更に、ある別の原理を擁護する際に我々が援用する論証手段は(ハートの承認のルールがそう考えられているのとは異なり)、これらの諸手段により支持される諸原理と全く異なる次元に属しているわけではない。ハートが主張するような受容と妥当性の厳格な区別はここではあてはまらない。たとえば、いかなる者も自ら犯した不法により利益を得てはならない、という原理を擁護する場合、我々はこの原理を具体的に表明している裁判所や立法府の行為を援用するが、この場合原理は受容されているとも言えるし、また妥当性を有するとも言える(妥当性を有するという言い方を原理について用いることは、いかにも奇妙と思われる。これはおそらく妥当性が黒か白かの概念であり法準則には十分あてはまるが、原理のもつ重みの次元とは相容れない概念だからであろう)。我々はこの原理を擁護する議論において、判例に関する特定の理論や法令解釈の一定の技術を援用するが、これらを更に擁護するよう要求された場合(この要求は至極当然のことであるが)、我々はあきらかに当の理論や解釈技術を使用している他の人々の慣行を援用するであろう。しかし我々はこれ以外に、この慣行が依拠すると思われる他の一般的諸原理をも援用するはずであり、このことにより受容という和音に妥当性という旋律が導入されるのである。たとえば我々は次のように主張するだろう。つまり過去の事案や法令の使用は立法活動や判例理論の趣旨を一定の仕方で分析したり、民主制理論の諸原則を提示したり、更に中央政府と地方自治体との間で制度上の権威を一定の立場から適正に分配すること、その他これに類したことにより支持される、と。またこのような支持の過程は、受容のみに基礎をおいた何らかの窮極的原理へと至る一方通行的な過程ではない。我々が提出する立法、判例、民主制、連邦主義などに関する諸原理が更に挑戦を受けることもありうるだろう。もしそうなれば、我々はこれらを単に慣行のみにより擁護するだけでなく、これら諸原理の内在的意味などにより擁護しなければならない。もっとも、この最後の手段のために我々は様々な解釈理論を援用するが、これら解釈理論が、今まさにここで我々が擁護しようとする諸原理によって既に正当化された理論であるようなことも已むをえないのである。換言すれば、このような抽象的な次元では、諸原理は相互に連結するというよりは互いに支えあっていると言うべきだろう。
 それ故、諸原理が法制度の公的慣行から支えを得るとしても、原理はこれらの慣行と単純なかたちで直接的に結合しているわけではなく、したがって承認のルールといった特定の窮極的な主導ルールにより明示された規準によってこの結合を定式化することはできない。それでは、原理がこのようなルールのもとに包摂され得る何か別の方法があるだろうか。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.39-41,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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9.半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)にもかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

半影的問題における合理的決定

【半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)にもかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、下記のことが、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)「在るべきもの」の観点が含まれる。「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
 (1.2)批判の基準は、道徳的なものとは限らない。
 (1.3)在るものと、さまざまな観点からの在るべきものとの間に、区別がなければならない。
 (1.4)目標、社会的な政策や目的が含まれるかもしれない。
(2)しかし、在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
 参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
 参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
(3)ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。
(4)(1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の2つのことが重要だと思われる。
 (4.1)法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。

 「明らかに、もし形式主義の誤りを指摘することによって功利主義者の区別が誤りであると示そうとするならば、論旨を徹底的に言い直さなければならない。

司法的決定が合理的であるためには在るべきものの観点から決定が下されなければならないだけではなく、目標、すなわち、決定が合理的なものになるために裁判官が訴えかけるべき社会的な政策や目的は、それ自体、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられ、こういう法の観念は功利主義者の使う観念よりも有益なものである、ということが論旨となるはずである。

このように論旨を言いかえると次のような主張に行きつく。すなわち、半影の問題が繰り返し現れるところで法的ルールが本質的に不完全なものであることがわかるというのではなく、

また、裁判官は、判断できないときには、立法をおこない、したがって、選択肢の中から創造的な選択をするというのではなく、  

裁判官の選択の指針となる社会政策が、ある意味で、見付けられるべくそこに存在しており、裁判官は、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」にすぎない、というのである。

これを司法的立法と呼ぶと、ルールの適用のはっきりしているケースと半影的決定との間にある本質的連続性が曖昧になってしまう。

このように論旨を語ることが有益であるか否かについては後で検討しようと考えるが、ここでは、言うまでもないことではあるが、もし指摘しておかなければ問題をもつれさせると危惧されるので、次のことを指摘しておきたい。

形式主義的、文言解釈主義的な方法で盲目的になされる決定の対極にあるのは在るべきものの観念を考慮して知性的になされる決定であるということから、法と道徳の接合する点が存在することになる、ということにはならない。

「べき」という言葉についてあまりに素朴に考えないように注意しなければならない。

在る法と在るべき法との間に区別がないからではない。その逆である。在るものと、さまざまな観点からの在るべきものとの間に、区別がなければならないからである。

「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映しているにすぎない。

これらの基準の一つは道徳的な基準であるが、しかし、すべての基準が道徳的であるわけではない。

隣人に向かって「嘘をつくべきではない」と言うときには、それはたしかに道徳的判断であろうが、しかし、毒を盛るのに失敗した者が「もう一服盛っておくべきだった」と言うこともある。

つまり、言いたいことは、機械的、形式的決定に対置される知性的決定は、必ずしも道徳的理由から擁護される決定と同一ではないということである。

「そうだ、それは正しい。それが在るべき姿だ」という表明が、ある承認された目的や政策がそれによって推進されたことだけを意味し、その政策や決定の道徳的性格の是認を意味しない場合も多く存在する。

したがって、機械的な決定と知性的な決定との対照は、最も有害な目的の追求に向けられた体系の中でも起こりうる。

この対照は、私たちの法的体系にみられるように、正義の原則と個人の道徳的要求とを広く受け入れている法的体系の中でのみ見られるものではない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.76-78,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:)

 「半影の問題について知性的な決定とは、機械的になされるのではなく、道徳的原則と呼ばれるものに限られず、目標、目的、政策を考慮してなされるものである、ということがもし正しいとするならば、この重要な事実を表現するのに、在る法と在るべき法との功利主義的な区別を止めるべきだと主張するのは賢明なことであろうか。

おそらく、それが賢明だという主張を理論的に反駁することはできない。というのは、それは、結果的に、法的ルールについての私たちの観念を見直す《切っ掛け》だからである。

それによって私たちは「ルール」の中にさまざまの目標や政策を含めるように誘われる。

これらの目標や政策は、その重要性からして、法的ルールの意味が確定している中核部分と同様に法と呼ばれてしかるべきであり、これらの目標や政策を考慮してルールの半影的なケースには決定が下されるべきではないか。

この誘いを論駁することはできないが、しかし、断ることはできよう。 

この誘いを断る理由として私は二つの理由をあげたい。第一に、司法過程について学んだことはすべては、より神秘的でない他の形で表現できる。

法はどうしようもなく不完全であるから、半影的ケースについては社会的目標を考慮して合理的に決定しなければならない、ということができる。

ホームズなら、「一般的命題は具体的ケースを決定しない」という事実を鮮明に察知していたのであるから、このような形で表現するだろうと私は考える。

第二に、功利主義的な区別を主張することは、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分は法であること、そして、曖昧であるにしても、まず線がなければならないことを強調するものである。

もしそうでなければ、裁判所の判決を制御しているルールという観念は、「リアリスト」の幾人かが――その最も極端な風潮の中で、私が思うに、不適切な根拠に基づいて――主張したように、無意味なものになってしまうだろう。

 逆に、この区別を緩めようとすること、すなわち、在る法と在るべき法との間に両者が融合して一体となった部分があるという不可解な主張をすることは、すべての法的問題は基本的に半影の問題のようなものであると示唆するものである。

ルールの持つ中心的意味の中には法の中心的要素は発見できない、また、社会政策の観点から問題《すべて》を再検討することと法的ルールの本質との間には矛盾するところはない、と主張するものである。

もちろん、半影に注目することは結構なことである。半影の問題はロー・スクールにおいてはまさに日々の糧である。しかし、半影に注目することとそれに夢中になることとは違う。

半影に夢中になるのは、言ってみれば、アメリカの法的伝統における混乱の温床であり、それはイギリスの法的伝統における形式主義に対応する。

もちろん、ルールは権威を持つという考え方を放棄することもできる。

この事件はルールそして先例の範囲に明らかに包摂されるものだという議論を支持するのをやめたり、また、それに意味すら認めないこともできる。そのような推論をすべて「自動的」「機械的」と呼ぶこともできる。これは裁判所批判の常套手段である。

しかし、これが私たちの望むものに《他ならない》と確信するまでは、功利主義的な区別を抹消することによってこれを助長するべきではない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.79-80,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:半影的問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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