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2022年2月2日水曜日

無限の彼方にある目標は、目標ではないのです。目標はもっと近いものでなければなりません、少なくとも労働者の労働の報酬とか、なされた仕事の中の喜びであるべきです。それぞれの時代、それぞれの世代、それ ぞれの生活がそれ自身の充足を持っていたのだし、現に持っているのです。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

現実の真の目標

無限の彼方にある目標は、目標ではないのです。目標はもっと近いものでなければなりません、少なくとも労働者の労働の報酬とか、なされた仕事の中の喜びであるべきです。それぞれの時代、それぞれの世代、それ ぞれの生活がそれ自身の充足を持っていたのだし、現に持っているのです。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))















「さらに、「進歩」を語ったり、現在を未来への犠牲にしたり、遠い未来の子孫たちが幸福 であり得るために今日の人々を苦しめる用意をしている人々がいる。そして、彼らは野蛮な犯 罪や人間の堕落をそれがある保障された未来の幸福に向けての不可避的方途であるからといっ て許している。反動的ヘーゲル派や革命的共産主義者たち、純理的功利主義者たちと教皇至上 主義の熱狂的信者たち、および高貴だが遠い将来の目的の名において嫌悪すべき方法を正当化 するすべての人々のまさに等しくわかちもつこのような態度をゲルツェンはもっとも激しく軽 蔑し、嘲笑した。彼は一八四八年のうちくだかれた幻想への挽歌として書いた彼の政治的信条 告白(profession de foi)――『向こう岸から』の最も多くのページをこの問題 に捧げている。  『もし進歩がその目標ならば、われわれは一体誰のために働いているのでしょうか? 勤勉 な労働者たちが近づいてきた時に、彼らに褒美を与えるかわりにあとずさりして、「われら死 せんとする者君に礼す(morituri te salutant)」と叫びながら疲れ果てて死ぬ 運命にある群衆への慰めとして、お前たちの死んだあとの地上はすべてが素晴らしくなるのだ と嘲笑的に答えることしかせぬこのモロク神は、いったい誰なのでしょうか? はたしてあな たは現在生きている人びとに、いつかその上で他人が踊りを踊る床を支えている女神像柱とい う悲しい役割......あるいは膝まで泥につかりながら、「未来の進歩」というあわれな言葉をその 旗に書いた《はしけ》を曳く不幸な船漕ぎ奴隷たちの悲しい役割を与えることを、ほんとうに 望んでいるのでしょうか? ......無限の彼方にある目標は、目標ではないのです、単なる......まや かしにすぎません。目標はもっと近いものでなければなりません――少なくとも労働者の労働の 報酬とか、なされた仕事の中の喜びであるべきです。それぞれの時代、それぞれの世代、それ ぞれの生活がそれ自身の充足を持っていたのだし、現に持っているのです。そして、その途中 で新しい要求や、新しい経験や、新しい方法が発達するのです。......  それぞれの世代の目的は、それ自身です。自然は決してある世代をある未来の目標を達成す るための手段として作るのでもなければ、未来について配慮しているわけでもありませ ん。』」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ゲルツェンとバクーニン』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.220-222,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),今井義夫 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)





社会の真の現実の構成分子である個人は、真の利益の代わりに、すべ てが想像上の利益や空想によって、何か一般概念、ある種の集合名詞、ある種の旗印によって犠牲とされてきた。すべては狂った知性の 結果である。歴史、進歩、国民の安全、社会的平等、社会、国民、人間性など。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

狂った知性による想像上の利益

社会の真の現実の構成分子である個人は、真の利益の代わりに、すべ てが想像上の利益や空想によって、何か一般概念、ある種の集合名詞、ある種の旗印によって犠牲とされてきた。すべては狂った知性の 結果である。歴史、進歩、国民の安全、社会的平等、社会、国民、人間性など。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))















「これらの公式は、狂信的な空論家たちの手中にあっては恐るべき武器になってゆくのであ る。彼らはなにか絶対的な理想のために、もし必要ならば狂暴な生体解剖も辞せずにこれらの 公式を人間に押しつけようとしている。その絶対的理想の証明は批判もなされず、また批判も できない――形而上的で、宗教的で、美学的で、いずれにせよ現実の人間の現実的な必要に無関 係なある種の世界観に依拠している。その世界観の名において、革命的指導者たちは良心に苦 痛を感ぜずに人を殺し、拷問する。なぜなら、彼らはこの絶対的理想が、またはこの絶対的理 想のみが、社会的、政治的、個人的なあらゆる病の解決をもたらすか、またはもたらすに違い ないと考えていたからである。そして、ゲルツェンはこのテーゼを、大衆は才人を嫌い、すべ ての人間が彼らと同じように考えることを望み、また、思想や行動の独立にひどく懐疑的であ ると指摘して、トックヴィルやその他の民主主義の批判者たちによってわれわれが知っている 線にそって批判を発展させている。  『社会、国民、人間性、思想への個人の従属は、人身供養の継続です。......無実の者を有罪者 の代わりにはりつけ刑にすることです。......社会の真の現実の構成分子である個人は、常になに か一般概念、ある種の集合名詞、ある種の旗印、その他の犠牲とされてきました。何の目的で の......犠牲なのか、決して問われることはなかったのです。』  これらの抽象語――歴史、進歩、国民の安全、社会的平等――は注目に値する。なぜならそれら はすべて無実の人々が仮借なく犠牲に供されてきた非情な祭壇だからである。ゲルツェンはそ れらを順次検討する。  もし、歴史がゆるぎない方向性と合理的構造とひとつの目的(多分、有益な目的)を持って いるならば、われわれはそれらに合わせるか、あるいは逆らって滅びなければならない。しか し、この合理的目的とは何か。ゲルツェンはそれを認識できない。彼は歴史のなかに意味を見 ず、ただ「代々の慢性的狂気の」物語を見るだけである。  『事例を引用することは必要ないように思われます。数百万の例があるからです。あなたの お好きな歴史書をひもといてみなさい。すると驚くべきことには......真の利益の代わりに、すべ てが想像上の利益や空想によって占められています。血が流されたり、人々がひどい苦難を負 わされた理由を見つめなさい。何が称賛され、何が罰せられるかを見つめなさい。そうすれば あなたは、最初は悲しく見え、思い直せば慰めに充ちている真理――すべてこれは狂った知性の 結果であるという確信をもつでしょう。古代世界を見る時、あなたはいたるところで、現代に おけるのとほとんど同じように狂気がくりひろげられているのを見出すでしょう。』」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ゲルツェンとバクーニン』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.216-217,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),今井義夫 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




自然は計画に従わない。また、個人あるいは社会の問題を解決できる公式もない。一般的な解決は解決ではない。普遍的な目標は決して真の目標ではない。特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対的な価値であり、一般的な目標のための抑圧は誤りである。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

一般的、普遍的なものは現実ではない

自然は計画に従わない。また、個人あるいは社会の問題を解決できる公式もない。一般的な解決は解決ではない。普遍的な目標は決して真の目標ではない。特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対的な価値であり、一般的な目標のための抑圧は誤りである。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

















(a)自然は計画に従わない。
 自然は計画に従わない。原則として個人あるいは社会の問題を解決できる鍵はひとつもないし、公式もない。
(b)一般的な解決は解決ではない。
 単純化や一般化は経験の代用品ではない。
(c)普遍的な目標は決して真の目標ではない。
 すべての時代がそれ自身の性格と自己の課題をもってい る。
(d) 絶対的価値としての個人の自由
 特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対的な価値である。自由な行為のための最小限度の余地をもつことは、すべての人々にとっての道徳的必要であり、それらは永遠の救済とか歴史とか人間性とか進歩とか、ましてや、国家とか 教会とかプロレタリアートなどといった抽象語もしくは一般的な原理の名において抑圧されるべきでない。


「この偉大な専制的ヴィジョン――時代の知的栄光――はドイツの形而上学的天才によって顕さ れ、礼賛され、無数の比喩や言葉のあやで美化され、フランス、イタリア、ロシアの深遠で、 もっとも尊敬された思想家たちによって喝采された。しかし、ゲルツェンはこれに対して激し く反逆した。彼はその基本的諸理念を拒否し、その結論を否定した。その理由は、それが彼に とって(彼の友人のベリンスキーにとってもそうであったように)道徳的に我慢ならないとい うだけでなく、それが知的な見かけだおしであり、審美的にけばけばしく、また自然をドイツ の俗物たちや学者ぶる連中の貧弱きわまりない空想の拘束用上着に無理におしこむ試みと思わ れたからであった。「フランスおよびイタリアからの手紙」『向こう岸から』「古い同志への 手紙」のなかで、ミシュレ、W・リントン、マッツィーニへの公開書簡のなかで、もちろん 『過去と思索』を通じて、彼は彼自身の倫理的および哲学的信念を宣伝した。それらのなかで もっとも重要なことは次のことである。自然は計画に従わない。原則として個人あるいは社会 の問題を解決できる鍵はひとつもないし、公式もない。一般的な解決は解決ではない。普遍的 な目標は決して真の目標ではない。すべての時代がそれ自身の性格と自己の課題をもってい る。単純化や一般化は経験の代用品ではない。特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対 的な価値である。自由な行為のための最小限度の余地をもつことはすべての人々にとっての道 徳的必要であり、それらは永遠の救済とか歴史とか人間性とか進歩とか、ましてや、国家とか 教会とかプロレタリアートなどといった抽象語もしくは一般的な原理の名において抑圧される べきでない。現代あるいは他のあらゆる時代において偉大な思想家たちによってかくも自由に 言いふらされたこれらの偉大な名目は、憎むべき残酷さや専制主義の諸行為を正当化するため にもち出されたものであり人間の感情や良心の声を窒息させるようにもくろまれた魔術的なき まり文句なのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ゲルツェンとバクーニン』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.211-212,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),今井義夫 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




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