2021年12月7日火曜日

人間の人格は永遠の価値を持ち、目的そのものである(個人主義)。この思想は、平等主義以上に、人道主義信条の擁護の砦であった。正義とは個人に関わるあるもの(アリストテレス)、個人は常に目的であって単なる手段ではない(カント)、汝の隣人を愛せ(聖書)、部族をではない。(カール・ポパー(1902-1994))

個人主義

人間の人格は永遠の価値を持ち、目的そのものである(個人主義)。この思想は、平等主義以上に、人道主義信条の擁護の砦であった。正義とは個人に関わるあるもの(アリストテレス)、個人は常に目的であって単なる手段ではない(カント)、汝の隣人を愛せ(聖書)、部族をではない。(カール・ポパー(1902-1994))




「ところで、プラトンやたいていのプラトン主義者にとって、利他的個人主義(例えばディ ケンズの場合のような)というものは存在しえないということは興味深い。プラトンによれ ば、集団主義に代わる唯一の選択肢は利己主義である。彼は端的にすべての利他主義を集団主 義と、すべての個人主義を利己主義と同一視するのである。これは用語法の、単なる言葉の問 題ではない。というのはプラトンは四つの可能性ではなく、たった二つの可能性しか認めない からである。このことが倫理問題の考察において、今日に至るまでも重大な混乱を生み出して きたのである。  プラトンは個人主義と利己主義を同一視することによって、集団主義擁護と個人主義攻撃の ための強力な武器を手にすることになる。集団主義を弁護する際には、彼は自分本位を排する というわれわれの人道主義的感情に訴えることができ、攻撃の際にはすべての個人主義者を自 分本位で自分以外の何ものに対しても貢献できない人というレッテルを貼り付けることができ る。この攻撃は、プラトンの狙いではわれわれの意味での個人主義、すなわち個人が権利をも つという考え方に向けられたものであるけれども、もちろん、利己主義という全く別の標的に 到達するにすぎない。しかしこの違いはプラトンやたいていのプラトン主義者によっていつも 無視されている。  プラトンはなぜ個人主義者を攻撃しようとしたのか。私は彼がこの主張に彼の銃の照準を合 わせたとき、自分のやっていることを極めてよく知っていたものと思う。というのも個人主義は、おそらくは平等主義以上に、新しい人道主義信条の擁護のとりでであったからである。実 際個人の解放は、部族制の崩壊と民主制の興隆をもたらしてきた偉大な精神的革命であった。 プラトンの社会学的直感の鋭さは、敵に出会うところではどこでも、きまって敵をはっきりと 見分けた腕前に示されている。  個人主義は正義についての古い直感的観念の一部であった。正義とはプラトンが考えるよう な国家の健康と調和といったものではなく、個人を扱う際のある種のやり方だということをア リストテレスが強調し、「正義とは個人に関わるあるものである」と言ったことが思い出され よう。この個人主義的要素はペリクレスの世代の人々によって強調されていた。ペリクレス自 身が、法律は「私的な争いにおいてはすべての人に同様に」等しい扱いを保証しなければなら ないことを明らかにしたが、彼は更に先へ進んだのである。「われわれは隣人が自分自身の道 を進むことを選ぼうとする場合にとやかく言うべきだとは思わない」と彼は言った(これを、 国家は人々を「自由にし、各人がそれぞれの道をゆく......」ために作るのではないというプラト ンの評言と比較せよ)。ペリクレスはこの個人主義が利他主義と結びつけられなければならな いことを主張し、「われわれは傷ついた者を保護しなければならないことを忘れないように...... 教えられた」と言う。そして彼の演説は、「幸福な多才と自立に向かって」成長する若いアテ ネ人の記述において頂点に達する。  この個人主義は、利他主義と結合された形で、われわれの西洋文明の土台となった。それは キリスト教の中心教義であり(聖書は「汝の隣人を愛せ」と言うのであって、「汝の部族を愛 せ」と言うのではない)、またわれわれの文明の中から生まれたわれわれの文明を刺激してき たあらゆる倫理説の中核である。それはまた、例えばカントの中心的な実践的教説である (「個人を常に目的として認め、汝の目的のための単なる手段として扱うな」)。人類の道徳 的発展においてこれほど強力であった思想は他にない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第6章 全 体主義での正義,第5節,pp.110-111,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)









規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。我々の倫理的決定の責任は全く我々にあり、神や自然や社会や歴史等に転嫁することはできない。それにもかかわらず、一元論へ向う一般的傾向と責任への恐れから、我々は権威を求めるが、その権威を受け入れるか否かは、我々の選択なのである。(カール・ポパー(1902-1994))

倫理的決定

規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。我々の倫理的決定の責任は全く我々にあり、神や自然や社会や歴史等に転嫁することはできない。それにもかかわらず、一元論へ向う一般的傾向と責任への恐れから、我々は権威を求めるが、その権威を受け入れるか否かは、我々の選択なのである。(カール・ポパー(1902-1994))



「(3)心理学的ないし精神的自然主義はある意味で前の二つの見解の結合であり、これらの 見解の一面性に対する反論の形で説明するのが最も適当である。倫理的実定主義者がすべての 規範は規約的であること、すなわち人間と人間社会の所産であることを強調する限り正しい、 とこの議論は始まる。だが彼は、規範がそれゆえに人間の心理学的ないし精神的本性の表現で あるという事実、人間社会の本性の表現であるという事実を見過ごしている。生物学的自然主 義者は一定の自然の目標ないし目的があって、そこから自然規範を導き出すことができると仮 定する点において正しい。だが彼は、われわれの自然の目標が必ずしも健康、快楽、食物、保 護や繁殖のようなものとは限らないという事実を見過ごしている。人間、少なくともある人々 はパンのみにて生きることを欲せず、より高次の目標、精神的な目標を求める、というのが人 間本性である。こうしてわれわれは人間の真の自然目標を、精神的で社会的である人間の真の 本性から導き出せるのである。更にまた、われわれは生活の自然な規範を人間の自然な目的か ら導き出すことができるのである。」(中略)「精神的自然主義がどんな「実定的な」すなわ ち現存の規範を擁護するためにも利用できるということは明らかである。というのは、これら の規範が人間本性の何らかの特性を表現するのでないならばそれらは実施されることはないで あろうというふうに、常に論じることができるからである。このようにして精神的自然主義 は、実践的諸問題においては、伝統的な対立があるにもかかわらず実定主義と合一することが できるのである。実際にこの形態の自然主義は非常に包括的でかつ漠然としているので、どん なものを擁護するためにも利用できるほどである。およそ人間の心に浮んだことのある事柄で 「自然的」であると主張できないようなものは存在しない。というのはもしそれが本性の中に あるのでないとすれば、いかにしてそれが人間の心に浮びえたであろうか。  以上の簡単な調査を振り返って、われわれはおそらく、批判的二元論を採用する過程に立ち ふさがる二つの主要な傾向を識別できよう。第一のものは一元論へ向う一般的傾向、すなわち 規範を事実に還元しようとする傾向である。第二のものはより根が深く、おそらくは第一のものの背景をなすものであろう。それはわれわれの倫理的決定の責任は全くわれわれにあり、誰 か他のもの、神や自然や社会や歴史等に転嫁することはできないということを自ら確認するこ とへの恐れに基づくのである。以上の倫理理論はすべて、われわれから重荷を取り去ってくれ る誰かある人、あるいは何らかの論拠を発見しようとしているのである。しかしわれわれはこ の責任を回避することはできない。われわれがどのような権威を受け入れようと、それを受け 入れるのはわれわれなのである。われわれがこの単純な論点を悟らないならば、われわれは幻 想を抱いているにすぎないのである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第5章 自 然と規約,第5節,pp.84-85,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)








規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。これに対する反論として、規範が人間の心理学的、精神的本性、人間社会の本性から導出できると主張する心理学的ないし精神的自然主義がある。しかし、およそ人間の心に浮んだ事柄で "自然的"でないものなどあるだろうか。(カール・ポパー(1902-1994))

心理学的ないし精神的自然主義への批判

規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。これに対する反論として、規範が人間の心理学的、精神的本性、人間社会の本性から導出できると主張する心理学的ないし精神的自然主義がある。しかし、およそ人間の心に浮んだ事柄で "自然的"でないものなどあるだろうか。(カール・ポパー(1902-1994))


「(3)心理学的ないし精神的自然主義はある意味で前の二つの見解の結合であり、これらの 見解の一面性に対する反論の形で説明するのが最も適当である。倫理的実定主義者がすべての 規範は規約的であること、すなわち人間と人間社会の所産であることを強調する限り正しい、 とこの議論は始まる。だが彼は、規範がそれゆえに人間の心理学的ないし精神的本性の表現で あるという事実、人間社会の本性の表現であるという事実を見過ごしている。生物学的自然主 義者は一定の自然の目標ないし目的があって、そこから自然規範を導き出すことができると仮 定する点において正しい。だが彼は、われわれの自然の目標が必ずしも健康、快楽、食物、保 護や繁殖のようなものとは限らないという事実を見過ごしている。人間、少なくともある人々 はパンのみにて生きることを欲せず、より高次の目標、精神的な目標を求める、というのが人 間本性である。こうしてわれわれは人間の真の自然目標を、精神的で社会的である人間の真の 本性から導き出せるのである。更にまた、われわれは生活の自然な規範を人間の自然な目的か ら導き出すことができるのである。」(中略)「精神的自然主義がどんな「実定的な」すなわ ち現存の規範を擁護するためにも利用できるということは明らかである。というのは、これら の規範が人間本性の何らかの特性を表現するのでないならばそれらは実施されることはないで あろうというふうに、常に論じることができるからである。このようにして精神的自然主義 は、実践的諸問題においては、伝統的な対立があるにもかかわらず実定主義と合一することが できるのである。実際にこの形態の自然主義は非常に包括的でかつ漠然としているので、どん なものを擁護するためにも利用できるほどである。およそ人間の心に浮んだことのある事柄で 「自然的」であると主張できないようなものは存在しない。というのはもしそれが本性の中に あるのでないとすれば、いかにしてそれが人間の心に浮びえたであろうか。」 
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第5章 自 然と規約,第5節,pp.84-85,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)









規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。これに対する反論として、倫理的、道徳的ないし法的な規範が現存するかどうかは社会学的な事実問題であると主張する倫理的実定主義がある。しかし、事実として存在しても、それをもって基礎づけられたと言えるだろうか。(カール・ポパー(1902-1994))

倫理的実定主義への批判

規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。これに対する反論として、倫理的、道徳的ないし法的な規範が現存するかどうかは社会学的な事実問題であると主張する倫理的実定主義がある。しかし、事実として存在しても、それをもって基礎づけられたと言えるだろうか。(カール・ポパー(1902-1994))




「(2)倫理的実定主義は、われわれは規範を事実に還元するように試みなければならないと いう信念を倫理的自然主義の生物学的形態のものと共有している。だが今度は、事実とは社会 学的事実すなわち現存する規範のことである。実定主義 positivism は現実に設定されてき た(あるいは「置かれた posited」)、それゆえ確実な positive 存在をもっている法律 以外の規範は存在しないと主張する。現存する法律は 善の唯一可能な基準である。すなわち存在するものが善である(力は正義である)。この理論 のある形態のものによれば、個人が社会の規範を判定できると信じることは途方もない誤解で あり、むしろ個人が判定されねばならない掟を与えるのが社会なのである。  歴史的事実としては、倫理的(ないし道徳的ないし法的)実定主義は通常保守的であり、権 威主義的でさえあった。またしばしば神の権威を持ち出しもした。その論拠はいわゆる規範の 恣意性に依存するものと私は信じる。それが主張するのは、われわれが自ら発見できるような より良い規範など存在しないのだから、現存する規範を信じなければならないということであ る。」

 

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第5章 自 然と規約,第5節,p.83,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))

カール・ポパー
(1902-1994)










規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。しかし、規範の恣意性に対する反論として、それらの規範を導出できる自然法則があるのではないかと主張する生物学的自然主義がある。確かに"自然な"行為はあるかもしれない。では、我々の文明や文化は自然なのか不自然なのか。(カール・ポパー(1902-1994))

生物学的自然主義への批判

規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。しかし、規範の恣意性に対する反論として、それらの規範を導出できる自然法則があるのではないかと主張する生物学的自然主義がある。確かに"自然な"行為はあるかもしれない。では、我々の文明や文化は自然なのか不自然なのか。(カール・ポパー(1902-1994))


「以前に指摘したように、素朴ないし呪術的一元論から規範と自然法則の間の区別を明確に 自覚する批判的二元論に至るまでの発展には、多くの中間段階がある。これらの中間的な立場 は大抵、もし規範が規約的ないし人工的であるならば、それは全く恣意的でなければならない という考え違いから生じる。それらの要素をすべて結合しているプラトンの立場を理解するた めには、これらの中間的な立場の中で最も重要な三つの立場を調査することが必要である。そ れは(1)生物学的自然主義、(2)倫理的ないし法的実定主義、(3)心理学的ないし精神的自然主 義である。これらの立場のどれもが互いに根本的に対立する倫理的見解を擁護するために用い られてきたこと、より詳しく言えば、力の礼讃のためにも弱者の権利の擁護のためにも用いら れてきたということは興味深い。  (1)生物学的自然主義、あるいはもっと精密に言えば倫理的自然主義の生物学的形態とは、 道徳法則や国家の法律が恣意的であるという事実にもかかわらず、それらの規範を導き出すこ とのできるある種の永遠不変の自然法則が存在するという理論である。食習慣、すなわち食事 の回数や摂取する食物の種類などは規約の恣意性の一例であるが、この分野には疑いもなく一 定の自然法則が存在する、と生物学的自然主義者は論じるであろう。例えば、人間は食物を不 十分に摂取したり過剰に摂取したりすれば死ぬであろう。こうして現象の背後に実在があるの と同様に、われわれの恣意的規約の背後には何らかの不変の自然法則、とりわけ生物学上の法 則があるように思われる。」(中略)「私はこれらの教説を後にもっと詳しく論じよう。現在 のところは生物学的自然主義がいかにして最も離れた倫理的諸教説を支持するために用いられ うるかを示すのに役立つであろう。規範を事実の上に基礎づけることは不可能だというわれわ れの以前の分析に照らしてみれば、この結果は予期されないことではない。  しかしながらこのような考察は、生物学的自然主義ほどに人気のある理論を打ち負かすには おそらく十分ではないであろう。そこで私は二つの一層直接的な批判を提案する。第一に、あ る種の行動形態が他のものより「自然だ」として記述できることは認めなければならない。例 えば裸で歩くことや生の食物のみを食べることがそうであり、ある人々はこのこと自体がこれ らの形態を選択することを正当化するものと考える。だがこの意味では、芸術や科学や、あるいは自然主義的支持の議論に興味をもつことさえも、確かに自然ではないことになる。至高の 基準として「自然」との一致を選ぶことは、究極的にはほとんどの人が直視する覚悟をもたな いような結果へ通じる。これはより自然な形態の文明へと導くのではなく獣性へと導くのであ る。第二の批判はより重要である。生物学的自然主義者は、もし素朴にもわれわれはいかなる 規範をも採用する必要などなく単純に「自然の法則」に従って生きればよいのだと信じている のでないとすれば、自分の規範を健康の条件等を決定する自然法則から導き出せると仮定して いるのである。彼は自分が一つの選択、決定をしているのだという事実、また他のある人々 (例えば医学研究のために意識的に自分の生命の危険を冒した多くの人々)は自分の健康以上 にあるものを大事にするということがありうるという事実を見過ごしているのである。それゆ え彼が、自分は何ら決定を下してはいないとか、自分の規範を生物学的法則から導き出したの だとか信じるならば、彼は誤っているのである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第5章 自 然と規約,第5節,pp.80-83,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)










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