2022年1月2日日曜日

内在的な法則に従って純粋化、深化していくかのように思われる法のモデルとして、完全なる法のモデルを提案する。それは、実定法に最良の正当化を与えるような、政治的倫理に関する一群の諸原理の体系である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

完全なる法

内在的な法則に従って純粋化、深化していくかのように思われる法のモデルとして、完全なる法のモデルを提案する。それは、実定法に最良の正当化を与えるような、政治的倫理に関する一群の諸原理の体系である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)完全なる法
 このモデルは、実定法と「完全なる法(full law)」とを区別する。「完全なる法」とは政治的倫理に関する一群の諸原理を意味し、これらの諸原理は全体として実定法の最良の解釈を提供する。

(b)実定法の最良の解釈を与える諸原理
 一群の原理は、実定法に示されている政治的決定に対しなされうる 正当化のうち最良の正当化をそれが提供するときに、当の実定法の最良の解釈を提供している ことになる。換言すれば、これらの原理は、可能なかぎり最良の光のもとで実定法を示すとき に、最良の解釈を提供するのである。  

完全なる法 → 解釈
(諸原理の体系)     ↓
実定法 → 実定法の最良の正当化


(c)解釈は解釈対象に適合していること
 解釈は、解釈対象に適合 したものでなければならない。それ故、実定法の如何なる解釈も、過去において現実に下され た判決を総体として正当化しうるものでないかぎり、正しい解釈とは言えない。
(d)最良の解釈であること
 競合する解釈のうち、より勝れた正当化を提 供する解釈であること。実定法を最良の光のもとに 示すことは、当の実定法を国家統治のための最良の方法として示すことを意味する。



「私の意図は、これから述べるような一般的性格をもつ裁判モデルの表現として上記の神秘 を把握すれば、神秘はそれほど神秘ではなくなり、リアリストの嘲笑的な攻撃にも耐えられる ものとなることを立証する点にある。このモデルは、実定法と「完全なる法(full law)」とを区別する。実定法とは書物に書 かれた法、すなわち制定法や過去の裁判所の判決において明確な形で宣言された法であるのに 対し、「完全なる法」とは政治的倫理に関する一群の諸原理を意味し、これらの諸原理は全体 として実定法の最良の解釈を提供する。またこのモデルは「解釈」という観念に関して特定の 理解を要求する。すなわち一群の原理は、実定法に示されている政治的決定に対しなされうる 正当化のうち最良の正当化をそれが提供するときに、当の実定法の最良の解釈を提供している ことになる。換言すれば、これらの原理は、可能なかぎり最良の光のもとで実定法を示すとき に、最良の解釈を提供するのである。  読者のうちのある人々は、解釈についてのこのような説明を奇妙なものと思うかもしれな い。というのもある人々によれば、解釈というものはその性質上、解釈されるテクストの歴史 上の著者が抱いていた「意図」を発見する過程と考えられるからである。それ故実定法とは、 様々な意図や目的により動かされた様々な時代の多くの公務担当者の残した産物であり、した がって、しばしば衝突しあうこれらの意図や目的を追体験することは、私がすぐ前に述べたよ うな企てとは全く異なるものである。しかし、解釈はまさにその性格上意図を再発見する過程 であるという想定は、解釈というものの性格が考察されうる異なる二つのレヴェルを混同して いる。」(中略)  「もし我々が解釈に関するこのようなより抽象的な説明を念頭に置き、解釈とは解釈対象か らその最良のものを引き出す試みであると考えるのであれば、その対象が何であれ、解釈は二 つの次元でテストされるべきことを我々は認めねばならない。第一に、解釈は解釈対象に適合 したものでなければならない。それ故、実定法の如何なる解釈も、過去において現実に下され た判決を総体として正当化しうるものでないかぎり、正しい解釈とは言えない。さもなければ その解釈は、《これらの》判決をその最良の光のもとで示していると主張することはできな い。」(中略)  「第二の要請は正当化の次元に属する。実定法の解釈は、それが当該の法の正当化を提供し ないかぎり適切な解釈とは言えない。そしてしばしば起こるように、二つの競合する解釈のい ずれもが適合性の第一の要請を十分に充足している場合、第二の要請はより勝れた正当化を提 供する解釈を優先させるが故に、二つの解釈の間に差別を設けることになる。もちろん法に関 して言えば、問題となる正当化は政治的倫理による正当化である。実定法を最良の光のもとに 示すことは、当の実定法を国家統治のための最良の方法として示すことを意味する。」

 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,日本語版へのエピローグ,2,木鐸社 (2003),pp.329-330,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

解釈は本質的に、ある目的の報告である。解釈というものは、解釈の対象を眺める一 つの方法を提供することであるが、この場合、当の解釈の対象はある一組のテーマやヴィジョ ンや目的を追求しようとする決断の産物である かのように眺められているのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

目的と解釈

解釈は本質的に、ある目的の報告である。解釈というものは、解釈の対象を眺める一 つの方法を提供することであるが、この場合、当の解釈の対象はある一組のテーマやヴィジョ ンや目的を追求しようとする決断の産物である かのように眺められているのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



「今や我々は、もっと重要な問題点に到達したのである。意図という観念の中には、芸術の 解釈と社会的実践の解釈を必然的に統合することになるような何ものかが存在するということ である。なぜならば、たとえ我々が創造的解釈とは歴史上現実に存在した何らかの意図を発見 しようと試みることであるというテーゼを拒絶したとしても、意図という概念があらゆる解釈 上の主張に当てはまる《形式的な》構造を提示していることに変わりはないからである。私が 言っているのは、解釈は本質的にある目的の報告である、ということである。すなわち、解釈 というものは解釈の対象――これが社会的実践や伝統であれ、文献とか絵画であれ――を眺める一 つの方法を提供することであるが、この場合、当の解釈の対象はある一組のテーマやヴィジョ ンや目的を――他ならぬある特定の「意味」や「趣旨」を――追求しようとする決断の産物である かのように眺められているのである。どのような解釈であろうと、このような構造をもつ必要 がある。解釈される対象が社会的実践である場合や、歴史上の作者が存在せず作者の歴史上の 精神を理解することがそもそも問題にならないような場合であっても、解釈にはこの形式が必 要なのである。我々の想像上の物語における礼儀の解釈は、たとえ意図が特定の人間に属する ことがありえず、人々一般にさえ属することがありえなくても、意図の理解という形式的な体 裁をとることになるだろう。このような構造上の要請は――これは、解釈というものを特定の作 者の意図と結びつける何らかの更なる要請とは別個の独立した要請と考えられる――、興味をそ そる一つの挑戦を我々につきつけることになるが、後で我々は主に第6章でこの問題と取り組 むつもりである。我々が文献や法制度を説明する方法に関して前記のような目的の形式的構造 を主張することには、ある歴史上の現実的な意図を回復するという目標とは別にどのような意味 があるのだろうか。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第2章 解釈的諸概念,芸術と意図の性 格,未来社(1995),pp.98-99,小林公(訳))



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


社会的慣行が、ある慣習的ルールを正当化するために援用されるだけでなく、ルールと共に別の行動様式を解釈するために用いられるとき、規範的ルールが存在している。やがて、何らかの利益や目的、原理によって行動様式が解釈されるようになると、制度に意味が付与され、これによって制度は理解され、拡張、修正、あるいは限定され、再構成されるようになる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

社会的慣行からルールによる解釈、原理による解釈へ

社会的慣行が、ある慣習的ルールを正当化するために援用されるだけでなく、ルールと共に別の行動様式を解釈するために用いられるとき、規範的ルールが存在している。やがて、何らかの利益や目的、原理によって行動様式が解釈されるようになると、制度に意味が付与され、これによって制度は理解され、拡張、修正、あるいは限定され、再構成されるようになる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


()社会的慣行からルールへの発展
 (1)社会的慣行
  農民は貴族に向かって帽子をとっている。
 (2)慣習的ルール
  農民は貴族に向かって帽子をとること。

慣習的ルール
 ↑ 正当化するために援用
社会的慣行
 皆んなが守っているからルールだ。

規範的ルール →解釈
         ↓
社会的慣行  →ルール通り
別の行動様式a→ルール違反
別の行動様式b→ルール通り

 (3)解釈的態度
  農民が貴族に向かって帽子をとることは、礼儀作法にかなっている。
  (a)利益、目的、原理 (意図)
   社会的慣行は、何らかの利益や目的に仕え、あるいは 何らかの原理に実効性を与えるものである。
  (b)原理による社会的慣行の解釈
   原理が要求する行動やそれが正当化する判断は、当初の社会的慣行に限定されない。行動や判断は、原理によって付与された意味によって理解され、適用され、拡張、修正、あるいは限定され、限界づけられる。

原理(意図):礼儀作法 →解釈
農民が貴族に向かっ   ↓
て帽子をとること →礼儀正しい
帽子をとらない  →礼儀知らず
その他の行為a  →礼儀正しい
その他の行為b  →礼儀知らず



 (4)原理(意図、最善の光)によって制度に意味を付与し再構成を試みる
 ひとたびこの解釈的な態度が人々の間で一般化すると、礼 儀の制度は機械的であることを停止する。最早それは古来より伝えられてきた秩序に対する無 反省的な盲従ではなくなる。今や人々は、この制度に意味(meaning)を付与しようと、すなわち 制度をその最善の光のもとで捉えようと試み、このような意味の光のもとで当の制度を再構 成しようと試みるようになるのである。  

 (5)制度の変更
 (a)利益、目的、原理 (意図)と、(b)原理による社会的慣行の解釈は、相互に独立したものである。我々は、(a)の要素だけを採用しながら、何らかの制度を解釈することができる。そして、これらがどのようにして変更されるべきかを議論する際に、制度の意味や趣旨へと訴えるのである。



「ある想像上の共同体で次のような歴史を思い描いてみよう。この共同体の成員たちは、一 定範囲の社会的状況において一組のルールに従っており、彼らはこのルールを「礼儀作法」と 呼んでいるとする。例えば、「農民が貴族に向かって帽子をとることを礼儀は要求している」 と彼らは述べ、この種の他の諸命題を主張し受け容れているとしよう。当分の間、この慣行は タブーとしての性格をもち続ける。ルールは、ただそこに存在するだけであり、疑問視される ことも修正されることもない。ところがこの後、おそらくはゆっくりとであろうが、これらの すべてが変化していく。各々の人間は礼儀作法に対して複雑な「解釈的」(interpretive) 態度をとりはじめる。そして、この態度は二つの要素を含んでいる。第一の要素は、礼儀の慣 行というものは単に存在するだけではなく価値を有し、何らかの利益や目的に仕え、あるいは 何らかの原理に実効性を与えるもの――要するに、何らかの趣旨とか意味をもつもの――であり、 これらの利益や目的ないし原理は、当の慣行を構成しているルールを単に記述することとは独 立に明示されうる、という想定である。次に、第二の要素である更なる想定によれば、礼儀作 法が要請すること――すなわち、それが要求する行動やそれが正当化する判断――は、必ずしも、 あるいはもっぱら、かくかくしかじかであると常に考えられてきたものに限られる必要さはな い。むしろそれは、慣行が存在する意味というものに敏感に反応するものであり、従って、厳 格なルールは慣行のこのような意味によって理解され、適用され、拡張、修正、あるいは限定 され、限界づけられねばならない。ひとたびこの解釈的な態度が人々の間で一般化すると、礼 儀の制度は機械的であることを停止する。最早それは古来より伝えられてきた秩序に対する無 反省的な盲従ではなくなる。今や人々は、この制度に《意味》(meaning)を付与しようと―― 制度をその最善の光のもとで捉えようと――試み、このような意味の光のもとで当の制度を再構 成しようと試みるようになるのである。  解釈的態度の二つの構成要素は、相互に独立したものである。我々は、この態度の第二の構 成要素は採用しないで、第一の要素だけを採用しながら、何らかの制度を解釈することができ る。例えば、ゲームとか競技を解釈するときに我々はこのようなやり方をとるだろう。つまり 我々は、これら実践的な活動のルールが現にどのようなものであるかについてではなく(非常 に限られた場合は別として)、これらがどのようにして変更されるべきかを議論する際に、当 の活動の意味や趣旨へと訴えるのである。というのもこの場合、ルールがどのようなものであ るかは歴史と慣例によって既に確定しているからである。それゆえ、ゲームや競技の場合に は、解釈は単に外的な役割を演ずるにすぎない。ところがこれに対して、礼儀作法に関する私 の説明にとっては、礼儀に従う市民たちが解釈的態度の第一の要素と同時に第二の要素をも採 用していることが、非常に重要なものとなる。彼らにとって解釈というものは、単に、礼儀作 法がなぜ存在するのかということだけでなく、適正に解釈したならばこの礼儀作法が現に何を 要求しているか、ということをも決定するのである。このとき、制度の価値と内容は分かち難 く絡み合うことになる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第2章 解釈的諸概念,想像上の事例, 未来社(1995),pp.82-84,小林公(訳))



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


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