記号の解釈と意図
【ある一つの絵、ある記号が何を意味するのか。その絵の描き手、記号の使用者の「意図」が分かったとき、その絵、記号の「解釈」が我々に与えられ、絵と記号は実在として我々を取り囲み、我々はその内に住まうようになる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】(a)
a b
(b)
L R
(c)
← →
(d)
意図とは、思考における記号の用い手の意図である。意図とは、最終的な解釈を与えることである。
L:左へ行け
R:右へ行け
(e)
意図:これは道標である
← 解釈:左へ行け
→ 解釈:右へ行け
意図:これは道路標識である
→ 解釈:この道路は一方通行である
(f)
何らかの意図
ある文 → ある解釈
ここで我々は、解釈のこれ以上の可能性はないと考えるようになる。
(g)
何らかの意図
ある絵 → ある解釈
意図をもった絵だけが、物差しとして実在に届く。外側から眺めれば、それはいわば死んでおり、孤立している。
意図をもつと、われわれは意図空間の内に住み、意図の諸々の像(諸々の影像)の下で、現実の諸々の対象とかかわる。
「二二九 だが、ある《解釈》は記号によって与えられる。この解釈は別の(異なった意味を与える)解釈との対比において成立している。―――したがって、われわれが「どの文もさらに解釈の必要がある」と言おうとするとき、それは、どんな文も添書きなしでは理解されない、という意味なのである。
二三〇 それは、骰子遊びにおいて、ある振りがどれほどの値打ちをもっているかが別の振りによって決まる場合によく似ている。
二三一 「意図」という言葉によって、わたくしはここで、思考における記号の用い手を意味する。意図するとは、解釈すること、最終的な解釈を与えることであるように思われる。
すなわち、さらにその上に次々と記号や像を与えないでそれ以上もう解釈できない別の何かを与えることであるように思われる。しかし、到達するのは心理的な終点であって、論理的な終点ではない。
ある記号言語、すなわち〈抽象的な〉記号言語を考えて見よ。わたくしが言っているのは次のような言語、すなわちわれわれが聞きなれたものではなく、そこでわれわれは安住できないような、いわばそこで《ものを考えない》ような言語である。
そしてこの言語は、いわば曖昧なところのない像言語、すなわち遠近法にかなった仕方で描かれた様々な絵からできている言語に翻訳することによって解釈される、と考えてみよう。
書き言葉については様々の《解釈》を考える方が、普通の仕方で描かれた絵についてそれを考えるよりもはるかに容易であるということは明白である。ここでわれわれはまた、解釈のこれ以上の可能性はないと考えるようになる。
二三二 ここで、われわれは記号言語の内には住まず、描かれた絵の内に住んだのだ、とも言えるかもしれない。
二三三 「意図をもった絵だけが、物差しとして実在に届く。
外側から眺めれば、それはいわば死んでおり、孤立している。」―――これは、いわば次のようなことである。
われわれははじめ、ある絵を、われわれがその絵の内に住んでおり、その中の諸々の対象は現実の対象のようにわれわれを取り囲んでいるかのように眺める、ついで、そこから身を引き、絵の外に立ち、額縁を眺める、するとその絵は一つの描かれた平面になる。
このように、われわれが意図をもつと、その意図の像はわれわれを取り囲み、われわれはその内に住まう。しかし、その意図から抜け出ると、それは画布の上の単なる斑点になり、生命がなくなり、われわれの関心の対象でもなくなる。
意図をもつと、われわれは意図空間の内に住み、意図の諸々の像(諸々の影像)の下で、現実の諸々の対象とかかわる。
暗い映画館の中に座って、映画の内に浸っている、と想像してみよう。さて館内が点燈されたが、映画は銀幕上でまだ続けられている。しかし、われわれは突然その外に立ち、映画を銀幕上の光と影からなる諸々の斑点の動きとして見る。
(夢の中で、はじめはある物語を読んでいて、その内に自分自身がその物語の登場人物になる、ということが時折生じる。また夢から醒めた後で、あたかもその夢から抜け出て、今その夢を自分の眼前にある一つの見知らぬ像として見る、といったことが時折生じる。)
したがって、「本の中で暮らす」ということもまたある意味をもっているのである。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『断片』二二九~二三四、全集9、pp.248-250、菅豊彦)
(索引:記号の解釈,意図)
(出典:wikipedia)
「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)
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