2018年6月21日木曜日

3.明晰に思考し、明晰に表明し得ることの領域を限界づけることで、自然科学が論議可能な領域も限界づけられ、また同時に、表明し得ないものの本質を、明らかにする。これが、哲学の仕事である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

哲学とは何か?

【明晰に思考し、明晰に表明し得ることの領域を限界づけることで、自然科学が論議可能な領域も限界づけられ、また同時に、表明し得ないものの本質を、明らかにする。これが、哲学の仕事である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
(1) いやしくも考えられ得ることは全て明晰に考えられ得る。表明され得ることは全て明晰に表明され得る。
(2) 哲学は、思考可能なものを限界づける。これは、自然科学が論議可能な領域も限界づける。
(3) (2)により、思考不可能なものが限界づけられる。
(4) 哲学は語りうることを明晰に描出することによって、語りえぬことを意味するであろう。

 「四・一一三 哲学は自然科学が論議可能な領域を限界づける。
 四・一一四 哲学は思考可能なものを限界づけ、これにより思考不可能なものをも限界づけねばならない。哲学は思考不可能なものを、内側から思考可能なものによって、限界づけねばならない。
 四・一一五 哲学は語りうることを明晰に描出することによって、語りえぬことを意味するであろう。
 四・一一六 いやしくも考えられうることは全て明晰に考えられうる。表明されうることは全て明晰に表明されうる。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『論理哲学論考』四・一一三~四・一一六、全集1、p.54、奥雅博)
(索引:哲学、表明し得ないもの)

ウィトゲンシュタイン全集 1 論理哲学論考


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
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03.論理学者の仕事は、心理学的なものに対する、また一部は言語と文法に対する、絶え間なき闘争ある。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

論理法則、心理学、言語、文法

【論理学者の仕事は、心理学的なものに対する、また一部は言語と文法に対する、絶え間なき闘争ある。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
 「それゆえ短く要約するなら、論理学者の仕事は、心理学的なものに対する、また一部は言語と文法―――両者が論理的なものを純粋な形で表現へともたらさぬ限りは―――に対する、絶え間なき闘争なのである。論理学者は次のような問いに答える必要はない―――すなわち、思考というものは人間において概してどのように生じるのか、人間の心の中での自然な事の成り行きはどんなものなのか、といった問いにである。ある者に自然なことも別の者には不自然だというのは、大いにありがちなことだ。これは既に諸々の文法の間の非常な相違が示す所である。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学[Ⅰ]』七、フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)
(索引:論理法則、心理学、言語、文法)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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モリナ主義とは? (ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

モリナ主義

【モリナ主義とは? (ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 この宇宙を支配している法則の諸秩序と、人間の自由意志がいかにして共存し得るのかが問題である。モリナ主義は、この宇宙に生起する事象には、次の3種類があると考える。
(a) この宇宙を支配している法則に則り、可能的なものとして存在している事象。神の「単純叡智の知」、人間はその一端を理性によりうかがい知る。
(b) 可能的なもののうち、宇宙の展開において現実に生じる現実的事象。神の「直視の知」、人間も現実的事象として知る。
(c) この宇宙において、ある一定の条件が現実化すればそこから生起する条件的事象。(神にとっては、直視の知と叡智の知との間の「中知」、人間は自由意志の行使により、これを知る。すなわち、ある一定の条件が現実化すると、人間はその状況では「自由」に為し、しかもその自由意志には「誤用」もあり得る。

 「三九―――このような困難性から、二つの陣営が生まれた。一つは先定説論者の陣営で、もう一つは中知(la science moyenne)の擁護者の陣営である。ドミニコ会とアウグスチノ会は先定説論者に与し、フランシスコ会と最近のイエズス会はむしろ中知の立場に立つ。この二つの陣営は一六世紀の中葉かその少し後に分裂した。モリナ(この人は多分、フォンセーカと共にこの問題で一つの説を最初に打ち建てた一人であり、この説を奉じる他の人々はモリナ主義者と呼ばれた)自身は、自由意志と恩寵の一致について著した一五七〇年頃の書物で、スペインの学者達(モリナは主にトマス主義者のことを考えている)が二〇年来あれこれ書きながら、いかにして神が偶然的未来について確実に知るかについて説明する方法を[先定説の]他に見出せず、自由な行為に必要だとして先定説を導入した、と述べている。
 四〇―――モリナはどうかというと、彼は別の仕方を見出したと思っていた。彼は神の知の対象に三種類あるとしていた。つまり、可能的なものと、現実的事象と、一定の条件が現実化すればそこから生起する条件的事象との三種類である。可能的なものについての知は単純叡智の知(la science de simple intelligence)と言われる。宇宙の展開において現実に生じる事象についての知は直視の知(la science de vision)と呼ばれる。以上の単純なる可能性と純粋かつ絶対的な事象との間にもう一種類、条件的事象があり、モリナによれば、直視の知と叡智の知との間に中知があると言えることになる。この中知の有名な例は、ダビデに見られる。ダビデは、かくまってもらおうと思っていたケイラの人々が、その町を包囲していたサウルに自分を引き渡すかどうかについて神に伺いをたてた。神は然りと答えた。そのためダビデは別の方途をとった。ところで、この中知の擁護者の考えによると、神は人間がしかじかの状況に置かれたら自由になすであろうことを予見し、しかも人間がその自由意志を誤用していることも知っているのだから、神は人間に恩寵や好ましい状況を与えないことにした。しかも神にはそれができて当然なのである。なぜなら、そのような状況も助力も彼ら人間にとっては何の役にも立たないからである。しかしモリナは、神の決意の理由は被造物がしかじかの状況において自由になすことに基づいているということを一般的に見出したことで満足している。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『弁神論』本論[第一部]三九・四〇、ライプニッツ著作集6、pp.150-152、[佐々木能章・1990])
(索引:自由意志、モリナ主義、直視の知、単純叡智の知、中知)

ライプニッツ著作集 (6) 宗教哲学『弁神論』 上


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)
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