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2022年1月20日木曜日

30.人間を他の自然物と区別するのは、理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験する自由である。人間は、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求める不完全で誤ちを犯す予測不能で複雑な存在である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

ミルの人間観

人間を他の自然物と区別するのは、理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験する自由である。人間は、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求める不完全で誤ちを犯す予測不能で複雑な存在である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)真理、幸福、新奇、自由を絶えず求める不完全で誤ちを犯す予測不能で複雑な存在
 創造的で、自己完成がありえず、従って完全な予測がつかないものであり、誤ちも犯すし、あるものは宥和できるが、あるものは解決も調和もありえないような反対物の複雑な結合体であ り、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求めずにはいられないが、そうしたものに達するいかなる保障もなく、自分の理性や才能の発展に好適な環境では、自分自身の行くさきを決定できるところの、自由で、不完全な存 在、こういうイメージであります。

(b)選択し実験する自由な存在
 人間を他の自然物と区別するのは、理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験す る自由である、とミルは信じておりました。


「彼は、人間性が決定され限定されたものであるという古典世界や理性の時代から受けつい だ疑似科学的モデルとたもとを分かちました。それによりますと、人間性は、すべての時と所 において同一で不変の欲求・感情・動機をもち、反応が相違するのは環境や刺激が異なってい るにすぎず、進化はすべてある不変の型によっていることになるのです。こうしたモデルに対 し、(完全に意識的であるとはいえないが)彼はつぎのような人間のイメージを代えました。 創造的で、自己完成がありえず、従って完全な予測がつかないものであり、誤ちも犯すし、あ るものは宥和できるが、あるものは解決も調和もありえないような反対物の複雑な結合体であ り、真理、幸福、新奇、自由を絶えず求めずにはいられないが、そうしたものに達する――神学 的であろうと、論理的であろうと、科学的であろうと――いかなる保障もなく、自分の理性や才 能の発展に好適な環境では、自分自身の行くさきを決定できるところの、自由で、不完全な存 在、こういうイメージであります。彼は自由意志の問題に苦しみました。ときとしてそれを解 決したと思ったことはありましたが、他の誰よりもよき解答を彼が見出したとは言えません。 人間を他の自然物と区別するのは理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験す る自由である、と彼は信じておりました。彼の思想のうちで最も永続的な名誉を彼にさずけて いるものは、まさにこの見方であります。彼が意味した自由とは、自分の尊重の対象及び尊重 の仕方、この双方を選択するときに他の人びとからは妨げられないという状態であります。彼 にとっては、こうした条件が実現された社会のみが、十分に人間的な社会と言いうるものであ りました。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,ジョン・スチュアート・ミルと生の目 的,V,pp.449-450,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




28.選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴である。なぜなら、価値判断にも真偽があるかどうかにかかわらず、諸価値は本質的に相拮抗しており、人は全ての価値を持ち得ないからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

選択の不可避性

選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴である。なぜなら、価値判断にも真偽があるかどうかにかかわらず、諸価値は本質的に相拮抗しており、人は全ての価値を持ち得ないからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)価値判断にも真偽があるとの考え
 ミルは、価値判断の領域にも、到達・伝達し得る客観的な真理が存在するが、それを発見 するための条件は、十分な個人の自由、とりわけ探究と討論の自由がある社会でなければ、存 在しない、と確信しているように思われる。

(b)諸価値は本質的に相拮抗している
 私の言うところは、全くそれとは異なっ ており、いくつかの価値は本質的に相拮抗しているのであるから、すべてが調和しているようなパターンが原則的に発見できるに違いないという考えは、それ自体、世界の実状についての 誤った先験的見解にもとづいている、というのである。

(c)選択は不可避である
 人間の条件として、人は選択をいつも避けていることはできない。選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴となる。
 (i)理性的で道徳的な選択
  多くの可能な行動の筋道や多くの生きるに値する生活形態があるから、従ってそれらのうちのどれかを選ぶことは、理性的であり道徳的判断ができるということの一証となる。
 (ii)人は全ての価値を持ち得ない
  諸目的が互いに衝突するものであり、 人はすべてを持ち得ないという核心的な理由のために、選択を避けることができない。


「ミルは、価値判断の領域にも、到達・伝達し得る客観的な真理が存在するが、それを発見 するための条件は、十分な個人の自由、とりわけ探究と討論の自由がある社会でなければ、存 在しない、と確信しているように思われる。彼の考えは、まさに、古くからある客観主義的命 題を経験論の形で表現したものであり、この最終目標に達するためには個人の自由が必要な条 件として欠かしえないという追加条項が添えてある。私の言うところは、全くそれとは異なっ ており、いくつかの価値は本質的に相拮抗しているのであるから、すべてが調和しているよう なパターンが原則的に発見できるに違いないという考えは、それ自体、世界の実状についての 誤った先験的見解にもとづいている、というのである。もしこの点で私が正しく、人間の条件 として人は選択をいつも避けていることはできない、のであるならば、その理由は、哲学者な らまず見逃さない明白な理由、即ち、多くの可能な行動の筋道や多くの生きるに値する生活形 態があるから、従ってそれらのうちのどれかを選ぶことは、理性的であり道徳的判断ができる ということの一証となる、というためばかりではなく、諸目的が互いに衝突するものであり、 人はすべてをもちえないという核心的な理由(それは普通の意味で概念的なものであって、経 験的なものではない)のために、選択を避けることができないということによるものである。 ここから次のような帰結が生じてくる。即ち、どのような価値も失ったり犠牲にしたりせずに すむような生活、すべての合理的な(あるいは有徳な、さもなければ正当性のある)欲求を真 に満足させうるような生活、こうした理想的な生活の概念、古典的理想像、これこそユートピ ア的であるのみならず、辻褄のあわぬものである。選択の必要、ある究極的な価値を他の価値 のために犠牲にせねばならないということは、人間がおかれている境遇の永遠の特徴となる。 もしそうとすれば、自由な選択の価値は、自由な選択なくしては完全な生活に到達しえないと いう事実からくるとしても、一たびそれが到達されるや二者択一の必要がなくなってしまう、 という含みをもつすべての理論はくつがえされてしまう。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,II 積極的自由対消極的自 由,pp.77-78,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳)

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月19日水曜日

27.法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する。不干渉を弁護する社会的ダーウィニズムは、その極端な思想である。社会立法や福祉国家の基礎付けは、歴史的には積極的自由の概念を基礎としたが、消極的自由の概念でも基礎付けることができる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由と積極的自由

法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する。不干渉を弁護する社会的ダーウィニズムは、その極端な思想である。社会立法や福祉国家の基礎付けは、歴史的には積極的自由の概念を基礎としたが、消極的自由の概念でも基礎付けることができる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)不干渉を弁護する社会的ダーウィニズム
 社会的ダーウィニズムのように不干渉を弁護する議論は、人情家や弱きも のに対して、強気なもの野蛮なもの無鉄砲なものを、また能力のないもの不運なものに対して、 有能で情け容赦のないものを武装強化するような、政治的・社会的に破壊的な政策を支持する のに使われてきたことはいうまでもない。

(b)社会立法や福祉国家の基礎付けは消極的自由の概念でも可能
 社会立法や社会計画、福祉国家や 社会主義を擁護する立場は、消極的自由からの要求を考察することによっても、その兄弟である積極的自由からの要求の考察によるのと同じくらい妥当に、基礎づけうるのである。

(c)積極的自由による基礎付け
 歴史的 に消極的自由による福祉国家の基礎付けによることが少なかったのは、消極的自由の概念を武器として立ち向かうべき当の外敵 は、レッセ・フェールではなくて専制主義だったからである。

(d)双方の自由概念はそれぞれ重要
 統制と干渉が度を過ごすときには、消極的自由の概念が優勢となり、また逆に、野放図な市場経済がのさばるときには、積極的自由の概念が優勢となるのである。






「消極的自由の信条は、重大かつ持続的な害悪を生ぜしめることとも両立するし、また(観 念が行動に影響を与える限りでは)現にそうした害悪を生ぜしめるのに一役かってきたこと は、勿論忘れない方がよい。しかし、私が言いたいのは、消極的自由の信条は、最も陰険な形 をした《積極的》自由のチャンピョンたちが自分の信条を弁護するのによく使うような見せか けの議論や詐術によって、弁護されたり偽装されたりすることがはるかに少なかったというこ とである。(《社会的ダーウィニズム》のように)不干渉を弁護する議論は、人情家や弱きも のに対して、強気なもの野蛮なもの無鉄砲なものを、また能力のないもの不運なものに対して、 有能で情け容赦のないものを武装強化するような、政治的・社会的に破壊的な政策を支持する のにつかわれてきたことはいうまでもない。狼にとっての自由は、羊にとってしばしば死を意 味した。経済的個人主義や止まるところのない資本主義的競争についての血なまぐさい物語 は、今日ことさら強調する必要もないと思いたいところだ。にもかかわらず、私を批判する人 たちが私に着せた、おどろくべき濡れ衣を眺めてみると、私の議論のある部分をとくに気をま わして力説しておくべきであったようだ。無制限の《レッセ・フェール》の害悪、それを許す ばかりか更にそれを奨める社会・法体系の害悪は、《消極的》自由や基本的人権(これは抑圧 者に対する壁としてつねに《消極的な》観念である)、表現や結社の自由を含めた基本的人権 の、野蛮な侵害になってしまうのだということを、更に一層明らかにさえしておくべきであっ た。この基本的人権がなくても、正義、同胞愛、それにある種の幸福さえ、存在し得るかもし れないが、デモクラシーは在りえないのである。更にまた、私は、(言う必要もないほど明ら かであると思っていたのだが)つぎのようなことをおそらく強調しておくべきだったであろ う。即ち、個人や集団が、意義ある程度の《消極的》自由を行使できるための必要最小限の条 件、理論的には自由をもっている人にも、それなくしては自由がほとんど何の価値もなくなっ てしまうようなミニマムの条件、こうした条件を、この社会・法体系は提供しそこなっている ということを。というのは、権利を持っていたところで、それを実行に移すだけの力がなけれ ば何になるか。この問題に関心をもつ近代のまじめな著作家たちのほとんどすべてが、無制限 の経済的個人主義の体制下において、個人の自由がどんな運命を辿ったかについては十分に述 べている、と私は思っていた。とりわけ都市において、いたましい多くの人びとの境遇、子供 たちは鉱山や工場で損なわれ、両親たちは貧困、病い、無知のうちに過ごす、こうした境遇で は、貧乏なものも弱気ものも、好きなように金を使い欲するような教育を選べる法的権利があ るということなどは(コブデンやハーバート・スペンサー及び彼らの弟子たちが、全く大真面 目に説いてきかせたことだが)、おぞましい茶番となってしまったのである。こうしたことは すべて、まことに遺憾ながら事実であって、法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する のである。国家やその他の実行機関が、積極的自由、および少なくとも最小限の消極的な自由 を個々人に保障するために介入することは、圧倒的に支持されている。トクヴィルやミル、そ れに(近代のいかなる著述家よりも強く消極的自由を支持した)パンジャマン・コンスタンの ような自由主義者さえ、このことを知らないではなかった。社会立法や社会計画、福祉国家や 社会主義を擁護する立場は、消極的自由からの要求を考察することによっても、その兄弟であ る積極的自由からの要求の考察によるのと同じくらい妥当に、基礎づけうるのである。歴史的 に前者によることが少なかったのは、消極的自由の概念を武器として立ち向かうべき当の外敵 は、レッセ・フェールではなくて専制主義だったからである。二つの概念の消長は、大抵、あ るグループや社会を一定の時点でもっともおびやかしている特定の危険に原因を求めうる。統 制と干渉が度をすごすときには、消極的自由の概念が優勢となり、また逆に、野放図な《市 場》経済がのさばるときには、積極的自由の概念が優勢となるのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,II 積極的自由対消極的自 由,pp.68-70,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




26.人間の歴史も因果の法則には従っているに違いなく、歴史の規則性やパターンも認識できるだろう。しかし、それがあっても人間には、選択の自由がつねに残されている。また、科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する。 (アイザイア・バーリン(1909-1997))

因果の法則と自由意志

人間の歴史も因果の法則には従っているに違いなく、歴史の規則性やパターンも認識できるだろう。しかし、それがあっても人間には、選択の自由がつねに残されている。また、科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する。 (アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)人間の歴史も因果の法則には従う
 因果の法則は、人間の歴史に適用できる。自由な選択の範囲が、かつて人びとが考えたよりも、また恐らく現在もなお誤って考えているよりも、はるかに狭いことには、多くの経験的証拠がある。歴史における客観的なパターンは識別できるであろう。
(b)法則やパターンがあっても選択の自由は残されている
 それにもかかわらず、そのような法則やパターンでも、何らかの選択の自由を残しており、人間の行為は、先行する諸原因によってそれ自体完全に決定されているわけではない。
(c)科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する
 知識、とりわけ科学的に確立された法則の知識は、我々の活動をより効果的にし、我々の自由を拡張するのに役立つ。また、無知および無知のかもす幻想・恐怖・偏見は自由を削減する。


「ごく平凡ではあるが、私が一度も離れたことのない見方を、いくつかここで繰り返してお きたい。因果の法則は人間の歴史に適用できる(カー氏には失礼ながら、この命題を否定する のは狂気の沙汰と私は考えている)。歴史は、主として個人の意志間の《劇的な葛藤》ではな い。知識、とりわけ科学的に確立された法則の知識は、われわれの活動をより効果的にし、わ れわれの自由を拡張するのに役立つ。この自由は無知および無知のかもす幻想・恐怖・偏見に よって削減されやすい。自由な選択の範囲が、かつて人びとが考えたよりも、またおそらく現 在もなおあやまって考えているよりも、はるかに狭いことは、多くの経験的証拠がある。私の 知る限りでも、歴史における客観的なパターンは識別できるであろう。そして更に、私はただ つぎのことを主張しているだけだということを繰り返して言わねばならぬ。即ち、そうした法 則やパターンでも、何らかの選択の自由を残していると考えられるのでなければ――そして、行 動の自由が、先行する諸原因によってそれ自体完全に決定されている選択により、決定されて いるにすぎないような自由に止まらぬと考えるのでなければ――、われわれは現実についての見 方を、いままでとは違った方向で再建しなければならないだろう、そしてこの仕事は、決定論 者が考えているよりも、遥かに大変なものである、と。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,I,pp.50-51,みすず書房(2000), 小川晃一(訳),小池銈(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)





25.人間の相互理解には、最小限度の価値観の共有が必要である。それは、人間道徳の基礎であり、正常な人間という概念に含まれ、多様な習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットとは、明確に区別される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

最小限度の共通価値

人間の相互理解には、最小限度の価値観の共有が必要である。それは、人間道徳の基礎であり、正常な人間という概念に含まれ、多様な習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットとは、明確に区別される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)理解の前提としての共通の価値観
 同時代あるいは他の時代の 人びとを理解できる可能性、いってみれば人間同士のコミュニケーションの可能性は、何らか の《価値》の共通性にもとづいているのであって、単に何らかの《事実》の共通性にのみ基づいているわけではない。

(b)人間道徳の基礎
 ノーマルな人間という観念には、それ以上縮小できない最小限の共通な価値の承認というものが含まれている。
(c) 習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケット
 人間道徳の基礎という観念と、習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットというような 観念とが区別される。後者の領域では、社会的・歴史的に、また全国的・地方的に、大幅な相違や変化があっても、べつにそのことが稀有であるとも異常であるとも思われない し、極端に突飛で狂っているとも、全く望ましからぬものとも思われない。




「確かに、この世の中には客観的な道徳的乃至社会的価値が存在し、それは恒久的かつ普遍 的で、歴史の変化の影響を受けず、いやしくも理性ある人が心を傾けて注目しさえすれば手に 入れうる、という見解にはさまざまな疑問の余地がある。しかし、同時代あるいは他の時代の 人びとを理解できる可能性、いってみれば人間同士のコミュニケーションの可能性は、何らか の《価値》の共通性にもとづいているのであって、単に何らかの《事実》の共通性にのみもと づいているわけではない。共通する《事実》の世界があるということは、人間の交際の必要条 件ではあるが十分条件ではない。外部の世界との接触が切れている人びとはアブノーマルとい われるし、極端な場合は気違いと言われるが、公共的な価値の世界をあまりにも逸脱している 人もやはりそうである(ここが問題なのだ)。正邪の区別をかつては知っていたが今は忘れて しまったなどと公言しても、まず誰にも信じてもらえないだろうが、もし信じられたら、御本 人は当然狂っているとされてしまう。だが、例えば、青い目の人間なら誰かれといわず何の理 由も示さずに殺してもよい、というようなルールを、認めたり共有したりあるいは大目に見た りするだけならとにかく、そうしたルールには誰だって何がしかの反対論をまず持っていると いうことが全くわからない人びと、こうした人びともやはり狂っているのである。そういう人 たちは、六までしか数えられない者や、自分がユリウス・カエサルかもしれないと考えている 者と、同じぐらいの正常さしかない人間の例、と見なされるだろう。狂気か否かを計るこうし た規範上の(非記述的)テストの拠って立つ基礎は、まさに、自然法の諸原理、特にそれらを 先験的に自明なものと規定していない形での自然法の諸原理に、現在もつような説得力を与え ているものにほかならない。ノーマルな人間という観念には、ある共通な価値(ともかくもそ れ以上縮小できない最小限の価値)の承認というものが含まれている。これが《めど》になっ て、人間道徳の基礎という観念と、習慣・伝統・法・マナー・流行・エチケットというような 観念とが区別されるのである。後者の領域では、社会的・歴史的に、また全国的・地方的に、 大幅な相違や変化があっても、べつにそのことが稀有であるとも異常であるとも思われない し、極端に突飛で狂っているとも、全く望ましからぬものとも思われない。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,I,pp.45-46,みすず書房(2000), 小川晃一(訳),小池銈(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]

アイザイア・バーリン
(1909-1997)




24.積極的自由は、高次と低次、真正と経験的、理想的と心理学的な二つ自我という考えで歪曲され、やがて高次の自我は、制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党、一般意志、共通の福祉、天与の使命と同一視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

二つの自我という歪曲

積極的自由は、高次と低次、真正と経験的、理想的と心理学的な二つ自我という考えで歪曲され、やがて高次の自我は、制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党、一般意志、共通の福祉、天与の使命と同一視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)独立した人格には不可侵の領域が必要
 他人と全面的に調和することは、自分が独立した人格であるということと相容れない。すべての点で他人に依存しようというのでない限り、他人が勝手に干渉しない、また干渉 しないと当てにできる若干の領域が必要である。
(b)高次と低次、真正と経験的、理想的と心理学的な二つ自我という歪曲
 歴史的にいえば、積極的自由の観念は、「誰が主人であるか」という問いに答える ものであって、「私はどれだけの領域で主人であるか」に答えるための消極的自由の観念 から離れている。両者の距離は、自我の観念が、一方では高次の、あるいは真正の、 あるいは理想的自我と、他方では低次の経験的な心理学的な自我ないし 本性とに、形而上学的に分裂し、前者が後者を統御するとしたり、最良の自我が劣った日常的 な自我の主人であるとしたり、コールリッジの大文字で書く《私の真存在 I AM》が、時間と空間のなかにとじこめられた超越的でない自我に君臨するとしたようなときに、この距離はま すます開いていった。
(c)制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党、一般意志、共通の福祉、天与の使命
 高次の自我は、制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党と同一視されるようになり、あるいは一般意志、共通の福祉、社会の変革勢力、最も進歩的な階級の前衛、天与の使命というような漠然としたもの と自然に同一視されてしまった。







「他人との摩擦や抵抗を超越しよう、水に流そうという右のような涙ぐましい努力にもかか わらず、もし、自己欺瞞を望まないなら、いずれは次の事実を認めざるをえないだろう。即 ち、他人と全面的に調和することは、自分が独立した人格であるということと相容れないこ と、すべての点で他人に依存しようというのでない限り、他人が勝手に干渉しない、また干渉 しないと当てにできる若干の領域が必要であることである。こうして、「自分が主人である領 域、主人であるべき領域はどれぐらい広いか」という問題が起こってくる。私の考えはこうで ある。歴史的にいえば、《積極的》自由の観念は、「誰が主人であるか」という問いに答える ものであって、「私はどれだけの領域で主人であるか」に答えるための《消極的》自由の観念 から離れている、両者の距離は、自我の観念が、一方では《高次の》、あるいは《真正の》、 あるいは《理想的》自我と、他方では《低次の》、《経験的な》、《心理学的な》自我ないし 本性とに、形而上学的に分裂し、前者が後者を統御するとしたり、最良の自我が劣った日常的 な自我の主人であるとしたり、コールリッジの大文字で書く《私の真存在 I AM》が、時間と 空間のなかにとじこめられた超越的でない自我に君臨するとしたようなときに、この距離はま すます開いていった。こうした二つの自我という広く普及した古くからの形而上学的イメージ の底には、真の内面的緊張の経験があろうし、またそのイメージの影響は言葉、思想、行動に 絶大なものがあった。それはともあれ、当然のごとく、《高次の》自我は、制度、教会、国 民、人種、国家、階級、文化、政党と同一視されるようになり、あるいは一般意志、共通の福 祉、社会の変革勢力、最も進歩的な階級の前衛、《天与の使命》というような漠然としたもの と自然に同一視されてしまった。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,II 積極的自由対消極的自 由,pp.65-66,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




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