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2018年7月28日土曜日

倫理や価値の領域に、科学的方法は適用可能か? 健康についての考察が、重要な示唆を与える。いずれも、この宇宙、自然、生命、人間、社会、文化についての諸事実に基づいた科学の方法によって探究可能である。(パトリシア・チャーチランド(1943-))

倫理や価値の領域に科学的方法は適用可能か?

【倫理や価値の領域に、科学的方法は適用可能か? 健康についての考察が、重要な示唆を与える。いずれも、この宇宙、自然、生命、人間、社会、文化についての諸事実に基づいた科学の方法によって探究可能である。(パトリシア・チャーチランド(1943-))】
(1)人間の本性と健康の関係
 (1.1)健康であるために私たちは何をするべきか?
 (1.2)これは規範的なプロジェクトなのか?
(2)人間の本性と善の関係(道徳や価値の領域)
 (2.1)善であるために私たちは何をするべきか?
 (2.2)これは規範的なプロジェクトなのか?
(3)健康のためにも、善のためにも、科学が必要である。
 (3.1)科学によって利用できるようになった事実に基づいて、健康であるために何をするべきかについて、私たちは多くのことを知っている。同じように、人間の社会性の本性についてより深く理解することによって、社会的な実践や制度のいくつかが解明され、それらについてこれまで以上に賢明に考えられるようになるだろう。
 (3.2)どのような状態が、一定の病気の予防や治療に寄与するかの知識。同じように、ある社会的状態が、善を促進し悪を予防するための知識があるだろう。
 (3.3)環境の特徴と、特定の医学的状態の関係に関する知識。同じように、社会的環境の特徴と、社会の倫理的状態の関係、社会的調和と安定に有利な条件に関する知識があるだろう。
(4)健康も善悪も、複雑で難しいテーマである。
 (4.1)「健康」とは何か、「善」とは何か? 意見の不一致が根強く存在する領域が数多くある。
 (4.2)健康というテーマがいかに複雑であるか。これは、社会的行動と善悪のテーマが複雑なのと同じである。
 (4.3)もちろん、科学によってあらゆる道徳的ジレンマが解決可能だということではない。これは、健康についても同じである。
(5)健康も善悪も、この宇宙、自然、生命、人間、社会、文化についての諸事実に基づいた科学の方法によって探究可能なテーマである。
 (5.1)健康とは何かについて、分析的に記述し尽くすことが不可能だからといって、健康という概念が非自然的性質であることを示しているわけではない。善悪についても、同じである。
 (5.2)健康とは何かについて、直感によってしか把握できず、またその直感の源泉を知り得ないからといって、その直感が、超自然的なものであり、何らかの〈形而上学的真理〉であることを示しているわけではない。善悪についても、同じである。
 (5.3)仮に直観の源泉が知り尽くせないとしても、そのこと自体は、何が意識され何が意識されないかに関する一つの事実を指し示しており、またその直感は、結局のところ脳の産物であり、人間のたどった生物進化的な諸事実と、経験と、文化的実践に基づいている。健康についても、善悪についても同じである。

 「もしムーアが、私たちの本性とよいものとの関係は単純ではなく複雑だということを指摘しただけなら、彼はもっと強固な基礎に支えられていただろう。類似した例を挙げれば、私たちの本性と健康との関係は複雑である。道徳や価値の場合と同様に、いかなる単純な定式化も十分ではない。健康は、たとえば血圧が低いとか、十分な睡眠をとっているといったことと単純に等しいとすることはできないのだから、健康についてムーアのような考えをする人は、《健康》は非自然的性質である――分析不可能で形而上学的に自律的である――と論じるかもしれない。健康であるために私たちは何をする《べきか》について科学を用いて明らかにしようとしても、このムーア的な考えによれば、無駄である。というのも、それは「べし」のプロジェクト、つまり規範的なプロジェクトであって、事実的なプロジェクトではないからである。もちろん、そのような見解は奇妙であるように思われる。たしかに、遊びや瞑想が精神の健康にどれくらい貢献するか、アルコール依存は病気と見なされるべきか、血清コレステロールのレベルを下げるスタチン剤を50歳以上の人全員に処方するべきか、プラシーボはどのように作用するか、どれくらい痩せていれば痩せすぎなのかなど、健康な生き方について意見の不一致が根強く存在する領域が数多くあるが、そうだとしても、そのような見解は奇妙である。そして、こうした意見の不一致が存在するにもかかわらず、科学によって利用できるようになった事実に基づいて、健康であるために何をするべきかについて、私たちは多くのことを知っている。
 生物科学の進展とともに、健康について、またどのような健康状態が一定の病気の予防や治療に寄与するかについて、ますます多くのことがわかるようになってきた。個人差に関する知識や、環境の特徴と特定の医学的状態の関係に関する知識が得られはじめるとともに、人間の健康というテーマがじっさいにどれほど複雑であるかが明らかになってきた。健康は、私たちが何をするべきかについて科学が私たちに多くのことを教えることのできる領域であり、そしてすでに教えてきた領域である。
 同様に、社会的行動の領域はきわめて複雑であり、社会的調和と安定に有利な条件および個人の生活の質について、日常の観察と科学から多くを学ぶことができる。ムーアの議論にはこれが不可能であることを示すものは何もない。それどころか、進化生物学の観点からすれば、道徳の根拠として分析不可能な直感へと撤退することは、控えめに言っても有望ではないように思われる。直観とは結局のところ脳の産物であり、〈真理〉に至る超自然的な通路ではない。直観は神経系によって何らかの仕方で生みだされたものである。直観はその原因が意識からどのように隠されていようと、明らかに経験と文化的実践に基づいたものである。私たちが内観によって直感の源泉を知りえないことは、それ自体は脳の機能に関するひとつの事実――何が意識され、何が意識されないかに関する事実――である。私たちが内観によって直感の源泉を知りえないからといって、そのことは、そうした直感が私たちに何らかの〈形而上学的真理〉を告げることを少しも意味していない。
 これまで論じてきたことは、けっして科学によってあらゆる道徳的ジレンマが解決可能だということではない。ましてや、科学者や哲学者が農夫や大工よりも道徳的に聡明であるということでもない。しかし、これまで論じてきたことは、人間の社会性の本性についてより深く理解することによって、社会的な実践や制度のいくつかが解明され、それらについてこれまで以上に賢明に考えられるようになるだろうし、私たちはその可能性を虚心坦懐に受け入れるべきだということをたしかに示唆している。」
(パトリシア・チャーチランド(1943-),『脳がつくる倫理』,第7章 規則としてではなく,化学同人(2013),pp.266-268,信原幸弘(訳),樫則章(訳),植原亮(訳))
(索引:倫理,価値,科学的方法,健康,人間の本性)

脳がつくる倫理: 科学と哲学から道徳の起源にせまる


(出典:wikipedia
パトリシア・チャーチランド(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
パトリシア・チャーチランド(1943-)
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2018年1月20日土曜日

人間は自然の一部分であって他の諸部分と密接に結合している。だから、もしこの自然がいまとは異なった仕方で創造されていたとしたら、我々の本性もまた、それら創造された事物を理解し得るようなものに創られていたことであろう。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

自然との合一

【人間は自然の一部分であって他の諸部分と密接に結合している。だから、もしこの自然がいまとは異なった仕方で創造されていたとしたら、我々の本性もまた、それら創造された事物を理解し得るようなものに創られていたことであろう。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))】
 「さていま次のように問う人があるかもしれない。もし神が事物を別様に決裁し、現に真であるところのことを偽であるようにしたとすれば、我々はそれでもなおそれを最も真なものとして認めるであろうかどうか、と。[これに対して私は答える]、もし神が我々に与えた本性をそのまま我々に残して置いたとすれば確かにそうなるであろう。しかし、そうした場合でも、神は、もしその気になりさえしたら、神から別様に定められた事物の本性と法則を理解し得るような本性を我々に与える――かつて与えた如く――ことができたであろう。否、もし我々が神の誠実ということを念頭に置く限り、神は必ずそうした本性を与えたに違いない、と。この同じことはまた、我々が先に述べたこと、即ち所産的自然の全体はただ一つの有であるということからも明らかである。というのは、このことからして、人間は自然の一部分であって他の諸部分と密接に結合していねばならぬことになる。従ってさらに神の決裁の単純性ということと併せて考えれば、次の帰結にならざるを得ない、即ち、もし神が事物を異なった仕方で創造したとしたら、神は同時にまた我々の本性をも、神の創造した通りに事物を理解し得るような風に創っていたであろう、と。」
(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)『デカルトの哲学原理』形而上学的思想第二部 第九章、p.217、[畠中尚志・1959])
(索引:誠実な神、所産的自然、人間の本性)

デカルトの哲学原理―附 形而上学的思想 (岩波文庫)




(出典:wikipedia
バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「どんなものも、その本性において見れば、完全だとも不完全だとも言われないであろう。特に、生起する一切のものは永遠の秩序に従い、一定の自然法則に由って生起することを我々が知るであろう後は。」(中略)「人間はしかし無力のためその思惟によってこの秩序を把握できない。だが一方人間は、自分の本性よりはるかに力強い或る人間本性を考え、同時にそうした本性を獲得することを全然不可能とは認めないから、この完全性[本性]へ自らを導く手段を求めるように駆られる。そしてそれに到達する手段となり得るものがすべて真の善と呼ばれるのである。最高の善とはしかし、出来る限り、他の人々と共にこうした本性を享受するようになることである。ところで、この本性がどんな種類のものであるかは、適当な場所で示すであろうが、言うまでもなくそれは、精神と全自然との合一性の認識(cognitio unionis quam mens cum tota Natura habet)である。」
 「だから私の志す目的は、このような本性を獲得すること、並びに、私と共々多くの人々にこれを獲得させるように努めることにある。」(中略)「次に、出来るだけ多くの人々が、出来るだけ容易に且つ確実にこの目的へ到達するのに都合よいような社会を形成しなければならない。なお、道徳哲学並びに児童教育学のために努力しなければならない。また健康はこの目的に至るのに大切な手段だから、全医学が整備されなければならない。また技術は多くの難しい事柄を簡単なものにして、我々に、生活における多くの時間と便宜を得させてくれるから、機械学を決してなおざりにしてはならない。」(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)『知性改善論』(12)(13)(14)(15)、pp.17-19、岩波文庫(1968)、畠中尚志(訳))

バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)
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