2020年5月28日木曜日

他の人々と共有された日常的な諸活動が課す様々な実践的な選択肢の比較衡量の中で,自己の認識の真偽,感情と暗黙の諸規範の妥当性の検証を介し,真なる個人的な善と共通善とを学び,自己と社会の変革の契機が生まれる.(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

真なる個人的な善と共通善とを学ぶ方法

【他の人々と共有された日常的な諸活動が課す様々な実践的な選択肢の比較衡量の中で,自己の認識の真偽,感情と暗黙の諸規範の妥当性の検証を介し,真なる個人的な善と共通善とを学び,自己と社会の変革の契機が生まれる.(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

いかにして自身の個人的な善と、共通善とを学ぶのか
 (1)理論的な内省か?
  理論的な内省によって学ぶのが、主ではない。
 (2)実践的な選択肢の比較衡量
  他の人々と共有された日常的な諸活動の中で、また、そうした諸活動が課してくるさまざまな実践的な選択肢を比較衡量する中で学ぶことになる。
 (3)事例
  体の一部の表面が腫れていたり、炎症を起こしていたり、傷跡があったり、膿んでいたりすることでその美観がひどく損なわれている点にその本質が存する障碍について考えてみよう。
  (3.1)二つの過ち
   (a)自分自身の感情、認識を、事実として受け入れないこと
    その患者は、実際のところ、恐れを抱かせるような外見を示していないと強弁する。
   (b)違和感を感じながらも、現状維持すること
    その患者の外見に気をとられるあまり、その人に不合理なしかたで接してしまう。
  (3.2)考えるべきこと
   (a)自分のこれまでの感情、認識を、ありのまま事実として認識すること。
   (b)認識に誤りはなかったのか、学ぶこと。
   (c)感情は妥当なものだったのか、学ぶこと。
   (d)なぜそのような認識、感情に導かれていたのか、学ぶこと。
   (e)感情を導いていた、暗黙の価値判断、諸規範が何なのか、学ぶこと。
 (4)個人的な善、共通善を捉えそこなう3つの失敗
  (a)自分自身の欲求から身を引き離すことができず、その欲求について判断する位置に立てないこと
  (b)適切な自己認識の欠如
  (c)私たちの他者への依存の本性を認識しそこなうこと
 (5)社会において支配的な諸規範に疑念がある場合の処方
  それら実践的推論の誤謬の原因が、私たちの社会環境においてこれまで支配的であった諸規範に由来するものである限りにおいて、私たちが自分たちの共有された熟議による推論においてそうした誤謬から解放されるためには、私たちは自己を変革するのみならず、そのような社会環境をも変革する必要がある、ということになるだろう。

 「〈私たちの共通善とは何かを学ぶ〉という場合に私が意味しているのは、これまで同様、そうした善についての実践的知識を私たちがどのようにして得るかということである。つまり、それについてのある一連の理論的公式をマスターすることではなく、むしろ、日常的な実践の中に具体的なかたちで示されるそうした善へと方向づけられた態度を身につけることである。すでに強調してきたように、私たちが共通善とは何かということを学ぶのは、否それどころか、私たち自身の個人的な善とは何かということをも学ぶのは、主として理論的な内省によってではないし、ひとえに理論的な反省によってではまったくない。私たちはそれらを、〔他の人々と〕共有された日常的な諸活動の中で、また、そうした諸活動が課してくるさまざまな選択肢を比較衡量する中で学ぶのである。また、これもすでに強調してきたことだが、私たちは、〔共通善や自身の個人的な善について〕学ぶ必要のあることがらを学びそこなうこともある。そして、そうした事態は、私が挙げた三つの失敗――すなわち、
 (1)自分自身の欲求から身を引き離すことができず、その欲求について判断する位置に立てないこと、
 (2)適切な自己認識の欠如、
 (3)私たちの他者への依存の本性を認識しそこなうこと
――をはじめとする、いくつかのタイプの失敗に起因するものである。以下において私は、障碍をもつ人々との関係を通じて学ばれうる、もしくは、概して障碍をもつ人々との関係を通じてしか学ばれえないことがらの一例について考察したいと思う。そのような学びを通じて私たちは、一連の間違った実践的判断や人を誤りに導く実践的判断をその帰結として伴う、上記三つの誤謬の原因のいずれかをみずからのうちに発見することがある。
 体の一部の表面が腫れていたり、炎症を起こしていたり、傷跡があったり、膿んでいたりすることでその美観がひどく損なわれている点にその本質が存する障碍について考えてみよう。そのような障碍に苦しむ患者の、恐れや嫌悪を抱かせる外見は、〔周囲の人々にとって〕一人のヒトとしての彼女や彼に接することを困難にする一因である。患者のそうした外見を肉体のより奥深いところで生じている現象の一連の徴候として理解することを仕事とする看護師や医師の場合、おそらく私たちほどそのような困難を感じないだろう。だが、看護師や医師ではない私たちは、次のような二つの〔両極端の〕過ちのいずれをも回避する道を探りあてる必要がある。すなわち、〈その患者は、実際のところ、おそれを抱かせるような外見を示していない〉と強弁する場合に犯すことになる過ちと、その患者の外見に気をとられるあまり、その人に不合理なしかたで接してしまう場合に犯すことになる過ちである。そして、そのような困難な課題に取り組むことを通じて、おそらく私たちは自分自身に関して、少なくとも次のようなことを学ぶだろう。すなわち、自分はこれまで他人の見栄えのよさや自分自身の見栄えのよさにどのような価値をどの程度見出していたのかということを学ぶだろうし、同時に、そうした従来の価値判断が犯していた誤りについて学ぶだろう。
 この点、社会心理学の諸研究は、日常の観察が示唆していること、すなわち、私たちが多くのさまざまな場面で、顔をはじめとする人間の外見からあまりにしばしば影響を受けているということを裏づけている。また、より一般的な事実として、他人の表明した意見を私たちがどの程度重く受けとめるかは、その意見を述べたのが誰であり、その人間はどのような声や表情でその意見を述べたかによってある程度左右されがちである。それゆえ私たちは、誰かの人柄やその誰かの表明した意見を、その人の容姿や話しかたから切り離して評価する術を学ぶ必要がある。そして、そうした術を学ぶ過程において、私たちはそれまでの自分が考えてもみなかったことに気づくかもしれない。すなわち、自分がいままで、あるタイプの容貌をもつ他者と接する際に、〔その他者の容貌によって引き起こされる〕不快感や嫌悪感や、ときには恐怖感といった感情から自分自身を切り離すことができずにいたこと。そして、それゆえに、そのような感情に対して批判的判断をくだすことができずにいたことに気づくかもしれない。また、自分自身のくだすさまざまな判断がそのような感情から不当な影響をこうむっていたことに気づいていなかった点で、自分がこれまで適切な自己認識を欠いていたことに気づくかもしれない。また、これまでの自分が、その外見が私たちの気分を害するような人々に応答する際に、自分には少なくとも《彼ら》から学びうることは何もないと決めてかかっていたことに気づくかもしれない。つまり私たちは、そのような障碍をもつ人々との出会いにおいて、これまで認識されずにいた、みずからの実践的推論の誤謬の原因を発見するのである。そして、それら実践的推論の誤謬の原因が、私たちの社会環境においてこれまで支配的であった諸規範に由来するものであるかぎりにおいて、私たちが自分たちの共有された熟議による推論においてそうした誤謬から解放されるためには、私たちは自己を変革するのみならず、そのような社会環境をも変革する必要がある、ということになるだろう。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第11章 共通善の政治的・社会的構造,pp.195-198,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:個人的な善,共通善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

言語の唯一現実的な現象は,全体的言語行為である. この視点は以下の正しい理解へと導く. (a)陳述とそれ以外の行為遂行的発言とは何か,(b)真偽値とは何か,(c)事実的な言明と規範的な言明とは何か,(d)言語の意味とは何か.(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

現実的な現象としての全体的言語行為

【言語の唯一現実的な現象は,全体的言語行為である. この視点は以下の正しい理解へと導く. (a)陳述とそれ以外の行為遂行的発言とは何か,(b)真偽値とは何か,(c)事実的な言明と規範的な言明とは何か,(d)言語の意味とは何か.(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(a)現実的な現象としての全体的言語行為
 全体的な言語的な状況における全体的言語行為というものが、究極的にわれわれがその解明に専念すべき唯一の現実的な現象である。
(b)陳述、記述は特別な言語現象ではない
 陳述、記述などというものは、数多くの他の発語内行為に対して与えられた名称の中の単なる二つのものであるにすぎない。これらは、唯一独特な位置を持つものではまったくない。
(c)真偽値も全体的言語現象として理解される(ただし人工的な言語で定義された場合を除く)
 ことに、これらは、真であるとか偽であるとか呼ばれる唯一独特な仕方で事実と関係しているという種類の事柄に関しても、なんら唯一独特な位置をもつものではない。なぜならば、真とか偽とかいうことは(一定の目的に限定すれば常に可能でしかも合法的なある種の人工的な抽象化による以外は)関係や性質等の名称ではなく、むしろ、言葉がそれの言及している事実、事件、状況等に関していかに満足すべきものであるかということに対する評価の一つの観点の名称だからである。
(d)事実的なものと規範的、評価的なものの正しい理解
 まったく同じ理由によって、事実的なものに対立するものとして「規範的ないし評価的なるもの」を対照させるというよく見られる方法は、他の多くの二分法と同様に、消去する必要がある。
(e)言語の「意味」についての正しい理解
 「意味と言及対象」に等しいものと考えられる「意味」の理論は、発語行為と発語内行為との区別という手段によるある種の淘汰と再構成とを確実に必要としているのではないかと考えられる。(もちろん、これらの概念が健全なものであればである。もっとも、この点に関しては、単に予告がなされたに過ぎない。)
 「私はそのなかでとくに以下の教訓を指摘、提示したいと思う。
(A)全体的な言語的な状況における全体的言語行為というものが、究極的にわれわれがその解明に専念すべき《唯一の現実的な》(the only actual)現象である。
(B)陳述、記述などというものは、数多くの他の発語内行為に対して与えられた名称の中の《単なる二つのもの》であるにすぎない。これらは、唯一独特な位置を持つものではまったくない。
(C)ことに、これらは、真であるとか偽であるとか呼ばれる唯一独特な仕方で事実と関係しているという種類の事柄に関しても、なんら唯一独特な位置をもつものではない。なぜならば、真とか偽とかいうことは(一定の目的に限定すれば常に可能でしかも合法的なある種の人工的な抽象化による以外は)関係や性質等の名称ではなく、むしろ、言葉がそれの言及している事実、事件、状況等に関していかに満足すべきものであるかということに対する評価の一つの観点の名称だからである。
(D)まったく同じ理由によって、事実的なものに対立するものとして「規範的(normative)ないし評価的(evaluative)なるもの」を対照させるというよく見られる方法は、他の多くの二分法と同様に、消去する必要がある。
(E)「意味(sense)と言及対象」に等しいものと考えられる「意味」(meaning)の理論は、発語行為と発語内行為との区別という手段によるある種の淘汰と再構成とを確実に必要としているのではないかと考えられる。(もちろん、《これらの概念が健全なものであれば》である。もっとも、この点に関しては、単に予告がなされたに過ぎない。)」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第12講 言語行為の一般理論Ⅵ,pp.248-250,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:全体的言語行為,陳述,記述,真偽値,行為遂行的発言,事実と規範,事実と評価,言語の意味)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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