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2019年9月6日金曜日

37.個人は、統治体制の影響の中で形成され、自らの可能性を実現させる。優れた諸個人の影響力は、統治体制によって合流させられ、社会をより高い段階へと発展させる。人類が最初に習得したのは、服従と勤労生活であった。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

統治体制と諸個人

【個人は、統治体制の影響の中で形成され、自らの可能性を実現させる。優れた諸個人の影響力は、統治体制によって合流させられ、社会をより高い段階へと発展させる。人類が最初に習得したのは、服従と勤労生活であった。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)統治体制と諸個人
 (1.1)統治体制から個人への影響
  個人は、統治体制の大きな影響を受けて形成される。
  (a)個人に及んでいる権威の性質と度合
  (b)権力の配分、命令と服従の諸条件
  (c)宗教的信条
 (1.2)統治体制
  統治体制は、優れた諸個人の影響力を合流させ、支配下に置いている。
 (1.3)諸個人から社会への影響
  諸個人は、様々な可能性を実現へと導くことにより、社会を一つの段階から、それよりも高い段階へと発展させる。
(2)人類の歴史
 (2.1)各人が孤立した状態
  各人が孤立して生活し、一時的な場合を除いて外的統制を免れているような状態。
 (2.2)戦闘と略奪の世界
  単調に延々と続く労働は嫌悪され、戦闘と略奪が自由に許される状態。
 (2.3)服従の習得
  一人の絶対的支配者の宗教的、軍事的な功績により、あるいは外国軍隊により、国民が服従することを習得する。服従を習得するまでは、文明段階におけるどんな進歩も事実上不可能である。どんな程度にせよ、民主政的な性格を持つ国制は、社会の種々の構成員たちが、行動の個人的自由を自発的に放棄することに依存している。
 (2.4)勤労生活の習得
  単調に延々と続く勤労生活が、社会の圧倒的大部分がひたすら従事すべきものとして強制される。こうした労働がなければ、文明社会が必要とする習慣へと精神を規律することはできないし、文明社会の受容に向けて物質面を整備することもできない。

 「社会は、諸々の影響力の合流によってのみ、これらの段階の一つからそれよりも高い段階へと発展できるのであり、そうした影響力の主なものが、諸々の影響力を支配下に置いている統治体制なのである。これまでに到達している人間改善のどの状態においても、個人を現にあるようにし、その将来の可能性を実現へと導くことができる影響力の中で、個人に及んでいる権威の性質と度合、権力の配分、命令と服従の諸条件は、宗教的信条を除けば最も強力な影響力である。特定の時代の発展段階に対する統治体制の適応に欠陥があるために、個人が発展の途中で突如停止することもある。だから、統治体制の長所には、他にかなり短所があっても、進歩とは両立するような短所であれば、その長所が必要不可欠だということに免じて大目に見てよい、といったものもある。つまり、国民がより高い段階へと向上するために踏み出す必要のある次の一歩に対して、国民に波及する統治体制の作用が有利に働く、あるいは不利に働かないという長所である。
 というわけで(以前の例をくり返すと)、未開の独立状態にあって、各人が孤立して生活し一時的な場合を除いて外的統制を免れている国民の場合、服従を習得するまでは文明段階におけるどんな進歩も事実上不可能である。したがって、この種の国民を対象として成立する統治体制に欠かせない特質は、国民を服従させるということである。これが可能となるためには、政体は専制に近いものであるか、あるいは完全な専制でなければならない。どんな程度にせよ民主政的な性格を持つ国制は、社会の種々の構成員たちが行動の個人的自由を自発的に放棄することに依存しているので、進歩のこの段階で生徒たちが必要としている最初の学習をさせることができない。したがって、こうした種族の文明化は、すでに文明化している他国民との隣接の結果でない場合は、ほとんどつねに、一人の絶対的支配者の仕事となる。その権力は宗教的あるいは軍事的な功績に由来しており、外国軍隊に由来する場合も非常に多い。
 さらに言えば、未開種族は単調に延々と続く労働を嫌悪する。最も勇猛で最も活力に富む種族は、とりわけそうである。しかし、真の文明はすべてこの対価を払っている。そうした労働がなければ、文明社会が必要とする習慣へと精神を規律することはできないし、文明社会の受容に向けて物質面を整備することもできない。しばらくの間、勤労を強制することでもなければ、こうした国民が勤労を受け容れるようになるには、諸々の状況の非常にまれな同時並存が必要であり、また、そのために非常に長い時間も必要になる。こういうわけで、奴隷制ですら、勤労生活の出発点を与え、勤労生活を社会の圧倒的大部分がひたすら従事すべきものとして強制することによって、戦闘と略奪の自由を超えた自由への移行を加速することもある。奴隷制のこの大義名分が、ごく初期の社会状態でしか成り立たないことは、ほとんど言うまでもない。文明化した国民の場合は、自分たちの影響下にある諸国民に文明を伝えるのにもっと別の方法がある。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第2章 よい統治形態の基準,pp.34-35,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:統治体制と諸個人,服従,勤労生活,統治体制)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年9月3日火曜日

35.統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、国民によって維持、発展させられ、国民を育成し、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化する。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

良い統治とは何か

【統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、国民によって維持、発展させられ、国民を育成し、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化する。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

良い統治とは何か
(1)統治とは、人間の行う行為に他ならない。
 (a)統治担当者
 (b)統治担当者を選ぶ人々
 (c)統治担当者が責任を負っている人々
 (d)以上の人々すべてに、意見によって影響を与え牽制を加える人々
(2)統治体制が、国民自身の徳と知性を育成し、促進する特性を持っていること。
 (a)統治体制を維持できる基礎的な資質が、国民にあるという前提ではある。
 (b)この特性が満たされている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。
 (c)この特定は、統治体制とそれを支える国民の徳と知性との間に、良い循環を生み出す。
(3)社会を構成する人々に、徳と知性があること。
 (3.1)道徳的資質
  自分勝手な自己利益だけを各人が重要視して、社会全般の利益でもあるような自分の利益には注目したり関心を持ったりしないならば、よい統治は望みえない。
 (3.2)知的資質
  人々が、無知蒙昧や有害な偏見の寄せ集めに過ぎないならば、よい統治は望みえない。
 (3.3)活動的資質
  被治者の高い資質は、統治機構を動かす駆動力を与えるからである。
(4)統治機構それ自体が高い質を持っていること。
 統治機構が、一定時点に現存する諸々の優れた資質を活用し、それらの資質を正しい目的のための手段としている。

 「自分勝手な自己利益だけを各人が重要視して、社会全般の利益でもあるような自分の利益には注目したり関心を持ったりしない、というのが国民全般の気風である場合には、そのような状態でのよい統治はつねに不可能である。よい統治のあらゆる要素を阻害する点で知性上の欠陥が及ぼす影響については、例示の必要もない。統治とは人間の行う行為に他ならないのであり、統治を担当する行為者、その行為者を選ぶ人々、その行為者が責任を負っている人々、あるいは、以上の人々すべてに意見によって影響を与え牽制を加える人々が、無知蒙昧や有害な偏見の寄せ集めにすぎないならば、統治のあらゆる働きがうまくいかない。他方、これらの人々がこの水準を上回るのに比例して、統治体制の質は向上する。自分自身もすぐれた徳と知性をそなえている統治担当者が、有徳で開明された世論という雰囲気に包まれている場所でしか達成できない、卓越した水準にまで到達することになる。
 したがって、よい統治の第一の要素は、社会を構成する人々の徳と知性であるから、統治形態が持ちうる長所の中で最も重要なのは、国民自身の徳と知性を促進するという点である。政治制度に関する第一の問題は、さまざまな望ましい知的道徳的な資質を社会成員の中でどこまで育成することに役立つかである。いやむしろ(ベンサムのもっと完成度の高い分類に従えば)、道徳的資質、知的資質、活動的資質の育成に役立つかである。この点で最善の貢献をしている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。なぜなら、あくまでもこれらの資質が国民の中にあるという前提での話だが、統治体制が実際に良好に機能する可能性全体を左右するのは、これらの資質に他ならないからである。
 そこで、集団的にも個人的にも被治者のすぐれた資質の総量を増大させるのに役立っている度合いを、統治体制のよさを判断する基準の一つと考えてよいだろう。なぜなら、被治者の幸福は統治の唯一の目的であるけれども、さらに言えば、被治者の高い資質は統治機構を動かす駆動力を与えるからである。
 統治体制の長所のもう一つの構成要素としては、機構それ自体の質が残されている。つまり、機構が、一定時点に現存する諸々のすぐれた資質を活用し、それらの資質を正しい目的のための手段としている度合いである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第2章 よい統治形態の基準,pp.28-29,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:良い統治,国民の徳と知性,統治,統治体制)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年9月1日日曜日

33..政治機構は、人々の能力や資質の現状に適合していなければ、その目的を実現することができない。(1)統治体制の受け容れ、(2)統治体制を守るための能力と行動、(3)統治目的を実現するための能力と行動(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

統治体制と国民の能力、資質

【政治機構は、人々の能力や資質の現状に適合していなければ、その目的を実現することができない。(1)統治体制の受け容れ、(2)統治体制を守るための能力と行動、(3)統治目的を実現するための能力と行動(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 政治機構は、人々の能力や資質の現状に適合していなければ、その目的を実現することができない。以下の3条件の全てが満たされている必要がある。
(1)統治体制の受け容れ
 特定の統治形態の適用対象となる国民は、それを進んで受け容れていなければならない。あるいは少なくとも、その統治形態を確立するのに克服不可能な障害となる程度にまでは嫌がってはいないことが必要である。
(2)統治体制を守るための能力と行動
 国民は、その統治形態の存続に必要な事物を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。例えば、自由な統治に必要な能力と行動は次のようなものである。
 (2.1)公共精神、注意深さ、勇敢さ、勤勉さ
  不適切な例:怠惰、不注意、臆病、公共精神の欠如のために、自由な統治の維持に必要な努力を行えない。
 (2.2)自由の侵害に対する戦い
  不適切な例:自由な統治が直接攻撃されているときに、自由な統治のために戦わない。
 (2.3)欺瞞を見破る知性
  不適切な例:国民を自由な統治から逸脱させようとして使われる欺瞞に、国民がのせられてしまう。
 (2.4)専制や独裁から国民の主権を守る
  不適切な例:国民が、一時的な落胆やパニックのために、あるいは一個人に対する発作的熱狂のために、大人物の足下に自分たちの自由を投げだしてしまう。あるいは、制度を転覆できるような権力をその人物に委ねたりする。
(3)統治目的を実現するための能力と行動
 国民は、その統治形態の目的を達成するために国民に求められる物事を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。例えば、不適切な例は次のとおりである。
 (3.1)国民の義務の履行
  不適切な例:統治形態によって求められている義務を果たすのに消極的であり、その能力を欠いている。
 (3.2)法と統治への共感と法の遵守
  不適切な例:法に共感を持ち法の執行に進んで協力するのではなく、法に公然と背く人々よりも、法の執行者を邪悪な敵とみなす。
 (3.3)統治体制への関心と適切な投票
  不適切な例:選挙人の大半が、自分たち自身の統治体制に無関心なために投票しない。
 (3.4)公的な根拠に基づいた投票
  不適切な例:投票はするにしても、公的な根拠にもとづいて投票せずに、買収されて投票したり、自分を支配している人とか、私的な理由で機嫌をとりたいと思っている人の言いなりになって投票したりする。
 「他方、政治機構はひとりでには動かない、ということにも留意すべきである。最初に人間が作るのだから、人間が動かさねばならない。しかも、ふつうの人間がである。政治機構に必要なのは人々の服従だけではなく人々の活発な参加だから、政治機構は人々の能力や資質の現状に適合していなければならない。これは、三つの条件を含意している。〔第一に〕特定の統治形態の適用対象となる国民は、それを進んで受け容れていなければならない。あるいは少なくとも、その統治形態を確立するのに克服不可能な障害となる程度にまでは嫌がってはいないことが必要である。〔第二に〕国民は、その統治形態の存続に必要な事物を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。そして、〔第三に〕国民は、その統治形態の目的を達成するために国民に求められる物事を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。ここでの「行う」という語は、作為と不作為の双方を含むと解すべきである。すでに確立している政体を存続させるためには、あるいは、特定の政体を推奨する理由としてその政体ならば達成できるとされている目的を達成するためには、行為や自制の点で必要な条件を国民は満たせなければならない。
 これらの条件すべてが満たされるのであればどれほど望ましい見通しが得られる統治形態であっても、いずれかが満たされていない事例では適合性がない。
 特定の統治形態に対する国民の嫌悪という第一の障害は、理論上、見落としはありえないから、例解は不要だろう。こういう事態は絶えず生じている。」(中略)
 「しかし、ある統治形態を国民が嫌っていないにもかかわらず、おそらくは望んですらいるにもかかわらず、そのための条件〔第二の条件〕を積極的に満たそうとしない、あるいは満たせない、ということもある。統治体制を名目的にでも存続させるのに必要な物事ですら、国民が行えないこともあるだろう。国民が自由な統治を選好しているとしても、自由にまったく不向きなときがある。怠惰、不注意、臆病、公共精神の欠如のために、自由な統治の維持に必要な努力を行えない、自由な統治が直接攻撃されているときに自由な統治のために戦わない、あるいは、国民を自由な統治から逸脱させようとして使われる欺瞞に国民がのせられてしまう場合がそうである。国民が、一時的な落胆やパニックのために、あるいは一個人に対する発作的熱狂のために、大人物の足下に自分たちの自由を投げだしてしまったり、制度を転覆できるような権力をその人物に委ねたりする場合も同様である。こうした国民にとっても、たとえ短期間でも自由な統治を手にするのはよいことだろうが、しかし、彼らが長期にわたって自由な統治を享受する見込みはない。
 さらに、国民が自分たちの統治形態によって求められている義務を果たすのに消極的な場合や、能力を欠いている場合〔第三の条件を満たしていない場合〕もある。」(中略)「劣悪な統治が国民に、法は国民の善以外の目的のために作られていると教え、法に公然と背く人々よりも法の執行者を邪悪な敵とみなすように教えたのである。しかし、こうした精神の習慣がはびこってしまっている人々に責任はないとしても、また、よい統治によってこの習慣が最終的には克服可能だとしても、ともかくこの習慣が存在する限り、以上のような傾向のある国民は、法に共感を持ち法の執行に進んで協力する国民のように、わずかな権力行使で統治するのは不可能である。さらにまた、選挙人の大半が、自分たち自身の統治体制に無関心なために投票しない場合、あるいは、投票はするにしても、公的な根拠にもとづいて投票せずに、買収されて投票したり、自分を支配している人とか私的な理由で機嫌をとりたいと思っている人の言いなりになって投票したりする場合、代議制は無価値であり、暴政や陰謀のたんなる道具になってしまうだろう。そのようにして行われる民主的選挙は、悪政の防止策どころか、悪政の装置の追加部品でしかない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第1章 統治形態はどの程度まで選択の問題か,pp.4-7,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:統治体制,国民の能力・資質,統治体制の受容,統治体制維持能力,統治目的実現能力)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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