決定性は、時間的な概念である
時間的な構造において予測可能でなかったり、未来が一つに決定されていなくても、過去から未来までの全存在が決定されていると思われるのは、我々自身が時間的な存在であることによる認識上の限界である。なぜなら、決定性の概念が時間の存在を前提にしているからである。(ボエティウス(480-524)『哲学の慰め』)
(a)決定性は時間的な概念である
未来が決定されているかどうかという概念自体が、時間の存在を前提にしている。一つの存在として存在している全存在は、時間を超えており、決定されているかどうかを問うことは無意味である。(持続的な概念と永遠的な概念)
(b)認識は、我々の限界に服する
我々自身が時間的な存在なので、時間の存在を前提にした決定性の概念は理解することができる。しかし、時間を超えた概念はたとえ理解できなくとも、それは我々の存在の限界なのであって、全宇宙の存在の真の姿は同じ概念で理解可能とは限らない。
(ボエティウス(480-524)『哲学の慰め』,第5部,6,pp.229-235,岩波文庫,1950,畠中尚志(訳),https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000871187-00 )




























「どんなものも、その本性において見れば、完全だとも不完全だとも言われないであろう。特に、生起する一切のものは永遠の秩序に従い、一定の自然法則に由って生起することを我々が知るであろう後は。」(中略)「人間はしかし無力のためその思惟によってこの秩序を把握できない。だが一方人間は、自分の本性よりはるかに力強い或る人間本性を考え、同時にそうした本性を獲得することを全然不可能とは認めないから、この完全性[本性]へ自らを導く手段を求めるように駆られる。そしてそれに到達する手段となり得るものがすべて真の善と呼ばれるのである。最高の善とはしかし、出来る限り、他の人々と共にこうした本性を享受するようになることである。ところで、この本性がどんな種類のものであるかは、適当な場所で示すであろうが、言うまでもなくそれは、精神と全自然との合一性の認識(cognitio unionis quam mens cum tota Natura habet)である。」
