2024年3月31日日曜日

16. 純粋なる関係のなかできみは、他のいかなる関係のなかでも感ずることができぬように、きみがまったく依存しているのを感じていた、――しかもきみは、他のいかなる時と所においてもあり得ぬように、きみがまったく自由であるのを感じていたはずだ。(マルティン・ブーバー(1878-1965)

 純粋なる関係のなかできみは、他のいかなる関係のなかでも感ずることができぬように、きみがまったく依存しているのを感じていた、――しかもきみは、他のいかなる時と所においてもあり得ぬように、きみがまったく自由であるのを感じていたはずだ。(マルティン・ブーバー(1878-1965)





「神との関係における本質的な要素は感情であると見なされがちで、それは、依存感情(Abhängigkeitsgefühl)と名づけられたり、最近ではより正確に、被造物感情(Kreaturgefühl)と名づけられたりしている。

が、このような要素の摘出・定立が正当であるだけに、それを不均衡に強調すればするほど、完全なる関係というものの本質は誤解されてしまうのである。

 愛についてすでに私が語ったことは、この場合には一層よくあてはまる。すなわち感情とはただ関係的事実に、しかも心のうちにではなく、《我》と《汝》とのあいだに生ずる関係の事実に付随するにすぎない。

感情はいかに重要なものとして理解されていようとも、心の力学の支配下におかれているのであって、そこではひとつの感情は他の感情によって追い越されたり、凌駕されたり、消去されたりするのである。感情は――関係とは異なって――ひとつの階列のうちにおかれているのである。

だが、あらゆる感情は何よりも先ず、一種の両極的な緊張の内部に位置していて、その色調や意味をみずからのうちからのみではなく、自己の対極からも引き出すのだ。あらゆる感情はそれぞれ対立するものによって限定されているわけである。

したがって、絶対的関係という、あの、あらゆる相対的関係を自己の現実性のうちに包括していて、それらと同様な部分的な出来事ではなく、それらを完成し合一する全体であるものでさえ、心理学の手にかかると相対化されて、一種の孤立的に摘出され限定された感情に還元されてしまうのである。

 心情という次元からみるなら、完全なる関係というものは、ただ両極的に、反対の一致(coincidentia oppositorum)として、すなわち対立しあう感情の一致としてのみとらえられる。

たしかに、その一方の極はしばしば――人間の宗教的な根本態度によって下方に押しかくされて――反省的意識の表層からは消え去り、そしてただ、このうえなく純粋で、何ものにも惑わされぬ静観の深みにおいてのみ想起され得るのだが。

 そうだ、純粋なる関係のなかできみは、他のいかなる関係のなかでも感ずることができぬように、きみがまったく依存しているのを感じていた、――しかもきみは、他のいかなる時と所においてもあり得ぬように、きみがまったく自由であるのを感じていたはずだ。

きみはそのとき自己を被造的な――しかも同時に創造的な生命として感じていた。きみにはそのときもはや、他方によって制限されたそのどちらか一方ではなくて、両方が無制限に、両方が相い共に存在していたのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第3部(集録本『我と汝・対話』)pp.107-108、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話







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