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2018年7月19日木曜日

仮に、物理的な状況や、苦痛や憤慨などの情動、心理的な状況の詳細を記述し尽くしたとしても、「いかなる倫理的意味においても善または悪ではない」。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

倫理学と心理的なもの

【仮に、物理的な状況や、苦痛や憤慨などの情動、心理的な状況の詳細を記述し尽くしたとしても、「いかなる倫理的意味においても善または悪ではない」。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
 (3.5.1)仮に、物理的な状況や、苦痛や憤慨などの情動、心理的な状況の詳細を記述し尽くしたとしても、「いかなる倫理的意味においても善または悪ではない」。

(再掲)
(1)事実の表明としての世界の中には、「価値」は存在しない。
 (1.1)世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。
 (1.2)全ての生起は偶然的であり、世界の中には「価値」は存在しない。
 (1.3)従って、命題が事実だけを表明し得るのだとすれば、命題はより高貴なものを表現し得ず、全ての命題は等価値である。
(2)「価値」は、世界の外に存在する。倫理学は超越的である。
 (2.1)故に、倫理学が事実の命題として表明され得ないことは、明らかである。すなわち、「倫理学は超越的である」。また、「倫理学と美学とは一つである」。
 (2.2)価値のある価値が存在するならば、それは偶然的な生成の世界の外に存在するに違いない。偶然的でないものは、世界の中にあることはできない。価値は、世界の外になければならない。
(3)では、倫理的なものとは何か。
 (3.1)倫理的なものは、「汝……なすべし」という形式の倫理法則によって、価値づけられるのではない。
 (3.2)また、行為の帰結による通常の意味の賞罰によって、価値づけられるのではない。
 (3.3)また、行為の帰結として出来事によって、価値づけられるのではない。
 (3.4)確かに、倫理的な賞罰が存在し、賞が好ましく、罰が好ましくないものに相違ないことも明らかであるが、賞罰は行為そのものの中になければならないのである。
 (3.5)「倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」

 「さて、おそらく皆様の中である方々は以上の点に同意され、そして「何ものも善または悪ではない。思考のみがそれを善または悪となす」というハムレットの言葉を想い起こされるかも知れません。しかし、これもまた誤解を生む恐れがあります。ハムレットの言葉は、善悪はわれわれの外にある世界の性質ではないとしても、われわれの精神状態の属性である、という含みをもっていると思われます。しかし、私の言おうとすることは、ある精神状態とは、それがわれわれに記述できるある事実であるということを意味している限りでは、いかなる倫理的意味においても善または悪ではない、ということであります。たとえば、さきの世界のことを書いた本の中に殺人の記述があり、物理的・心理的にその詳細を描き尽しているのをわれわれが読んでも、これらの事実の単なる記述には《倫理的》命題と呼び得るものは何も含まれていないでしょう。殺人は何か他の出来事、たとえば落石とまったく同じ次元にあることになりましょう。たしかに、この記述を読めば、われわれには苦痛とか憤慨とかあるいは何かその他の情動がひき起こされるかも知れず、あるいはまた、他人がこの殺人のことを聞けば、それによって彼らのうちにひき起こされる苦痛や憤慨のことを読んで知ることはできるでしょうが、存在するのはただ事実、事実、事実だけであり、倫理学ではないでしょう。そして、かりに倫理学というような科学が存在するとしたら、それは本当はどのようなものでなければならないであろうかと熟慮してみれば、以上の帰結は私にはきわめて自明と思われるのです―――今や私はこう言わざるを得ません。およそわれわれが考えあるいは語り得ると思われるものはいずれも《ほかならぬこの》ものではない、ということ、その主題が本質的に崇高であり、他のあらゆる主題を超えることができると思われるような科学の本をわれわれは書くことができない、ということ―――これは私には自明と思われます。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『倫理学講話』、全集5、pp.386-387、杖下隆英)
(索引:価値,倫理学,事実,心理学)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
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2018年7月16日月曜日

事実の叙述は、絶対的価値の判断ではあり得ない。しばしば価値表明は、特定の目的が暗黙で前提されており、その目的(価値)に対する手段としての相対的価値の判断である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

絶対的価値と相対的価値

【事実の叙述は、絶対的価値の判断ではあり得ない。しばしば価値表明は、特定の目的が暗黙で前提されており、その目的(価値)に対する手段としての相対的価値の判断である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
下記(1.3)の補足説明である。
 (1.3.1)『「これがグランチェスターにゆく正しい道だ」と言う代わりに、私には「もし最短時間でグランチェスターに着きたいなら、これが君の行かなければならない正しい道だ」と言うこともできたでしょうし、それでも十分に同じことであります』。
 (1.3.1.1)目的(最短時間で着きたい)を与えて、その手段を展開することは、事実の表明である。
 (1.3.1.2)ある手段(この道が正しい)は、特定の目的を前提した限りで、他の手段と比較して「正しい」のであり、「相対的価値の判断」である。すなわち、「事実の叙述はいずれも絶対的価値の判断ではあり得ない」。
 (1.3.1.3)目的自体は、事実の世界の外から与えられている。

(再掲)
(1)事実の表明としての世界の中には、「価値」は存在しない。
 (1.1)世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。
 (1.2)全ての生起は偶然的であり、世界の中には「価値」は存在しない。
 (1.3)従って、命題が事実だけを表明し得るのだとすれば、命題はより高貴なものを表現し得ず、全ての命題は等価値である。
(2)「価値」は、世界の外に存在する。倫理学は超越的である。
 (2.1)故に、倫理学が事実の命題として表明され得ないことは、明らかである。すなわち、「倫理学は超越的である」。また、「倫理学と美学とは一つである」。
 (2.2)価値のある価値が存在するならば、それは偶然的な生成の世界の外に存在するに違いない。偶然的でないものは、世界の中にあることはできない。価値は、世界の外になければならない。
(3)では、倫理的なものとは何か。
 (3.1)倫理的なものは、「汝……なすべし」という形式の倫理法則によって、価値づけられるのではない。
 (3.2)また、行為の帰結による通常の意味の賞罰によって、価値づけられるのではない。
 (3.3)また、行為の帰結として出来事によって、価値づけられるのではない。
 (3.4)確かに、倫理的な賞罰が存在し、賞が好ましく、罰が好ましくないものに相違ないことも明らかであるが、賞罰は行為そのものの中になければならないのである。
 (3.5)「倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」

 「この相違の本質は明らかにつぎの点にあると思われます―――すなわち、相対的価値の判断はいずれも単なる事実の叙述に過ぎず、したがって、価値判断としての外見を完全になくしてしまうような形にすることができる、という点であります。「これがグランチェスターにゆく正しい道だ」と言う代わりに、私には「もし最短時間でグランチェスターに着きたいなら、これが君の行かなければならない正しい道だ」と言うこともできたでしょうし、それでも十分に同じことであります―――「この男はよい走者だ」は、彼は何マイルかを何分間で走る、ということをいっているに過ぎず、他の場合も同様であります。さて、私が強く主張したいのは、相対的価値の判断はすべて単なる事実の叙述に過ぎない、ということを示すことができるとしても、事実の叙述はいずれも絶対的価値の判断ではあり得ないか、あるいはそれを含むことはできない、ということであります。この点を説明しましょう―――皆様方のどなたかが全知の人間であり、したがって、この世界の全生物または無生物のあらゆる動きを御存知であり、また、およそこの世にある全人間のあらゆる精神状態を御存知である、と仮定し、また、この人が自分の知っていることのすべてを大きな一冊の本に書いたと仮定すると、この本は世界の完全な記述を含むことになるでしょう―――そして、私が言いたいのは、この書はわれわれが《倫理的》判断と呼ぶと思われるもの、あるいは何かこのような判断を論理的に含むと思われるものは一切含まないであろう、ということであります。それはむろん、すべての相対的価値判断とすべての科学的に真である命題と、そして事実、主張し得る真なる命題のすべてを含んでおりましょう。しかし、記述された事実はすべて、いわば同じ次元にあることになりましょうし、また同様にして、全命題も同次元上にあるわけであります。なんらかの絶対的な意味で、崇高な、あるいは重要な、あるいは瑣末な命題は一切存在しません。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『倫理学講話』、全集5、pp.385-386、杖下隆英)
(索引:価値,倫理学,事実,絶対的価値,相対的価値)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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2018年7月15日日曜日

価値は、事実としての世界の中では表明し得ない。倫理的なものは、倫理法則や賞罰、行為の帰結とは関係がないが、好ましいものとして、または好ましくないものとして、行為そのものの中に存在する。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

価値、倫理的なもの

【価値は、事実としての世界の中では表明し得ない。倫理的なものは、倫理法則や賞罰、行為の帰結とは関係がないが、好ましいものとして、または好ましくないものとして、行為そのものの中に存在する。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

(1)事実の表明としての世界の中には、「価値」は存在しない。
 (1.1)世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。
 (1.2)全ての生起は偶然的であり、世界の中には「価値」は存在しない。
 (1.3)従って、命題が事実だけを表明し得るのだとすれば、命題はより高貴なものを表現し得ず、全ての命題は等価値である。
(2)「価値」は、世界の外に存在する。倫理学は超越的である。
 (2.1)故に、倫理学が事実の命題として表明され得ないことは、明らかである。すなわち、「倫理学は超越的である」。また、「倫理学と美学とは一つである」。
 (2.2)価値のある価値が存在するならば、それは偶然的な生成の世界の外に存在するに違いない。偶然的でないものは、世界の中にあることはできない。価値は、世界の外になければならない。
(3)では、倫理的なものとは何か。
 (3.1)倫理的なものは、「汝……なすべし」という形式の倫理法則によって、価値づけられるのではない。
 (3.2)また、行為の帰結による通常の意味の賞罰によって、価値づけられるのではない。
 (3.3)また、行為の帰結として出来事によって、価値づけられるのではない。
 (3.4)確かに、倫理的な賞罰が存在し、賞が好ましく、罰が好ましくないものに相違ないことも明らかであるが、賞罰は行為そのものの中になければならないのである。
 (3.5)「倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」
 「六・四 全ての命題は等価値である。
 六・四一 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。世界《の中に》は価値は存在しない。そして仮に存在するとしても、それは価値を持たないであろう。
 価値のある価値が存在するならば、それは全ての生起や、かくあり(So-Sein)の外になければならない。何故なら全ての生起やかくありは、偶然的だからである。
 それらを偶然でなくするものは、世界《の中に》あることはできない。世界の中にあるとすれば、これも又偶然的であろうからである。
 それは世界の外になければならない。
 六・四二 それ故倫理学の命題も存在しえない。
 命題はより高貴なものを表現しえない。
 六・四二一 倫理学が表明されえないことは明らかである。
 倫理学は超越的である。
 (倫理学と美学とは一つである。)
 六・四二二 「汝……なすべし」という形式の倫理法則が提起される時に、先ず念頭に浮ぶ考えは、「そして私がそうしなければどうなるのか」ということである。しかし倫理学が通常の意味での賞罰と関係ないことは明らかである。従って行為の《帰結》に関するこの問は些細なものでなければならない。少なくともこの帰結が出来事であってはならない。というのもこの問題提起にはやはり正しいところがあるはずだからである。たしかにある種の倫理的な賞罰が存在するに相違ない。しかし賞罰は行為そのものの中になければならないのである。
 (そして賞が好ましいもの、罰が好ましくないものに相違ないことも、又明らかである。)
 六・四二三 倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。
 そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『論理哲学論考』六・四~六・四二三、全集1、pp.116-117、奥雅博)
(索引:価値,倫理学,事実,倫理法則,賞罰)

ウィトゲンシュタイン全集 1 論理哲学論考


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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2018年1月12日金曜日

科学は、事実に基礎をおいており、誰が正しく誰が間違っているのかを、完全な明晰さをもって結論づけられるようなものだ。またそれは単に、検証可能な量的予測の技術なのではなく、この世界の真の仕組みを理解しようとする営みである。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

科学とは何か?

【科学は、事実に基礎をおいており、誰が正しく誰が間違っているのかを、完全な明晰さをもって結論づけられるようなものだ。またそれは単に、検証可能な量的予測の技術なのではなく、この世界の真の仕組みを理解しようとする営みである。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】
 科学史をめぐる社会学は、科学もさまざまな文化的・社会的影響力のもとにあることを明らかにした。しかし科学の成果物は、文化相対主義者が主張するように、偶然的で恣意的なものではない。科学的思考は、事実に基礎をおいており、誰が正しく誰が間違っているのかを、完全な明晰さをもって結論づけることができるようなものなのである。また、科学を単に、「計測可能な予見を実行するための技術」と捉えるのは間違っている。これは、科学を数字による未来予測に矮小化している。検証可能な量的予測は、仮説を精査するための手段にすぎない。科学の目的は、この世界の真の仕組みを理解することにある。
 「科学史をめぐる社会学は、科学的な知見の発展過程がいかに複雑であるかを明らかにした。この点については、科学もまた、ほかのあらゆる知的営みと同様である。科学の歩みは時として、不合理な思索に足をすくわれる。権力闘争に巻きこまれることもあれば、さまざまな文化的・社会的影響力に振り回されることもある。しかし、たとえ科学の発展が世俗的なしがらみと無縁でいられないとしても、ポストモダニズムの考えに染まった一部の論客や、文化相対主義者や、そのほか有象無象の手合いによる極端な主張とは反対に、科学的思考の実践的かつ理論的な有効性は、いささかも揺らぐことはない。科学的思考は、事実に基礎をおいている。だからこそ、最終的にはほとんどのケースにおいて、誰が正しく誰が間違っているのかを、完全な明晰さをもって結論づけることができる。あの偉大なアインシュタインでさえ、ときにはこう言わなければならなかったのである(そして実際、彼はこのとおりのことを口にしている)。「ああ、わたしが間違っていた!」
 とはいえ、科学を単に、「計測可能な予見を実行するための技術」と捉えるのは間違っている。一部の科学哲学者は、科学を数字による未来予測に矮小化している。わたしにいわせれば、これは見当違いの誤解である。この種の学者たちは、手段と目的を取り違えている。検証可能な量的予測は、仮説を精査するための手段にすぎない。科学研究の目的は、未来を予測することではなく、世界の仕組みを理解することである。世界をめぐるイメージや、世界について考えるための概念的な手段を、科学は構築し、発展させようとする。科学とは、「技術」を提示するより前に、まずもって「見方」を提示する営みなのである。」
(カルロ・ロヴェッリ(1956)『現実は私たちに現われているようなものではない』(日本語名『すごい物理学講義』)第4部 空間と時間を超えて、第9章 実験による裏づけとは?、pp.207-208、河出書房新社(2017)、竹内薫(監訳)、栗原俊秀(訳))
(索引:科学、事実、検証可能性、文化相対主義)


すごい物理学講義


カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
カルロ・ロヴェッリ(1956)
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