2022年1月7日金曜日

法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。純一性としての法は、なぜ諸部門へと区分されるのか自体も、諸原理によって解釈できるような理論によって、純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方で難解な事案を解決する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法の諸部門と純一性について

法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。純一性としての法は、なぜ諸部門へと区分されるのか自体も、諸原理によって解釈できるような理論によって、純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方で難解な事案を解決する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)法の諸部門
 法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。経済的ないし身体的損害から情緒的損害を区別し、非意図的な不法行為から意図的な不 法行為を、犯罪から不法行為を、契約以外のコモン・ローの諸分野から契約を、公法から私法 を、そして更に公法の他の諸分野から憲法を区別している。

(b)事案の法部門への割当てとその影響
 通常、判決に示された意見は当該事案を何らかの法部 門へと割当てることから始まり、考慮される先例や制定法はもっぱらこの法部門から引き出さ れるのが常である。そして、最初に行なわれるこの分類はしばしば異論の余地があると同時に 決定的に重要な意味をもつ場合がある。
(c)プラグマティズム法学の主張
 プラグマティストは、自分の新しい法 理論が過去の判決と原理において整合する必要がない理由を説明するために、過去の判決を正 しく理解すれば、これが異なった法部門に属することを主張する。
(d) 純一性としての法の主張
 (i)純一性の司法上の原理は裁判官に対 して法を可能なかぎり総体として整合的なものにすることを要求するが、このことは、学問上 の境界線を無視し、法の幾つかの分野を根本的に修正してこれらを他の分野と原理において一 層整合的なものにすることによって、よりよく達成されるかもしれない。
 (ii)しかし他 方、純一性としての法は、解釈的な立場である。法が諸部門へと区分されていることが法実務の特 徴であれば、適格であることを目指すいかなる解釈もこの特徴を無視することはできない。 
 (iii)諸部門へと区分されている法の在り方について構成的解釈を試みる。すなわち、なぜ諸部門へと区分されるのか自体も、諸原理によって解釈できるような理論をめざすことによって、純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方で難解な事案を解決する。


「法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。ロー・スクールは 教科過程を法の分野別に区分し、ロー・スクールの図書館も論文も同じく分野別に区分するこ とで、経済的ないし身体的損害から情緒的損害を区別し、非意図的な不法行為から意図的な不 法行為を、犯罪から不法行為を、契約以外のコモン・ローの諸分野から契約を、公法から私法 を、そして更に公法の他の諸分野から憲法を区別している。法をめぐる議論や司法上の議論は これらの伝統的な区別を尊重している。通常、判決に示された意見は当該事案を何らかの法部 門へと割当てることから始まり、考慮される先例や制定法はもっぱらこの法部門から引き出さ れるのが常である。そして、最初に行なわれるこの分類はしばしば異論の余地があると同時に 決定的に重要な意味をもつ場合がある。  法を諸部門へと区分することは、それぞれ異なった理由によるが慣例主義とプラグマティズ ムの両者の考え方に適合している。法の諸部門は伝統に基礎を置いており、これは慣例主義を 支持するように思われる。そして、これらの諸部門は、プラグマティストが例の高貴なる虚言 を語る際に操作可能な戦略を提供してくれる。つまり、プラグマティストは、自分の新しい法 理論が過去の判決と原理において整合する必要がない理由を説明するために、過去の判決を正 しく理解すればこれが異なった法部門に属することを主張できるからである。これに対して、 純一性としての法は、法を諸部門へと区分することに対してもっと複雑な態度をとる。その一 般的な精神は、このような区分を断罪する。なぜならば、純一性の司法上の原理は裁判官に対 して法を可能なかぎり総体として整合的なものにすることを要求するが、このことは、学問上 の境界線を無視し、法の幾つかの分野を根本的に修正してこれらを他の分野と原理において一 層整合的なものにすることによって、よりよく達成されるかもしれないからである。しかし他 方、純一性として法は解釈的な立場である。法が諸部門へと区分されていることが法実務の特 徴であれば、適格であることを目指すいかなる解釈もこの特徴を無視することはできない。  ハーキュリーズは、諸部門へと区分されている法の在り方について構成的解釈を試みること で、前記の競合する要請に答えようとする。彼は、法を諸部門へと区分する実践を説明する際 に、当の実践を最善の光のもとに示すような説明を見い出そうと努める。諸部門の間に設けら れた境界は、一般の人々の見解と普通は一致している。例えば、多くの人々は故意の加害行為 が不注意による加害行為よりも強い非難に値すると考えており、国家がある人間に対して彼が 惹起した損害の賠償金を支払うように要求する場合と、同じく国家がある人間を犯罪について 有罪と宣告する場合とでは、非常に異なった種類の正当化が必要となること、等々についても 同様である。この種の一般的な意見に合わせて法の諸部門を区別すれば予測可能性は促進さ れ、公職者が突然に解釈を変えて法の広汎な諸領域を根絶やしにしてしまうようなことも未然 に防げるわけであり、しかも純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方でこ れを達成できるのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第7章 法における純一性,法――情緒的 損害の問題,未来社(1995),pp.389-390,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



自分が求めもせず、持つことを自分で決めたわけでもないものを、ある人間が単に受け取っただけで当の人間が道徳的な影響を被るようなことはあるだろうか。家族や隣人との関係における連帯責務がそれであり、政治的責務もまた同じである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的責務は連帯責務である

自分が求めもせず、持つことを自分で決めたわけでもないものを、ある人間が単に受け取っただけで当の人間が道徳的な影響を被るようなことはあるだろうか。家族や隣人との関係における連帯責務がそれであり、政治的責務もまた同じである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)役割上の責務、連帯責務、共同責務
 ある種の生物学的ないし社会的集団のメンバーに対して、社会的慣行が帰している特別の責任であり、家族や友人や隣人たちの責任がこれにあたる。
(b)連帯責務は選択や同意によらない
 大抵の人々は、社会的慣行によって限定されたあるタイプの集団に 属しているだけで自分たちが連帯責務に服することになり、これは必ずも選択や同意の問題で はないと考えられている。
(c)互恵的でない場合の解除が可能
 他方で彼らは、当の集団に属することから生ずる利益を、集団の他のメンバーが自分たちにまで及ぼしてくれないならば、自分たちがこの種の責務に服することを停止することもありうると考えている。
(d)政治的責務が選択や同意によらない連帯責務と考えることへの反発
 (i)連帯責務が情緒的な絆に依存しているという誤解
  共同の責任というものは、社会の各メンバーが他の すべての人々と個人的な知り合いであることを前提とするような情緒的な絆に依存すると広汎 に考えられており、言うまでもなくこのようなことは、大規模な政治共同体には当てはまらな いからである。
 (ii)国家規模の連帯責務という理念の全体主義的なイメージへの反発
  大規模で匿名的な政治共同体の中にも特別な共同の責任が存在すると いう考え方には、国粋主義ないし更に人種差別主義じみたところさえあり、これら両者はともに 大いなる苦悩と不正の源となってきたからである。


 「自分が求めもせず、持つことを自分で決めたわけでもないものをある人間が単に受け取っ ただけで当の人間が道徳的な影響を被るようなことはありえない、という主張は本当に正しい だろうか。もし我々が、宣伝カーに乗った哲学者のような赤の他人によって我々に利益が押し つけられる場合を考えるならば、この主張は正しいと思われるだろう。ところが、我々が役割 上の責務としばしば呼ばれているような義務――私はこの義務を総称して連帯 (associative)責務ないし共同(communal)責務と呼ぶことにする――を念頭に置くとき は、我々の信念は全く異なったものになる。私が言っているのは、ある種の生物学的ないし社 会的集団のメンバーに対して社会的慣行が帰している特別の責任であり、家族や友人や隣人た ちの責任がこれにあたる。大抵の人々は、社会的慣行によって限定されたあるタイプの集団に 属しているだけで自分たちが連帯責務に服することになり、これは必ずも選択や同意の問題で はないと考えられているが、他方で彼らは、当の集団に属することから生ずる利益を集団の他 のメンバーが自分たちにまで及ぼしてくれないならば、自分たちがこの種の責務に服すること を停止することもありうると考えている。連帯的な責任についてのこのような共通の想定は、 政治的責務もこの種の責任の一つに数えられるかもしれないことを示唆しており、もしそうで あるならば、フェア・プレイによる論証に向けられた二つの反論はもはや正鵠を射たものとは 言えなくなるだろう。しかし、概して哲学者たちはこの可能性を無視してきており、私の考え ではこれには二つの理由がある。第一に、共同の責任というものは、社会の各メンバーが他の すべての人々と個人的な知り合いであることを前提とするような情緒的な絆に依存すると広汎 に考えられており、言うまでもなくこのようなことは、大規模な政治共同体には当てはまらな いからである。第二に、大規模で匿名的な政治共同体の中にも特別な共同の責任が存在すると いう考え方には国粋主義ないし更に人種差別主義じみたところさえあり、これら両者はともに 大いなる苦悩と不正の源となってきたからである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第6章 純一性,共同体の責務,未来社 (1995),pp.308-310,小林公(訳))
ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




政治的正当性の基礎は同胞関係にあり、政治的責務というものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたことに基礎を持つ。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的責務の基礎

政治的正当性の基礎は同胞関係にあり、政治的責務というものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたことに基礎を持つ。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(1)政治的正当性の基礎は同胞関係にある
 (a)政治的正当性、すなわち政治共同体がそのメンバーたちを共同体の集団的決定を理由に責務に服しているものとして取り扱う権利の最善なる擁護は、同胞関係や共同社会、そしてこれらに随伴する様々な責務の、より肥沃な地盤に見出されねばならない。
 (b)見知らぬ人々の間でも妥当するような契約とか正義の義務とかフェア・プレイの責務といったものではない。

(2)政治的責務は連帯責務である
 政治的責務というものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたことに基礎を持つ。
(3) 様々な同胞的共同体
 (a)我々に知られている様々な同胞的共同体を、完全な選択によってメンバーになるものから、選択の余地が全くないものへと 及ぶスペクトルに沿って配置したとき、政治共同体はその中央部分のどこかに位置づけられ る。政治共同体は人々に移住を許しているのであるから、政治的責務は家族が負う数多くの責 務ほどには非意図的なものではない。
 (b)移住の自由の意義
  移住の選択の実際上の可能性はしばしばごくわ ずかでしかないが、それにもかかわらず移住の選択を否定する暴政を想起すれば分かるよう に、この選択はそれ自体において重要な意味をもつ。



「ついに我々は、我々の仮説を直接的に考察することができるようになった。つまり、政治 的正当性――政治共同体がそのメンバーたちを、共同体の集団的決定を理由に責務に服している ものとして取り扱う権利――の最善なる擁護は、見知らぬ人々の間でも妥当するような契約とか 正義の義務とかフェア・プレイの責務といった堅い地盤――哲学者たちは、このような地盤に政 治的正当性の最善の根拠を見い出そうと望んできた――の上ではなく、同胞関係や共同社会、そ してこれらに随伴する様々な責務のより肥沃な地盤に見出されねばならない。政治的責務とい うものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたにすぎない。我々に知られている様々な同 胞的共同体を、完全な選択によってメンバーになるものから、選択の余地が全くないものへと 及ぶスペクトルに沿って配置したとき、政治共同体はその中央部分のどこかに位置づけられ る。政治共同体は人々に移住を許しているのであるから、政治的責務は家族が負う数多くの責 務ほどには非意図的なものではない。そして、移住の選択の実際上の可能性はしばしばごくわ ずかでしかないが、それにもかかわらず移住の選択を否定する暴政を想起すれば分かるよう に、この選択はそれ自体において重要な意味をもつ。かくして、事実上の裸の政治共同体のメ ンバーである人々は、同胞関係の責務に必須な他の条件――これらの条件は、政治共同体に当て はまるように適切に再定義される――が充足されている場合には、政治的責務に服することにな る。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第6章 純一性,同胞関係と政治共同 体,未来社(1995),pp.322-324,小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

正義と公正の理念は、その適用において(a)公正な手続の結果はすべて正義であるとする考えから、(b) 結果としての正義が公正であるとする考えまで幅があり、また困難な問題においては、公正と正義が時として衝突する。整合的な諸原理による純一性の理念は、このような場合の判断を導いてくれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的理念としての純一性

正義と公正の理念は、その適用において(a)公正な手続の結果はすべて正義であるとする考えから、(b) 結果としての正義が公正であるとする考えまで幅があり、また困難な問題においては、公正と正義が時として衝突する。整合的な諸原理による純一性の理念は、このような場合の判断を導いてくれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(a) 公正な手続の結果はすべて正義である
 正義は公正とは別個に独立した意味をもちえず、政治においては、ちょうどルーレットにおけるように、 公正な手続を通じて生じた結果はすべて正義である。
(b)結果としての正義が公正である
 政治における公正の唯一のテストは 結果のテストであり、いかなる手続も、独立した何らかの正義のテストを充たすような政治的 決定を生みだす可能性の強いものでないかぎり、公正な手続とは言えない。
(c)公正と正義は別の理念
 公正と正義はある程度まで相互に独立した理念であ り、それゆえ、公正な制度でもしばしば不正な決定を生みだし、不公正な制度でも正しい決定 を生みだすことがある。
(d)政治的理念としての純一性
 これら困難な問題が生ずるのは、公正と正義が時として衝突するか らである。もし我々が純一性というものを第三の独立した理念として見なすのであれば、公正あるいは正義の どちらかを純一性のために時として犠牲にせざるをえないと我々が考えることも、充分うなず けるだろう。


「理念の間の衝突は、政治においてはごくあたりまえのことである。たとえ我々が純一性を 拒否し、我々の政治活動を公正と正義と手続的デュー・プロセスだけに基づかせた場合であっても、公正と正義という二つの徳がしばしば相反する方向へと我々を導いていくことがあるだ ろう。ある哲学者たちは、正義と公正のうちの一方が終局的には他方から導出されると信ずる ことから、これら二つの徳の間の根本的な衝突の可能性を否定する。ある人々は、正義は公正とは別個に独立した意味をもちえず、政治においては、ちょうどルーレットにおけるように、 公正な手続を通じて生じた結果はすべて正義であると主張している。これが、公正としての正 義と呼ばれる理念の極端な形態である。また他の人々は、政治における公正の唯一のテストは 結果のテストであり、いかなる手続も、独立した何らかの正義のテストを充たすような政治的 決定を生みだす可能性の強いものでないかぎり公正な手続とは言えない、と考えている。これ は、正義としての公正という逆の理念の極端な形態である。また大抵の政治哲学者は――そして 私の考えるところでは大多数の人々は――公正と正義はある程度まで相互に独立した理念であ り、それゆえ、公正な制度でもしばしば不正な決定を生みだし、不公正な制度でも正しい決定 を生みだすことがある、といった中間的な見解を採っている。  もしそうであるならば、通常の政治において我々がどの政治的綱領を支持すべきかを決定す る際に、二つの徳のどちらかをしばしば選択しなければならないことになる。我々は、多数決 ルールこそ政治において機能しうる最も公正な決定手続であると考えるかもしれないが、同時 に我々は、時として――おそらく非常にしばしば――多数派が個人の権利に関して不正な決定を下 すことを知っている。それでは我々は、多数決ルールをそのまま適用したのではある経済的集 団にとって正当な量に満たない持ち分しか割当てないおそれがあるという理由で、当の集団に 対してそのメンバー数によって正当化される以上の特別な投票上の力を与えることによって、 多数決ルールに修正を加えるべきであろうか。また、言論の自由や他の重要な自由を多数派が 制限してしまうことを防止するために、民主主義的権力に憲法上の制約を加えることを我々は 受け容れるべきだろうか。これら困難な問題が生ずるのは、公正と正義が時として衝突するか らである。もし我々が純一性というものを――少なくとも前記の二つの理念の一つについて人々 の見解が対立するときは――第三の独立した理念として見なすのであれば、公正あるいは正義の どちらかを純一性のために時として犠牲にせざるをえないと我々が考えることも、充分うなず けるだろう。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第6章 純一性,純一性は適合するか, 未来社(1995),pp.282-283,小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

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