2019年11月3日日曜日

我々は、多様な文化の中に生き、思想、感情、態度、行動はその影響を受け、また文化は互いに矛盾する場合もある。このような文化の中に生きる諸個人の決断と行為、予測できない偶然が歴史を作っていく。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

多様な文化と歴史をつくる力

【我々は、多様な文化の中に生き、思想、感情、態度、行動はその影響を受け、また文化は互いに矛盾する場合もある。このような文化の中に生きる諸個人の決断と行為、予測できない偶然が歴史を作っていく。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1)歴史的決定論は、誤りである。
 (a)人間は、歴史の目的や説明を求める。
 (b)もちろん、個々人や国民の生活の形成を決定していく、大きな非人格的な要因は存在する。
 (c)しかし、歴史の法則というものには、あまりにも多くの明白な例外と、逆の事例が存在する。
(2)個々人の決断と行為が歴史をつくる。
 様々な要因が多少とも均等にバランスしている時において、大抵は予測することができない偶然や、個々人の決断や行為が、歴史の進路を決定するというような決定的な瞬間、転換点が存在する。
(3)我々は、多様な文化の中に生きている。
 (a)文化は、新規で予想もされないような世界観を持っており、互いに矛盾しているような場合もある。
 (b)文化は、世界がそれぞれの社会にとって何を意味するかという感覚に影響を与える。
 (c)文化は、思想、感情、態度、行動の特殊な形態に影響を与える。

 「―――近代の思想家の中では、あなたは特にヴィーコとヘルダーに注目しています。あなたの歴史についての考え方はこの二人の思想家からもっとも大きな影響を受けていると考えて、正しいでしょうか。
 バーリン ヴィーコとヘルダーについてあなたの言ったことはその通りですが、私は歴史についてあまり多くのことを自分で考えたとは思っていません。私は、本来の意味での歴史哲学者ではないのです。私は多元主義を信じ、歴史的決定論を信じていません。決定的な瞬間、いわゆる転換点、さまざまな要因が多少とも均等にバランスしている時には、偶然、個人、個々人の決断と行為――これら必ずしも予測できないもの、むしろ大抵の場合には予測できなもの――が、歴史の進路を決定できます。私は「歴史の筋書」があるとは思っていません(この言葉はゲルツェンが使ったものですが、彼は歴史を何幕かのドラマ――神や自然の作ったテーマのあるお芝居、はっきりした模様のあるカーペット――だとは思っていません)。マルクスとヘーゲルは、歴史は一つのドラマだと信じていました。何幕かが連続し、おそらくは大変動があった後に、マルクスにおいては激しい衝突と苦難と災厄の後に天国への門が開き、最後の大団円が来て、そこで歴史は止まり――マルクスのいう人類の前史です――、それからはすべてが永遠に調和し、人々は合理的な協力関係を結ぶことになるのです。ヴィーコとヘルダーは、そのようなタイプのことはほとんど言っていません。二人はいくつかの型があると考えており、特にヴィーコはそうでしたが、大団円のある芝居があるとは思っていません。思うに私の歴史観はヘーゲル、マルクス、この二人の支持者の著作を読み、彼らの議論はまるで納得できないと思ったことから始まっています。その他の型の発見者――シュペングラー、トインビー、そしてプラトン、ポリビウスに始まる彼らの先行者――についても、同じことを感じています。もちろん、人間はいつもこのタイプの歴史の目的、歴史の説明を求めるものです。しかし私には、事実はそれを証明していない、法則はあまりにも多くの明白な例外と逆の事例のために破られているように思えるのです。私はブローデル、E・H・カー、現代マルクス主義者の著作をよく読み、彼らの議論がどんなものか、歴史決定論者がどんなことを信じているかを承知しています。個々人や国民の生活の形成を決定していく大きな非人格的な要因はもちろんあるでしょうが、だからといって、れきしは高速自動車道路のようなもので、大きく逸れていくことなどあり得ないということにはならないと思います。私は、ヴィーコとヘルダーが文化の多元性を信じたことに、興味を持っています。それぞれの文化にはそれ自身の重心がある――多様な文化があり、それぞれに異なった、新規で予想もされなかった世界観と矛盾した態度を持っているという見方です。ヴィーコは、文化――世界がそれぞれの社会にとって何を意味するかという感覚、他の人々、環境にたいする関係で普通の男女が自分自身について持っている感覚――思想、感情、態度、行動の特殊な形態を定めていくもの――、つまり文化はそれぞれに異なっているということを理解していたと思います。彼以前には誰も理解していなかったことです。ヴィーコは文化の違いを時代で区別しました。ヘルダーは別の時期に登場した文明という観点だけでなく、同時代のさまざまな国の文明という観点から区別しました。このことが、歴史はきちんとした直線を描いて進むものではないという私の考えを強化してくれました。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.57-59,みすず書房(1993),河合秀和(訳))
(索引:歴史決定論,多様な文化)

ある思想史家の回想―アイザィア・バーリンとの対話


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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科学教育は、(a)善き生活に必要な世界の諸法則を理解させ、(b)事実と真理を把握するための科学的方法の訓練をさせ、(c)確実な知識の境界と誰に学べばよいかを教え、無知ゆえの不信と虚偽への盲信を防ぐ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

科学教育

【科学教育は、(a)善き生活に必要な世界の諸法則を理解させ、(b)事実と真理を把握するための科学的方法の訓練をさせ、(c)確実な知識の境界と誰に学べばよいかを教え、無知ゆえの不信と虚偽への盲信を防ぐ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(5.2)追加。

(5)一般教養教育の内容(各論)

 (5.1)他の国の言語や文化を学ぶこと
   自国において当然だと思われている意見や方法も、先入観や単なる習慣であり、修正され得るものである。外国の言語や文化を学ぶことは、意見や方法を修正し、自国の文化を豊かにするのに必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (5.1.1)意見や方法は修正され得るものである。
   (a)すなわち、自分とは異なる意見や方法も、正しいことがあり得る。
   (b)他の国には、学ぶべき多くの事柄がある。
   (c)他の国の言語を学習することが必要である。ある国の言語を知らなければ、我々はその国の人々の思想、感情、国民性を実際に知ることはできない。
   (d)なぜ外国人が違った考え方をするのか、あるいは、彼らが本当に考えていることは一体何なのかということを理解する。
  (5.1.2)我々の意見や方法は、正しい。この前提から出発すれば、我々は決して自らの意見を訂正することも、考え方を修正することもしないであろう。
   (a)なぜなら、異なった別の意見や考え方があるとは夢にも思わない。
   (b)自分のとは異なる意見や考え方を耳にしたならば、そういう意見や考え方は道徳的欠陥、性格の下劣さあるいは教育程度の低さによるものだと考える。
   (c)すなわち、そのような考え方と習慣は、「本性」そのものになっている。

 (5.2)科学教育
  (5.2.1)私たちがうまく活動できるかどうかは、世界についての諸法則の知識に依存している。
   (a)私たちは、生まれたときは、まだ何も知らない。
   (b)この種の知識の大部分は、それぞれの分野でこの知識の獲得を自分の一生の仕事としている少数の人々の恩恵による。
  (5.2.2)事実と真理に到達するために、知性をどう適用させるかの訓練になる。
   (a)事実を素材として、知性を道具として、真理にどのように到達するか。
   (b)事実から何が証明されるか。
   (c)既に知っている事実から、知りたいと思う事実に達するには、どうすればよいか。
  (5.2.3)科学的真理についての基礎的な知識が、一般の人々の間に普及される必要がある。
   科学的真理についての基礎的な知識が普及しないことの弊害。
   (a)普通の人は、何が確実で、何が確実でないかが分からない。
   (b)また、知られている真理を語る資格と権威をもっているのかが誰かも知ることができない。
   (c)その結果、科学的証明に対して全く信頼をおかなくなる。(無知ゆえの不信感)
   (d)また、大ぼら吹きや詐欺師に騙されてしまうことになる。(虚偽への盲信)

 「科学が提供する知識は、単にそれだけで十分に、科学教育の有用性を自明なものとすることでしょう。われわれは、われわれの意志とは無関係な世界、つまり、様々な現象が一定の法則に従って生起している世界に、生まれるのです。そしてわれわれは、その法則については全く何も知ることなく、この世界にやってきたのであります。このような世界に住むことを、われわれは運命づけられ、すべての活動はそのなかでなされなければならないのです。われわれが完全に活動しているか否かは、世界についての諸法則の知識をもつか否かに、言い換えればわれわれがそれらを用いて働き、それらのなかで働き、それらに働きかけるその種の様々な事物の性質について知っているか否かに、かかっているのであります。われわれがもつこの種の知識の大部分は、それぞれの分野でこの知識の獲得を自分の一生の仕事としている少数の人々の恩恵によるものであり、事実そうなのであります。他方、科学的真理についての基礎的な知識が一般の人々の間に行きわたらない限り、一般大衆は何が確実で、何が確実でないかを、あるいは、誰が権威をもって語りうるのか、誰がその資格をもちえないのかを決して知ることはないのです。そしてその結果、一般大衆は、科学的証明に対して全く信頼をおかなくなるか、それとも、すぐに大ぼら吹きや詐欺師に騙されてしまう愚か者になるか、そのどちらかになってしまうでしょう。一般大衆は、無知故に不信感をもつという状態と、盲目的でしかもほとんど見当違いの確信をもという状態とをただ繰り返すことになるでしょう。他方、自分の眼前で起こっているありふれた物理的現象の原因について理解しようと思わない人が一体いるでしょうか。例えば、なぜポンプが水を汲み上げるのか、なぜ梃が重いものを動かすのか、なぜ熱帯では暑く、南極・北極では寒いのか、なぜ月は暗くなったり、明るくなったりするのか、潮の干満が起こる原因は何であるか、ということを知りたいと思わない人が本当にいるのでしょうか。このような事について全く無知な人は、たとえある専門的な職業に熟達しているとしても、教育のある人間ではなく、むしろ無教養な人間とみなされてもよいのではないでしょうか。宇宙についての最も重要で、しかも誰もが興味を抱く事実に関する十分な知識をわれわれに与え、われわれを取り囲むこの世界がわれわれにとって、理解できない故に全く面白くない、いわば一冊を封印された書物にしないことは、確かに、教育の重要な役割であります。しかしながら、こうしたことは科学の有用性の最も単純明解な部分にすぎず、青年時代にこの種の教育を受けなかったとしても、あとで容易に取り返しがつくものなのであります。これに対して、科学教育の価値は、人間本来の仕事に知性を適用させるための訓練あるいは鍛錬過程にあると理解する方がはるかに重要なのであります。 事実はわれわれの知識の素材であり、他方、精神は知識を作り上げる道具なのであります。そして事実を集積する方が、事実から何が証明されるかを、あるいは、既に知っている事実から知りたいと思う事実に達するにはどうしたらいいのかを判断するより、ずっと簡単なのであります。
 一生を通じて人間の知性が最も活発に働き続けるのは、真理を探究する時であります。われわれは、絶えず、あるなんらかの事柄について何が本当に真実であるかを知る必要があります。われわれと同世代の人々すべてにとってだけではなく、今後の世代の人々にとっても光明となるような偉大な普遍的真理の発見は、もとよりわれわれすべてのなしうることではありません。しかし、一般教養教育が改善されれば、そのような発見をなしうる人の数は現在よりはるかに増大することでありましょう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,4 科学教育,(1)科学教育の意義,pp.36-38,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:科学教育)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

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