2018年10月19日金曜日

抽象的な目のデザイン、または目の写真があるだけで、社会的規制の効果があることを示す実験の事例がある。監視の目と、善悪の関する噂話や評判が、社会的規制に大きな影響力を持っている。(ジョシュア・グリーン(19xx-))

監視の目

【抽象的な目のデザイン、または目の写真があるだけで、社会的規制の効果があることを示す実験の事例がある。監視の目と、善悪の関する噂話や評判が、社会的規制に大きな影響力を持っている。(ジョシュア・グリーン(19xx-))】

 「ケヴィン・ヘイリーとダニエル・フェスラーは次のような実験を行った。実験に参加してくれた被験者の半分に10ドルを渡した。お金を受け取った幸運な被験者は、彼らほど幸運ではなかった被験者に、10ドルの一部か全部を与える、もしくはまったく与えないという選択をする。これは、選択する側がお金の分配を完全に支配するため「独裁者ゲーム」と呼ばれている。実験は最初から最後まで匿名で、ネットワークでつながったコンピュータを通して行われるため、被験者たちには、誰が誰にいくら渡したかはわからない。この実験では、鍵となる操作はじつにさりげなく行われる。半数の独裁者が利用するコンピュータのモニターの「壁紙」には、図2-3に示すような一対の目が表示されている。もう半数の独裁者は対象条件群で、研究室のロゴが記された標準的な壁紙を見たのだった。
 標準的な壁紙を見た人のうち、お金を分けたのは約半数(55パーセント)に留まった。一方、目を見た人は、圧倒的多数(88パーセント)がお金を分けた。これに続くフィールド実験では、購買者が適当と思われる金額を箱に入れて飲み物を買っていく無人販売所を利用した。目の写真があると、牛乳に対して支払われるお金は二倍以上になった。
 誰もが知るように、人間は見られていると思うと、つまり《自意識》を感じると行いがよくなる。ここで驚きなのは、目の写真という、意味のない、低レベルの合図が、人に最善の行動をとらせうることだ。「意味がない」というのは、この合図を見て意識的に反応しようと思う人はいないはずだからだ。「人の目の絵が貼ってあるから、牛乳代を払うことにしよう」という人はいない。むしろこれは自動化されたプログラム、すなわち効率的な道徳マシンの一部の仕業なのだ。
 監視の目が私たちに大きな影響力をもつとしたら、それは、監視の目がほぼ間違いなく、おしゃべりな口とつながっているからだろう。人類学者のロビン・ダンバーによれば、人間の会話時間の約65パーセントは他者のよい行いや悪い行いに関するもの、要するに《ゴシップ》に費やされているのだそうだ。ダンバーいわく、私たちが膨大な時間をゴシップに費やすのは、人類にとってゴシップは、社会的規制を行う、すなわち協力を強化する、重要なメカニズムだからだそうだ。実際、あなたが何をしでかしたかを「みんな」が知るという見通しは、よからぬ行動を思いとどませる強力な動機になる。さらに、人は噂話が《できる》だけではない。噂話は《自動的に》発生するらしい。多くの人にとって、噂話を《しない》でいるにはたいへんな努力が必要なのだ。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第2章 道徳マシン,岩波書店(2015),(上),pp.59-60,竹田円(訳))
(索引:監視の目)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

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見掛け上抵触する法準則には、優先法を規律するルールが存在するのに対して、原理においては互いに抵触しあう諸原理が、並立する。原理には重みとか重要性という特性があるが、しばしば議論の余地のあるものとなる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

論証における原理の作用の特徴

【見掛け上抵触する法準則には、優先法を規律するルールが存在するのに対して、原理においては互いに抵触しあう諸原理が、並立する。原理には重みとか重要性という特性があるが、しばしば議論の余地のあるものとなる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(1)原理には、重みとか重要性といった特性がみられ、それを有意味に問題にし得る。
 (1.1)複数の原理が抵触しあうとき、相対的な重みを考慮に入れる必要がある。
 (1.2)ただし重みには、精確な測定などあり得ず、特定の原理や政策が他より重要であるという判断は、しばしば議論の余地あるものとなる。
(2)これに対して、二つの法準則が抵触することはあり得ない。見掛け上抵触する場合にも、法体系にはこの種の抵触を規律する別種のルールが存在する。例として、
 (2.1)高次の権威が制定した法準則の優先
 (2.2)後に確立された法準則の優先
 (2.3)あるいは、より特殊な法準則の優先
 (2.4)その他の類いの法準則の優先
 (2.5)法体系によっては、より重要な原理に支持された法準則を優先

 「法準則と原理の以上の相違には次のような別の相違が含まれている。原理には法準則にはない特性、つまり重みとか重要性といった特性がみられる。複数の原理が抵触しあうとき(たとえば、自動車の消費者を保護する政策と契約自由の原理が相互に抵触するとき)、この抵触を解決すべき者は両者の相対的な重みを考慮に入れる必要がある。もちろん、これは精確な測定などありえず、特定の原理や政策が他より重要であるという判断は、しばしば議論の余地あるものである。しかしそれにもかかわらず、重みという特性をもつことや、重要性や重みの度合を有意味に問題にしうることは、原理概念の本質的要素なのである。
 ルール一般には、この特性がない。我々はルールについて、それが「機能的」に重要か否かを問題にすることはできる。(三振はアウトであるという野球のルールは、ボークのとき走者は塁を進めることができるというルールより重要である。後者のルールを変えるより前者のルールを変えた場合の法が、ゲーム自体に大幅な変化が生ずるからである。)この意味でならば、あるルールは他のルールよりも行動を規律する点でより重大かつ重要な役割を有し、したがってそれ自体より重要な法準則と言えるだろう。しかし同一のルール体系の内部で、あるルールが他のルールより重要であり、したがって二つのルールが抵触するとき、一方がより重要であるという理由で他方のルールにとって替わる、というようなことはあり得ない。
 二つの法準則(法的ルール)が抵触すれば、どちらか一方は妥当する法準則ではありえない。どちらが妥当しどちらが放棄ないし修正さるべきかの決定は、法準則自体を超えた考慮へと訴えることによりなされなければならない。法体系にはこの種の抵触を規律する別種のルールが存在することがあり、このルールによって高次の権威が制定した法準則や後に確立された法準則、あるいはより特殊な法準則その他これに似た類いの法準則に優位が認められ、また法体系によっては、より重要な原理に支持された法準則を優先させる場合もあるだろう(我々の法体系はこれら両者の技術を利用している)。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,3 法準則・原理・政策,木鐸社(2003),pp.20-21,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:論証における原理の作用の特徴)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。それは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

「せざるを得ない」と「責務を負っている」

【「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。それは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)「せざるを得ない」
 (1.1)行動を行なう際の、信念や動機についての陳述である。
 (1.2)そうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果が生じるだろうと信じ、その結果を避けるためそうしたということを意味する。
 (1.3)この場合、予想された害悪が、命令に従うこと自体による不利益よりも些細な場合や、予想された害悪が、実際に実現するだろうと考える根拠がない場合には、従わないこともあろう。
(2)「責務を負っている」
 (2.1)信念や動機についての事実は、必要ではない。
 (2.2)その責任に関する、社会的ルールが存在する。
 (2.3)特定の個人が、この社会的ルールの条件に当てはまっているという事実に注意を促すことによって、その個人にルールを適用する言明が「責務を負っている」である。

 「人があることを《せざるをえなかった》'was obliged to'という主張と、彼はそれをなす《責務を負っていた》'had an obligation'という主張には、なお説明されるべき違いがある。前者はしばしば行動を行なうさいの信念や動機についての陳述である。Bは金を渡さざるをえなかったということは、拳銃強盗の場合のように、もし彼はそうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果がふりかかるだろうと信じ、これらの結果を避けるためそうしたということを意味するにすぎないだろう。このような場合、行為者が従わなければ自分に何が起こるかという予測から、事情が別であれば彼がやってしまおうと思っていたであろうこと(金を保持しておくこと)もできなくなる。
 あることをせざるをえないという観念の解明は、さらに二つの要素が加わることによって少し複雑にされている。威嚇された害悪が、常識によれば、命令に従った場合にBまたは他人がこうむる不利益や重大な結果に比べて些細な場合には、Bは金を渡さざるをえないと考えるべきではないのは明らかであろう。たとえば、単にAがBをつねるぞとおどす場合にはそれにあたるだろう。また、Aが比較的重大な害悪をもたらす威嚇をたぶん実現できるし、また実現するだろうと考えるにたる十分な根拠がない場合も、Bはせざるをえなかったとおそらく言うべきでない。しかし、この観念は、害悪の比較についての常識や蓋然性についての十分な評価に言及しているけれども、人はある人に従わざるをえなかったという陳述は、主として行動がなされた場合の信念や動機についての心理的な陳述である。しかし、ある人があることをする《責務を負っていた》という陳述は、それと非常に違ったタイプのものであり、そしてこの差異は多くのことで示されている。たとえば、拳銃強盗の場合におけるBの行動、信念と動機についての事実は、Bは彼の財布を渡さざるをえなかったという陳述が真実であるためには十分であるが、彼はそうする責務を負っていたという陳述が真実であるためには《十分ではない》という場合がこれにあたる。さらに、この種の事実、つまり信念や動機についての事実は、人があることをする責務を負っていたという陳述が真実であるためには《必要でない》ということもまたそうである。このように、人がたとえば、真実を告げるか、兵役につく責務を負っていたという陳述は、たとえ彼が見つけ出されないと(十分な根拠をもってまたは根拠なしに)信じ、そして不服従からくる恐怖を何らもっていなかったとしても、その陳述は真実であることにかわりない。その上、彼はこの責務を負っていたという陳述は、彼が実際に兵役についたかどうかの問題とはまったく無関係であるが、他方ある人はあることをせざるをえなかったという陳述は、普通彼は現実にそうしたという含みをもっている。」
 「拳銃強盗の場合には、あることをさざるをえないという、より単純な観念はそこにある諸要素でうまく定義されるだろうが、そこでは責務を見つけることはとうていできない。責務の法的形態の理解に不可欠な前提である責務の一般的観念の理解のために、われわれは拳銃強盗の場合と異なって、社会的ルールの存在を含んでいる社会的状況を調べなければならない。というのは、この状況が次の二つの点で人が責務を負っているという陳述の意味を明らかにするのに助けとなるからである。第一に、あるタイプの行動を基準とするようなルールの存在は、責務を負うという陳述に対するそれと明言されてはいないが、通常の背景ないし適切な前後関係となっている。第二に、そのような陳述に特有な機能は、特定の個人の場合がこの一般的ルールに当てはまっているという事実に注意を促すことによってその人にそのルールを適用することである。すでに第4章で見たように、何らかの社会的ルールが存在するところには、規則的な行為と、その行為を基準とする特有な態度の結合がみられる。われわれは、また、社会的ルールが社会的習慣と主にどのようなところで違っているか、そして、どのようにしてさまざまな規範的な言葉(「するのが当然である」'ought'「しなければならない」'must'「すべきである」'should')が、基準やそれからの逸脱に注意を促したり、基準にもとづいているだろう要求、批判、認容をなすために用いられているかを見てきた。この規範的な言葉の部類のなかで、「責務」「義務」という言葉は重要な下位の部類となっており、それは他には普通みられない、ある含みをもっているのである。したがって、社会的ルールを単なる習慣から一般に区別する要素を把握することは、責務または義務の概念の理解には、たしかに欠くことができないけれども、それだけでは十分ではないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第2節 責務の観念,pp.92-95,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:せざるを得ない,責務を負っている)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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