2018年6月1日金曜日

5.将来については悲観的によりも、むしろ楽観的に考えよ。なぜなら、全く不確実な未来のために、現在の幸運を逃すことが多いから。暗い見通しの実現性、切迫度、良い面と悪い面を見極めよ。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))

将来の見通し

【将来については悲観的によりも、むしろ楽観的に考えよ。なぜなら、全く不確実な未来のために、現在の幸運を逃すことが多いから。暗い見通しの実現性、切迫度、良い面と悪い面を見極めよ。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))】
(1) 将来については悲観的によりも、むしろ楽観的に考えよ。
(2) なぜなら、将来の暗い見通しを恐れるあまり、現在うまく運んでいることを投げ出してしまうことは、たいていの場合、愚かしいことである。ものごとを悲観的に見るばかりに、君が当然手に入れてしかるべき幸運を逃してしまうことが、実によくあるものだ。
(3) また、そもそも将来の事柄というのは、まことに当てにならぬものであり、また多くの思いがけないできごとに左右されるものなので、あなたの見通しも実現するかどうかわからない。
(4) ただし、見通しが暗いということが動かせぬ事実である場合とか、あるいはそれが切迫している場合、または良い面よりも悲観的な面がはるかに大きいことが明確なら、話は別である。

 「将来のことがらというのは、まことに当てにならぬものであり、また多くの思いがけないできごとに左右されるものなので、すばらしく賢明な人間でも、将来の見通しで誤りを犯すことは非常に多いものだ。

賢人たちの見通し、とくに細かい点についての見通しを観察する人は(それらは一般に推測しやすいものだ)、それらの見通しは賢明とはいえないほかの人々の見通しと大差がないものであることに気がつくだろう。

だから、将来の暗い見通しをおそれるあまり、現在うまく運んでいることを投げ出してしまうことは、たいていのばあい愚かしいことである。

ただし、見通しが暗いということが動かせぬ事実であるばあいとか、あるいはそれが切迫しているばあい、または良い面よりも悲観的な面がはるかに大きいということが判りきっている時には、話は別なのだが。


 以上のような立場にたたずに、将来は悪くなっていくだろうと、ものごとを悲観的に見るばかりに、君が当然手に入れてしかるべき幸運を逃してしまうことが、実によくあるものだ。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)C、23 運命の力、p.62、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))
(索引:将来の見通し)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)




フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「この書物の各断章を考えつくのはたやすいことではないけれども、それを実行に移すのはいっそうむずかしい。それというのも、人間は自分の知っていることにもとづいて行動をおこすことはきわめて少ないからである。したがって君がこの書物を利用しようと思えば、心にいいきかせてそれを良い習慣にそだてあげなければならない。こうすることによって、君はこの書物を利用できるようになるばかりでなく、理性が命ずることをなんの抵抗もなしに実行できるようになるだろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)B、100 本書の利用のし方、p.227、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)
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政治においては、人々の愛情を頼みとするのでなく、人と社会の諸法則を基礎とすること。例えば不正や功績がはっきり見える仕組み、賞罰の仕組み、人々が自ら不正や邪悪を見つける仕組み等。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))

社会の諸法則

【政治においては、人々の愛情を頼みとするのでなく、人と社会の諸法則を基礎とすること。例えば不正や功績がはっきり見える仕組み、賞罰の仕組み、人々が自ら不正や邪悪を見つける仕組み等。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))】
 政治と社会の仕組みは、人と社会を動かしている法則と、その実際の動き方を基礎として作らなければならない。逆に、人々の愛情などの気持ちだけを頼みとしてはいけない。例えば、
(a)もともと人々が、国や他の人のために働かないではおられないような方法を用いる必要があるのであって、人々がその愛情に基づいて国や他の人のために働くようなことを、頼みとはしていない。人々が愛情を頼みとするのは、危険である。
(b)正しく正義にかなった行いをして身の安泰が得られるなら、臣下は力を尽くして主君に仕えるだろうが、それで身の安泰が得られないとなれば、私欲にまかせて不正に走るだろう。だからこそ、利益になる道(賞)と損害になる道(罰)とをはっきり立てる必要がある。
(c)多くの官吏に教え諭して、何かを徹底させることには限界がある。不正と功績が、はっきりと見えるような仕組みと、賞罰の仕組みがなければ、正しい政治を行うことはできない。
(d)自分の目や耳で、すべての事実を見抜こうと思っても、実際に見聞きできることは限られている。そうではなくて、世の中の人々がお互いに自分たちの目と耳で、観察し聞かないではおれないような仕組みを作れば、不正をおかす者や邪悪な者から国を守ることができるだろう。
 「こうしたことから考えてみると、聖人が国を治める場合には、もともと人々がこちらのために働かないではおられないような方法を用いるのであって、人々がその愛情にもとづいてこちらのために働くようなことを頼みとはしていない。人々が愛情にもとづいてこちらのために働くのを頼みとするのは、危険である。こちらのために働かずにおれない方法をこちらで備えてそれを頼みとするのが、安全である。そもそも君臣の間には肉親のような親しみがあるわけではない。正しくまっ直ぐな道を行って、それで身の安泰が得られるなら、臣下は力をつくして主君にお仕えするが、正しくまっ直ぐな道を行って、それで身の安泰が得られないとなれば、臣下は私欲にまかせて上の者にとりいるものだ。名君はそれがわかっている。だからこそ利益になる道(賞)と損害になる道(罰)とをはっきり立てて、それを世界じゅうに示すのである。
 そもそもこうしたわけで、君主は自分の口で多くの官吏に教えたり、自分の目で邪悪な者をさがしたりしなくとも、国はうまく治まるものである。君主は離婁(りろう)のようなよい目を持って、それによってよく見ぬくと言われるのではなく、師曠(しこう)のようなよい耳を持って、それによって耳がさといと言われるのでもない。目については必ずそのきまった法則にまかせず、自分の目で見たものだけでよく見ぬくと言おうとすれば、実際に見えるものはわずかであって、これでは悪い臣下に目をくらまされない方策にはならない。耳についても必ずそのきまった態勢に従わず、自分の耳で聞いたものだけで耳がさといと言おうとすれば、実際に聞こえるものはわずかであって、これでは悪い臣下にだまされない方法とはならない。名君は、世界じゅうの人がこちらの目に代わって観察しないではおれないようにさせ、世界じゅうの人がこちらの耳に代わって聞かないではおれないようにさせる。そこで、その身は奥深い宮殿の中におりながら、四海の内をくまなく見ぬくのであって、しかも世界じゅうがその目をくらますこともできなければ、あざむくこともできない。それはどうしてであろう。君主がくらまされ乱されるような道が除かれて、耳さとく目のよく見える聡明の態勢が作りあげられたからである。だから、うまく態勢にまかせてゆけば国は安泰であるが、その態勢に従うことを知らないでいると国は危険なのである。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』姦劫しい臣 第十四、(第1冊)pp.264-266、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(索引:社会の諸法則)
(原文:14.姦劫しい臣韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)



(出典:twwiki
韓非(B.C.280頃-B.C.233)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「国を安泰にする方策として七つのことがあり、国を危険にするやり方として六つのことがある。
安泰にする方策。第一は、賞罰は必ず事の是非に従って行うこと、第二は、禍福は必ず事の善悪に従ってくだすこと、第三は、殺すも生かすも法のきまりどおりに行うこと、第四は、優秀か否かの判別はするが、愛憎による差別はしないこと、第五は、愚か者と知恵者との判別はするが、謗ったり誉めたりはしないこと、第六は、客観的な規準で事を考え、かってな推量はしないこと、第七は、信義が行われて、だましあいのないこと、以上である。
 危険にするやり方。第一は、規則があるのにそのなかでかってな裁量をすること、第二は、法規をはみ出してその外でかってな裁断をくだすこと、第三は、人が受けた損害を自分の利益とすること、第四は、人が受けた禍いを自分の楽しみとすること、第五は、人が安楽にしているのを怯かして危うくすること、第六は、愛すべき者に親しまず、憎むべき者を遠ざけないこと、以上である。こんなことをしていると、人々には人生の楽しさがわからなくなり、死ぬことがなぜいやなのかもわからなくなってしまう。人々が人生を楽しいと思わなくなれば、君主は尊重されないし、死ぬことをいやがらなくなれば、お上の命令は行われない。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』安危 第二十五、(第2冊)pp.184-185、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(原文:25.安危韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

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経験的事実を表すどの命題も、理性によっては完全には証明され得ない。理性が把握できる経験的事実とは、真なる偶然的命題である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

経験的事実

【経験的事実を表すどの命題も、理性によっては完全には証明され得ない。理性が把握できる経験的事実とは、真なる偶然的命題である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(a) 公理:それ自身で認識される経験的事実。
(b) それ自身で把握される項。
(c) 経験的事実を、他の事実から基礎づけるという考え方をするならば、経験的事実は、公理、それ自身で把握される項と経験的事実に分解され、これらから証明される必要がある。
(d) そうすると経験的事実は、他の経験的事実へ無限に分解されることになるのではないか?

(限りがない?)
   ↓
 経験的事実、公理、それ自身で把握される項
   ↓
 経験的事実

あるいは、
 他の命題(公理でも定義でもない)
(これ自身、証明を必要とする)
   ↓
 経験的事実
(e) 経験的事実を、他の事実から基礎づけるという考え方をする限り、到達された知識の状態は、事実とわかったものへの分解が完了した状態ということになる。

 公理、それ自身で把握される項
(潜勢的一致が形相的または表現的となる)
   ↓
 経験的事実

(f) しかし、それ自身で把握されまた判明に捉えられるような概念が、全くないか、もしくはただ一つ、すなわち、存在の概念だけだとしたら、どうだろう。どの命題も、理性によっては完全には証明され得ないことが、結論する。

    それ自身で把握される項
     または
    経験において発見された項
     ↓
 公理、仮定された定義
   │(項の定義は可能性を前提とする)
   ↓
 経験的事実

(g) 理性が把握できる経験的事実とは、真なる偶然的命題である。

(再掲)
可能な命題:それから決して分解において矛盾が生じないであろうことが証明され得る命題。

真なる偶然的命題:無限に継続される分解を必要とする命題。
 しかし、真なる偶然的命題は、経験によって、この命題が真であることがあり得ないと証明される可能性がつねに存在する。これが「偶然的」の意味である。

偽なる偶然的命題:偽なることが証明されるのは、その真である証明があり得ないということによってのみであるような命題。

 「六二――しかしすべての真なる命題は証明される。従って経験的事実もまた真なる命題である故に、いま述べた証明法と別のものが存在しないならば、それも再び公理、それ自身で把握される項と経験的事実に分解されることが帰結する。しかしそれ自身で認識されるもの即ち公理以外第一の経験的事実はない。
 六三――経験的事実が他の経験的事実へ無限に分解されるかどうか問題となる。経験に言及しなくとも、ある証明があって、そこでは命題の証明が常にほかの命題の証明を前提としており、これは公理でも、定義でもなくて、さらに自身証明を必要とすることが分かるというようなことが可能であるかどうか問題となる。この場合には必ずある非複合項は連続的に分解され、決してそれ自身で把握される項に到達しないのである。しからざれば分解の完了により潜勢的一致が形相的または表現的となるか、即ちすべてが自同命題に帰するか明らかとなるであろう。
 六四――従って、非複合項の分解がある場合には無限に継続して、それ自身で把握される項に決して達しないことが可能であるか問題である。われわれにはそれ自身で把握されまた判明に捉えられるような概念が全くないか、またはただ一つである(例えば存在の概念)ならば、確かにどの命題も理性によっては完全には証明され得ないことが帰結する。何故ならば、仮定された定義と公理からは完全に経験なしで証明されるとしても、定義は項の可能性を前提し、従ってそれ自身で把握される項への分解か、または経験において発見された項への分解を前提する、よって経験的命題、その他の命題に戻ることになるからである。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『概念と真理の解析についての一般的研究』六二~六四、ライプニッツ著作集1、pp.173-174、[澤口昭聿・1988])
(索引:経験的事実)

論理学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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