2018年4月21日土曜日

高邁の情念をもつ人々は、善き意志という点で等しく、それ以外の美点で異なっていても過大に劣っているとか優れていると考えることはない。また、犯された過ちも認識の欠如によると考えて許そうとする。(ルネ・デカルト(1596-1650))

高邁な人々

【高邁の情念をもつ人々は、善き意志という点で等しく、それ以外の美点で異なっていても過大に劣っているとか優れていると考えることはない。また、犯された過ちも認識の欠如によると考えて許そうとする。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 真に自己に属しているものは善き意志のみであり、またそれを実行しようとする確固不変の決意を持っているような人々は、お互いを、そのよう人たちであり得ると確信する。そのため、お互いに軽視することもなく、犯された過ちも善き意志の欠如というよりも認識の欠如によると考えて許そうとする。そして、財産、名誉、才能、知識、美しさの点で違いがあっても、善き意志に比べれば、まことにとるにたらないと思われるので、お互いに、過大に劣っているとか優れていると考えることもない。
 「自己自身をこう認識し感得する人たちは、他の人間たち一人ひとりも、自分をこのように認識しこのように感得できると、容易に確信する。なぜなら、これにおいては他人に依存するものは何もないからだ。ゆえに、この人たちは、誰をもけっして軽視しない。そして、たとえ、他の人たちが弱点を顕わしてしまうような過ちを犯すのをしばしば見ても、責めるよりも許そうとし、かれらが過ちを犯すのは、善き意志の欠如というよりも認識の欠如によると考えようとする。そして、この人たちは、自分よりも財産や名誉を持つ人々、さらには自分よりも才能、知識、美しさを持つ人々、また一般に他の何らかの美点で自分よりすぐれている人々に対して、自分がはるかに劣っているとは考えないが、同時にまた、自分より劣っている人々に対して、自分がはるかに上だとも考えない。なぜなら、この人たちにとってこれらすべては、善き意志に比べれば、まことにとるにたらないと思われるからだ。善き意志こそ、この人たちが自己を重んじる唯一の理由であり、また、他の人間たち一人ひとりのなかにもある、少なくともありうる、とみなすものなのだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一五四、pp.134-135、[谷川多佳子・2008])
(検索:高邁の情念をもつ人々の関係、善き意志、認識の欠如)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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徳とは、精神をある思考にしむける、精神のうちの習性である。この習性は、思考や教育から生み出される。(ルネ・デカルト(1596-1650))

徳とは何か

【徳とは、精神をある思考にしむける、精神のうちの習性である。この習性は、思考や教育から生み出される。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 一般に徳とよばれるものは、精神をある思考にしむける、精神のうちの習性である。習性は思考を生みだし、逆に思考が習性を生みだす。さらに、良い教育が生まれながらの欠陥を正すのに、大いに役立つことも確かである。
 「一般に徳とよばれるものは、精神をある思考にしむける、精神のうちの習性である。したがって、これらの習性は、思考とは異なるのだが、そうした思考を生みだしうるし、また逆に、そうした思考によって生みだされうる。」(中略)「しかしながら、次のこともまた、確かである。良い教育は、生まれながらの欠陥を正すのに大いに役立つこと。自由意志とは何か、自由意志を善く用いようとする確固たる決意を持つことから生じる利益がいかに大きいか、また他方、野心家たちを悩ませる心労がすべていかに空しく無益であるか、の考察にしばしば専心するならば、自己のうちに高邁の情念を起こし、ついで高邁の徳を獲得できること。そしてこの高邁の徳は、いわば他のあらゆる徳の鍵であり、情念の乱れすべてに対する全体的な治療法であるから、この考察は注目する値打ちが大いにある、と思われる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一六一、p.142、[谷川多佳子・2008])
(検索:徳、習性、高邁、教育)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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自ら最善と判断することを実行する確固とした決意と、この自由意志のみが真に自己に属しており、正当な賞賛・非難の理由であるとの認識が、自己を重視するようにさせる真の高邁の情念を感じさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

高邁とは何か

【自ら最善と判断することを実行する確固とした決意と、この自由意志のみが真に自己に属しており、正当な賞賛・非難の理由であるとの認識が、自己を重視するようにさせる真の高邁の情念を感じさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 自己を重視するようにさせる真の高邁とは、ただ次の二つにおいて成り立つ。真に自己に属しているものは、自由な意志決定のみであり、これのみが正当な賞賛・非難の理由であると知ること。そして、みずから最善と判断するすべてを、企て実行する意志をけっして捨てまいという、確固不変の決意を持つこと。
 「かくして、人間が正当になしうる限りの極点にまで自己を重視するようにさせる真の高邁とは、ただ次の二つにおいて成り立つ、とわたしは思う。一つは、上述の自由な意志決定のほかには真に自己に属しているものは何もないこと、しかもこの自由意志の善用・悪用のほかには正当な賞賛または非難の理由は何もないのを認識すること。もう一つは、みずから最善と判断するすべてを企て実行するために、自由意志を善く用いる、すなわち、意志をけっして捨てまい、という確固不変の決意を、自分自身のうちに感得すること。これは、完全に徳に従うことだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一五三、p.134、[谷川多佳子・2008])
(索引:高邁、自由意志、賞賛、非難)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
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 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

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(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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わたしたちが正当に賞賛または非難されうるのは、ただ、この自由意志に依拠する行動だけであり、これだけが、自分を重視する唯一の正しい理由である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

自由意志

【わたしたちが正当に賞賛または非難されうるのは、ただ、この自由意志に依拠する行動だけであり、これだけが、自分を重視する唯一の正しい理由である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「そして、知恵の主要な部分の一つは、どんなやり方、どんな理由で、各人が自分を重視または軽視すべきかを知ることであるから、ここでそれについてわたしの意見を述べてみたい。わたしは、自分を重視する正しい理由となりうるものを、わたしたちのうちにただ一つしか認めない。すなわち、わたしたちの自由意志の行使、わたしたちの意志に対して持つ支配である。というのも、わたしたちが正当に賞賛または非難されうるのは、ただ、この自由意志に依拠する行動だけであり、また、わたしたちはこの自由意志の与える権利を臆病のせいで失わない限り、自由意志はわたしたちを自身の主人たらしめ、そうしてわたしたちをある意味で神に似たものとするからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一五二、pp.133-134、[谷川多佳子・2008])
(索引:自由意志、賞賛、非難)

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 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
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 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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私たちが、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足を、つねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ精神は、みずからの完全性を認識させられ、その混乱は精神の喜びを増す。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念が経験される知的な喜び

【私たちが、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足を、つねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ精神は、みずからの完全性を認識させられ、その混乱は精神の喜びを増す。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 私たちが精神の内奥で、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足をつねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱とそれに伴う情念のいかに激しい衝撃も、精神の安らかさを乱す力を持つことはけっしてない。なぜなら、不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするとき、さまざまな情念がわたしたちのうちに引き起こされるのを感じて、わたしたちは、知的な喜びともいえる快感をおぼえるのと同じように、共存している情念たちよりも、いっそう近接的にわたしたちに触れる喜びが、はるかに大きな力をわたしたちに及ぼしているからである。精神はそれらの混乱に損なわれることのないのを見て、みずからの完全性を認識させられ、かえって、その混乱は精神の喜びを増すのに役だつであろう。
 不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするとき、さまざまな情念がわたしたちのうちに引き起こされるのを感じて、わたしたちは、知的な喜びともいえる快感をおぼえる。
 「これら内的情動が、それとは異なっているが共存している情念たちよりも、いっそう近接的にわたしたちに触れ、したがって、はるかに大きな力をわたしたちに及ぼすものであるからには、次のことは確かである。つまり、わたしたちの精神が内奥にみずから満足するものをつねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ、精神はそれらの混乱に損なわれることのないのを見て、みずからの完全性を認識できるようにさせられるので、これらの混乱はかえって、精神の喜びを増すのに役だつ。そして、わたしたちの精神がこのように満足するものをもつためには、ていねいに徳に従いさえすればよいのだ。というのも、自分が最善と判断したすべてを実行すること(徳に従う、とわたしが言うのは、このことだ)において、欠けることがあったと良心にとがめられないように生きてきた人は誰も、そのことからある満足を感得する。この満足は、その人を幸福にするきわめて強い力を持つので、情念のいかに激しい衝撃も、彼の精神の安らかさを乱す力を持つことはけっしてない。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四八、pp.128-129、[谷川多佳子・2008])
(索引:情念が経験させる知的な喜び)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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3,人を使う技術:人は一般に恐怖よりも希望によって動かされる。従って、気前良くするよりは出し惜しみし、また使用人の中に良い待遇の実例をつくって見せ、希望をかきたてその心をつなぎとめておくこと。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))

人を使う技術

【人を使う技術:人は一般に恐怖よりも希望によって動かされる。従って、気前良くするよりは出し惜しみし、また使用人の中に良い待遇の実例をつくって見せ、希望をかきたてその心をつなぎとめておくこと。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))】
(1) 自分の利益を守ろうとする主人は、けちけちしなければならない。また気前よくするよりはむしろ出し惜しみするようにしなければならない。その理由は、
(1.1) 使用人というものは、充分なものを受け取るやいなや主人を見捨てるものだ。
(1.2) また、これまで主人から受けていた手厚い取り扱いを、もう主人からしてもらえないようになると、たちどころに主人を見捨てる。
(1.3) 人間の性格は、一般に恐怖よりはむしろ希望によって動かされる。そこで、使用人の望みをかなえてやるよりは、むしろ希望を抱かせることによって、その心をつなぎとめておくべきなのである。
(2) 希望を抱かせる方法。
 折にふれて、使用人のうちの一人にだけ気前よくふるまうこと。一人の人間が、良い待遇を受けている実例を示す。これは、多くの人間がろくにかまってもらえないのを見てぞっとさせられるよりも、はるかに人々の希望をかきたてて満足を与える。

 「もし部下が、あたうかぎり節度をまもり感謝の気持ちを抱いているとすれば、主人たるものはあらゆる機会に応じて、できるだけのことをして彼らに報いてやらなければならない。
 けれども経験に照らしてみるに、以下のことが明らかである。実は私自身の使用人を観察していてわかったことなのだが、使用人というものは充分なものをうけとるやいなや、または、これまで主人からうけていた手あついとりあつかいを、もう主人からしてもらえないようになると、たちどころに主人をみすてるものなのである。

だから自分の利益をまもろうとする主人は、けちけちしなければならない。また気前よくするよりはむしろ出し惜しみするようにしなければならない。

そして使用人の望みをかなえてやるよりはむしろ希望を抱かせることによって、その心をつなぎとめておくべきなのである。

さらに、このやり方を成功させるためには、以下のようにしたらよろしい。つまり折にふれて使用人のうちの一人にだけ気前よくふるまうことである。本当にこれだけでよいのだ。

その理由は、人間の性格などというものは、一般に恐怖よりはむしろ希望によって動かされるものだからである。

また一人の人間が良い待遇を受けている実例を見せつけられることは、多くの人間がろくにかまってもらえないのを見てぞっとさせられるよりも、はるかに人々の希望をかきたてて満足を与えるものだからである。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)C、5 人を使う技術、pp.50-51、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))
(索引:人を使う技術、恐怖、希望)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)



フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「この書物の各断章を考えつくのはたやすいことではないけれども、それを実行に移すのはいっそうむずかしい。それというのも、人間は自分の知っていることにもとづいて行動をおこすことはきわめて少ないからである。したがって君がこの書物を利用しようと思えば、心にいいきかせてそれを良い習慣にそだてあげなければならない。こうすることによって、君はこの書物を利用できるようになるばかりでなく、理性が命ずることをなんの抵抗もなしに実行できるようになるだろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)B、100 本書の利用のし方、p.227、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)
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機会から大きな利益を得る取引を引き出す情報の重要性:秘匿情報はその存在さえも悟られてはならない、目論見に反しない情報提供で相手の信頼を獲得する、話したい欲望や見栄による発言を自制する、腹を立て自説を根拠づけようと発言するなど危険きわまりない。(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717))

交渉における情報の重要性

【機会から大きな利益を得る取引を引き出す情報の重要性:秘匿情報はその存在さえも悟られてはならない、目論見に反しない情報提供で相手の信頼を獲得する、話したい欲望や見栄による発言を自制する、腹を立て自説を根拠づけようと発言するなど危険きわまりない。(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717))】
 交渉において、訪れる機会を一層上手に利用し、取引からいちばん大きな利益を得るのに最も重要なのは、相手よりも限界が広い情報である。交渉家相互の間では、情報の交換が行われ、情報を貰いたければ、与えざるをえない。このような状況で大切なことは、以下のことである。
 (1) 洩らして然るべき時機までは、秘密を見抜かれるようなことをしない。そればかりではなく、何かを隠しているということを、交渉相手に悟られてはならない。
 (2) 秘密を守ってくれる相手だという信頼をおいていることを示し、その確かな証拠として、こちらの目論見に反しない程度の事柄を、交渉相手に打ち明けるべきである。そうすると、向こうもこちらを信頼している証拠として、いろいろなことを、しばしば、こちらが洩らしたことよりもっと重要な事柄を、お返しに教えようという気持ちになるものである。
 (3) しゃべりたくてむずむずしても、その欲望に抵抗できるような自制心を持つ。相手の提案に対して、即座に、よく考えもしないで、返答をしようと見栄を張らないことである。
 (4) ましてや、相手の反駁に対して腹を立て、自説を根拠づけようとして、大切な秘密を話してしまうなどの失敗は、もってのほかである。
「立派な交渉家にとって、就中、必要なことは、何をいうべきかをよく自分で検討してみない中は、しゃべりたくてむずむずしても、その欲望に抵抗できるような自制心を持つことである。相手の提案に対して、即座に、よく考えもしないで、返答をしようと見栄を張らないことである。現代のあるよその国の有名な大使は、議論の最中に腹を立てやすい人で、相手が反駁して彼を怒らせると、自説を根拠づけようとして、しばしば大切な秘密をしゃべってしまったが、この大使のような過ちを犯さないように気をつけることである。」(中略)
「腕利きの交渉家は、洩らして然るべき時機までは、秘密を見抜かれるようなことをしない。そればかりではない。何か隠しているということを、交渉相手に悟られてはならない。秘密を守ってくれる相手だという信頼をおいていることを示し、その確かな証拠として、こちらのもくろみに反しない程度の事柄を、打ち明けるべきである。そうすると、向こうもこちらを信頼している証拠として、いろいろなことを、しばしば、こちらが洩らしたことよりもっと重要な事柄を、お返しに教えようという気持ちになるものである。交渉家相互の間では、情報の交換が行われる。情報を貰いたければ、与えざるをえない。この取引からいちばん大きな利益を得るのは、相手よりも限界が広いので、訪れる機会を一層上手に利用できる人である。この人こそ、最も敏腕な交渉家である。」
(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)『外交談判法』第3章 交渉家の資質と行状について、pp.21-22、岩波文庫(1978)、坂野正高(訳))
(索引:交渉における情報の重要性)

外交談判法 (岩波文庫 白 19-1)




(出典:wikipedia
「こうしたいろいろな交渉の仕方のいずれの場合にも、彼は、とりわけ、公明正大で礼儀にかなったやり方で成功を収めるようにするべきである。もし、細かい駆け引きを用い、相手よりもすぐれているつもりのおのれの才智にたよって、成功しようなどと思うならば、それはまず思い違いというものである。みずからの本当の利益を知る能力をそなえた顧問会議をもたないような君主や国家はない。いちばん粗野なようにみえる国民こそが、実は、自分の利益を最もよく理解して、ひとよりも一層粘り強くこれを追求する国民であることがしばしばある。であるから、どんなに有能な交渉家でも、そうした国民を、この点で欺こうなどと思ってはいけない。むしろ、彼が役目柄提案している事柄の中には、彼らにとって本当に有利な点がいろいろあることを分かってもらえるように、おのが知識と知力の限りを尽くして努力すべきである。人と人の間の友情とは、各人が自分の利益を追求する取引にほかならない、と昔のある哲人が言ったが、主権者相互の間に結ばれる関係や条約については、なおさら同じことが言える。相互的な利益を基礎においていない関係や条約は、存在しない。各主権者が相互に利益を見出さない場合には、条約は効力をほとんど持ち続けないで、自壊する。従って、交渉のいちばんの秘訣はかかる共通の諸利益を共存させ、できれば変わらぬ足どりで、前進させるための方法を見つけることである。」
(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)『外交談判法』第8章 交渉家の職務について、pp.58-59、岩波文庫(1978)、坂野正高(訳))

フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)
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君主の心得:自分の目的をしっかり守る、賞罰権を慎重に保持する、自分の知恵・才能に頼らない、自分の望み・考え・行動を秘匿する、臣下の知恵・才能を最大限発揮させる、臣下の意見と仕事の実績を査定し賞罰を与える。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))

君主の心得

【君主の心得:自分の目的をしっかり守る、賞罰権を慎重に保持する、自分の知恵・才能に頼らない、自分の望み・考え・行動を秘匿する、臣下の知恵・才能を最大限発揮させる、臣下の意見と仕事の実績を査定し賞罰を与える。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))】
(1) 自分の目的とするところをしっかり守って、臣下の言動と実績を考えあわせ、君主としての賞罰権を慎重にわが手に持ってそれを固く握りしめ、臣下の野望、陰謀、邪心を起こさせないようにする。
(2) あなたに知恵があっても、それによって思慮をめぐらしたりはせず、すぐれた才能を備えていても、それによって自分で仕事をしたりはせず、勇気があっても、それによって自分で奮いたったりはしない。
(3) 君主が自分の行ったことを秘密にし、自分の心の端を見せないようにしたなら、臣下は君主の実情をはかりかねるだろう。
(3.1) 自分の望むことを外に出してはいけない。それを人に知らせると、臣下はきっとそれに合わせて自分を飾りたてるだろう。
(3.2) 自分の意向を外に出してはいけない。それを人に知らせると、臣下はきっとそれに合わせて自分の特技を見せびらかすだろう。
(3.3) こうして初めて、臣下の方ではありのままの生地をあらわす。
(4) 知恵者たちにその知恵を出しつくさせたうえで、君としてそれをふまえて物事を裁断する。賢者たちにその才能を発揮させたうえで、君としてそれをふまえて仕事をまかせてゆく。群臣にその武勇のありたけをつくさせ、苦労なことをひき受けさせ、主君は仕事の成果をわが物とする。こうすれば、功績があがれば君主が優秀だからだとし、過失があれば臣下の責任だとし、自分の名誉を守ることもできる。
(4.1) 意見のある者には自分から進んで言論を述べさせる。
(4.2) 君主はその意見によってそれに見あう仕事を与え、その仕事によってそれに応じた実績を要求する。
(4.3) 実績がその仕事にかなっており、仕事の内容がさきの意見どおりであれば賞を与えるが、実績がその仕事に相応せず、仕事の内容がさきの意見と違っておれば罰を与える。名君の道としては、臣下が意見を述べながら、その仕事がそれに相応しないということは、許されない。
「虚心であるから周囲の本当の情況がわかり、静かであるから周囲の行動の中心となるのである。意見のある者は自分から進んで言論をのべ、仕事をしようとする者も自分から進んで実績をあらわすようになるから、そこでその実績と言論とをつきあわせて一致するかどうかを調べることにすれば、君主自身は格別なことをしないでいて、その実情にまかせていけるのである。そこで、「君主は自分の望むことを外に出してはいけない。君主が自分の望むことを人に知らせると、臣下はきっとそれに合わせて自分を飾りたてるだろう。君主は自分の意向を外に出してはいけない。君主が自分の意向を人に知らせると、臣下はきっとそれに合わせて自分の特技を見せびらかすだろう」と言われる。だから、「君主が好き嫌いを外に出さないでいると、臣下の方ではありのままの生地をあらわし、君主が知恵の働きを外に出さないでいると、臣下の方では自分で慎重にふるまうことになる」とも言われる。そこで、名君は知恵があっても、それによって思慮をめぐらしたりはせず、万物がそれぞれのあり方をわきまえて落ちつくようにする。すぐれた才能を備えていても、それによって自分で仕事をしたりはせず、臣下に仕事をさせてその拠り所を観察する。勇気があっても、それによって自分で奮いたったりはせず、群臣にその武勇のありたけをつくさせる。それゆえ、名君は知恵を捨て去ることによってかえって明知を得、すぐれた才能を捨て去ることによってかえって功績があがり、勇気を捨て去ることによってかえって強さが得られるのである。」(中略)
「名君のやり方は、知恵者たちにその知恵を出しつくさせたうえで、君としてそれをふまえて物事を裁断するから、君として知恵にゆきづまることがない。また賢者たちにその才能を発揮させたうえで、君としてそれをふまえて仕事をまかせてゆくから、君として才能にゆきづまることがない。そして、功績があがれば君主が優秀だからだとし、過失があれば臣下の責任だとするから、君として名誉にゆきづまることがない。こうしたわけで、君主は賢者でなくても賢者たちの先生となり、知者でなくても知者たちの中心となるのである。臣下は苦労なことをひき受け、主君は仕事の成果をわが物とする、これをすぐれた君主の常法というのである。」(中略)
「君主が自分の行ったことを秘密にし、自分の心の端を見せないようにしたなら、臣下は君主の実情をはかりかねるだろう。君主が自分の知恵を棄て去り、自分の才能を無くして働かさないようにしたなら、臣下は君主の実情を推測しかねるだろう。自分の目的とするところをしっかり守って、臣下の言動と実績を考えあわせ、君主としての賞罰権を慎重にわが手に持ってそれを固く握りしめ、臣下の野望を断ちきり、臣下の陰謀をうちくだいて、君主の地位を望むような邪心を起こさせないようにするのだ。」(中略)
「だから、群臣がそれぞれの意見を述べると、君主はその意見によってそれに見あう仕事を与え、その仕事によってそれに応じた実績を要求する。実績がその仕事にかなっており、仕事の内容がさきの意見どおりであれば賞を与えるが、実績がその仕事に相応せず、仕事の内容がさきの意見と違っておれば罰を与える。名君の道としては、臣下が意見を述べながら、その仕事がそれに相応しないということは、許されない。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』主道 第五、(第1冊)pp.80-81,84,88-89、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(索引:)
(原文:5.主道韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)



韓非(B.C.280頃-B.C.233)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:twwiki
「国を安泰にする方策として七つのことがあり、国を危険にするやり方として六つのことがある。
安泰にする方策。第一は、賞罰は必ず事の是非に従って行うこと、第二は、禍福は必ず事の善悪に従ってくだすこと、第三は、殺すも生かすも法のきまりどおりに行うこと、第四は、優秀か否かの判別はするが、愛憎による差別はしないこと、第五は、愚か者と知恵者との判別はするが、謗ったり誉めたりはしないこと、第六は、客観的な規準で事を考え、かってな推量はしないこと、第七は、信義が行われて、だましあいのないこと、以上である。
 危険にするやり方。第一は、規則があるのにそのなかでかってな裁量をすること、第二は、法規をはみ出してその外でかってな裁断をくだすこと、第三は、人が受けた損害を自分の利益とすること、第四は、人が受けた禍いを自分の楽しみとすること、第五は、人が安楽にしているのを怯かして危うくすること、第六は、愛すべき者に親しまず、憎むべき者を遠ざけないこと、以上である。こんなことをしていると、人々には人生の楽しさがわからなくなり、死ぬことがなぜいやなのかもわからなくなってしまう。人々が人生を楽しいと思わなくなれば、君主は尊重されないし、死ぬことをいやがらなくなれば、お上の命令は行われない。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』安危 第二十五、(第2冊)pp.184-185、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(原文:25.安危韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

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