2019年8月23日金曜日

04.特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうち何を選択することが「善」なのか、なぜそうなのかの問題は、諸々の善がなぜ「善」なのかという問題とは、別の問題である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

善とは何か

【特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうち何を選択することが「善」なのか、なぜそうなのかの問題は、諸々の善がなぜ「善」なのかという問題とは、別の問題である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)何かが「善」であるとは、どのようなことなのか。
 (1.1)価値ある目的の手段としての善
  (a)目的:何か別の善を為すこと、何か別の善を得ることである。
  (b)目的を達成する手段は「善」である。
  (c)例として、ある種の技能を持つこと、ある種の機会を与えられること、ある時ある場所に身を置くこと。
 (1.2)価値ある社会的役割に内在する善
  (a)社会的役割:社会的に確立された特定の実践があり、その活動に諸々の善が内在しており、それらの善は、もし追求されるとすれば、それら自体が目的として追求されるにふさわしい価値を持つと考えられている。
  (b)ある人が社会的役割を果たしている場合、その活動は「善」である。
  (c)例として、ある漁船の乗組員の一員としての善、ある家族の母親としての善、チェスの選手やサッカー選手としての善。
(2)特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうちどれを選択し、実践的に顧慮して追求することが「善」なのか。また、なぜそれが「善」なのか。
 (2.1)ある目的のために、ある種の資質や能力を高めることが善である。しかし、そもそも何のために、何をなすことが善なのか。
 (2.2)ある社会的役割を担いつつある活動に従事することは善である。しかし、そもそも何のために、人としていかなる存在であることが善なのか。

 「以上の考察は、何かに善を帰するのに、少なくとも三種類のやりかたがあることを示唆している。
 まず第一に、私たちが何かを一つの手段として《のみ》評価することによって、それに善を帰する場合がある。ある種の技能をもつことや、ある種の機会を与えられることや、ある時ある場所に身を置くことは、それらが、人が何か別の善い者になることを、あるいは何か別の善をなすことを、あるいは何か別の善を得ることを可能にするかぎりにおいて、善である。つまり、こうしたことがらはたんに、それ自体として善であるような何か別のことがらの手段《として》善いことなのである。では次に、第二のタイプの善について考えよう。誰かをある一定の役割を担う者として、あるいは、ある社会的に確立された実践の枠内である一定の役目を果たす者として善いと判断することは、その活動に諸々の善が内在しており、それらの善は、もし追求されるとすれば、それら自体が目的として追求されるにふさわしい価値をもつものとして評価される正真正銘の善であるという場合にかぎり、その行為者を善いと判断する、ということである。そうした〔ある活動に内在する〕善が〔ある特定の行為者の特定の行為によって〕そこに生じているのか否か、また、そうした善はそもそもどのようなものなのかということは、そうした問題に特徴的なこととして一般に、その特定の活動について手ほどきを受けることによってしか学ばれえない。ある特定の実践に内在する諸々の善を達成することに秀でているということは、たとえば、ある漁船の乗組員の一員《として》、ある家族の母親《として》、あるいはチェスの選手やサッカー選手《として》、善いということだ。それは、それ自体として価値ある諸々の善を適切に評価することができ、それらを生みだすことができるということである。しかるに、一人ひとりの個人にとっては次のことが問題となる。すなわちそれは、ある特定の実践に含まれる諸々の善〔を追求すること〕がその人の人生の中である特定の場を占めることは、その人にとって善いことであるのか否か、という問題である。また、個々の社会にとっても次のことが問題となる。すなわちそれは、ある特定の実践に含まれる諸々の善が、その社会における共同の生の営みの中である一定の場を占めることが、その社会にとって善いことであるのか否か、という問題である。それゆえ〔これらの問題に答えるためには〕私たちは〔何かに善を帰することにかかわる〕第三のタイプの判断を行う必要がある。
 ある一組の善、すなわち、〔それ自体として追求されるに値する〕正真正銘の善〔の追求〕が私個人の人生の中である従属的な場を占めることが、私自身と他者たちにとって最善のことである場合もあれば、それらが私個人の人生の中でいかなる場も占めないことがそうである場合もあるだろう。かつてゴーギャンは、絵を描くことの善が《彼の》人生においていかなる場を占めるべきかという問題に直面した。画家《としての》ゴーギャンにとっては、タヒチに行くという選択は最善の選択であったかもしれない。だが、かりにそうであったとしても、その選択がヒト《としての》ゴーギャンにとって、あるいは父親《としての》ゴーギャンにとって最善の選択であったということにはならない。それゆえ私たちは次の二つの問いを区別する必要がある。すなわち、なぜある種の善は善であるのかという問い、つまりそれらがそれら自体として価値あるものとみなされるべき善であるのはなぜかという問いと、特定の状況下にある特定の個人ないしは特定の社会にとって、それらの善をその個人ないしはその社会のメンバーたちによって実践的に顧慮され追求されるべき対象とみなすことが善いことであるのはなぜかという問いを区別する必要がある。そして、ある個人にとって、ないしはあるコミュニティにとって、その生の営みの中でさまざまな善をどのように秩序づけるのが最善かについての私たちの判断こそが、この〔何かに善を帰する〕第三のタイプの判断の実例である。そうした判断において私たちは、一人の個人や個々の集団が、ある役割を担いつつある形態の活動に従事している行為者や行為者集団《として》のみならず、ヒト《として》も、いかなる存在であることが、また、何をなすことが、また、いかなる資質や能力を備えていることが最善であるのかについて、無条件的な判断をくだしている。そして、このような判断こそがヒトの開花についての判断なのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第7章 傷つきやすさ、開花、諸々の善、そして「善」,pp.87-90,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:善,価値ある目的の手段としての善,価値ある社会的役割に内在する善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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ルールを遵守させる力が、敵対的な社会的反作用や刑罰への恐怖、個人的利益だけではなく、違反行為そのものが「悪」であるという理解と、違反者自身による罰(良心の感情)を含むのが、道徳的な原則の特徴である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

道徳的な原則を支える力

【ルールを遵守させる力が、敵対的な社会的反作用や刑罰への恐怖、個人的利益だけではなく、違反行為そのものが「悪」であるという理解と、違反者自身による罰(良心の感情)を含むのが、道徳的な原則の特徴である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(d)追記。

一般の行動規則、道徳的な原則、正義の原則の違い。
(1)一般の行動規則:個人の行動に関する一定のルールや原則
(2)道徳的な原則:個人の行為を義務づける道徳に関する一定のルールや原則
 (2.1)在る法に対する批判のすべてが、正義の名においてなされるわけではない。道徳的な原則も、在る法を批判する根拠の一つである。
 (2.2)道徳的な原則は、次の4つの特徴を持つ。
  参照:一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)重要性
   一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。まず(a)重要性。(a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度、(a.2)社会的圧力の大きさの程度、(a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度
    大きい:強力な感情の発現を禁じるために、かなりの個人的利益の犠牲が要求される。
    小さい:あまり大きな犠牲が要求されない。
   (a.2)社会的圧力の大きさの程度
    大きい:個々の場合に基準を遵守させるためだけでなく、社会の全ての者に教育し教え込むための社会的圧力の色々な形態が用いられる。
    小さい:大きな圧力は加えられない。
   (a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度
    大きい:個人の生活に、広範で不愉快な変化が生じるであろうと認識されている。
    小さい:社会生活の他の分野には何ら大きな変化が生じない。

  (b)意図的な変更を受けないこと
   一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。二つめ(b)道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (b.1)道徳的な原則は、意図的に導入、変更、廃止することができない。
    (b.1.1)道徳をつくり変更する権限をもった道徳定立機関があるというような考えは、道徳の観念そのものと矛盾するものである。このことは、社会によってまたは時代によって異なるという性質のものではない。
   (b.2)しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。ルールはそれが生成し、実行されることによってその地位を獲得し、用いられなくなり、衰退することによってそれを失う。
    道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、法の規定が、現行の道徳を変更したり高めたり、伝統的な慣行を消滅させたり、ある階層の伝統を形成したりすることもある。(ハーバート・ハート(1907-1992))
    (b.2.1)たいていは、定立された法よりも、深く根をおろしている道徳の方が強く、相容れない法と道徳が併存する場合もある。
    (b.2.2)法の規定が、誠実さや人道性の基準を立てる場合があり、現行の道徳を変更したり、高めたりすることもある。
    (b.2.3)法によって禁じられたり罰せられることによって、伝統的な慣行が絶え、消滅することもある。
    (b.2.4)ある法が、ある階層の人々に兵役を課すことによって、その階層に一つの伝統を生み出し、伝統が法よりも長く存続することになるかもしれない。
   (b.3)意図的な変更を受けないという特徴は、どのような社会的伝統に関しても、同様である。
   (b.4)これに対して、法体系は意図的な立法行為により、導入、変更、廃止される。

  (c)道徳的犯罪の自発的な性格
   できる限りの注意と自己コントロールによって、正しい行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   道徳的および法的犯罪が成立する諸条件。
   (c.1)道徳的な原則、法的ルールに従うことが可能な肉体的、精神的能力を持っている。
    基礎的な能力を欠く人は、道徳的にも法的にも免責される。
   (c.2)何が正しい行動なのかを知っている。
    (c.2.1)道徳:仮に、何が正しいかを知らなったとき、道徳的責務はあるのか、ないのか?
    (c.2.2)法:個人が現に持っている心理的状態を客観的に究明することには困難があり、法的責任においては、自制の能力、注意能力を持つ人は、正しいことを判断できるとみなす。
   (c.3)できる限りの注意をすれば、自己をコントロールして、正しい行動を取ることができる。
    (c.3.1)道徳:道徳的責任が生じるための一つの必要条件である。できる限りの注意をしても、その行動が避けられないときには、免責される。すなわち、道徳的な原則においては、「せざるを得なかった」は一つの弁解になる。
    (c.3.2)法:法的責任は「せざるを得なかった」場合でも、除かれるとは限らない。すなわち、故意でなく、注意も怠らなったとしても、「厳格な責任」を負う場合もある。ただし、身体的に正しい行動を取り得ないという最低要件は別である。
   (c.4)判断する能力を持っており、何が正しいかも判断でき、正しい行動を取ることも可能であるにもかかわらず、故意に、あるいは不注意から、誤った行動をする。
    道徳的にも法的にも責任は逃れられない。
   (c.5)考察するための事例。
    (c.5.1)正当防衛上必要な措置としてなされた殺人
    (c.5.2)正当防衛以外の理由で、正しいと誤認された殺人
    (c.5.3)あらゆる注意を払ったにもかかわらず、誤ってなされた殺人
    (c.5.4)不注意や過失による殺人
    (c.5.5)故意の殺人
  (d)道徳的圧力の形態
   ルールを遵守させる力が、敵対的な社会的反作用や刑罰への恐怖、個人的利益だけではなく、違反行為そのものが「悪」であるという理解と、違反者自身による罰(良心の感情)を含むのが、道徳的な原則の特徴である。
   (d.1)違反行為そのものが「悪」であるという理解
    判断する能力を持っており、何が正しいかも判断でき、正しい行動を取ることも可能であるにもかかわらず、故意に、あるいは不注意から、誤った行動をする場合、それは「悪」であり行為者が責任を負わなければならない。例えば、「それでは嘘になるだろう」とか、「それでは約束を破ることになるだろう」など。
    参照:できる限りの注意と自己コントロールによって、正しい行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (d.2)違反者自身による罰(良心の感情)
    仮に、違反に対する敵対的な社会的反作用、刑罰による威嚇、遵守することによる個人的利益がなかった場合であっても、違反することによって恥辱の感情、罪の意識、自責の念が生じる。
   (d.3)敵対的な社会的反作用
    軽蔑、社会関係の断絶、社会からの追放などの例。
   (d.4)刑罰による不愉快な結果の威嚇
   (d.5)個人的利益
(3)正義の原則:個人の行動にではなく、さまざまな部類の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部である。法や、他の公的ないしは社会的制度を批判する根拠である。
(4)法:実際に在る法


 「(4)道徳的圧力の形態 道徳のもう一つの顕著な特徴は、道徳を維持するために用いられる道徳的圧力の特有な形態である。この特徴はすぐ前にのべたところと密接に関連しており、またそれと同様に道徳は「内面的」なものにかかわるという曖昧な観念の形成におおいに寄与してきたものである。道徳をこのような解釈に導いたのは次のような事情による。もしある者が行動に関するルールを破ろうとする場合に、それを思いとどまらせる論法として常に体刑と不愉快な結果という威嚇《のみ》がもち出されるというのであれば、そのようなルールをその社会の道徳の一部とみなすことは不可能であろう。たとえそうだとしても、それが社会の法の一部として取り扱われることに異議はないであろう。法的圧力の典型的な形態はこのような威嚇からなっているということができよう。これに反して、道徳については、圧力の典型的形態はルールをそれ自体重要なものとして尊重しようという訴えからなっており、その尊重はルールの名宛人によって共有されていると考えられる。したがって、道徳的圧力は威嚇によってあるいは恐怖や利益に訴えることによってではなく、行なわれようとする行為の道徳的性格および道徳の要請を思い出させることによって、もっぱらではないとしても特徴的に行使されるのである。「それでは嘘になるだろう」とか「それでは約束を破ることになるだろう」というような表現をとってみても、その背後には確かに刑罰の恐怖に類似した「内面の」道徳がある。というのは、抗議はそれが向けられる者に恥辱または罪悪の念を呼び起こすということが考えられるからである。つまりその者は自らの良心によって「罰せられる」ことになろう。もちろん、このような極めて道徳的な訴えには、体刑の威嚇とか通常の個人的利益に対する訴えが付随することがある。道徳律から逸脱すれば敵対的な社会的反作用いに出会うことになり、それには比較的ありふれた軽蔑から社会関係の断絶あるいは社会からの追放にいたるまでさまざまな形態がある。しかし、ルールが求めているものを強く思い出させること、良心に訴えること、あるいは罪の意識とか自責の念という作用に頼ることは、社会道徳を支えるために用いられる圧力の、特徴的な非常に顕著な形態である。社会道徳がまさにこのような方法で維持されるべきであるということは、道徳的ルールや基準を維持すべきまったく重要なものとして容認していることの当然の帰結である。このような方法で維持されないような基準は、社会および個人の生活において、道徳的責務としての特色ある地位を占めることができないであろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第8章 正義と道徳,第2節 道徳的および法的責務,p.196,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),川島慶雄(訳))
(索引:道徳的な原則,良心の感情,道徳的圧力の形態)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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26.選ばれた優れた人たちによる統治は、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の下でのみ、公正に機能し得る。なぜなら、いかなる人も、個人的または階級的な利益や感情、価値観の影響下にあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

普通の人たちの究極的な支配権

【選ばれた優れた人たちによる統治は、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の下でのみ、公正に機能し得る。なぜなら、いかなる人も、個人的または階級的な利益や感情、価値観の影響下にあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.2)追記。

(1)普通の人たち(人民、公衆)
 (1.1)特定の任務のための特別な教育を受けていない、圧倒的多数の普通の人たちである。
 (1.2)普通の人たちの判断は、きわめて不完全である。
 (1.3)普通の人たちは、問題それ自体を自ら判断するというよりも、彼らのために問題を解決すべき専門家の性格や才能に基づいて、判断してしまいがちである。
(2)選ばれた優れた人たち
 (2.1)特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちである。
(3)良い統治とは何か。
  良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)選ばれた優れた人たちによる判断
  (3.1.1)有閑階級の集団であっても、下層の人々の集団であっても、普通の人たちの判断や意志による統治は、良い統治とは言えない。
  (3.1.2)選ばれた優れた人たちによる、普通の人たちの集団から独立して慎重に形成された判断が、政治的問題の解決のために、必要である。
  (3.1.3)選ばれた優れた人たちに、普通の人たちに対する責任を負わせて、目的の公正さを最大限に保証できるような統治の仕組みを作ることが、政治学における重大な難問である。
 (3.2)普通の人たちの究極的な支配権
  (3.2.1)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかなときは、彼らを解任する仕組が存在すること。
  (3.2.2)このような究極的な支配権を保持する以外の方法で、選ばれた優れた人たちを制御することはできない。この支配権を放棄したら、選ばれた優れた人たちによる専制を招くことになるだろう。
  (3.2.3)なぜなら、いかなる人も個人的な利益や好み、自分の属している階級の利益や好みを持っており、何が善いことなのか、何が正しいことなのか、何が優れたことなのかに関する考え方にも、偏りが存在するからである。
 (3.3)普通の人たちに求められること
  (3.3.1)自ら完全に賢明であることは不可能であるし、その必要もない。
  (3.3.2)優れた見識の価値を評価でき、優れた人を選ぶことができる。
  (3.3.3)選ばれた優れた人たちの行為を理解し、不明な場合には説明を求めるだけの見識を持つ。
  (3.3.4)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立する目的や意図に導かれているときは、彼らを解任する権限を行使できるだけの見識を持つ。

 「合理的な民主主義という考えは、人民自身が統治するということではなく、人民が優れた統治への保障をもっているということである。

彼ら自身の手中に究極的な支配権を保持する以外のどのような方法によってもこの保障をもつことはできない。

もし彼らがこれを放棄したら、自らの身を専制に委ねることになる。

一般的に、人民に対して責任を負うことのない統治階級は自分たちの個別の利益や好みを追求して人民を犠牲にするに違いない。

道徳感情でさえ、そして卓越性についての考えでさえ、人民の善にではなく、彼ら自身の善に関係している。彼らの言う徳とは階級的な徳にほかならないし、彼らの愛国心や自己献身からの気高い行為は、自分の属している階級の利益のために自分の私的利益を犠牲にすることにすぎない。

レオニダスが示したような英雄的な公徳は奴隷の存在と完全に両立するものであった。

人民の利益に対する支配者の献身について人民が疑問を抱くようになったらすぐに人民が支配者を解任することができるような場合を別にすれば、いかなる政府においても人民の利益が目的とされることはないだろう。

しかし、人民の権力が適切に行使されるのはこれだけである。よい意図が保証されうるならば、最良の統治は(言うまでもないかもしれないが)もっとも賢明な人々による統治に違いなく、そのような人はつねに少数であるに違いない。

人民は主人でなければならないが、彼らは自分自身よりも熟練した召使を雇わなければならない主人であり、それは軍司令官を使っている時の大臣や、軍医を使っている時の軍司令官と同じである。

大臣は軍司令官を信任しなくなったら彼を解任して別の人を任命するが、いつどこで戦闘をおこなうかについて指示することはない。大臣は司令官に意図と結果に対してだけ責任を負わせている。人民も同じようにしなければならない。

このことによって人民による統制が無価値になるわけではない。政府による軍司令官に対する統制は無価値なものではない。

ある人による医者に対する統制は、その人が医者に対してどの薬を投与するのかを指示しないからといって、無価値なものではない。彼は医者の処方に従うか、不満があるならば、別の医者にかかるのである。彼の安全はこのことにかかっている。人民の安全もこのことにかかっており、彼らの分別はこれで満足するべきである。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『論説論考集』,附論,集録本:『功利主義論集』,pp.364-366,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))

(索引:選ばれた優れた人,人民,公衆,普通の人たち,究極的な支配権,階級利益)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

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