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2022年1月22日土曜日

課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む。将来の課題は予知できない。人間の目的は創造されるのであって発見されるのではない。人は、自由への恐れから、客観的な道徳的原理や客観的権威を求めるが、それは幻想であるとする思想がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

客観的な価値は存在するのか

課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む。将来の課題は予知できない。人間の目的は創造されるのであって発見されるのではない。人は、自由への恐れから、客観的な道徳的原理や客観的権威を求めるが、それは幻想である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む
 ある時代または文化の問題を解決しようとする努力そのものが、当の努力をしている人々および解決案が適用される人々をともに変えてしまい、それによって新しい人間、新しい諸問題が創り出されることになる。
(2)将来の課題は予知できない
 歴史的地平によって制約された人 間が、将来の人々の課題や諸問題を予知をすることはできず、まして分析や解決などはできない。
(3)目的は創造されるのであって発見されるのではない
 行為の目的は発見されるのではなく、芸術の仕事と同じように 個々人、または文化、または国民によって創造されるものなのであって、「何をなすべき か」という問いに対する答えは、発見されることはできない。(主観主義、非合理主義、ロマン主義)
 (a)解答は行動にある
  その問いがそもそも事実に関する問いではなく、解答が、命題あるいは定式、客観的な善、原理、客観的あるいは主観的な価値体系、心と心でないなにものかとの関係を発見することにはなくて、行動のうちにある。
 (b)意志、信仰、創造の行為
  発見されるのではなくて発明しかされえない何ものかのうちに、あらかじめ存在する規則や法則、事実などには従属しない意志あるいは信仰あるいは創造の行為のうちにあるからだ。

(4)客観的な価値論への批判
 (a)自由への恐怖
  客観的基準などというものは幻想の一形 態ないし「虚偽意識」の一形態であるとされ、そうしたこしらえごとを信ずるのは、心理学的 には自由の恐怖、ひとり放り出され、自分だけの工夫にまかされることへの恐怖に由来する。
 (b)道徳的原理、客観的権威、形而上学的宇宙論
  この恐怖によって、道徳的あるいは知的な規則とか原理とかの、永遠の真正性を保証する客観的権威を要求する諸体系、またはまがいものの神学的ないし形而上学的宇 宙論の無批判的容認へと導かれる。


「もう一方の側には、なんらかのかたちの原罪とか、人間の完成の不可能性を信じるひとた ち、それゆえ、いちばん根本的な人間の諸問題に対する最終的な解決の経験的達成の可能性に は懐疑的な傾向のひとたちがいる。そのなかには、懐疑論者、相対主義者がおり、また、ある 時代または文化の問題を解決しようとする努力そのものが、当の努力をしているひとびとおよ び解決案が適用されるひとびとをともに変えてしまい、それによって新しい人間、新しい諸問 題が創り出されることになるのだから、その性格をかれらの歴史的地平によって制約された人 間が今日予知することはできず、まして分析や解決などはできないと信ずるひとたちも入る。 さらにまたこれには、多くの党派の主観主義者や非合理主義者も、とりわけロマン主義的な思 想家たちが属する。かれらは、行為の目的は発見されるのではなく、芸術の仕事と同じように 個々人、または文化、または国民によって創造されるものなのであって、「なにをなすべき か」という問いに対する答えは発見されることはできない。それは、答えを発見することがわ れわれの能力を超えているからではなく、その問いがそもそも事実に関する問いではなく、発 見されるかどうかはともかく、解答が、現にあるなにものか――命題あるいは定式、客観的な 善、原理、客観的あるいは主観的な価値体系、心と心でないなにものかとの関係――を発見する ことにはなくて、行動のうちにある。つまり、発見されるのではなくて発明しかされえないな にものかのうちに、あらかじめ存在する規則や法則、事実などには従属しない意志あるいは信 仰あるいは創造の行為のうちにあるからだ、と考える。さらにここは、ロマン主義の20世紀に おける継承者である実存主義者たちも加わる。かれらは、行動に対する個人の自由な関与、あ るいは自由に選択する発動者によって決定される生活様式というものを信じ、そうした選択は 客観的基準を考慮に入れないと考える。というのは、客観的基準などというものは幻想の一形 態ないし「虚偽意識」の一形態であるとされ、そうしたこしらえごとを信ずるのは、心理学的 には自由の恐怖――ひとり放り出され、自分だけの工夫にまかされることへの恐怖――に由来する とされるからである。この恐怖によって、道徳的あるいは知的な規則とか原理とかの永遠の真 正性を保証する客観的権威を要求する諸体系、またはまがいものの神学的ないし形而上学的宇 宙論の無批判的容認へと導かれるのだというのである。それからまた、運命論者や神秘主義 者、ならびに偶然が歴史を支配すると信ずるひとびとや他の非合理主義者なども、これに近い ところにいるばかりでなく、非決定論者とか、不変的法則にしたがう固定的な人間本性を発見 することができるかどうかに疑問を抱く困惑せる合理主義者なども、これに近いわけである。とくに、人間の将来の必要なりその充足なりは予示しうるという命題は、新しい行動の道をた えずきり拓いてゆくという前提――これはわれわれが人間というときに意味されているものの定 義そのもののなかに入っている前提である――によって必然的に意志とか、選択とか、努力と か、目的とかの概念を含んでくるところの人間本性観には適合しないと考えるひとびとは、そ うである。これは、現代のマルクス主義者がとっている立場であるが、かれらはその学説のよ り粗野な通俗版に対して、自分たち自身の前提や原理の内包するものを理解するにいたったの である。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,III,pp.475-477,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




信念や価値の問題もまた理性の対象である。我々は何を信じているのか、信じている理由はなにか、その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。人間と社会、政治を、動機と理由による正当化と説明を求める理性的な好奇心が存在する限 り、政治理論が展開される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

信念と価値の問題

信念や価値の問題もまた理性の対象である。我々は何を信じているのか、信じている理由はなにか、その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。人間と社会、政治を、動機と理由による正当化と説明を求める理性的な好奇心が存在する限 り、政治理論が展開される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)信念や価値の問題もまた理性の対象である
 事実において我々の信念を因果的に決定しているものが何であれ、以下のことを知ろうと欲しないのは、我々の理性能力を理由なく放棄することである。
 (a)我々は何を信じているのか。
 (b)信じている理由はなにか。
 (c)その信念が形而上学的に含意するものはなにか。
 (d)その信念は、他のタ イプの信念といかなる関連をもつか。
 (e)その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。
 (f)その信念が、真理であり妥当性をもつと考えるのにどんな理由があるか。

(2)目的と理由による正当化を求めること
 理性的な好奇心、すなわち単に因果関係、函数的相関関係、統計的蓋然性などによるのみではなく、動機と理由による正当化と説明を求める気持ちが存在する限 り、政治理論が完全にこの地上から消え失せることはないであろう。

(3)新しい予言不可能な未来 への展開
 新マルクス主義、新トマス 主義、国家主義、歴史主義、実存主義、反エッセンシャリスト的自由主義、社会主義、また自 然権・自然法学説の経験的用語への移しかえ、経済学からのモデルおよび関連技術の政治的行 動への巧みな適用による諸発見、これらの諸観念の行動における衝突・結合・影響、等々、それらは大きな一伝統の死を指示するのではなく、いずれかといえば、新しい予言不可能な未来 への展開をこそ示唆するものであろう。



「われわれは、たいていは制御できない、そしておそらくはわれわれの知識をも超えた環境 によって、非理性的に信じているものを信ずるように条件づけられているのであろう。しか し、事実においてわれわれの信念を因果的に決定しているものがなんであれ、われわれがなに を信ずるか、その理由はなにか、そうした信念が形而上学的に含意するものはなにか、他のタ イプの信念といかなる関連をもつか、それはどのような価値と真理との規準を含んでいるか、 またそれを真理であり妥当性をもつと考えるのにどんな理由があるか、といったことを知ろう と欲しないのは、われわれの論究する理性能力を理由なく放棄する――自然科学と哲学的研究の 混同に基づいて――ことであろう。理性的であるとは、ひとが考えることができ、また理解しう る理由によって行動することができる、しかもその理由はたんに、「イデオロギー」を生み出 す隠れた諸原因の産物として理解されるのではなく、その犠牲によってはどうあっても変えられない、という信念に基づく。理性的な好奇心――たんに因果関係、函数的相関関係、統計的蓋 然性などによるのみではなく、動機と理由による正当化と説明を求める気持ち――が存在する限 り、政治理論が完全にこの地上から消え失せることはないであろう、たとえ社会学、哲学的分 析、社会心理学、政治科学、経済学、法律学、意味論、等々の多くの競争相手がその空想的領 域を放逐し去ったと主張するにしても。  歴史上はじめて文字通り全人類が、まさにそれこそこの政治理論という研究部門の唯一の存 在理由であり、またつねにそうであったところの論点によって、烈しく対立させられている時 代に、政治理論がかくも日陰的生存を強いられているかに見えることは、まことに奇妙なパラ ドックスである。しかし、これで万事が終わるとは信じられない。新マルクス主義、新トマス 主義、国家主義、歴史主義、実存主義、反エッセンシャリスト的自由主義、社会主義、また自 然権・自然法学説の経験的用語への移しかえ、経済学からのモデルおよび関連技術の政治的行 動への巧みな適用による諸発見、これらの諸観念の行動における衝突・結合・影響、等々、そ れらは大きな一伝統の死を指示するのではなく、いずれかといえば、新しい予言不可能な未来 への展開をこそ示唆するものであろう。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由論』,IX,pp.511-512,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




過去の政治学説は、社会状況が課す問題、目標、価値観に基づく人間と社会の理論であり、人間や環境が根本的に変わらず現に今日ある通りのものである間は、現実の諸条件が人間のどの側面を際立たせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論の特質

過去の政治学説は、社会状況が課す問題、目標、価値観に基づく人間と社会の理論であり、人間や環境が根本的に変わらず現に今日ある通りのものである間は、現実の諸条件が人間のどの側面を際立たせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




「その二、三の実例としては、カール・ポッパー教授のプラトンの政治理論に対する攻撃、 アーヴィング・バビットのルソーに対する痛烈な論難、シモーヌ・ヴェーユの旧約聖書の道徳 に対する烈しい嫌悪、今日しばしば行われている18世紀の実証主義ないし政治理論にける「科 学主義」に対する非難・攻撃、などを挙げることができよう。古典的な構成体のあるものは相 互に衝突し合うものであるけれども、それぞれが恒久的な人間の諸属性に関する生き生きとし たヴィジョンに基づき、各世代のある探究者たちの心を満たしうるものであるかぎり、いかに時間的・空間的環境が異なろうとも、プラトンやアリストテレスのつくったモデル、またユダ ヤ教、キリスト教、カント的自由主義、ロマン主義、歴史主義、等のモデルは、みな生きなが らえて、今日もさまざまな形で相争うているのである。  人間や環境が根本的な変化をとげるとか、われわれの人間観に革命的変化をもたらすような 新しい経験的知識が獲得されるとかしたならば、そのときにはきっと、これらのモデルのある ものは関連性を失い、エジプト人やインカ人の倫理や形而上学のように忘れ去れることであろ う。だが、人間が現に今日ある通りのものである間は、論争は、これらのヴィジョンなりそれ と同様の他のヴィジョンなりによって設定された用語でつづけられてゆくであろう。そしてそ のそれぞれは、現実の諸条件が人間のどの側面を際だたせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。ただひとつ確実なことは、哲学的問題とはなんであり、それは経験 的あるいは形式的問題とどのようにちがうか(もっともこの相違は必ずしも明確なものでなく てもよいので、重なり合ったり、あるいは境界線上にある問題は多々ある)を理解している、 また少なくとも感知しているひとびとにとってのほかは、その解答――いまここでの場合には西 洋の主要な政治学説――は、知的幻想、超然たる哲学的思弁、現実の行為ないし事件にたいして 関わりのない知的構成物と思われることであろう。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.507-508,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー、社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真理、幻想、等々の観念は、記述的な概念だと考えられているが誤りである。人間観は、普遍的な諸価値を前提としている。そもそも、言語の意味はある意図(目的)を前提としているのである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

人間観を支持する諸価値

人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー、社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真理、幻想、等々の観念は、記述的な概念だと考えられているが誤りである。人間観は、普遍的な諸価値を前提としている。そもそも、言語の意味はある意図(目的)を前提としているのである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



参考:意図と解釈


「われわれが人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー(およびそれに対応する概念) ――社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真 理、幻想、等々(以上はまったくアット・ランダムに挙げただけだが)の観念――は、帰納の問 題でも、仮説の問題でもない。あるひとを人間として考えること、そのこと自体によって、こ れらすべての観念が働かされることになる。したがって、あるひとが人間であると言っておき ながら、そのひとに選択とか真理の観念とかがなんの意味ももたないというのは、奇妙であろ う。それは、たんに言葉の上だけの定義(それならば意のままに変えられる)としてではな く、われわれがものを考える仕方、また(ありのままの事実として)われわれが考えざるをえ ないその仕方に本質的なものとして、「人間」というときに意味しているものと衝突すること になろう。  これにはまた、それによって人間が定義される価値(とりわけ政治的価値)も保持されてい るであろう。だから、もしわたくしがあるひとについて、かれは親切だとか、残酷だとか、か れは真理を愛するとか、真理には無関心だとか言うならば、そのひとはいずれの場合にもやは り人間的ではあるのである。ところが、もしわたくしが、そのひとにとっては石をけとばすこ とも家族を殺すことも、いずれも倦怠ないし無為への反対であるがゆえに、文字通りなんの差 別もないようなひとを見出したとしたら、わたくしは首尾一貫した相対主義者のように、たん にわたくし自身ないし大多数のひとびとのそれとはちがった道徳がかれにあるからだと考えた り、われわれは肝心な点で意見がくいちがっていると言ったりしないで、かれは精神異常であ り、非人間的であると言おうとするであろう。自分はナポレオンだと考えるひとが気違いであると同様に、かれは気違いであると見なしたいと思う。つまり、それは、わたくしがそのよう な存在を完全に人間であるとは考えないということである。この種の事例によって、普遍的な ――ないしはほとんど普遍的な――諸価値を認知する能力が、「人間」、「合理的」、「正気 の」、「自然的」等々の基本的概念の分析には入りこんでくることが明らかにされるように思 われる。それらの概念はふつう価値評価にかかわるものでなく、記述的な概念だと考えられて おり、古いア・プリオリな自然法学説における真理の核心を今日経験的用語に翻訳する試みの 根底におかれているものである。記述的陳述と価値の陳述との間のまったく論理的な差別に対 する忠実な経験論者たちの確信をゆるがせ、ヒュームに由来するこの有名な区別に疑問を投じ たのは、新アリストテレス主義者やウィットゲンシュタインの後期学説の信奉者たちによるこ のような考察なのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.500-501,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




政治哲学は、諸目的がたがいに衝突しあうような世界においてのみ、それは原理的に可能である。なぜなら、諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、手段についての議論は、技術的なもの、つまり科学的・経験的な性格のものとなるからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治哲学の成立条件

政治哲学は、諸目的がたがいに衝突しあうような世界においてのみ、それは原理的に可能である。なぜなら、諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、手段についての議論は、技術的なもの、つまり科学的・経験的な性格のものとなるからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、政治哲学は不要となる
 ただ一つの目標によって支配されている社会においては、目的に到達する最上の手 段についての議論だけしかありえないはずであり、そうした手段についての議論は技術的なも の、つまり科学的・経験的な性格のものである。


「ところで、このことは、少なくともひとつ重要な問題が含まれている。もしも「いかなる 世界において政治哲学――それを存立せしめるような議論や論議――は原理的に可能であるか」と いうカント的な問題が提起されるならば、「諸目的がたがいに衝突しあうような世界において のみ、それは原理的に可能である」というのがそれに対する答えでなければならない。ただひ とつの目標によって支配されている社会においては、原理的にはこの目的に到達する最上の手 段についての議論だけしかありえないはずであり、そうした手段についての議論は技術的なも の、つまり科学的・経験的な性格のものである。それは経験と観察とによって確定され、その 他の方法を用いても原因や相関関係を発見することができる。それは、少なくとも原理的に は、実証科学に還元されうるものである。そのような社会にあっては、政治的目的とか価値と かについての深刻な問題は生じえないので、ただ目標に達するためのもっとも効果的な道はな にかという経験的な問題しかないわけである。」(中略)「以上のようなわけで、伝統的な意 味における政治哲学、すなわち、たんに諸概念の明瞭化ということだけではなく、前提とか暗 黙裡の想定とかの批判的検討、先後の順序や究極目的などの究明にたずさわる研究が可能であ るような唯一の社会は、あるひとつの目的が全体には受けいれられていない社会であるという ことになる。ただひとつの目的が全体に受けいれられないことの理由はさまざまありうるであ ろう。単一の目的がじゅうぶんなだけ多数のひとびとによって受けいれられなかったとか、他 の諸価値がいつかひとびとの理性なり感情なりを引きつけないという保証は、原理的には、あ りえないゆえに、あるひとつの目的を究極的と見なすわけにはゆかないからとか、いかなる終 局的な単独目的も発見しえない――ひとが多くのちがった目的を追求しうるものである限り、そ のうちのひとつ、あるいは一部が、そのひとたちお互いにとって終局的な単独目的の意味をも つことはないからとか、その他。これらの目的のうちのあるものは公共的ないし政治的な目的 であるかもしれない。それらのすべてが、原理的にも、相互に矛盾なく両立するものでなけれ ばならぬと考えるべき理由はない。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,II,pp.467-469,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。これらは、規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とし、様々な見解が主張される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論と価値観の問題

伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。これらは、規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とし、様々な見解が主張される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)政治理論は規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とする
「どうして人は服従するのか」という問題は経験的心理学、人類学、社会学の問題である。これに対して、「どうして人は、だれか他の人に服従しなければならないのか」という問題は、権威とか主権とか自由とかの観念における規範的なるものの説明、また政治的議論におけるそ れらの観念の妥当性の正当化を求めている。

(b)基礎となる価値観が異なると諸概念も根本的に異なる
 (i)いくつかの概念 の意味について広汎な意見の一致がない。
 (ii)諸問題を決定する公認の権威はだれなのか、または何なのか、等々に関しては大きな見解の相違がある。
 (iii)価値概念の分析に関する意見の不一致は、時としてさらに根本的な差異から生じてきていることは明らかであるように思われる。
 (iv)権利とか正義とか自由とかいう観念は、有神論者と無神論者とではまるきりちがったものになる だろうし、機械論的決定論者とクリスト教信者、ヘーゲル主義者と経験論者、ロマン主義的非合理主義者とマルクス主義者、等々でも根本的にちがうものになるであろう。



「伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。われわれはこれらの概念を分析する必要があ り、またこれらの表現がわれわれの言語においてどのように機能するか、あるいはそれらがい かなるかたちの行為を命令し、禁止するか、またそれはどうしてか、あるいはそれらはどのよ うな価値体系ないし世界観に適合するか、またそれはどのようにしてか、といったことを追求 してゆく。おそらくあらゆる政治的問題のうちでもっとも基本的な問題は、「どうしてひと は、だれか他のひとに服従しなければならないのか」という問題であるが、この問いをわれわ れが発するとき、われわれが問うているのは「どうしてひとは服従するのか」という問題――こ れは経験的心理学、人類学、社会学が答えることができよう――ではないし、また「だれがだれ に服従するのか、いつまたどこで、それはいかなる原因によって決定されるか」という問題―― これもまたほぼ右の諸学の分野から引き出される証拠によっておそらく答えられるだろう――で もないのである。どうしてひとが服従しなければならないのかと問うときには、われわれは、 権威とか主権とか自由とかの観念における規範的なるものの説明、また政治的議論におけるそ れらの観念の妥当性の正当化を求めているわけなのだ。その名において命令が発せられ、ひと が強制され、戦争が行われ、新しい社会がつくられ、古い社会が破壊される、そういう言葉が ある。その言語表現は、今日のわれわれの生活において他のいかなるものにも劣らぬ大きな役 割を演じている。こうした問題が一見哲学的であるのは、そこに含まれているいくつかの概念 の意味について広汎な意見の一致がないという事実によるのである。それらの分野における行 動の真の理由はなんであるのか、どうしたら適切な諸命題が確立されうる、さらにはもっとも らしいものにされうるのか、それらの諸問題を決定する公認の権威はだれなのか、またはなん なのか、等々に関しては大きな見解の相違があり、したがって、真の公共的批判と転覆との境 界線、あるいは自由と抑圧との区別、等々についてもなんら意見の一致は見られない。こうい う問題に対して相容れることのない解答がさまざまな学派なり思想家なりによって提出されつ づけている限り、この分野における一科学――経験的にせよ形式的にせよ――の確立の見通しは、 前途ほど遠しの感がある。実際、価値概念の分析に関する意見の不一致は、時としてさらに根 本的な差異から生じてきていることは明らかであるように思われる。というのは、たとえば権 利とか正義とか自由とかいう観念は、有神論者と無神論者とではまるきりちがったものになる だろうし、機械論的決定論者とクリスト教信者、ヘーゲル主義者と経験論者、ロマン主義的非 合理主義者とマルクス主義者、等々でも根本的にちがうものになるであろうからである。さら にまた、これらの差異が、少なくも一見したところでは、論理的であるか経験的であるかとい うのではなく、ふつうは、いかんともしがたく哲学的なものとして類別される――そしてそれが 正当である――ようなものであったということも、同じく明らかなことのように思われる。」 

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,II,pp.466-467,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




過去の政治理論を理解するには、その理論を支えている基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題を、想像的洞察力によって解明する必要がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論の理解

過去の政治理論を理解するには、その理論を支えている基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題を、想像的洞察力によって解明する必要がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題
 想像的洞察力によって、以下を理解しなければ、政治理論を理解できない。
 (a)意識的あるいは無意識的に諸種の見解を支配しているモデル、範例、概念構成を理解すること。
 (b)いかなる人間観が織り込まれているか理解すること。あるいは、特定の要素が人間観から欠如しているかを理解すること。
 (c)人間の思想や行動を理解することは、人間がどんな問題、難問題と取り組んでいる かを理解することだ。
 (i)これらの諸問題が、古くから今日まで広く認められ た問題なら、その支配的なカテゴ リーにはっきりと言及しなくとも、理解することができるだろう。
 (ii)政治理論ではよくあるように、そうでない場合には、人間観、モデルの理解が必要となる。
 (iii)今日では廃棄され、すたれてしまったモデルに支配されていたひとびとの精神状態にわが身を置いてみる だけの想像力と知識がなければ、それを中心にしていた思想と行動とはわれわれには不分明な ままにとどまるだろう。

(2)道徳理論、社会理論、政治理論
 個人の問題だけに局限すれば道徳理論、集団の問題に限定すれば社会理論、あるいは政治的と分類される特別の人間配置の諸類型の問題に限定すれば政治理論である。

(3)例として国家とは何か
 (i)国家は我々の罪のためにのみ与えられたものだ。
 (ii)国家は我々が大人 になり自由になってそれなしで済ませるようになるために通過しなければならない学校のようなものだ。
 (iii)国家は一箇の芸術作品だ。
 (iv)功利的に考案された装置だ。
 (v)自然法の具体的現実化である。
 (vi)支配階級の委員会である。
 (vii)自己展開する人類の精神の最高の段階である。
 (viii)ひとつの犯罪的な愚行である。
 (ix)国家は神聖なものだ。

「意識的あるいは無意識的にそれら諸種の見解を支配しているモデル、範例、概念構成を検 討し、そこに含まれているさまざまな概念やカテゴリーを、たとえばその内的首尾一貫性とか 説明能力といった点について比較するならば、そこでやっていることは心理学でも、社会学で も、論理学でも、認識論でもなく、われわれが個人の問題だけに局限するか、あるいは集団の 問題に限定するか、あるいは政治的と分類される特別の人間配置の諸類型の問題に限定する か、またはそれら全部を同時に取り扱うかによって、道徳理論、あるいは社会理論、あるいは 政治理論、または同時にその全部であるわけである。いかに多くの綿密な経験的観察や大胆で 実り豊かな仮説を以てしても、国家を神聖な制度だとするひとびとがなにを見ているのか、か れらの言葉がなにを意味し、現実とどのように関係するのかを説明してはくれないだろう。ま た、国家はわれわれの罪のためにのみ与えられたのだというひとたち、国家はわれわれが大人 になり自由になって、それなしですませるようになるために通過しなければならない学校のよ うなものだというひとたち、あるいは国家は一箇の芸術作品だといい、いやそれは功利的に考 案された装置だといい、また自然法の具体的現実化であるといい、さらに支配階級の委員会で ある、自己展開する人類の精神の最高の段階である、ひとつの犯罪的な愚行である、等々というひとたちが、いったいそれでなにを考えているのかを説明してはくれないであろう。もしわ れわれが、これらの政治的見解のうちにいかなる人間観(あるいはその欠如)が織り込まれて いるか、またそれぞれにおいて支配的なモデルはなんであるかということを理解する(ふつう 小説家たちが論理学者たちよりも高度にもっているような想像的洞察力によって)のでなけれ ば、われわれは自分たちの社会、いやおよそいかなる人間社会をも理解することはないであろ う。またストア派やトマス主義者たちを支配していた、あるいは今日のヨーロッパのキリスト 教的民主主義者たちを支配している理性観や自然観、またアジア・アフリカにおける国家的・ マルクス主義的運動を前進させつつある、あるいはやがて前進せしめるであろうところの神聖 なる戦いの核心にあるまるきりちがったイメージ、また西洋の自由主義的・民主主義的妥協に 生命を吹きこんでいるこれまたちがったイメージ、そのいずれをも理解することはないであろ う。  人間の思想や行動を理解することは、大部分、人間がどんな問題、難問題と取り組んでいる かを理解することだとは、今日ではもう言うまでもないような陳腐な言である。経験的であれ 形式的であれ、これらの諸問題が、今日まで用いられているほどに、古くから、広く認められ た、安定した現実のモデルによって考えられているならば、われわれはその支配的なカテゴ リーにはっきりと言及しなくとも、その問題、難点、解決の試みを理解することができる。と いうのは、これらのカテゴリーはわれわれおよび過去の諸文化に共通のものであって、表面に 出しゃばってこず、いわば見えないところにひそんでいるからである。そうでない場合(そし てこれが政治についてとくに当てはまるのだが)、モデルはおとなしく引っ込んでいない。そ れを構成するいくつかの概念はもはやなじみのものではないからである。しかし、今日では廃 棄され、すたれてしまったモデルに支配されていたひとびとの精神状態にわが身を置いてみる だけの想像力と知識がなければ、それを中心にしていた思想と行動とはわれわれには不分明な ままにとどまるだろう。この困難な操作を行わないことが、多くの思想史の特色となってお り、思想史を表面的な文献的訓練か、あるいは奇妙な、時としてはほとんど理解しがたい誤謬 や混乱の死せるカタログか、のいずれかにしてしまっているのである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.503-505,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)







2022年1月20日木曜日

社会が興起し、繁栄し、 衰退し、死滅する。これらを無意味な比喩と考えることはできない。歴史の規則性やパターンは、認識可能である。しかし、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質を付与するとき、誤りに陥る。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

歴史の規則性やパターン

社会が興起し、繁栄し、 衰退し、死滅する。これらを無意味な比喩と考えることはできない。歴史の規則性やパターンは、認識可能である。しかし、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質を付与するとき、誤りに陥る。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)歴史の規則性やパターン
 歴史における規則性やパターンが見つかったからとて、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越的性質、人間の犠牲を要求する渇望などを帰属せしめることが自然で当たりまえのことになっ てしまったら、それは神話によって決定的に欺かれることになる。
(b)文化のパターン
 文化にはそれぞれパターンがあり、時代には精神があるとしても、人間の行動をそ れらのパターンなり時代精神なりの「不可避的」な帰結ないし表現として説明することは、言 葉の誤用に陥ることである。


「もちろんわたくしは、そういう比喩なり形容なりが日常用語において、さらには科学にお いても、なしですませられるなどと言うつもりはない。ただ不法な「実体化」――言葉を事物 と、比喩を現実ととりちがえること――の危険が、この領域ではふつうに考えられているよりも はるかに大きいのだということを言っておきたいのである。いうまでもなく、もっとも有名な 事例は国家ないし国民の場合であり、まさしくその擬人化のために1世紀以上にもわたって哲 学者、さらには一般のひとびとが不安に、あるいは憤慨させられてきたのである。しかしなが ら、他の多くの言葉や語法にも同じような危険が伴う。歴史的運動は実在する。われわれはそ う言うことを許してもらわなければならない。集団的行動が起こり、社会が興起し、繁栄し、 衰退し、死滅する。パターンとか、「雰囲気」とか、人間ないし諸文化の複雑な相互関係とか はあるがままのもので、その原子的構成部分まで分析しつくすわけにはゆかない。けれども、 そうした表現をまったく文字通りにとって、それらに原因としての性質や、能動的な力、超越 的性質、人間の犠牲を要求する渇望などを帰属せしめることが自然で当たりまえのことになっ てしまったら、それは神話によって決定的に欺かれることになる。歴史に「リズム」が生ずる としても、それをなんとしても「動かしがたい」リズムであるということは、有害・不吉な兆 候である。文化にはそれぞれパターンがあり、時代には精神があるとしても、人間の行動をそ れらのパターンなり時代精神なりの「不可避的」な帰結ないし表現として説明することは、言 葉の誤用におちいることである。世界を想像上の権力や支配にまかせてしまう危険、一方すべ てのものを正確にそれと指示できる時・処における検証可能な男女の行為に還元してしまう危 険、このいずれの危険をもうまく逃れられることを保証する定式はひとつとしてない。われわ れのなしうることはせいぜい、この両方の危険のあることを指摘するということだけで、われ われはできるだけうまくこのスキュルラとカリブデスの間をきり抜けてゆかねばならないので ある。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,歴史の必然性,II,註 *,pp.191-192, みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月17日月曜日

歴史研究においては、道徳的ないし心理的評価を最小限に抑止すべきだという要求は、最大かつ破壊的な誤謬のひとつである。なぜなら、歴史において人間を、目的や動機をそなえた存在として見ることに矛盾するからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

歴史研究のあり方

歴史研究においては、道徳的ないし心理的評価を最小限に抑止すべきだという要求は、最大かつ破壊的な誤謬のひとつである。なぜなら、歴史において人間を、目的や動機をそなえた存在として見ることに矛盾するからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



「歴史は想像的文学とはちがう。けれども、自然科学ではまさしく不当に主観的・個人的と して難ぜられるようなものから、歴史もやはり免れるわけにはゆかないことはたしかである。 歴史が人間をただ空間内の物質的対象として取扱わねばならぬ――つまり行動主義的でなければ ならぬ――という前提に立つのでなければ、歴史の方法は精密自然科学の規準にはほとんど合致 させえない。人間を目的や動機をそなえた存在として見る(たんに諸事件の継起における因果 的要素としては見ない)ことに必然的に含まれている道徳的ないし心理的評価の最小限をさえ 抑止せよという歴史家への訴えは、人間研究の目的と方法を自然科学のそれと混同することか らきているのではないかとわたくしには思われる。それはここ百年ばかりの間の最大、かつ もっとも破壊的な誤謬のひとつである。
 * 歴史がこの意味において物理学的記述とは異なるのだということは、はるか以前にヴィコ によって発見され、ヘルダーおよびその後継者たちによって想像力豊かに、またきわめて生き 生きと提示された真理である。19世紀の歴史哲学者たちによって誇張され、極端論にまでなっ たところはあるが、やはり依然としてそれはロマン主義運動がわれわれの知識に寄与した最大 のものである。そこで示されたことは、時としてきわめて誤解を招きやすい混乱した仕方にお いてではあったが、歴史を自然科学に還元することが、真理であるとわれわれの知っているも のをわざと無視すること、われわれにもっとも親しい内容的知識の大部分を諸科学および数学 的・科学的訓練との誤れるアナロジーの祭壇で圧殺してしまうことだということであった。オ リゲネスのごとく、罪(観察データの「中立的」な調書からのいかなる逸脱にも含まれている)を犯すあらゆる誘惑を免れるようにと人間性の研究者に、禁欲生活を行い、進んで自分を 苦しめさいなむようにせよとのこの勧告は、歴史記述を悲愴な、また同時に馬鹿げたものにし てしまうことになる。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『歴史の必然性』(収録書籍名『歴史の必然 性』),IV,pp.241-243,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





歴史は、環境、風土、物理的、生理的、心理的過程といった自然的諸力だけから全てが説明できない。例外的な諸個人にせよ、不特定多数の大衆にせよ、個人の性格、 目的、動機が大きく関わり、道徳的、政治的な評価も含まれる。そのため、誤ったパターンや規則性の思想は、状況認識や道徳的・政治的評価に影響を与える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

歴史のパターンや規則性

歴史は、環境、風土、物理的、生理的、心理的過程といった自然的諸力だけから全てが説明できない。例外的な諸個人にせよ、不特定多数の大衆にせよ、個人の性格、 目的、動機が大きく関わり、道徳的、政治的な評価も含まれる。そのため、誤ったパターンや規則性の思想は、状況認識や道徳的・政治的評価に影響を与える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)例外的な諸個人か
 民衆および社会全体の生活は、例外的な諸個人によって決定的に左右され ているのか。
(b)不特定多数の諸個人か
 生起するものは特定個人の願望や意図の結果としてではな く、不特定な多数の諸個人の願望や意図の結果として生じるのか。
(c) 個人の性格、 目的、動機が深く関係する
 いずれにしても、環境、風土、物理的、生理 的、心理的過程といった自然的諸力に関する知識だけからすべてが説明されるわけではない。そこには、個人の性格、 目的、動機が関わってくる。だれが、なにを、いつ、どこで、どの ような仕方で、要求したか、またどれほど多くの人間がどれほど烈しく、この目的を避け、あ の目的を追求したか、を究明し、さらにそうした要求なり恐れなりがいかなる環境のもとでど の程度までの効果をもったか、またそれがどういう結果になったか、を追求することが、歴史 家の仕事となる。

(d)道徳的、政治的な評価も関わる
 どうして、このような状況が生じたのか。誰が、また何が、戦争、革命、経済的崩壊、芸術・文学の復興、人間生活を変える発明発見や精神的変革、等々に対して責任をとるべきものであったのか、また責任があるのか、あるいはあるだろうか、ありうるのか。

(e)歴史にはパターン、規則性はあるのか
 歴史上の諸事件の継起に大きなパターンなり規則性を見出すことができるのではないかと いう考えは、分類や相互関連の発見や、とりわけ予言といった点における自然科学の成功から 強い印象を受けたひとびとには、当然魅力的なものとなる。

(f)歴史の規則性に関する注意
 パターンないし斉一性の認知ということが、過去あるいは 未来に関する特別な仮説に刺激を与えたり、それを立証したりするのに、どれほどの価値をも つにしても、それは一方では、現代のものの見方を決定するのにかなりいかがわしい役割を演 じてきたし、また現在ますます演じつつもあるのである。

(g)規則性の思想は状況認識や道徳的・政治 的評価に影響を与える
 歴史に規則性があるとする思想は、人間の活動や性格を 観察し記述する仕方に影響を及ぼしたばかりではなく、その活動や性格に対する道徳的・政治 的・宗教的な態度にも影響を与えた。

「歴史上の諸事件の継起に大きなパターンなり規則性を見出すことができるのではないかと いう考えは、分類や相互関連の発見や、とりわけ予言といった点における自然科学の成功から 強い印象を受けたひとびとには、当然魅力的なものとなる。そこでかれらは、「科学的」方法 の適用によって――形而上学的あるいは経験的体系で武装を固め、かれらがもっていると主張す る確実な(あるいは実際上確実な)事実の知識を基点として出発することによって――過去にお ける空隙を満たす(時としては未来の際限もない空隙のなかへ構築をしていく)べく、歴史的知識の拡大を求める。他の諸領域におけると同じく歴史の領域でも、既知なるものから未知な るものへ、あるいは少し知られているものからさらに少ししか知られていないものへと論を進 めてゆくことによって、多くのことがなされてきたし、またこれからもなされてゆくであろう ことは疑いえない。しかしながら、パターンないし斉一性の認知ということが、過去あるいは 未来に関する特別な仮説に刺激を与えたり、それを立証したりするのに、どれほどの価値をも つにしても、それは一方では、現代のものの見方を決定するのにかなりいかがわしい役割を演 じてきたし、また現在ますます演じつつもあるのである。それはたんに、人間の活動や性格を 観察し記述する仕方に影響を及ぼしたばかりではなく、その活動や性格に対する道徳的・政治 的・宗教的な態度にも影響を与えた。というのは、人間がいかに、またなぜ、現にそうである ように行動し生活しているのかを考察するときにどうしても生じてくる諸問題のなかには、人 間の動機と責任という問題が含まれているからだ。人間の行為を記述するのに、個人の性格、 目的、動機という問題を排除したら、いつだってそれは作為的で、あまりに簡潔すぎるものと なってしまう。また人間の行為を考察するときには、だれだってたんにあれこれの動機なり性 格なりが生起するものに及ぼした影響の程度と種類だけを評価するのではなく、意識的あるい は半ば意識的にそれを自分の思想ないし行動のうちに受けいれる価値尺度はいかようにもあ れ、その道徳的ないし政治的な性質をもおのずから評価しているのである。どうしてこのよう な、またあのような状況が生じたのか。だれが、またなにが、戦争、革命、経済的崩壊、芸 術・文学の復興、人間生活を変える発明発見や精神的変革、等々に対して責任をとるべきもの であったのか、またあるのか(あるいは、あるだろうか、ありうるのか)。今日、個人中心的 な歴史理論と、個人中心的でない歴史理論とが存在していることは、周知のところであろう。 一方の理論によれば、民衆および社会全体の生活は例外的な諸個人によって決定的に左右され ていることになる。これにはまた、生起するものは特定個人の願望や意図の結果としてではな く、不特定な多数の諸個人の願望や意図の結果として生じるとする学説もある。ただしこの場 合にも、その集団的な願望や目的は、人間的でない要因だけによって、または多くは人間的な らざる諸要因によって決定されているとは見られず、したがって環境、風土、物理的、生理 的、心理的過程といった自然的諸力に関する知識だけからすべてが、または大部分が引き出し うるとは考えられていない。どちらの見解についても、だれが、なにを、いつ、どこで、どの ような仕方で、要求したか、またどれほど多くの人間がどれほど烈しく、この目的を避け、あ の目的を追求したか、を究明し、さらにそうした要求なり恐れなりがいかなる環境のもとでど の程度までの効果をもったか、またそれがどういう結果になったか、を追求することが、歴史 家の仕事となる。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『歴史の必然性』(収録書籍名『歴史の必然 性』),II,pp.163-165,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月16日日曜日

民主主義的な制度があっても、自由を抑圧することができるとしたら、社会を真 に自由にするものは何なのであろうか。(a)権力に対抗する権利の絶対性、(b)人間の思想の自由の不可侵性である。その際、介入が許される非人間性や狂気の概念は決して恣意的なものではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由のための原理

民主主義的な制度があっても、自由を抑圧することができるとしたら、社会を真 に自由にするものは何なのであろうか。(a)権力に対抗する権利の絶対性、(b)人間の思想の自由の不可侵性である。その際、介入が許される非人間性や狂気の概念は決して恣意的なものではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)権力に対抗する権利の絶対性
 一つの原理は、権力ではなくしてただ権利 のみが絶対的なものと見なされうる、したがって、いかなる権力が支配〔統治〕していようとも、すべての人間には非人間的な行為をすることを拒否する絶対的な権利がある、ということ である。
(b)人間の思想の自由の不可侵性
 第二の原理は、人間がその内部を決して侵されてはならない境界線は、なんら人為的 に引かれたものなのではなく、歴史上長く受けいれられてきた規則によって定められたもので ある。
(b.1)介入が許される非人間性や狂気の概念は恣意的なものではない
 したがってこの境界線を守ることは、一個の正常な人間であるとはどういうことか、そ れゆえにまた、非人間的ないし狂気の行動とはどういうものかという概念そのもののうちに 入っているのであって、その諸規則が、たとえばある宮廷なり主権者なりの側での形式的な手 続きによって廃棄されうるなどということは、まったく不合理なことである、というにある。


「しかしながら、デモクラシーがデモクラティックであることをやめることなしにも、自由 を、少なくとも自由主義者たちがいうような自由を抑圧することができるとしたら、社会を真 に自由にするものはなんなのであろうか。ミルやコンスタン、トックヴィルにとって、さらに かれらの属する自由主義的伝統にとっては、社会がとくかく二つの相関的な原理によって支配 〔統治〕されるのでなければ、自由ではない。その一つの原理は、権力ではなくしてただ権利 のみが絶対的なものと見なされうる、したがって、いかなる権力が支配〔統治〕していようと も、すべての人間には非人間的な行為をすることを拒否する絶対的な権利がある、ということ である。第二の原理は、人間がその内部を決して侵されてはならない境界線は、なんら人為的 に引かれたものなのではなく、歴史上長く受けいれられてきた規則によって定められたもので ある、したがってこの境界線を守ることは、一個の正常な人間であるとはどういうことか、そ れゆえにまた、非人間的ないし狂気の行動とはどういうものかという概念そのもののうちに 入っているのであって、その諸規則が、たとえばある宮廷なり主権者なりの側での形式的な手 続きによって廃棄されうるなどということは、まったく不合理なことである、というにある。 ひとりの人間が正常であるという場合、わたくしの意味していることの一部には、そのひとが 激変のための眩暈を覚えることなしに、これらの諸規則を簡単に破ることはできないというこ とが含まれている。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然 性』),7 自由と主権,pp.85-86,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





人間には、自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望がある。抑圧された階級、国民、皮膚の色、民族に属する人たちは、承認欲求と引き換えのグループ内での悪政や自由の制限を受け入れ、グループ全体の解放への強い欲求を持ち、温情的干渉主義は侮辱と考える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

何のための自由なのか

人間には、自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望がある。抑圧された階級、国民、皮膚の色、民族に属する人たちは、承認欲求と引き換えのグループ内での悪政や自由の制限を受け入れ、グループ全体の解放への強い欲求を持ち、温情的干渉主義は侮辱と考える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)一人の人間として認められないこと
 無視されたり、恩人ぶられたり、軽蔑されたり、軽視されたり、一個人としての取扱いを受けないこと、自分の独自性がじゅうぶんに認められないこと、あるなんの特徴もない混合体の一員として、とくにきわ だった人間的特徴もなく独自の目的もない統計上の一単位として、類別されてしまうことを、私は恐れる。
(b)自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望
 自分が一個の行為者として――たとえ自分がかくあり、かく選択したことによって攻撃され迫害されるにしても、その資格あるものとして自分の意志が考慮される、そういう行為者と して――取扱われるがゆえに、自分が存在することを感知できるという状態をこそ、私は 求めているのだ。
(c)抑圧された階級、国民、皮膚の色、民族に属する人たち
 抑圧された者が欲していることは、しばしば、人間の活動の独立 の一源泉として、自身の意志をもち、その意志に従って行為しようとする一個の実在として、かれらの階級、国 民、皮膚の色、民族を認めてほしいということ、ただそれだけなのである。
(d) 温情的干渉主義は独立した人格への侮辱である
 十分に自由でない者として、統治し、教育し、指導しようとする温情的干渉主義は、自分が一個の人間、すなわち自分の生活を自分自身の目的(それは必ずしも理性的なものでも博愛的なものでもないにせよ)にしたがって形成してゆくべ き人間、なかんずくそのような存在として他から認められる資格をもった人間であるという考えに対する侮辱である。
(e)グループ全体の解放の欲求
 自分の階級全体、国民全体、民族全体あるいは同業者全体が抑圧されていると感じる場合、その全体の解放を願い求めることになり、この願望・欲求はきわめて強大なものとなりうる。
(f)承認欲求と引き換えのグループ内での悪政や自由の制限
 抑圧された階級、国 民、皮膚の色、民族の人々は、自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望から、グループ内で互いに理解し合い承認し合っていることと引き換えに、グループ内での悪政や自由の制限に甘んじている場合がある。



「わたくしが求めているのは、ミルによってわたくしが求めるであろうと期待されたもの、 つまり、強制を受けないこと、勝手な拘留とか虐待とか行動の機会の剥奪とかから免れるこ と、あるいは自分の動作に対してだれにも法的な責任を負う必要のない場所、などではないの かもしれない。同様にまた、わたくしは社会生活の理性的な計画とか、情念に動かされない賢 者の自己完成といったものを求めているのではないかもしれない。おそらくわたくしが避けよ うとするのは、たんに無視されたり、恩人ぶられたり、軽蔑されたり、あまりに当然と思われ たりすることにすぎないのだ。要するに、一個人としての取扱いを受けないこと、自分の独自 性がじゅうぶんに認められないこと、あるなんの特徴もない混合体の一員として、とくにきわ だった人間的特徴もなく独自の目的もない統計上の一単位として、類別されてしまうことなの である。わたくしが戦っているのは、このような人間としての品位の低減に対してである。法 的な権利の平等とか、したいことをする自由とかではなく(これらをも欲しはするけれど も)、自分が一個の行為者として――たとえ自分がかくあり、かく選択したことによって攻撃さ れ迫害されるにしても、その資格あるものとして自分の意志が考慮される、そういう行為者と して――取扱われるがゆえに、自分が存在することを感知できるという状態をこそ、わたくしは 求めているのだ。これは地位と承認〔認知〕への渇望である。」(中略)「一般に被抑圧階級 あるいは被抑圧国民が要求するものとは、たんにその成員の妨げられることなき行動の自由と いったものではなく、またなによりもまず社会的あるいは経済的な機会の平等であるわけでも ない。ましてや、理性的な立法者によって考え出された摩擦のない有機体的国家内に、ある地位が割り当てられることでもない。かれらが欲していることは、しばしば、人間の活動の独立 の一源泉として、つまりそれ自身の意志をもち、その意志(善かろうと悪かろうと、正当であ ろうとなかろうと)にしたがって行為しようとする一個の実在として、(かれらの階級、国 民、皮膚の色、民族を)認めてほしいということ、ただそれだけなのである。だからしてそれ はまた、いかに手際よくではあっても、まだじゅうぶんに人間的でないもの、したがってじゅ うぶんに自由でないものとして、統治されたり、教育されたり、指導されたりしたくないとい うことなのだ。」(中略)「温情的干渉主義は、自分が一個の人間――自分の生活を自分自身の 目的(それは必ずしも理性的なものでも博愛的なものでもない)にしたがって形成してゆくべ き人間、なかんずくそのような存在として他から認められる資格をもった人間――であるという 考えに対する侮辱であるからなのだ。」(中略)「自分がある認められていない集団、ないし はじゅうぶんな顧慮を払われていない集団の一員として自由でないと感ずることもあるであろ う。その場合には、わたくしは自分の階級全体、国民全体、民族全体あるいは同業者全体の解 放を願い求めることになる。この願望・欲求はきわめて強大なものとなりうるから、烈しく地 位を熱望するあまりわたくしは、とにかく自分を一個の人間として、競争相手として――つまり 同等のものとして――認めてくれるのであれば、自分の民族なり社会階級のうちのあるひとびと によっていじめられ悪政を施かれるのであっても、その方が、自分をそうありたいと願うよう なものとして認めてくれない上位の関係うすいグループのひとびとによって寛大に手あつく扱 われるよりもよいとするかもしれないのである。これこそが、個人ならびに集団のいずれの側 からも発せられる承認〔認知〕要求の声、また現代では職業や階級、国民や民族から発せられ るその要素の核心をなすものである。たとえ自分の社会の諸成員の手によって「消極的」自由 の獲得が妨げられたにしても、かれらがわたくしと同じ集団の成員であり、わたくしがかれら を理解するように、かれらがわたくしを理解してくれるというのであれば、この理解はわたく しのうちに、自分もこの世界においてなにものかであるのだという感覚を生み出すわけであ る。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然 性』),6 地位の追求,pp.67-71,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





人間の目的は全て、抑制し得ない究極的な価値である。しかし、目的が理性の名において区別されるとき歪曲が始まる。各個人の想像力による特異的なもの、審美的、非理性的な目的が抑圧され、理性による目的が真のものとされるが、それは恣意的な直感に過ぎない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

理性による解放という歪曲

人間の目的は全て、抑制し得ない究極的な価値である。しかし、目的が理性の名において区別されるとき歪曲が始まる。各個人の想像力による特異的なもの、審美的、非理性的な目的が抑圧され、理性による目的が真のものとされるが、それは恣意的な直感に過ぎない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)人間の目的は全て抑制し得ない究極的な価値である
 人 間の目的はすべてひとしく究極的で抑制しえぬ自己目的と見なされねばならないから、個人ないし集団の間に、ただそれらの諸目的の衝突を防ぐという観点からのみ境界線が引か れる。
(b)人間の目的が理性の名において区別されるとき歪曲が始まる
 合理主義者たちは、すべての目的が同等の価値のあるものとは考えない。かれらにとっては、自由の限界は「理性」の法則を適用することによってのみ決定される。理性は、万人において、また万人のための同一の一目的を創出ないし開示する能力である。
(c)各個人の想像力による特異的なもの、審美的、非理性的な目的が抑圧される
 理性的ならざるものは、理性の名において断罪されてよい。各個人の想像力や特異質によって与えられる様々な個人的目的、たとえば審美的その他の非理性的な種類の自己充足 は、少なくとも理論上は、理性の要求に道を開けるために容赦なく制圧されてよいのである。
(d)理性による真の自由という歪曲
 理性の権威および理性が人間に課する義務の権威は、理性的な目的のみが「自由」な人間 の「真実」の本性の「真」の対象たりうるという想定にもとづき、他人の自由と同一視されるわけである。
(e)しかしそれは恣意的な直感に過ぎない
 しかし「理性」とは何か。経験から得られた知識を基礎として判断するのでなく、「ア・プリオリ」に何が正しいとされる時点で、既に誤っている。


「カントは(その政治論のひとつで)次のように述べているが、そこでは自由の「消極的」 理念の主張とほとんどすれすれのところに到達している。つまり、「人類が自然によってその 解決を迫られている最大の問題は、市民社会を普遍的に支配する法による正義の確立である。 それは最大の自由を有する社会にのみ存する......――そしてそこには――〔各個人の〕自由が他の ひとびとの自由と共存しうるため、自然の全能力の展開という自然の最高目的が人類において 達成されうるために、〔各個人の〕自由の限界のきわめて精確な確定と保証とが伴ってい る。」目的論的な含意は論外としてみれば、この簡潔な論述は、一見したところ、正統的自由 主義とはほとんど異なるところはない。しかし、決定的な点は、個人の自由の「限界の精確な 確定と保証」の規準をいかにして定めるかにある。ミルおよび一般に自由主義者たちは、いち ばん首尾一貫したかたちでは、できるだけ多数の目的を実現しうるような状況を待望する。人 間の目的はすべてひとしく究極的で抑制しえぬ自己目的と見なされねばならないから、かれら は個人ないし集団の間に、ただそれらの諸目的の衝突を防ぐという観点からのみ境界線が引か れることを願うわけである。カントおよびこのタイプの合理主義者たちは、すべての目的が同 等の価値のあるものとは考えない。かれらにとっては、自由の限界は「理性」の法則を適用す ることによってのみ決定される。理性はたんなる法則の一般性そのものより以上のものであ り、万人において、また万人のための同一の一目的を創出ないし開示する能力である。理性的 ならざるものは、理性の名において断罪されてよい。したがって、各個人の想像力あ特異質に よって与えられるさまざまな個人的目的――たとえば審美的その他の非理性的な種類の自己充足 ――は、少なくとも理論上は、理性の要求に道を開けるために容赦なく制圧されてよいのであ る。理性の権威および理性が人間に課する義務の権威は、理性的な目的のみが「自由」な人間 の「真実」の本性の「真」の対象たりうるという想定にもとづき、他人の自由と同一視される わけである。白状しておかなければならないが、わたくしは、この文脈において「理性」が何を意味する かをまったく理解しえなかった。それでここではただ、この哲学的心理学の《ア・プリオリ》 な想定は経験論とは相容れないということだけを指摘しておきたい。経験論というのはつま り、人間がなんであり、なにを求めるかについての、経験からえられた知識を基礎とする学説 のことである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然 性』),5 サラストロの神殿,pp.63-64,註 *,みすず書房(1966),生松敬三(訳))


外部的な要因は、自分では思い通りに支配できないというのは事実である。しかし、自分を傷つける可能性のあるものをすべてとり除いてゆくという過程の論理的な到達点は、自殺である。この世界に生存するかぎり、完全ということは決してありえないが、我々は現実を受け入れて進むのが、より自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

内なる砦への退却は自由ではない

外部的な要因は、自分では思い通りに支配できないというのは事実である。しかし、自分を傷つける可能性のあるものをすべてとり除いてゆくという過程の論理的な到達点は、自殺である。この世界に生存するかぎり、完全ということは決してありえないが、我々は現実を受け入れて進むのが、より自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




「禁欲的な自己否定は誠実さや精神力の一源泉ではあるかもしれないが、どうしてこれが自 由の拡大と呼ばれうるのかは理解しがたい。もしわたくしが室内に退却し、一切の出口・入口 の鍵をかけてしまうことで敵から免れたとした場合、その敵にわたくしが捕らえられてしまっ た場合よりはたしかにより自由であるだろう。しかし、わたくしがその敵を打ち負かし、捕虜 にした場合よりも自由であるだろうか。もしもそのやり方をもっと進めて、自分をあまりに狭 い場所に押しこめてしまうとしたら、わたくしは窒息して死んでしまうであろう。自分を傷つ ける可能性のあるものをすべてとり除いてゆくという過程の論理的な到達点は、自殺である。 わたくしが自然的世界に生存するかぎり、完全ということは決してありえないのだ。この意味 における全面的な解放は(ショーペンハウアーが正しく認めていたように)ただ死によっての み与えられるのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然 性』),3 内なる砦への退却,p.40,みすず書房(1966),生松敬三(訳))


2020年5月26日火曜日

15.ベンサムの主張。いかに理性的要求を満足し、それ以外にはあり得ないように思えても、法律の仕事は解放ではなく拘束であり、自由を侵犯する。悪を為す自由も、自由である。法律は、悪人から自由を奪いとる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

【ベンサムの主張。いかに理性的要求を満足し、それ以外にはあり得ないように思えても、法律の仕事は解放ではなく拘束であり、自由を侵犯する。悪を為す自由も、自由である。法律は、悪人から自由を奪いとる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(b)(vii)追記。


 (2.5)積極的自由の歪曲4:理性による解放
  自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。欲望、情念、偏見、神話、幻想は、その心理学的・社会学的原因と必然性の理解によって解消し、自由になれる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
  欲望、情念、偏見、神話、幻想の心理学的・社会学的原因の理解はよい。しかし“合理的な”諸価値や事実が、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、まさに積極的自由が歪曲される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求は、外的な法則への服従である。
   (ii)情念、偏見、恐怖、神経症等は、無知から生まれる。
   (iii)社会的な諸価値の体系も、外部の権威によって押しつけられるときは、異物として存在している。意識的で欺瞞的な空想からか、あるいは心理学的ないし社会学的な原因から生まれた神話、幻想は、他律の一形態である。
   (iv)知識は、非理性的な恐怖や欲望を除去することによって、ひとを自由にする。規則は、自分で自覚的にそれを自分に課し、それを理解して自由に受けとるのであるならば、自律である。
   (v)社会的な諸価値も、理性によってそれ以外ではあり得ないと理解できたとき、自律と考えられる。自分によって発案されたものであろうと他人の考案になるものであろうと、理性的なものである限り、つまり事物の必然性に合致するものである限り、抑圧し隷従させるものではない。
   (vi)理解を超えて、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、積極的自由が歪曲される。
   (vii)ベンサムの主張。いかに理性的要求を満足し、それ以外にはあり得ないように思えても、法律の仕事は解放ではなく拘束であり、自由を侵犯する。悪を為す自由も、自由である。法律は、悪人から自由を奪いとる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)理性は、何が必然的で何が偶然的かを理解させてくれる。
   (ii)自由とは、選択し得るより多くの開かれた可能性を与えてくれるからというのではなく、不可能な企ての挫折からわれわれを免れさせてくれるからである。
   (iii)必然的でないものが、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、積極的自由が歪曲される。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。 

 
 「自由はかくして、権威と両立しがたいどころではなく、実質的にそれを同一のものとなる。これが18世紀におけるすべての人権宣言の思想・言葉であり、また社会を賢明なる立法者の、自然の、歴史の、あるいは神の理性的な法によって構成・設計されたものとみなすすべてのひとびとの思想・言葉なのである。

ほとんどただひとりベンタムだけが、法律の仕事は解放ではなく拘束である、「いかなる法律も自由の侵犯である」と、頑強に言いつづけたのであった。

 * この点に関しては、ベンタムの吐いた次の言葉が決定的なものであるように思われる。

「悪をなす自由は自由ではないのか。もしそうだとすれば、それはなんなのか。愚者や悪人はそれを悪用するから、かれらから自由を奪いとる必要がある、とわれわれはいわないだろうか。」

この言葉と、同じ時期にひとりのジャコバン党員が行った次のような典型的な声明とを比較してみられよ。「なんぴとも悪をなす自由はない。かれ〔が悪を行うの〕を妨げることこそ、かれを自由にすることである。」」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),5 サラストロの神殿,pp.54-55,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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2020年5月6日水曜日

14.欲望、情念、偏見、神話、幻想の心理学的・社会学的原因の理解はよい。しかし“合理的な”諸価値や事実が、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、まさに積極的自由が歪曲される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

積極的自由の歪曲、理性による解放

【欲望、情念、偏見、神話、幻想の心理学的・社会学的原因の理解はよい。しかし“合理的な”諸価値や事実が、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、まさに積極的自由が歪曲される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

追記。

 (2.5)積極的自由の歪曲4:理性による解放
  自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。欲望、情念、偏見、神話、幻想は、その心理学的・社会学的原因と必然性の理解によって解消し、自由になれる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求は、外的な法則への服従である。
   (ii)情念、偏見、恐怖、神経症等は、無知から生まれる。
   (iii)社会的な諸価値の体系も、外部の権威によって押しつけられるときは、異物として存在している。意識的で欺瞞的な空想からか、あるいは心理学的ないし社会学的な原因から生まれた神話、幻想は、他律の一形態である。
   (iv)知識は、非理性的な恐怖や欲望を除去することによって、ひとを自由にする。規則は、自分で自覚的にそれを自分に課し、それを理解して自由に受けとるのであるならば、自律である。
   (v)社会的な諸価値も、理性によってそれ以外ではあり得ないと理解できたとき、自律と考えられる。自分によって発案されたものであろうと他人の考案になるものであろうと、理性的なものである限り、つまり事物の必然性に合致するものである限り、抑圧し隷従させるものではない。
   (vi)理解を超えて、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、積極的自由が歪曲される。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)理性は、何が必然的で何が偶然的かを理解させてくれる。
   (ii)自由とは、選択し得るより多くの開かれた可能性を与えてくれるからというのではなく、不可能な企ての挫折からわれわれを免れさせてくれるからである。
   (iii)必然的でないものが、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、積極的自由が歪曲される。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 「われわれは専制君主――制度あるいは信仰あるいは神経症――によって奴隷とされている。

これをとり除くことのできるのは、分析と理解のみである。われわれは自分で――自覚的にではないにせよ――つくり出した悪霊によって繋縛されている。これをはらいのけることができるのは、ただそれを意識化し、それに応じた行動をとることによってのみである。

わたくしが自分自身の意志によって自分の生活を設計するならば、そのときにのみわたくしは自由である。この設計が規則をもたらす。

規則は、もしわたくしが自覚的にそれを自分に課し、それを理解して自由に受けとるのであるならば、それが自分によって発案されたものであろうと他人の考案になるものであろうと、理性的なものである限り、つまり事物の必然性に合致するものである限り、わたくしを抑圧し隷従させることはない。

なにゆえに事物がそうあらねばならぬごとくにあらねばならないのかを理解することは、自分がまさしくそのようにあることを意志することである。

知識がわれわれを自由にするのは、われわれの選択しうるより多くの開かれた可能性を与えてくれるからというのではなく、不可能な企ての挫折からわれわれを免れさせてくれるからなのだ。

必然的な法則が現にそうであるより以外のものであることを欲するのは、非理性的な欲求――XであらねばならぬものがまたXでもないことを欲する――の餌食となることである。

さらに進んで、これらの諸法則が必然的にそうあるより別のものだと信ずることは、狂気の沙汰である。

これこそが合理主義の形而上学的核心である。そこに含まれている自由概念は、障害物のない境域、自分のやりたいことのできる空虚な場所という「消極的」な自由の観念ではなくして、自己支配ないし自己統御という〔「積極的」な自由の〕観念である。

わたくしは自分自身の意志することを行うことができる。わたくしは理性的存在である。わたくしが自分自身に対して必然的であると証明できるもの、理性的な社会――つまり、理性的なひとびとによって、理性的存在が抱くであろうような目標へと向けられている社会――においてそうあるよりほかにありえないと証明できるものはいかなるものであれ、これをわたくしは、理性的存在であるがゆえに、自分の道から一掃してしまおうなどと欲することはできない。

わたくしはこれを自分の本体に同化させてしまう、ちょうど論理法則や数学・物理学の法則、芸術上の規則をそうするように。

またわたくしが理解し、それゆえに意志するすべてのものを支配している原則、またそれ以外であることを欲しえないがゆえに、決してわたくしがそれによって妨げられることのない理性的な目標などについてもそうするのと同じように。

これが、理性による解放という積極的学説である。これの社会的形態は、今日のナショナリズム、マルクス主義、権威主義、全体主義等々の信条の多くのものの核心をなしている。

その進展課程には、合理主義的な装備が置き忘れられてしまったというようなことがあるかもしれない。

けれども、今日地球上の数多の部分で、デモクラシーにおいてもまた専制政治においても、この自由をめぐって議論が交わされ、この自由のために戦いがなされているのである。

いまここでわたくしはこの自由の観念の歴史的展開を跡づけてみよいうというのではないが、その変遷の若干の諸点について評釈をくわえてみたいと思う。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),4 自己実現,pp.46-48,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:積極的自由の歪曲,理性による解放,必然性,積極的自由)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

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2020年4月26日日曜日

13.自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。欲望、情念、偏見、神話、幻想は、その心理学的・社会学的原因と必然性の理解によって解消し、自由になれる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

積極的自由の歪曲、理性による解放

【自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。欲望、情念、偏見、神話、幻想は、その心理学的・社会学的原因と必然性の理解によって解消し、自由になれる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

 (2.5)積極的自由の歪曲4:理性による解放
  自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。欲望、情念、偏見、神話、幻想は、その心理学的・社会学的原因と必然性の理解によって解消し、自由になれる。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求は、外的な法則への服従である。
   (ii)情念、偏見、恐怖、神経症等は、無知から生まれる。
   (iii)社会的な諸価値の体系も、外部の権威によって押しつけられるときは、異物として存在している。意識的で欺瞞的な空想からか、あるいは心理学的ないし社会学的な原因から生まれた神話、幻想は、他律の一形態である。
   (iv)知識は、非理性的な恐怖や欲望を除去することによって、ひとを自由にする。社会的な諸価値も、理性によってそれ以外ではあり得ないと理解できたとき、自律と考えられる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   理性は、何が必然的で何が偶然的かを理解させてくれる。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 「自由を達成する唯一の真の方法は、批判的理性を使用すること、なにが必然的でなにが偶然的かを理解することにあるのだ、と説かれている。

わたくしがひとりの学校の生徒であるとすれば、きわめて単純な数学の真理以外の一切のものは、自分にその必然性の理解されていない定理のように、わたくしの心の自由な働きに対する障害物として現れてくる。 
 
それらはある外部の権威によって真理であると言明されており、わたくしの体系内に機械的に吸収されることが期待されている異物として存在している。

しかしながら、符号の機能とか公理とか構成・変換の規則とか――それによって結論が導き出される論理――を理解して、それらのものがわたくし自身の理性の手続きを支配している法則から出てきているかに思われるから、それ以外ではありえないのだということをはっきりと理解しえたときには、数学的真理というものはもはや、わたくしが欲すると欲しないとにかかわらず受けいれねばならない外的実在としてではなく、いまやわたくしが自分自身の理性的活動の自然な働きの経過のなかで自由に意志するところのあるものとして現れてくるわけである。 

また音楽家の場合には、かれが作曲家の総譜のパターンを消化しきって、作曲家の目的を自分の目的と化してしまったならば、その音楽の演奏は外的な法則への服従、強制、自由の妨害ではなく、妨害されることなき自由な運動である。

演奏家は、牝牛が鋤に、あるいは工場労働者が機械に結びつけられているように、総譜に束縛されているのではない。かれは総譜を自分の体系のなかに吸収し、それを理解することによってそれと自分自身とを同一化し、それを自由な活動に対する障害からその活動それ自体の一要素に変化させてしまったのである。

このように音楽や数学の場合にあてはまることは、原則的には他のあらゆる障害物――自由な自己展開を妨げる数多の外的な要素として現れてくる――にもあてはまるにちがいない、と説かれる。

これこそ、スピノザからヘーゲルの最新の(時としては無自覚な)弟子たちにいたる啓蒙的合理主義の綱領なのである。

敢エテ賢明ナレ Sapere aude. あなたが知っているもの、あなたがその必然性――理性的必然性――を理解しているもの、あなたは理性的である限り、それ以外のものであろうと欲することはできない。

なぜなら、なにものかが必然的にそうあらねばならぬもの以外であるようにと欲することは、世界を支配しているのは必然性だという前提がある以上、《それだけ》無知であるか非理性的であるかのいずれかであることになるわけだから。

情念、偏見、恐怖、神経症等は無知から生まれ、神話とか幻想とかの形態をとる。神話によって支配されるということは、その神話が、搾取するためにわれわれをだます無節操な《いかさま》師の活き活きとした空想から生まれたものか、それとも心理学的ないし社会学的な原因から生まれたものであるかを問わず、とにかく他律の一形態であり、行為者によって必然的に意志されたのでない方向に外部の要因によって支配・決定されることである。
 18世紀の科学的決定論者は、自然についての科学的研究、および同じモデルにもとづく社会に関する科学の創出によって、そのような諸原因の作用はくまなく明らかにされ、かくして各個人が理性的な世界の活動における自分の役割を認識することが可能となり、それが正しく理解されなかった場合にのみ挫折させられるのだと考えたのであった。知識は自動的に非理性的な恐怖や欲望を除去することによって、ひとを自由にするというわけだ。」 

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),4 自己実現,pp.42-44,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

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2020年4月24日金曜日

12.欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、外部の世界が特に圧制的、残虐かつ不正なとき、誘惑が強くなり、行為の結果は度外視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

内なる砦への退却への罠

【欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、外部の世界が特に圧制的、残虐かつ不正なとき、誘惑が強くなり、行為の結果は度外視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

参考:欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、催眠術、洗脳、識閾下の暗示等の事実によって、信憑性の乏しい仮説となった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

 「自分がある「低劣」な衝動にかられ、自分の好まぬ動因に動かされて行為をするのを見、またまさにそれをする瞬間には嫌悪を感じるかもしれないようなことをするのを見、あとになってあのとき自分は「自分でなかった」のだとか、「自分をしっかり統御していなかった」のだとか反省する心理的経験は、こうした考え方・言い方に属しているものである。

自分というものを自分のなかの批判的・理性的な要素と同一視するのである。

自分の行為の生みだすさまざまな結果は問題とはなりえない。なぜなら、それは自分の統制下にはないものだから。ただ自分の動機だけが統御できるものなのだ。これは世間を無視し、人間や事物をつなぐ鎖から離脱した孤立的な思想家の信条である。

このような形態においては、この学説はまず第一義的に倫理的信条であって、政治的信条ではぜんぜんないと見られるかもしれない。

ところが、それの政治との関連は明々白々なのであって、自由主義的個人主義の伝統のなかには、少なくとも自由の「消極的」概念と同じくらいに、深く浸透しているのである。


 真の自我と
いう内なる砦に逃げ込んだ理性的賢者の概念がその個人主義的形態において現れてくるのは、ただ外部の世界がとくに圧制的で残虐かつ不正であることが明らかになったときのみであるかにみえるということは、おそらく一言ふれておくだけの価値はあるであろう。 

「自分のなしうることを欲し、自分の欲することを行うひとは、真に自由である」と、ルソーは言った。

幸福なり正義なり自由(いかなる意味のものであれ)なりを求めているひとが、やりたいことをする道があまりに塞がれてしまっているために、ほとんどなにひとつできないという世界にあっては、自分自身へと引き籠ってしまう誘惑は抗しがたいものとなってくるであろう。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,pp.38-39,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:内なる砦への退却)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

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11.欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、催眠術、洗脳、識閾下の暗示等の事実によって、信憑性の乏しい仮説となった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

催眠術、洗脳、識閾下の暗示

【欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、催眠術、洗脳、識閾下の暗示等の事実によって、信憑性の乏しい仮説となった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】
参考:自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

 「カントの心理学、さらにストア派やキリスト教徒の心理学も、人間におけるある要素――「心のうちなる要塞」――は〔いかなる外的〕規制・調整からも守られうるものだ、と想定していた。

催眠術、「洗脳」、識閾下の暗示、等々の技術の発展によって、このア・プリオリな想定は、少なくとも経験的仮説としては、信憑性に乏しいものとなってしまった。」


(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,p.37,註**,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:催眠術,洗脳,識閾下の暗示,内なる砦への退却)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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2020年4月23日木曜日

10.自由な意志によって目的を設定する個人よりも高い価値は存在しない。威嚇によるにせよ褒賞の提供によるにせよ、あるいは温情的干渉主義によるにせよ、あらゆる思想統制は、人間の価値を否定するものである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

個人の価値

【自由な意志によって目的を設定する個人よりも高い価値は存在しない。威嚇によるにせよ褒賞の提供によるにせよ、あるいは温情的干渉主義によるにせよ、あらゆる思想統制は、人間の価値を否定するものである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

参考

(a)個人の自発性、独創性、道徳的勇気が人類の進歩の源泉であり、(b)個人が自ら目標を選択するのが、人間の最も本質的なことだ、という理由によって、干渉や妨害からの自由、消極的自由が基礎づけられてきた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

参考

 (2.3)積極的自由の歪曲2:良い目標のための消極的自由の制限
  正義なり、公共の健康など良い目標のためであれば、人々に強制を加えることは可能であり、時として正当化され得るとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)個人が自分で目標を決めるのではなく、「良い目標」を強制される。
   (ii)強制される人は、「啓発されたならば」自らその「良い目標」を進んで追求するとされる。
   (iii)すなわち、本人よりも、強制を加えようとする人の方が、「真の」必要を知っていると考えてられている。
   (iv)欲望や情念より、社会的な諸価値の方が「高次」で「真実」の目標なのだという教説とともに、民族や教会や国家の諸価値が導入され、これが「真の自由」であるとされる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 「というのは、そもそも人間の本質が人間が自律的存在たるところ――諸価値の作者、目的それ自身の設定者、そしてそれらの価値ないし目的の究極的権威はまさしくそれらが自由な意志によって意志されるという事実に存する――にあるとするならば、なによりも悪いことは、人間を自律的存在ではなく、原因として働くさまざまな諸影響によってもてあそばれる自然物として取り扱うこと、つまり、外的な刺激のままに動かされ、その選択もかれらの支配者によって――暴力の威嚇によるにせよ褒賞の提供によるにせよ――操作されうるような、そういう被造物〔人間〕として取扱うことである。

人間をこのように扱うということは、あたかも人間が自己決定的なものでないかのごとくに扱うことである。

「なんぴともわたくしに、そのひとの流儀でわたくしが幸福であることを強いることはできぬ」と、カントは言った。「温情的干渉主義は想像しうるかぎり最大の専制主義である」。

なぜなら、それは人間を自由なものとしてではなく、自分にとっての材料――人間という材料 human material ――であるかのごとく取扱うことであるから。

温情に満ちた改革者は、他の人間のではなく、自分自身の自由意志で採用した目的にしたがって、そのひとびとを型にはめようとするのである。

ところで、いうまでもなくこれは、まさしく初期の功利主義者たちが勧めたところの政策であった。

エルヴェシウス(およびベンタム)は、人間がその情念の奴隷となる傾向性に抵抗するのではなく、これを利用するのがよいと考えた。もしその方法によって「奴隷」が幸福にされうるものならば、褒賞なり懲罰なりを鼻先にぶらさげて誘惑したらよい――これは他律性なるもののおよそいちばん極端な形態である――としたのである。

しかしながら、人間を操作し、社会改革者だけには見えてもそのひとたちには見えない目標へと人間を押しやることは、かれらの人間的本質を否定し、かれらを自分自身の意志をもたぬ対象物として扱うことであり、したがってまたかれらの人間としての品位をけがすことになる。

このゆえに、ひとに嘘をつくこと、あるいはひとをだますこと、すなわち、ひとをかれら自身のではなく、わたくしの独立に思い描いた目的のための手段として利用する――たとえそれがかれら自身のためであるにしても――ことは、事実上、かれらを人間以下のもとして扱うことであり、かれらの目的がわたくしの思い描いた目的よりもその究極性・神聖性においてはるかに劣るものであるかのように振る舞うことになるわけである。

かれらが意志せず、また同意しなかったことをやらせるように強制することを、わたくしはいったいなにものの名において正当化することができるのだろうか。

それは、かれら自身よりも高いところにあるなにかの価値の名においてのみである。

けれども、カントの考えたように、あらゆる価値は人間が創りだしたものであり、そうである限りにおいてのみ価値と名づけるのであるとしたならば、個人よりも高い価値というものは存在しないはずである。

だとすると、ひとが意志せず、同意せぬことを強制するのは、かれら自身よりも究極的ならざるなにものかの名においてひとを強制することである

――つまり、わたくしの意志に、あるいは幸福なり便宜なり安全なり便利さなりへのだれか他のひとの特定の渇望に、ひとを屈服させることなのだ。

わたくしが自分ないし自分のグループが要求するあるものを目的として狙い定め、そしてそのために他のひとびとを手段として利用しているということになる。

しかしながら、これはあるべき人間の本質に矛盾し、結局において自家撞着をきたす。

人間に干渉し手出しをし、かれらの意志に反してあなた自身の型に押し込めようとする一切の形態、あらゆる思想統制および思想調整は、それゆえ、人間のうちの、人間を人間たらしめ人間の価値を究極的なものたらしめるところのものの否定であることになる。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,pp.34-37,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:個人の価値,温情的干渉主義,思想統制,人間の価値)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

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