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2020年6月8日月曜日

6.恥や後悔などの否定的感情は、肯定的裁可を得られるような行為へと個人を動機づけ、他者の悲しみの感情の感知は、他者の悲しみを救済しようとする行為を介して、連帯を強化する。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

悲しみ等の否定的感情

【恥や後悔などの否定的感情は、肯定的裁可を得られるような行為へと個人を動機づけ、他者の悲しみの感情の感知は、他者の悲しみを救済しようとする行為を介して、連帯を強化する。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】

(6)悲しみなどの否定的感情の役割
 (6.1)恥や後悔などの感情と動機づけ
  悲しみは肯定的裁可の力と結合される。なぜなら、われわれがこうした裁可を受けとれないときに感じる悲しみは、その裁可を確実に受けとれるような仕方で行動しようとわれわれを動機づけるからである。
 (6.2)他者の悲しみの感知と連帯
  他者における悲しみを感じとり、他者の状態を認知できるようになり、悲しみを送信してくる者を肯定的に裁可しようとする環境にいる各個人にとって、一つの標識になる。この意味で、悲しみはほとんどの連帯を最終的に生産できる。

 「ところで、失望-悲しみが原基感情であるかどうかについては多少の議論がある。

有名なフロイト学派の見解によれば、失望-悲しみは感情エネルギーを消耗させ、そして拡散した不安と鬱ぎ込みの双方を引き起こす抑圧の産物である。

この議論にはいくつかの利点があるが、しかしここでのわたしの議論にとって、もし裁可が社会連帯を作りだすのに必要な複雑さをもつことだとすれば、悲しみは非常に重要な感情であるとだけ強調しておく。

神経伝達物質と神経刺激性ペプチド系がもともと、悲しみを引き起こすようにみえる物質を、微量もしくは中程度の量を作るのであれば、あるいはよくあるように、それらが単に満足をもたらすだけの物質を作りそこねたのであれば、選択は他者における悲しみの変種と組み合わせを感じとり、そして認知するように人間の能力を拡張するために、このシステムに働くかもしれない。

悲しみは、怒り、恐れ、満足だけではありえない次元を感情レパートリーに付け足している。

そしてさらに、悲しみは否定的ならびに肯定的裁可の重要な部分である。

上述したように、罪と恥――これはわたしの見解では、圧倒的に悲しみによって特徴づけられる(第3章をみよ)――のような感情を生産する否定的裁可は、怒り-恐れ-怒りの悪循環を作ってしまう暴発を減らし、と同時に個人に償いをするよう動機づける。

また、悲しみは肯定的裁可の力と結合される。なぜなら、われわれがこうした裁可を受けとれないときに感じる悲しみは、その裁可を確実に受けとれるような仕方で行動しようとわれわれを動機づけるからである。

確かに、深い悲しみと抑圧は社会結合を妨げる。明らかに、霊長類はこうした深い感情を経験する能力をもっている。

けれども、もっと短い悲しみのエピソードは高度に結合的である。なぜならそうした短期の悲しいエピソードは、霊長類を肯定的であろうとさせ、そして肯定的裁可を強化するからである。

そしてこうした裁可が実際に満足-幸せのような肯定的感情を生産すると、悲しみは個人にとって、また悲しみを送信してくる者を肯定的に裁可しようとする環境にいる各個人にとって、一つの標識になる。

この意味で、悲しみはほとんどの連帯を最終的に生産でき、もっと肯定的な裁可の過程の活性化にとって一種の引き金になる。

したがって、悲しみと、恥や罪などの剥奪感情とがなければ、否定的裁可と肯定的裁可の両方が、感情によって社会結合を構築するための力と機微、また活力になりえなかったであろう。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第2章 選択力と感情の進化、pp.72-74、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:悲しみ,後悔,恥)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学


(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

ジョナサン・H・ターナー(1942-)
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4.怒りと恐れを使った否定的裁可は内在化し、恥と罪の感情を生む。しかし記憶は、怒りと恐れを持続化、激情化するため、社会性と集団構造維持の選択圧は、連帯と緊密な社会結合を生む肯定的感情を発展させた。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

肯定的感情の発展

【怒りと恐れを使った否定的裁可は内在化し、恥と罪の感情を生む。しかし記憶は、怒りと恐れを持続化、激情化するため、社会性と集団構造維持の選択圧は、連帯と緊密な社会結合を生む肯定的感情を発展させた。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】

(2)(3)追記。

(1)否定的裁可
 怒りの表出を伴う否定的裁可は、相手に恐怖を喚起する。これは、危険からの逃走、敵への攻撃という基盤を持つ感情のため効果的であるが、対抗的な怒りを生み、連帯を促進しない悪循環を生み出す可能性もある。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))
 (1.1)怒りの表出
  相手側が期待に適うことができなかったことに対する、当事者の怒りあるいはこの感情の変種を含んでいる。
 (1.2)恐怖の喚起
  間違いをした側に、恐怖心あるいはこの感情の変種を喚起する。
 (1.3)否定的裁可の効果
  否定的裁可は、ほとんどの哺乳類において原基的な感情である、怒りと恐れの感情を利用しているため、非常に効果的である。
  (a)怒り
   防衛的攻撃を動員する能力をもたない動物は、逃げのびて退避できない場合に、捕食者の歯牙にかかって死ぬ運命にあるからである。
  (b)恐怖
   恐怖心をもたない動物は、選択によって除外される。
 (1.4)否定的裁可の離反的効果
  否定的裁可は、恐れを喚起するだけでなく、しばしば対抗的な怒りを生む。そのため、否定的裁可は連帯を促進しない怒り-恐れ-怒りという複雑な循環を生みだす可能性がある。

(2)否定的裁可の内在化、恥と罪の感情
 (a)過去の否定的裁可が記憶され、自己行為が怒りの反応を喚起するかもしれないという恐れが、恥や罪の感情を生み出す。
 (b)否定的裁可の離反的効果が取り去られる。
(3)記憶による感情の持続化、激情化と肯定的感情の発展
 (3.1)記憶による感情の持続化と激情化
  (a)ヒト科の感情レパートリーが拡張すると、激怒、憎悪、逆上、反感などの、非常に激しい感情が可能になる。
  (b)また、特に記憶を貯蔵するためのヒト科の認知能力が人間の水準に達し始めたとき、激しい感情が簡単に思い起こされることは、社会的結合にとってきわめて破壊的である。
 (3.2)肯定的感情の必要性
  (a)否定的裁可に起因する感情だけでは、社会構造が維持できない。そこで、連帯と緊密な社会結合が構築される肯定的な感情を生成できるように、選択圧が働いた。すなわち、ヒト科の脳が満足と幸せの変種を組み合わせるように再配線された。
  (b)満足-幸せという原基的な情動状態が、自尊心、愛情、喜び、恍惚、歓喜といった新しい感情を生み出した。
  (c)母子結合を作りだす帯状回下部などの領野、神経伝達物質を放出する脳幹のような領野、そして神経刺激性ペプチドを生産する間脳と下垂体などの領野が関係する。

 「こうした離反的な結末を乗り越えるため、恥や罪のようなずっと複雑な感情が進化した。

これによって、否定的裁可は粗暴な怒りの反応を起こさないですむ。恐れ、怒り、そして悲しみの組み合わせが罪や恥のような感情を生成したほうがよい。

次章で述べるように、これらは特に有効な感情である。

なぜなら、期待に応えられなかった当事者に対して否定的裁可を与える側が過度の怒りをぶつけることのないように、そうした感情になんらかの修正を加えるよう自らを動機づけさせるからである(そのために、怒りの多くが自己に向けられた)。

したがって、否定的裁可が結合のための紐帯を生むためには、否定的裁可の離反効果を取り去ることができ、しかも複雑な感情を生産するために脳を再配線しなければならなかった。

ヒト科の新皮質が拡張するにつれて、彼らは過去の屈辱的な処遇に怒りの反応を喚起するかもしれないような過去の裁可を記憶することができ、それによって連帯を維持している現在の努力を壊しかねない離反的効果を取り除く必要がますます重要になった。

さらに、ヒト科の感情レパートリーが拡張すると、激怒、憎悪、逆上、反感などの非常に激しい感情が可能になる。またとくに記憶を貯蔵するためのヒト科の認知能力が人間の水準に達し始めたとき、そうした感情が簡単に思い起こされることは、結合にとってきわめて破壊的である。

 ゆえに、集団連帯は否定的感情だけに頼って構築することも、また維持することもできない。社会構造はもっと結合反応を喚起する肯定的裁可によって構築されなければならないのである(Coleman 1988,Hechter 1987)。

こうした肯定的感情は恐れ-怒りほどに哺乳類にしっかり配線されてはいなかった。事実、母-子の結合は哺乳類に普遍的であり、たとえ社会性の低い類人猿においても、たとえばチンパンジーの兄弟にみられるように、肯定的な友情の結びつきが形成できる。

しかし人間と比べて、類人猿は満足-幸せを軸にして展開する感情価の点で相対的に低い。だから、ヒト科の脳が満足と幸せの変種と組み合わせとを生みだすために再配線されたということは大いにありうることだ。

自尊心、愛情、喜び、恍惚、歓喜といった新しい感情が、辺縁系が満足-幸せという原基的な情動状態から構築される感情に再配線されるときに可能となった。

選択は、連帯と緊密な社会結合が構築される肯定的な感情を生成できる辺縁系を作りだすために激しく働いたにちがいない。

満足-幸せという感情の広範な変種を経験し、表現し、解読するための能力を急速に構築するために働きかけうるところ――母子結合を作りだす帯状回下部などの領野、神経伝達物質を放出する脳幹のような領野、そして神経刺激性ペプチドを生産する間脳と下垂体などの領野――は、選択が働きかけるに十分であった。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第2章 選択力と感情の進化、pp.70-71、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:否定的裁可,恥,罪,肯定的感情)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学



(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

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2018年5月5日土曜日

8.一般的に誇りや恥は、達成の結果つまり失敗や成功が、内的に帰属されるときに最大化され、外的に帰属されるときに最小化される。(バーナード・ウェイナー(1935-))

原因の内的帰属と外的帰属

【一般的に誇りや恥は、達成の結果つまり失敗や成功が、内的に帰属されるときに最大化され、外的に帰属されるときに最小化される。(バーナード・ウェイナー(1935-))】

(出典:ResearchGate
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 「一般的に誇りや恥は、達成の結果つまり失敗や成功が内的に帰属されるときに最大化され、外的に帰属されるときに最小化される(Weiner,1974,p.11)。

言い換えると、成功が自らの能力や努力の結果である(内的理由)と知覚されると、単に課題がやさしかったとか運がよかった(外的理由)と知覚されるよりも肯定的な感情がもたらされる。

逆に、失敗が自らの低い能力や努力を怠ったせいである(内的理由)と知覚されると、課題が難しかったからとか運が悪かった(外的理由)と知覚されるときより、私たちは悪い気分になる(例:恥を感じる)。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅵ部 社会認知的レベル、第15章 社会認知的プロセス、p.486、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:誇り、恥、内的理由、外的理由、内的帰属、外的帰属)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

ウォルター・ミシェル(1930-)
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2018年4月3日火曜日

誇りは希望によって徳へ促し、恥は不安によって徳へ促す。また仮に、真の善・悪でなくとも、世間の人たちの非難、賞賛は十分に考慮すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))

誇りと恥

【誇りは希望によって徳へ促し、恥は不安によって徳へ促す。また仮に、真の善・悪でなくとも、世間の人たちの非難、賞賛は十分に考慮すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 誇りは希望によって徳へ促し、恥は不安によって徳へ促す。この際、真に非難または賞賛に値することについて判断力が必要なことは言うまでもないが、仮に、世間の人たちの判断が誤っていても、少なくとも外面については彼らに従うべきことが多い。
 「さて誇りと恥は、前者は希望、後者は不安によって、わたしたちを徳に促す点で同じ効用をもっている。ただ必要であるのは、真に非難または賞賛に値することについて判断力を育てることであり、それは、よくあるように、善行を恥じたり、悪徳を誇ったりしないためである。しかし、かつてキュニコス派の人たちがしたように、この二つの情念をまったく捨て去ってしまうのはよくない。というのも、世間の人たちがひどく誤った判断をしても、わたしたちは彼らなしに生きることはできないし、彼らに重視されるのはわたしたちにとって大事だから、わたしたちの行ないの外面については、自分の考えよりも彼らの考えに従うべきことが多い。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 二〇六、p.175、[谷川多佳子・2008])
(索引:誇り、恥、非難、賞賛)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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わたしたち自身によって過去なされた行為や現在のわたしたちに関する、他の人たちの意見による〈善〉と〈悪〉の感受:誇り、恥(ルネ・デカルト(1596-1650))

誇りと恥

【わたしたち自身によって過去なされた行為や現在のわたしたちに関する、他の人たちの意見による〈善〉と〈悪〉の感受:誇り、恥(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 わたしたち自身によって過去なされたことについての、または現在のわたしたち自身についての、他の人たちが持ちうる意見を考えるときに「誇り」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。また、他の人たちが持ちうる意見を考えるときに「恥」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。
 「なお、わたしたちのうちにある現在または過去の善は、それについて他の人たちが持ちうる意見につなげられると、誇りの気持ちを引き起こす。悪の場合は、恥の気持ちを引き起こす。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 六六、p.59、[谷川多佳子・2008])
(索引:誇り、恥)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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