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2020年6月4日木曜日

自然な動機への何らかの義務による事後的制限を考える義務倫理学,全ての利害関心への公平で合理的な配慮が自然な動機に一致し得ると考える功利主義倫理学,自然な動機づけの何らかの陶冶が徳の本質と考える徳倫理学がある。(アンゼルム・W・ミュラー(1942-))

倫理学の類型

【自然な動機への何らかの義務による事後的制限を考える義務倫理学,全ての利害関心への公平で合理的な配慮が自然な動機に一致し得ると考える功利主義倫理学,自然な動機づけの何らかの陶冶が徳の本質と考える徳倫理学がある。(アンゼルム・W・ミュラー(1942-))】

(2)倫理的判断、道徳的判断
 人はいかに生きるべきか。それぞれのケースでどの判断が正しくどの判断が誤っているのか、それゆえどの振舞いはよくてどの振舞いは悪いのかという問いに答えること。
 (2.1)義務倫理学
  行為者個人に対して、自然のままの動機付けを、それに対抗する道徳的な視点によって補うことで、自己の利害関心の追求を、いわば事後的に制限するよう求める。
 (2.2)功利主義倫理学
  あらゆる利害関心をまったく公平に扱うように主張し、自然のままの動機づけを、無党派的な合理性で置き換える。
 (2.3)徳倫理学
  個人に対して、自然のままの動機づけを陶冶し、それを新しい形態や秩序へと改変することによって、何ら制限されることなくこの動機に従って人生を導くよう要求する。
  (a)もともとの動機を、事後的に抑えるのではない。
  (b)自分の行いや感情や思考において、道徳の視点をもはや異物とは感じられないほど統合されている状態が理想である。

「徳倫理学と、先にあげた二つの道徳理論との相違は、大体次のように特徴づけることができるだろう。《義務倫理学》は、行為者個人に対して、自然のままの動機付けをそれに対抗する道徳的な視点によって《補う》ことで、自己の利害関心の追求をいわば事後的に制限するよう求める。《功利主義の倫理学》は、あらゆる利害関心をまったく公平に扱うように主張し、自然のままの動機づけを無党派的な合理性で《置き換える》。これに対して、徳倫理学は、個人に対して、自然のままの動機づけを《陶冶し》、それを新しい形態や秩序へと改変することによって、何ら制限されることなくこの動機に従って人生を導くよう要求する。
 徳倫理学は、現に実践されている道徳の中に見出される理想に即して議論を展開する。それは、自分の行いや感情や思考において、道徳の視点をもはや《異物》とは感じられないほど統合できているような成熟した大人のことである。つまり、道徳の視点が、もともとの動機をいわば事後的に抑えるのではなく、むしろ道徳的に陶冶された人の動機の中ですでに働いているというのが理想的な姿なのである。」
(アンゼルム・W・ミュラー(1942-)『徳は何の役に立つのか?』第1章 徳倫理学への道、pp.32-33、晃洋書房(2017)、越智貢(監修)・後藤弘志(編訳)・上野哲(訳))
(索引:義務倫理学,功利主義倫理学,徳倫理学)

徳は何の役に立つのか?


(出典:philosophy.uchicago.edu
アンゼルム・W・ミュラー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「私たちが彼に期待しているのは、むしろ、「幸福は価値あるもののすべてではない」という回答である。この言葉には《不合理なもの》は何もない。私たちが幸福を理性的な努力における比類のない究極の理由として《定義づけ》ようとするのなら別だが、それにもかかわらず、この回答ではまだ答えきれていない問題がもう一つある。
 有罪の判決を下された者の多くは、自らの手紙の中で揺れる気持ちを表現している。一方で彼らは、自分の家族や友人たちとそのまま生き続けたかったに違いない。他方で、彼らは、国家の不正に抵抗すれば死刑判決は免れないという《変更不可能な条件の下で》、つかみ損ねた自らの幸福よりも実際に自らが歩んだ道を、後になってさえ選ぶのである。その際、彼らは、自らが歩んだ道の方が、(上の第2の論点の意味で)《一層深い》幸福を自らに与える見込みがあったのだ、などと自分に言い聞かせることはでき《ない》。
 徳の「独自のダイナミズム」が、仲間のために身を捧げるという振舞いに、道徳的に中立な動機や観点よりも優位を与えることは間違いない。その限りでは、《有罪判決を下されたレジスタンスの闘志たちは》、自らが取った道を(たとえ後になってからでも)肯定《する以外はできなかった》のである。ただし、彼らだけでなく私たち自身も、徳が彼らの「ためになった」のであり、彼らに不利益をもたらしたわけではないことを《確信》していない場合には、この主張はシニカルな印象を与える。しかしながら、本章の考察も、そうした確信のための足場を提供できたわけではない。ひっとしたら、よい人間が手にしている信念には、いまだ神秘のベールに包まれた部分が残されており、哲学はそれをただ尊重し得るだけなのかもしれない。
(アンゼルム・W・ミュラー(1942-)『徳は何の役に立つのか?』第8章 理由がなくともよくあるべき理由、pp.236-237、晃洋書房(2017)、越智貢(監修)・後藤弘志(編訳)・衛藤吉則(訳))
(索引:)

アンゼルム・W・ミュラー(1942-)
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2020年5月9日土曜日

メタ倫理学は,特定の道徳的立場には拠らず,道徳的判断における真偽値の存在を疑い,あるいは真偽値の意味,道徳的表現の規則,機能を解明しようとする。これは,個別具体的な道徳的判断のための第一歩に過ぎない。(アンゼルム・W・ミュラー(1942-))

メタ倫理学と倫理学

【メタ倫理学は,特定の道徳的立場には拠らず,道徳的判断における真偽値の存在を疑い,あるいは真偽値の意味,道徳的表現の規則,機能を解明しようとする。これは,個別具体的な道徳的判断のための第一歩に過ぎない。(アンゼルム・W・ミュラー(1942-))】

(1)メタ倫理学的な問い、道徳的に中立な道徳哲学
 人はいかに生きるべきかをどのように反省し、それを言葉にしているのか
 (a)道徳的判断における真偽値の存在
  そもそも道徳的発言について、正しいとか誤っていると語ることはできるのか。
 (b)道徳的判断における真偽値の意味
  どのような意味でなら、道徳的発言について正しいとか誤っていると語ることができるのか。
 (c)道徳的表現の規則、機能
  概念分析の目的は、道徳的表現が用いられる際の規則と機能、およびそれらが言語的および非-言語的文脈で担っている役割を明らかにすることによって、そうした表現を理解するための手助けとすることにある。 (d)特定の道徳的立場は前提にしない
  特定の道徳的な立場をとることを避け、中立的な距離を保ちつつ判断する。
(2)倫理的判断、道徳的判断
 人はいかに生きるべきか。それぞれのケースでどの判断が正しくどの判断が誤っているのか、それゆえどの振舞いはよくてどの振舞いは悪いのかという問いに答えること。

「メタ倫理学者は、人はいかに生きるべきかについて考察し、それについて言明する代わりに、人はいかに生きるべきかをどのように反省し、それを言葉にしているのかについて考察する。メタ倫理学者たちの言明は、人間の振舞いについての倫理〔学〕的判断、つまり道徳的判断とは別のレベルにある。彼らは、《これらの判断》についてだけ、しかも特定の道徳的な立場をとることを避け、中立的な距離を保ちつつ判断する。彼らによれば、概念分析の目的は、道徳的表現が用いられる際の規則と機能およびそれらが言語的および非-言語的文脈で担っている役割を明らかにすることによって、そうした表現を理解するための手助けとすることにある。また、メタ倫理学者は、どのような意味でなら道徳的発言について正しいとか誤っていると語ることが《できる》のか、いや、そもそも道徳的発言について正しいとか誤っていると語ることは《できる》のかについて研究する。これに対して、それぞれのケースでどの判断が正しくどの判断が誤っているのか、それゆえどの振舞いはよくてどの振舞いは悪いのかという問いは、この倫理学観に従う限り、哲学の主題ではないことになる。
 たしかに、メタ倫理学者が考えているような道徳的に中立な哲学は可能かもしれない。道徳的な考えに関する概念分析と人間学的な理解が哲学にとって重要な課題であることは、いずれにせよまちがってはいない。にもかかわらず、この課題に《とどまりつづけようとする》道徳哲学には何かが欠けているように思われる。つまり、道徳的に中立な道徳哲学は、道徳が掲げる要求、すなわち自分が下した道徳的判断の真理性、自分とは異なる道徳的考え方の締め出し、これと真剣に取りくんでいないように思われるのである。もし道徳哲学が、哲学としてこれらの要求と真剣に取りくもうとするなら、これらの要求は受け入れられないとして拒否するか、さもなくば、少なくとも原則としては、どうしたら道徳的問いにおける真・偽を決定することができるかという問題を解明するかのどちらかを選ばなければならないだろう。」 (アンゼルム・W・ミュラー(1942-)『徳は何の役に立つのか?』第1章 徳倫理学への道、p.23、晃洋書房(2017)、越智貢(監修)・後藤弘志(編訳)・上野哲(訳))
(索引:メタ倫理学,倫理学,道徳哲学,倫理的判断,道徳的判断)

徳は何の役に立つのか?


(出典:philosophy.uchicago.edu
アンゼルム・W・ミュラー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「私たちが彼に期待しているのは、むしろ、「幸福は価値あるもののすべてではない」という回答である。この言葉には《不合理なもの》は何もない。私たちが幸福を理性的な努力における比類のない究極の理由として《定義づけ》ようとするのなら別だが、それにもかかわらず、この回答ではまだ答えきれていない問題がもう一つある。
 有罪の判決を下された者の多くは、自らの手紙の中で揺れる気持ちを表現している。一方で彼らは、自分の家族や友人たちとそのまま生き続けたかったに違いない。他方で、彼らは、国家の不正に抵抗すれば死刑判決は免れないという《変更不可能な条件の下で》、つかみ損ねた自らの幸福よりも実際に自らが歩んだ道を、後になってさえ選ぶのである。その際、彼らは、自らが歩んだ道の方が、(上の第2の論点の意味で)《一層深い》幸福を自らに与える見込みがあったのだ、などと自分に言い聞かせることはでき《ない》。
 徳の「独自のダイナミズム」が、仲間のために身を捧げるという振舞いに、道徳的に中立な動機や観点よりも優位を与えることは間違いない。その限りでは、《有罪判決を下されたレジスタンスの闘志たちは》、自らが取った道を(たとえ後になってからでも)肯定《する以外はできなかった》のである。ただし、彼らだけでなく私たち自身も、徳が彼らの「ためになった」のであり、彼らに不利益をもたらしたわけではないことを《確信》していない場合には、この主張はシニカルな印象を与える。しかしながら、本章の考察も、そうした確信のための足場を提供できたわけではない。ひっとしたら、よい人間が手にしている信念には、いまだ神秘のベールに包まれた部分が残されており、哲学はそれをただ尊重し得るだけなのかもしれない。
(アンゼルム・W・ミュラー(1942-)『徳は何の役に立つのか?』第8章 理由がなくともよくあるべき理由、pp.236-237、晃洋書房(2017)、越智貢(監修)・後藤弘志(編訳)・衛藤吉則(訳))
(索引:)

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