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2020年4月16日木曜日

道徳的基準は、法批判の源泉である。ただし、受容されている社会的道徳か道徳的理想かによらず、たとえある基準が絶対的なものに思えても、存在する法体系とは区別する必要があり、選択には意見の相違が存在する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法批判の源泉としての道徳的基準

【道徳的基準は、法批判の源泉である。ただし、受容されている社会的道徳か道徳的理想かによらず、たとえある基準が絶対的なものに思えても、存在する法体系とは区別する必要があり、選択には意見の相違が存在する。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

参考:法体系が成立しており、人々が法的責務を承認している場合でも、その体系が道徳的な拘束力を持っているとは限らないし、法的責務の履行に反対する道徳的ないしはその他の決定的理由が存在する場合もあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

参考:制定法は(a)受けいれられた社会的道徳(b)広範な道徳的理想の双方から、多くの点で影響を受け、その安定性の一部を道徳に依存する。立法や司法過程、制定法を補填する原則など多様な方法で、法は道徳を反映する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「(iv)法の批判 法と道徳には必然的な関連があるという主張が、《よい》法体系は、前のパラグラフですでにのべた点において、正義と道徳の要請に合致しなければならないという主張と同じようなものになることがときにはある。ある人々はこのことを自明の真理とみなすかもしれないが、それはトートロジーではない。事実、法を批判するさい、道徳的基準として何が適切であるかについても、またどの点でこれに合致しなければならないかについても、意見の相違が見られるかもしれないのである。法がもしよいものであろうとすれば合致しなければならない道徳とは、その法を有する集団の受けいれられた道徳を意味するのであろうか。たとえそれが迷信にもとづいたものであり、あるいは奴隷や臣民層から利益や保護を奪い去るものであっても。それとも道徳とは、事実に関する合理的な信念にもとづき、あらゆる人間を平等な配慮および尊敬に値するものとして受けいれるという意味で啓蒙的な基準のことを言うのだろうか。
 法体系はその範囲内のすべての人々を一定の基本的な保護と自由の資格があるものとして取り扱わなければならないという主張は、法を批判するさいの非常に適切な理想をのべたものとして今や一般的に受けいれられていることは明白である。実際にはそんなことが行なわれていないところでも、この理想に対する口先だけの約束はいつも行なわれている。すべての人々が平等な配慮を受ける権利があるというこの見解をとらない道徳は、何か内的な矛盾、独善ないしは不合理を含むと、哲学によって示されることさえあるくらいである。もしそうだとするならば、これらの権利を認める啓蒙道徳は、真の道徳としての特別の信任状をもつことになるし、群小の道徳の単なる一つではなくなるだろう。この主張をここで吟味することはできないが、たとえその主張が認められるとしても、第1次的および第2次的なルールという特徴的な構造をそなえた国内法体系が、これらの正義の原則を尊重しないのに、長い間存続してきたという事実は、その主張によって変えられないし、曖昧にされるべきでもない。邪悪なルールでも法であるということを否定することによって何か得るところがあるかを、以下で考察しよう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.223-224,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法批判の源泉としての道徳的基準,法批判,道徳的基準)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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