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2021年12月17日金曜日

我々は必ず間違えることがあり、また知識の大部分が他の人々に負っているという事実を忘れてはならない。たとえ穏やかな説得であっても、自分の知っている知識や信念や実例を、もし絶対的に確信しているならば、恐らく暴力を生み出すであろう。宗教戦争と魔女狩りの歴史を思い出せ。(カール・ポパー(1902-1994))

我々は必ず間違える

我々は必ず間違えることがあり、また知識の大部分が他の人々に負っているという事実を忘れてはならない。たとえ穏やかな説得であっても、自分の知っている知識や信念や実例を、もし絶対的に確信しているならば、恐らく暴力を生み出すであろう。宗教戦争と魔女狩りの歴史を思い出せ。(カール・ポパー(1902-1994))



「わたくしが合理的態度あるいは合理主義的態度と呼ぶものが、ある程度の知的謙譲を前提 にしていることがわかるであろう。自分は時として考え違いをするものだということに気づい ている人びと、自分の誤りをいつもきまって忘れてしまうということのない人たちだけが、お そらくこの態度をとることができよう。この態度は、われわれが全知でなく、われわれの知識の大部分が他の人びとのおかげをこうむっている、という自覚から生まれる。それは、あらゆ る訴訟手続の二つの規則――第一に、常に双方の言い分を聞くべきであるという規則、第二に、 訴訟の当事者には適正な判断が下せないという規則――を、意見を闘わせる分野全般にまで、で きるかぎり移して適用しようとする態度である。  社会生活において互いに相手と対処しあうとき、この合理的態度を実際に行動に移す場合に のみ、はじめて暴力を避けることができる、とわたくしは信じている。これ以外の態度はすべ て――たとえ穏やかな説得でもって他人に対処し、自分が所有を誇るすぐれた洞察力にもとづく 議論や実例によって、また自分がその真理性を絶対的に確信している議論や実例で相手を納得 させようとする一方的な試みでさえ――おそらく暴力を生み出すであろう。いかに多くの宗教戦 争が愛と優しさを説く宗教のために闘われたかを、われわれの誰もが覚えている。また、永劫 の地獄の業火から人びとの魂を救おうとする正真正銘の親切心から、いかに多くの人間が生き ながら火あぶりにされたかを、われわれはよく覚えている。意見の領域でわれわれが権威主義 的な態度を放棄する場合にのみ、そして、互酬の態度、つまり進んで他人から学ぼうとする態 度を確立する場合にのみ、はじめてわれわれは信心と義務感によって喚起されるもろもろの暴 力行為を抑制することが期待できる。  合理的態度の急速な普及を妨げている多くの障害がある。その主要な障害の一つは、討論を 合理的にするのは常に二人がかりでのことである、という点である。当事者のそれぞれが、相 手から学ぼうとする用意ができていなければならないのである。相手から説得されてしまうよ りは相手を射殺してしまった方がましだ、と考えるような人間とは合理的な討論をすることは できない。いいかえると、合理的態度には限界がある。それは寛容の場合と同じである。不寛 容な者でもすべて寛容するという原理を、無条件に受け入れてはならない。もし受け入れるな らば、わが身を滅ぼすことになるばかりか、寛容の態度そのものをも滅ぼすことになろう。 (すべてこれらのことは、合理的態度は《互酬互譲》の態度でなければならない、というわた くしの先の指摘に示されている。)  右に述べたことからもたらされる一つの重要な帰結は、攻撃と防御との区別があいまいにさ れるのを許してはならない、ということである。われわれはその区別を強調しなければなら ず、また攻撃的侵略と侵略への抵抗とを識別するのを職務とするさまざまの(国内的および国 際的)社会制度を支持し発展させなければならない。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第18章 ユートピアと暴力,pp.656-657,法 政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))



カール・ポパー(1902-1994)





2020年5月1日金曜日

恐らく、私たちは共に部分的に間違っている。私たちは、真理に接近するために討論するのであって、相手を打ち負かすためではない。だから、合意できなくとも、互いによりよい理解には達し、多くを学ぶだろう。(カール・ポパー(1902-1994))

合理的討論の原則

【恐らく、私たちは共に部分的に間違っている。私たちは、真理に接近するために討論するのであって、相手を打ち負かすためではない。だから、合意できなくとも、互いによりよい理解には達し、多くを学ぶだろう。(カール・ポパー(1902-1994))】

合理的討論の原則は、認識論的な原則であると同時に、本来、倫理的な原則でもある。
(1)可謬性の原則
 私は、あなたから学ぼうとしている。私が間違っていて、恐らくあなたが正しいのであろう。しかし、私たちの両方がともに間違っているのかもしれない。
(2)合理的討論の原則
 私たちは、批判可能な特定の問題を論じているのであって、相手の人格を攻撃しようとしているのではない。問題を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲している。
(3)真理への接近の原則
 私たちは何故、討論するのか。真理に接近するためである。だから仮に、合意に達することができないときでも、互いによりよい理解には達し、多くを学ぶことができるに違いない。
 「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI,pp.316,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:可謬性の原則,合理的討論の原則,真理への接近の原則)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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