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2020年4月17日金曜日

主流派の意見と少数派の意見のうち、一方が正しく他方が誤っているという場合は少ない。実際には、双方が真理の一部分を掴んでおり、論争がそれを見え難くしている。これが、意見の多様性が必要な理由である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

意見の多様性が必要な理由

【主流派の意見と少数派の意見のうち、一方が正しく他方が誤っているという場合は少ない。実際には、双方が真理の一部分を掴んでおり、論争がそれを見え難くしている。これが、意見の多様性が必要な理由である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 参照:人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 参考:
 異論を排除することの害悪
 仮に、主流の意見が正しく異論が間違っている場合であっても、異論を排除することは誤りである。なぜか。議論されることなく、根拠薄弱となった意見は、独断的な教条、単なる信念、迷信と区別できなくなる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 「もうひとつ、意見の多様性が有益だといえる主要な理由を論じておかなければならない。この理由に基づくなら、いまの時点でははるかな未来にしか達成できないと思えるほど知識が進歩した段階に入るまでは、意見の多様性が有益な状況が続くといえるのである。ここまでは二つの可能性だけを考えてきた。主流の意見が誤りであり、したがって主流ではない意見が正しい場合と、主流の意見が正しく、間違った反対意見と戦うことが真理をはっきりと理解し、深く感じ取るために不可欠な場合である。しかし、この二つのどちらよりも普通に見られる場合がある。対立する意見のうち一方が正しくて他方が間違っているのではなく、どちらも真理の一部をつかんでいて、主流の意見が真理の一部を明らかにしているにすぎないために、残りの部分を示すものとして少数派の意見が必要な場合である。すぐに理解できるわけではない問題では、主流の意見は正しい場合も多いが、真理の全体をつかんでいることはまずない。そんなことはまったくないとすらいえるほどである。真理の一部にすぎないのであり、真理全体のうち大きな部分であることも小さな部分であることもあるが、いずれにせよ誇張され歪められていて、その部分を制約する条件を示すために付けくわえておくべき別の真理から切り離されている。これに対して異端の意見を主張する人は一般に、真理のうち、抑えられ無視されてきた部分を抑圧の鉄鎖を断ち切って表明しているのであり、主流の意見に含まれる真理との折り合いを付けようとするか、そうでなければ、主流の意見を敵だと考え、やはり頑なな姿勢をとって、これこそ真理の全体なのだと主張しようとする。これまでの例ではこの二つのうち、頑なな姿勢をとる場合の方が多い。人間の知性は一面的であるのが通常であって、多面的であるのは例外だからである。このため、意見の革命が起こるときですら、真理のうちひとつの部分がすたれて、他の部分がはやるのが通常である。意見が進化していくときですら、本来なら新たな部分がくわわっていくはずだが、実際にはほとんどの場合、部分的で不完全な真理がやはり部分的で不完全な別の真理に置き換わるだけになる。それでも進歩といえるのは主に、真理のうち新たに採用された部分がその時点で、置き換えられた部分よりも必要とされていて、時代の要請に適合しているからである。このように主流の意見は正しい基礎のうえにたっている場合ですら、部分的なものという性格をもっているので、真理のうち主流の意見が無視していた部分をある程度まで主張している意見はすべて、一面の真理とともに誤りや混乱がどれほど主張されていても、貴重だと考えるべきである。人間というものを冷静に判断していれば、自分たちが見逃していたはずの真理に関心を向けるよう強いてくる人が、自分たちの気づいている真理を見逃しているとしても、憤慨する必要があるとは感じないだろう。それどころか、多数派の主張する真理が一面的なのであれば、少数派が一面の真理を主張している方が望ましいとすらいえる。その方が通常、とくに熱心だし、真理のうちそれが全体であるかのように主張している部分に、人びとの注意をしぶしぶとであっても向けさせる可能性がとくに高いからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.100-102,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:意見の多様性が必要な理由)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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